酷い倦怠感だ。体中が鉛になったように重くて堪らない。
 準決勝で敗退した青樹は明るい夜空の下を歩いている。宿では仲間が泣き腫らした目で騒いでいた。夢の終わりを嘆くようで、祝うようで、何処か現実離れしていた。
 三年間の練習漬けの日々が終わったというのは、中々馴染むものではないだろう。
 明日は決勝戦だ。和輝に会いたかったが、早々に球場から退散した彼等は今頃疲れた体を休めていることだろう。宿に押し掛けるわけにも行かず、結局青樹は甲子園球場の側まで散歩している。
 昼間の喧騒は消え、周囲はひっそりと静まり返っている。夜の学校に似ていると思った。
 足音がする。誰かが走っているのだろう。道を開けようと青樹は端に寄った。見覚えのあるジャージ姿にふと顔を上げる。通り過ぎようとする大きな少年も此方に気付いたらしく、足を止めた。


「ーーよう、陸」


 赤嶺陸。政和学園賀川高校のエースだった。
 赤嶺は青樹の顔を訝しげに見て社交辞令のように「よう」とだけ返した。


「決勝の夜くらいゆっくりしたらいいのに」
「決勝とか、関係無いだろ」


 どうでもいいことのように、赤嶺が吐き捨てる。青樹は苦笑した。
 何処までもストイック。切れ長な目は前だけを見ている。青樹はガードレールに寄り掛かり、言った。


「負けちった」


 悪戯っぽく吐き出された言葉に、赤嶺が目を細める。


「……惜しかったな」
「まあね。でもまさか、和輝に負けると思わなかったよ」
「俺も」


 赤嶺が言った。


「お前が、和輝に負けると思わなかった」


 他意は無いだろう言葉に青樹は苦笑いを浮かべるしかない。


「たった十人しかいないような無名チームが、此処まで来るなんて誰も思わなかっただろうさ」


 ああ、そうだな。青樹は頷く。
 たった十人の無名チーム。赤嶺にとって、晴海高校はそういうチームなのだろう。和輝の選択を今も否定しているし、認めていない。


「あいつは良い選手だ。匠も。でも、あんな無名チームでプレーする意味が解らない。だったら、初めから強豪で練習すれば良かっただろう」


 その言い分が、青樹には解る。けれど、晴海高校と対戦して、負けて、それが全てではないと気付いた。
 才能を認められ、多くの人に望まれた赤嶺。他者からの否定の中で道を選んだ和輝。
 どちらが正しかったかなんて青樹には解らない。けれど、和輝が今持っている実力も仲間も信頼も、全部自分自身の力で掴み取ったものだ。第三者である自分が否定する権利はない。


「お前と和輝は、土俵が違うんだよ」


 青樹は言った。


「お前は勝つ為の野球を選んだ。和輝はそうじゃなかった」
「意味解んね。勝たなきゃ何の意味も無いだろ」
「和輝はそうじゃなかったんだよ。勝つだけじゃ満足出来なかったんだろ」


 赤嶺は何かを思案するように唸り、言った。


「解んね。勝つ以外に何かあるの?」
「あるよ」


 負けた今なら、解る。
 この胸には悔しさや虚しさ以外に、奇妙な充足感が残っている。全力で戦った仲間を、自分を認めている。
 努力なんて自己満足だ。才能のある無しなんて言い訳だ。
 其処に意味や価値観を決めるのは、結局自分自身なのだろう。自分が大切と思うのなら大切にすればいい。同じものを価値観の違う相手に求めるのは馬鹿だと思う。和輝はそれでも譲れなくて、諦められなくて道を選んだ。
 馬鹿だと思う。虚しいと思う。けれど、同じように、個人の価値観を否定することも間違っている。
 解り合えないことを、受け入れられなかった。和輝は今でも譲れないと思うから、玉砕覚悟で、全力でぶつかって来たのだ。


「対戦すれば、きっと解るさ」


 興味も無さそうに赤嶺が鼻を鳴らした。
 その後ろから、二つの影が近付いていた。大小二つの影は、青樹と赤嶺に気付くとその歩調を変えた。一つは駆け出しそうな早足に、一方は立ち止まりそうな鈍足になった。けれど、結局は引っ張られる形で付いて行く。
 和輝は、声を上げた。


「懐かしい顔が揃ってるな」




衝突(1)





 お前等、明日決勝戦だろ。
 青樹はそんなことを思ったが、口にはしなかった。まるで昨日あったかのように穏やかな和輝がいっそ場違いだった。匠と赤嶺は互いに噛み付きそうに牽制し合っている。


「こんなところで会うなんて偶然だなあ。甲子園の魔力かな」


 なあ、大和。
 青樹は困惑する。頼むから、俺に話を振るな。
 昼間熱闘を繰り広げたというのに、和輝はそんな態度を微塵も見せない。それが全力で戦った青樹に対する礼儀だった。


「元気そうだな、陸」
「お前こそ。怪我は治ったのか?」


 赤嶺も赤嶺で空気を読まない。匠が忌々しげに睨む。和輝の怪我は匠の鬼門だ。
 それでも、和輝は何でもないことのように微笑む。


「この通り、ぴんぴんしてるよ。残念だったね」
「別にどうでもいいけど」


 吐き捨てるような赤嶺に、和輝は苦笑する。
 聞いていられず青樹が間に立った。


「そんな言い方しなくたっていいだろ」
「だって、どうでもいいし」


 いっそ清々しいくらいだ。青樹は溜息を吐いた。
 匠が何かを堪えるように黙っている。和輝が言い返さないことも解っている。けれど、それでは余りに一方的で虚しいだろう。
 青樹だけが言い募る。


「友達だろ」
「知るかよ」


 赤嶺が、言った。


「知るかよ。そんなトチ狂って、敵か味方かの判別もできなくなって、挙句に自分のエゴで皆に迷惑掛けて、独りで消えていなくなろうとした奴のことなんて、誰が知るかよ」


 手厳しいね。和輝が言った。


「お前さあ……」
「匠」


 和輝が、言い返そうとする匠を制する。
 何も知らない癖に、簡単に否定するな。匠は赤嶺を睨む。俺達がどんな気持ちで此処まで来たのか、何も知らない癖に。
 けれど、それを承知で道を選んだのは自分達だ。和輝は匠を制し、赤嶺の前に進み出て言った。


「迷惑掛けたよ。悪かったと思ってる。ーーでも、間違ってたとは、思ってないんだ」


 大きな目に赤嶺を映す。30cm以上の身長差で、臆することなく真っ向から言い返す。


「なあ、お前は野球、楽しいか?」


 赤嶺の眉間に皺が寄った。元来短気な赤嶺が手を上げるのではないかと、青樹が間に入ろうとする。
 けれど、赤嶺は手を上げることはなかった。


「一緒にするなよ。才能とか体格が恵まれてるから野球してる訳じゃねーんだよ。好きとか嫌いとか、そんな次元じゃねーんだよ。仲間だ何だと言ったって、結局最後は独りなんだ。お前見てると腹立つ」
「そうか」
「ボール買う金すら無くて、日々の生活が精一杯で――。それでも、生きる為に、俺が俺である為に野球してるんだよ。夢とか仲間とかそんなちゃちいもんで、お遊びの野球してるお前なんかと一緒にするな!」


 和輝は、真っ直ぐに赤嶺を見ている。


「価値観なんて違って当たり前だろ。お互い、歩いて来た道程が違うんだからな。それは押し付け合うものじゃないし、譲り合う必要も無い。――でも、俺はお前のこと、解りたい。だから、全力でぶつかるんだよ」


 解って欲しいとは言わないけれど、解らなくていいとも思わない。
 和輝は毅然と言い返す。そうだ、こういう奴だった。今更ながら、青樹は悟る。こいつが黙っている訳が無い。真っ向から否定されても、真っ向から立ち向かう。そういう奴だった。
 だからこそ、眩しい。


「勝たなきゃ何の意味も無いって言うなら、俺は明日、お前に勝つよ」
「やってみろよ」


 赤嶺が小馬鹿にするように鼻で笑う。和輝は目を細めた。
 踵を返して離れていく赤嶺を、青樹は見詰めていた。
 和輝は息を吐いた。


「なんだかなあ」


 それはこっちの台詞だろう。匠も息を漏らす。
 青樹は赤嶺の言葉に、彼の境遇を思い出す。


「……二年前、赤嶺の親父、亡くなったんだ」


 和輝と匠が、揃って青樹を見た。


「過労死だって。……赤嶺はきっとプロになるよ」


 その言葉に、全ての糸が繋がったような気がして和輝は目を伏せた。
 一緒にするなよ、と叫んだ赤嶺の言葉が真実だ。彼が生きる道はそれしか有り得ない。
 それでも、譲れないと思うものが、和輝にはある。


「俺達は、本当の意味で解り合うことはできないよ。根底では何時も異なってる。でも、それでいいじゃん」


 和輝が笑った。

2013.9.7