三回表、晴海高校の攻撃は九番の醍醐から始まる。
 ネクストバッターズサークル、和輝はしゃがみ込んでグラウンドを見据えている。
 試合に流れというものがあるのなら、今、それは政和賀川へ傾いている。
 ならば、引き寄せるまで、だ。
 醍醐が凡打に終わり、打順が回って来る。和輝はバッターボックスに立った。




Monster(2)





「お願いします」


 初回と変わらず、丁寧に礼をする。静かに和輝は構えた。
 流れを引き寄せるのは、切込隊長である自分の役目だ。初球はストレートだが、ボールだった。視線だけで見送る。二球目は宮本の決め球であるシュートだ。
 脇を締め、腕を折り畳む。変化の幅、球速、タイミング。全てを読み取った完璧なスイングだった。和輝の打球は三遊間を抜けた。


「一つ!」


 泉が声を上げる。レフトの頭上を越える。
 和輝は一塁を蹴った。外野からの送球が横を掠める。二塁を踏み抜き、狙う先は三塁だった。ファーストからの送球が追い掛ける。和輝は三塁を通り過ぎた。


「バックホーム!」


 サードと捕手に挟まれた絶体絶命の場面で、和輝は滑り込みに身を低くする。
 グラウンドを蹴る確かな感触を残し、右手を伸ばす。巨大な山のように本塁を守る泉の元へボールが戻って来る。がばりと顔を上げた泉が縋るように審判を見た。
 審判は、眉間に皺を寄せ両手を開いていた。


「セーフ!」


 その宣告に、ベンチにいた醍醐が立ち上がった。


「ら、」


 ランニングホームラン。
 声が出なかった。
 瞬足は知っていた。技術が優れていることも解っていた。けれど、まさかランニングホームランを果たすとは夢にも思わなかった。彼が、というより、ランニングホームラン自体が夢のようだった。
 割れんばかりの歓声を受けながら、和輝が起き上がる。頬を泥で汚しながらも、その笑顔は間違いなく輝いている。ベンチへ戻って来た和輝を呆然と醍醐は見ている。


「ほら、取り返したぞ」


 何でもないことのように、和輝が笑う。醍醐も笑うしかなかった。
 本塁打の望めない体躯。恵まれなかった体格で、それを武器にして戦っている。マウンドでは宮本が呆然と立ち尽くしていた。
 野手にも投手にも落ち度は無かった。それでも、決め球をあれだけ綺麗に捉えられた上に、ランニングホームランだ。早々立ち直れないだろう。
 彼には大勢の夢が託されている。その場所は多くの仲間が望んだ場所だ。重圧は相当なものだろう。だが、それに潰されないことが王者と呼ばれるチームの一員たる所以だ。こんなところで折れる程、か細い神経ではない。
 同点に追い付いた晴海高校の攻撃は、二番、箕輪に続く。
 だが、此処で投手が交替する。抑えの投手は猪俣幹弘。ひょろりと背の高い二年生だった。
 長い右腕が頭上に掲げられ、一気に振り下ろされる。投石器のようなオーバースロー投法はら放たれた白球は落下するような軌道でミットに飛び込んだ。
 ストライク。
 守護神の登板に政和賀川の応援が盛り上がる。
 目が眩むような頭上からのボールに箕輪は息を呑む。これで、二年生だ。
 能面のような無表情で、機械のように淡々と投球を熟す。ストライク。ストライク。バッターアウト。
 見送り三振。手も足も出なかったと肩を落とし、箕輪はベンチへ戻った。
 二死走者無し。バッターボックスの星原を横目に、箕輪はベンチ奥の和輝の元へ向かった。手元のバインダーで過去の試合記録を確認しているらしい。隣では空湖が何か指摘している。
 箕輪に気付くと、和輝が顔を上げた。


「よう、良い投手だったな」
「まあね」


 叱咤激励ではなく、真っ先に相手投手を褒めるというキャプテンは如何なものだろう。箕輪は苦笑した。


「流石は政和賀川。選手層が厚いなあ」


 そんなことを言って、和輝はすぐに視線を落とした。
 右腕には氷嚢が当てられている。夏大会から毎日のような厳しい熱闘に、消耗しているのだろう。労りを求めない和輝はすぐに立ち上がった。
 グラウンドから高音が鳴り響く。打球がレフトに高く、高く上がっている。
 打ち上げたなあ。和輝が笑う。打球はミサイルのように上空を突き進み、やがて静かに落下した。超高空のレフトフライだった。星原が内心悪態吐いているのが、ベンチからでも解る。苦虫を噛み潰したような顔で、礼をして星原は帰って来た。
 攻守交替。蓮見は、不貞腐れた子どものような顔をする星原の肩を叩く。


「よう、打ち上げ男」


 軽口を叩きながら、蓮見は内心で珍しいなと驚いている。
 星原は的確に打ち分けの出来る打者だ。例え根元に詰まらせてもきっちり三塁線に転がし、選球眼も優れている。それが二打席連続で特大フライだ。決勝戦で不調だなんて笑えない。
 星原は憮然と言い返した。


「うるせーな、練習してんだよ」
「練習?」
「この先も和輝先輩は出塁するだろ。でも、最後の最後に三振してんじゃ意味無い。和輝先輩をベンチに還すのは、俺の仕事なんだ。誰にも譲りたくないし、負けたくない。――匠先輩にも」


 飄々として内心を読ませない星原が、珍しく敵対心を顕にしている。
 キャプテン以外はじゃがいもにしか見えていないと思っていた。蓮見はその認識を改める。星原はチームを認め、競い合う仲間だと受け止めているのだ。
 星原は駆けて行く匠の背中を見ている。背番号は六番。打順は四番。次の攻撃は彼から始まる。
 三回裏、政和賀川の攻撃。打者は三番、五十嵐漆。珍しい名前だと蓮見はぼんやり思った。
 アルプスからは彼の名前、漆コールが響く。同点のこの場面で流れを持って行きたいだろう。
 どう躱す?
 大きな体。太い腕。逞しい足。晴海高校にはいない選手だ。
 初球のスライダーを狙われた。力強いスイングにボールは跳ね返され、あっという間に外野の頭上を越えた。ライト、宗助が追い付いた。
 巨体である五十嵐が一塁を蹴った。二つ。蓮見が声を上げる。
 送球が箕輪のグラブに刺さった。セーフ。審判が宣告する。
 二塁打に周囲が沸き立つ。忌々しいと蓮見はマスクの下で顔を歪める。


「一本、切ってくぞ!」


 拡声器でも使ったようなよく通る声が、ハウリングのように響いた。驚いた醍醐が肩を跳ねさせる。三塁上で、和輝が白い歯を見せ悪戯っぽく笑っていた。
 大丈夫。大丈夫。そんな在り来りな言葉で、どうしてこんなにも安心するのか蓮見は解らない。
 でも、彼が大丈夫だというなら、大丈夫なんだろう。蓮見が次のサインを出せば、醍醐がしかと頷いた。
 バッター四番、泉諒一。重量打線だ。
 初球を見送り、二球目の外角ストレートを捉えられた。打球が三塁線へ転がる。ぼてぼてのゴロだった。
 三塁を飛び出した和輝が、醍醐より早く打球を拾い上げる。振り返ると同時に投げられたボールは間一髪間に合わない。カバーに入った匠が素早く一塁へ送った。
 一塁アウト。
 一死走者三塁。またもスコアリングポジションに走者がいる。気の休まらない試合展開に蓮見は顎を伝う汗を拭った。走者の為に三塁へ戻っていく和輝が、醍醐のピッチングを褒めた。
 気が休まらないのは蓮見だけではない。皆、同じだ。
 五番、白鳥がバッターボックスに立った。得点のチャンスに気が早る様子も無く、構えは安定している。踏んで来た場数が違うのだろう。
 ヒッティングの構えをしていた白鳥が、ヒットする寸前バントに切り替えた。ボールは僅かにバットの下を掠め、一塁線に転がった。横を抜けようとする打球を醍醐が寸でのところで拾い上げる。
 バックホーム。振り絞るような叫びに呼応し、醍醐は送球した。本塁前で受け止めた蓮見に三塁走者が迫る。まるでトラックだ。ごつん、と鈍い音がした。
 衝突した蓮見が勢いよくグラウンドを滑った。ミットからボールが零れ落ちる。
 セーフ。
 また、一点。蓮見は起き上がり、ボールを零したミットを睨んだ。
 マウンドにいた醍醐が慌てて駆けて来る。


「おい、大丈夫か?」
「当たり前だろ!」


 くそ。悪態吐く蓮見の肩を叩き、醍醐が心配そうな目を向ける。
 確かに送球は届いていて、失点を防いでいた。けれど、あの一直線に突っ込んで来る三塁走者のタックルに蓮見が吹っ飛ばされた。そのまま白球を零してしまった。自分の失態だ。


「本塁送球、躊躇すんなよ」


 念を押すように、蓮見は言った。醍醐は頷いた。


「しねーよ。何年の付き合いだと思ってんだ」


 背中を向け、醍醐がマウンドに戻っていく。
 一死走者二塁。打者は六番、一之瀬。
 精密にプログラムされた機械のような正確さで、一之瀬の打球は二遊間を抜けた。レフト、センターの間に落ちた打球を孝助が拾い上げ、送球の体勢を取る。走者は全て塁上に収まっている。
 晴海高校のようなスーパープレイは無い。ただ、安定している。
 晴海はブレーキの利かない自転車に乗っているような気持ちだった。掌は必死にブレーキを握っているのに、タイヤが悲鳴を上げながら進むことを止めない。
 一死走者一、三塁。流れが、断ち切れない。
 七番がきっちりバントを転がし、三塁走者を生還させる。二点目だ。
 二死走者二塁。まだ三回裏だというのに、四点目だ。一年前、晴海高校は政和賀川に二十点以上の差を付けられ惨敗した。その記憶が蓮見の脳裏に過る。
 躱しても、躱しても、食らい付いてくる。躱し切れなくなったところで、止めを刺すような本塁打。
 指先が震えた。――それでも、グラウンドから声は止まない。


「打たせろ!」


 三塁、和輝が叫ぶ。笑みを消し去った真剣な眼差しは、何かを訴え掛けている。
 焦りは滲んでいない。一年前、圧倒的大差を付けられても彼は顔を上げていた。


「後ろは守ってる」
「バッチ来い!」


 劣勢――。それでも、誰一人諦めない。
 大丈夫。大丈夫。和輝の声を思い出し、蓮見は固く目を閉じた。幾ら点を取られても、必ず取り返すよ。だから、お前は信じて前を向け。
 蓮見が顔を上げた先、マウンドの醍醐がいた。リトルリーグからの付き合いだ。俺の、相棒。


「一本切るぞ!」


 お前に言われるとは、思わなかったよ。
 そういう醍醐だって大概酷い顔をしている。けれど、それは鏡なのだろう。
 八番、日比野の打球は三遊間に飛んだ。飛び付いたのは和輝だった。宙に浮いたままのバックトス。後ろにいると信じて送られたボールは、確かに匠のグラブに受け止められていた。
 三塁に滑り込んだ走者が顔を上げた。審判が右手を突き出す。


「アウト!」


 チェンジ。蓮見は息を吐き出し胸を撫で下ろした。
 拳をぶつけ合う和輝と匠が並んでベンチへ戻って来る。蓮見と醍醐の顔を見ると、二人は揃って悪戯っぽく笑った。


「ナイピッチ!」


 この劣勢で、それを言うのか。
 けれど、嫌味のない爽やかな声は本心だろうことが透けて見える。和輝が言った。


「政和賀川が重量打線だってことくらい、初めから解ってただろ」
「キャプテン……」
「何点取られたって良いよ。必ず取り返す。気持ちで負けるんじゃねーぞ」


 はい。蓮見と醍醐は強く返事をした。
 四回表、晴海高校の攻撃は四番から始まる。バットを引っ提げて歩いていく匠の背中を、蓮見と醍醐は並んで見ていた。
 空湖が、言った。


「先輩。下を見たら駄目ですよ」


 振り返れば、空湖が微笑んでいた。
 顔を上げて。春に喪った幼馴染の声を、空湖は今も覚えている。二度と戻らない日々を知っている。一度しかない人生だから、前を見て生きていくしかない。そう叱った先輩を解っている。
 四番、匠の打球が内野の頭上を越えセンターに落ちた。美しいセンター返しだった。


「一年前は、歯が立たなかったんでしょう。でも、今はそうじゃない」


 一塁を蹴った匠が、二塁に滑り込む。セーフ。塁上で匠が小さくガッツポーズをしている。
 今は、そうじゃない。空湖の言葉を噛み締める。
 確かに政和賀川の打線は強烈だ。だけど、歯が立たない訳じゃない。
 六番、孝助がバッターボックスに立った。
 猪俣の右腕が振り上げられる。放たれたボールは叩き付けられるようだ。けれど、孝助はその軌道を点で捉え、打ち放っていた。
 打球は強烈なライナーとなってレフトの横を抜けた。さも当然のようにセンターがカバーし、三塁へ送球される。繰り返される反復練習の末に会得した完璧な連携だった。
 匠は三塁を掴んでいる。セーフ。蓮見は拳を握った。
 無死走者一、三塁。きっちり還せ。和輝はベンチから宗助へサインを送る。
 こういう場面で、晴海高校はヒッティングの指示を出すことが多い。選手を信じていることは大前提で、攻めの姿勢を崩したくないからだ。
 それでも、この一点を逃したくない。簡単に変わってしまう試合の流れを再度引き寄せなければならない。
 宗助はボールの凄まじい落差に苦戦しつつも、どうにかグラウンドへ打球を転がした。一塁線。ピッチャーが飛び出す。長い腕がひょい、と軽く捕球する。匠は本塁へ突っ込む。
 山のように構える泉は、先程の蓮見のように容易く吹っ飛ばされはしないだろう。
 匠の細い腕が、泉の影に隠れる本塁を狙う。
 パン。乾いた音がした。
 顔を上げた泉に、審判は両手を開く。


「セーフ!」


 よし!
 ベンチで和輝がガッツポーズを取る。これで一点差だ。
 無死走者二、三塁。ベンチに戻った匠は力一杯、和輝の掌を叩いた。

2014.9.14