もう一球! 雨上がりのグラウンドに響いた声を、今も覚えている。 赤嶺陸が中学生三年生の頃だ。神奈川県某所の河川敷は、在籍する橘シニアの練習場だった。 バッターボックスに小さな少年。金属バットを振り回しているのか、振り回されているのかも解らない。整った顔が嬉しそうにマウンド上の赤嶺を見ている。 もう一球。 身長差は30cm以上ある。それでも怯むどころか立ち向かって来る。 小さな少年から迸る強烈な闘気は何だ。赤嶺は掌に白球を包み込んだ。 Monster(1) 全国高等学校野球選手権決勝戦の朝は雲一つ無い蒼天だった。 厳かに鳴り響くサイレンの下、神奈川県代表晴海高校と兵庫県代表政和学園賀川高校が対峙する。審判の高らかな宣誓に選手は深く頭を下げ、声を張り上げる。 お願いします。甲子園球場に轟いた挨拶に、アルプスから歓声や拍手が届けられた。 晴海高校は一直線にベンチへ駆け、政和賀川はグラウンドに散って行く。 薄暗いベンチの前で輪が作られる。晴海ナインは見る先は小さなキャプテンだった。 「さあ、決勝戦だ」 一人一人顔を見遣る。緊張し強張る様子は無く、普段と変わりない。 良い顔だ。和輝は微笑む。 「楽しい試合にしよう」 途端に返って来た活気に満ちた声が心地良い。晴海ナインはベンチに入った。 先攻は晴海高校だ。投球練習を済ませた投手がマウンドで待っている。先発は三年、宮本壮琉。優れたコントロールと多彩な変化球を武器にした左腕投手だ。政和賀川ベンチの奥で、赤嶺陸が耐え忍ぶようにその時を待っている。 試合開始。 和輝は丁寧に礼をして、バッターボックスに立った。 一番打者は最も多く打席に立つ。試合の流れを引き寄せる重要なポジションだ。体格に恵まれたグラウンドの選手の中、その貧相な体躯が際立つ。 けれど、体格で嘗めて掛かる相手はもういない。小さな体で強敵と渡り合って来たことを、相手も観客も理解している。小さな斧が何百何千と打ち込まれれば大樹も倒せると知らしめるように、和輝はグラウンドに立ち続けて来た。 バットを構える寸前、和輝は静かに瞼を下ろした。日光に血潮の色が透ける。周囲の雑音が通り過ぎ、無音が訪れる。目を開いた世界はモノクロで、目の前の投手だけが鮮明に浮かび上がっている。視線はぐるりとグラウンドを旋回し、戻る。投手の瞬きすら見逃さない強烈な集中に、宮本は身震いした。 初球はカーブだった。ストライクゾーンを外れたボールには見向きもしない。ボールがカウントされる。 恐れはしない。怖いと思うものなら、もっと恐ろしいものを見て来た。 ストレート。投げ放たれた一球はバットに跳ね返された。打球は三遊間を縫うように抜けた。 「一つ!」 捕手、泉諒一が声を上げる。しかし、レフトが捕球した時、既に和輝は一塁を蹴っていた。 二塁を踏み締めた数瞬後、送球が届く。セーフ。無死走者二塁。 アルプスから響く応援団の声に耳を貸すことなく、和輝の目は既に三塁を捉えていた。 二番の箕輪が危なげなく走者を三塁へ送る。一死走者三塁。早くも得点のチャンスを掴んだ晴海高校の応援が盛り上がる。三番、星原がバッターボックスに立った。 ベンチからの指示に星原が了承の意を込めてヘルメットのツバを下げる。守備は定位置。晴海高校はこういった場面で送りバントはしない。打者の実力を信頼している。 初球の変化球に一瞬釣られるが、星原はギリギリのところでスイングを止めた。ストライク。 二球目の変化を捉え、星原のバットはフルスイングされた。結ばれた口元が微かに弧を描いている。 かあん、と打ち上がった打球は内野を越え、センターを大きく後退させた。跳び上がったセンターが捕球し、ツーアウト。その間に三塁走者は本塁を踏んでいる。 先取点。湧き上がる観客をそのままに、和輝は仲間とタッチを交わしながらベンチに入った。過去の試合記録を見直していた空湖が顔を上げる。 「おかえりなさい。配球、当たってたでしょ?」 「うん」 誇らしげな空湖の頭を乱暴に掻き混ぜる。 空湖は試合に集中する蓮見に代わり、政和賀川のデータ解析をしている。控えの捕手である空湖の読みは殆ど外れていないし、選球眼も確かだった。 「捕手の泉さんは対戦相手のデータをしっかり頭に入れて、ピンポイントで弱点を狙って来る。それはつまり、自分のデータを信じているってことです。データ通りでない野球を、見せてやりましょう」 空湖が言った。頼もしい後輩の成長に、和輝は嬉しくなる。 確かにデータは重要だ。けれど、それが全てではない。そんなことは相手も重々承知の筈だ。 「ミイラ取りがミイラにならないようにしろよ」 苦言を呈す和輝に、空湖はからりと笑う。 俺が? 冗談でしょう? そう言っているようで、全く頼もしい後輩だと和輝は微笑んだ。 無死走者無し。打者は四番、白崎匠。グラウンドをぐるりと見回した匠は、視線をマウンドに固定した。 体格が優れている訳ではない。ただし、その身体能力とセンスは天才と呼ばれる領域に至っている。晴海高校最強の打者だ。走者のいないこの場面で出し惜しみする必要はない。ベンチから身を乗り出した和輝はダミーも混ぜず、ただ一つ、打っていけとサインを送った。 了解を示した匠の口元が結ばれる。 初球、高めのストレート。匠のバットが振り切られた。打球が後方へ弾け飛ぶ。ファール。 二球目、変化球。視線を送りつつ、匠は動かなかった。ボール。 三球目、対角線に放たれたストレートを打ち返した。打球が内野を越え、外野へ落下する。バッターボックスを脱出した匠に声援が向かう。送球も間に合わず匠が一塁を駆け抜けた。セーフ。二死走者一塁。 得点が多くて困ることはない。五番、鳴海孝助がバッターボックスに立った。和輝のサインは変わらない。初回、二死の状況で守りには入らない。 孝助の打球はセンターの頭上に浮かんだ。アウト。チェンジ。 舌打ちをして、孝助がベンチへ帰って来る。応援は途切れず、試合展開を見守っている。 一回裏、政和賀川の攻撃。晴海高校の先発は通常と変わらず醍醐だ。 マウンドの醍醐に緊張の色は無い。打たせて行け。後ろは守っている。そういう声援が背中に向けられている。 一番打者が現れる。醍醐は赤嶺や夏川のようにストレートで押して行くタイプではない。 躱せ! 蓮見のサインに醍醐が頷く。初球は変化球だが、ストライクゾーンへ入っている。打者の手元で変化した球をバットが掠める。変化に釣られながらも三塁線へ転がすところが強豪たる所以だ。それでも晴海高校の三遊間はグラウンドで鉄壁を誇る。飛び出した匠が捕球し、流れるようなステップを踏んで一塁へ送った。アウト。 着地した匠はすぐさま、ナイスピッチ、と醍醐を褒める。 二番は外角のストレートを一塁線へ転がした。醍醐が拾い上げた打球を、一塁の星原が受け止める。それでも打者は塁上を踏み抜いている。セーフ。一死走者一塁。 三番、五十嵐漆。政和賀川のキャプテンだ。背番号は和輝と同じく五番。 バントの構えを取った五十嵐に、晴海は定石通り前進守備を敷く。それでも、晴海高校の読みはヒッティングだった。 その予測を裏切らず、五十嵐は内角に潜り込む変化球を打ち返した。根元で詰まらせた打球が本塁に上がる。キャッチャーフライ。アウト。二死走者一塁。 ぴりり、と緊張が走る。バッターボックスに迎えるのは政和賀川の四番、泉だ。体格に恵まれた泉は山のようにどっしりと構えている。彼には一発がある。準決勝で本塁打を打たれた経験のあるバッテリーが身構えるのは当然だ。 初球のボールには動かない。二球目の変化球、五十嵐のバットが鋭い風切音と共に振り切られる。強烈なライナーが三塁線を越え、ファールゾーンを突き進む。反射的に和輝がグラウンドを蹴った。グラブの先に触れた打球を逃すまいと指先に力を込める。勢いを殺し切れず、和輝はグラウンドに転がった。だが、掲げられたグラブにはボールが確かに収まっている。 あれを、捕るか。苦々しく泉が言った。 アウト、チェンジ。政和賀川は無得点のまま試合は二回を迎えた。 晴海高校の攻撃は六番、鳴海宗助。才能ある双子の兄の影に隠れがちだが、堅実で頼りになる選手でもある。 ストレート。宗助は迷い無く打ち返した。きっちり三塁線へ飛ばすが、ボールはショートに捕らえられた。ワンナウト。 七番、空湖大地。準決勝では捕手を務めた期待の一年生だ。 空湖は、ベンチで蓮見から受けた言葉を思い出す。 初球から打っていけ。初球からボールには、ならない。空湖が警戒に値しない打者だからではない。王者である政和賀川が守りに入ることは、有り得ない。 空湖も同意見だった。和輝にはミイラ取りがミイラになるな、と厳命されている。それでも、確信があった。 初球は読み通りストライクゾーンだった。だが、抉るような変化球に手が出ない。先発の投手である宮本も、何十人という才能ある選手の中からレギュラーを勝ち取った実力者だ。そして、三年間の努力の末に此処へ立っている。 空湖は乾いた唇を舐めた。此処で退く訳にはいかない。 次も同じ球が来る。 構えた空湖に、変化球が放たれた。内角へ迫る白球へフルスイングする。バットは掠りもしない。ツーストライク。追い込まれた状況でも、空湖の表情に焦りはない。 もう一球。その変化を捉えたい。 最後はストレートだった。動けなかった空湖に、審判はアウトを宣告した。礼をし、空湖がベンチへ戻る。 八番の蓮見も変化球に凡打となり、二回表の攻撃は終わった。攻守交替に動くグラウンドの片隅、口元を隠した蓮見が問い掛ける。 「どうだった」 「良いボールでした」 微笑みすら浮かべ、空湖は言った。 変化球に釣られ、身構えたところを直球で打ち取られたのだ。型に嵌ったような模範的な配球だが、自分でもそうしただろうと空湖は振り返る。 「あの変化球、シュートですよね」 「ああ。星原が打ち上げた奴だ」 「うるせーよ!」 聞こえていたらしい星原が声を上げ反論する。蓮見は笑った。 「いやいや、褒めてるつもりだよ。あんな食い込む変化球をよくセンターに上げたな、って」 「褒めてるように聞こえねーよ」 悪態吐いて星原が離れていく。だが、空湖は蓮見の言う通りだと思う。 シュートは宮本がここぞという時に投げる決め球だ。凄まじい変化幅に打者は振り回される。それでも基本通りセンター返しして見せた星原を、空湖は純粋に尊敬する。 守備位置へ駆けて行く星原の背中を見る。優れた選手だ。これで二年生なのだから、末恐ろしいだろう。 二回裏、政和賀川の攻撃は五番、白鳥から始まる。 匠は定位置ながら、身を低く構える。政和賀川のクリンナップは強烈だ。隙を見せれば持って行かれる。 痛烈なライナーが真正面に迫る。顔面に突っ込んで来る打球を匠は受け止めた。ワンナウト。顔面に衝突すれば骨折は免れなかっただろう。 ナイスキャッチ。バッターボックスを見据えたまま、和輝が言った。 ベンチに戻った白鳥はグラウンドを振り返る。迎え入れた五十嵐が苦笑いを浮かべていた。 「あの三遊間は野生動物みたいな反射神経やな」 六番の放った打球が醍醐の前に落ち、跳ね上がる。醍醐が大きく伸び上がって追い掛けるが、届かない。すぐさま箕輪がフォローに入ったが、滞空時間が長く走者は一塁を駆け抜けていた。セーフ。一死走者一塁。 七番、藤樫が三塁線すれすれに打ち放つ。和輝が跳び上がるが、届かなかった。一死走者一、三塁。晴海高校の内野守備が開く。得点のチャンスにアルプスから歓声が湧き上がる。 藤樫が変化球を大きく打ち上げる。山なりの打球は本塁打を思わせるが、追い付いた宗助の手元に落下した。走者一斉スタート。 「バックホーム!」 蓮見が声を張り上げた。センター、空湖の中継から本塁へ送球。 滑り込みと同時の送球に、蓮見は審判を凝視した。審判は両手を開いた。 「セーフ!」 わっと溢れた歓声に蓮見は顔を顰めた。ベンチから身を乗り出した仲間とハイタッチする様を見遣る。 同点だ。無死走者二、三塁。追撃は十分に有り得る。試合の流れが傾く寸前、和輝が声を上げた。 「さあ、切り替えるぞ!」 こういう場面で、真っ先に声を上げるのはキャプテンだ。流石だな、と胸の内で呟き蓮見はホームポジションに戻った。 九番は投手、宮本だ。守りの一手を選びそうになる蓮見へ、グラウンドから声が掛かる。 「バッチ来い!」 まるで空気に呑まれない仲間を頼もしく思う。蓮見はサインを出した。 ストレート。それを想定していなかったのか宮本のバットはボールを掠めた。打球が醍醐の前に落ちる。――そして、跳ね上がる。グラウンドの極僅かな凹凸に軌道を変えた打球がセカンドに上がった。 イレギュラーだった。三塁走者が還って来る。 「バックホーム!」 二塁走者まで還って来てしまう。突き刺さるような送球は一直線にキャッチャーミットへ飛び込んだ。 審判が、両手を開く。 「セーフ!」 ぐ、と蓮見は奥歯を噛み締めた。逆転。二点目。 確かに晴海高校は追い風だったのに、イレギュラーで逆風になってしまった。それが悔しい。今の失点に責任は無い。運が悪かった。けれど、運も実力の内ならば、一体誰を恨めば良い? 政和賀川の打順は一番に戻る。一死走者二塁。 たった一点差だ。されど、重い一点だ。この流れを断ち切りたい。 こういう場面で、蓮見の示すサインは一つしか無かった。 (頼みます) 醍醐へのサインではない。守備への指示だ。 「バッチ来い!」 和輝が、笑う。空気を変える時に見せる意図的な明るい笑みだ。そうと解っているのに、気持ちが軽くなる。有り触れた言葉でも、信じてみたくなる。 一番打者はヒッティングの構えから、バントへ切り替えた。打球が三塁線へ転がる。 危なげなく進塁。走者一、三塁。またも失点の危機だ。これ以上、点はやらない。蓮見は拳を握った。 二番の打球は三塁線を跳ねた。頭の上を越えようとする打球を、和輝が受け止める。三塁走者が本塁へ突っ込む。 バックホーム。蓮見が叫ぶ。空中で和輝は左手を振り切った。 ツーアウトアウト。本塁を守った蓮見がすぐさま構え直す。走者は三塁へ滑り込んでいた。スコアリングポジションから走者がいなくならない。嫌な緊張感がじわじわとグラウンドに染み渡る。 マウンドで、醍醐が真っ直ぐに蓮見を見ている。 大丈夫だ、信じろ。 貫くような視線が、そう訴え掛けている。相方が信じているのに、自分が否定する訳にはいかない。蓮見はサインを出した。 ストレート。二番打者が空振った。 もう一球だ。醍醐の目が訴える。 ストレート。打者は動けない。 最後、スライダー。基本的な変化球の一つだ。打者は痙攣のようにびくりと揺れ、バットは振られなかった。 三球三振――。蓮見は大きく息を吐き出した。体中から力が抜けるようだった。 長い二回裏が終わり、三回表、晴海高校の攻撃を迎える。 |
2014.9.14