「ちょこまかちょこまか、やりよるな」


 本塁への帰還を許してしまった泉が、吐き捨てる。政和賀川はタイムを取り、マウンドに集まっていた。
 五十嵐は口元を隠しながら言った。


「あいつ等、センスの塊やな。ミーティングでも言ったけど、一番と四番は要注意やで。打点云々の前に、試合の流れを持ってく」
「そうやな」


 白鳥が言った。


「まあ、猪俣は何時も通り投げとったらええ。うちにはエースがおるしな」


 ベンチ奥、仏頂面の赤嶺を見て、皆が笑った。




Monster(3)





 七番、空湖がバッターボックスに立つ。先輩が引き寄せる試合の流れを繋ぐ。
 猪俣の腕が振り上げられる。目が眩むようだ。ボールはミットに吸い込まれた。ストライク。
 よくもこんなボールを平然と打ったなあ、と感心する。ストライク。簡単に、ボールは通り過ぎてしまう。
 捕る方も捕る方だ。空湖は後方の泉を見遣り、口元を結ぶ。長身の投手の放つボールはストレートすら強烈な変化球だ。
 顔面へと迫るような内角高めのストレート。見逃し三振だけはするものかと空湖はバットを振り切った。
 濁った音がして打球はピッチャー前に転がった。猪俣のグラブが拾い上げる。長い腕が遠心力を加えた恐ろしい勢いで振られる。本塁に突っ込んだ孝助を阻み、泉が切り返す。送球は三塁へ向かった。
 乾いた音がした。


「アウト!」


 併殺。力無く、箕輪が言った。
 引き寄せても引き寄せても、その流れは簡単に引っ攫われる。
 弱音や泣き言は呑み込み、箕輪が顔を上げた。ベンチが沈み込みそうになる。悔しげな顔をする仲間の中で、和輝だけが輝かんばかりに笑っている。


「さあ、抑えに行くぞ」


 ベンチに戻って来る空湖が、孝助が、宗助が揃って謝罪を口にしようとする。その頭を順に小突き、和輝はグラウンドへ向かって走って行った。
 追い掛けても、追い掛けても、政和賀川の背中に届かない。けれど、諦めないで前を見ていれば見失うこともない。そう言っているようで、何故だか空湖は泣き出したくなった。
 四回裏、政和賀川の攻撃。九番、投手の猪俣から始まる。
 ひょろりと背の高い猪俣は、マウンド上にいる醍醐よりも大きく見えた。腕が長い。体が大きい。この人には一発がある。けれど、投手相手にぎりぎりのコースで攻めたくない。
 低めのストレート。長い腕を畳み、猪俣のバットは振られた。打球が勢いよくグラウンド跳ね、三塁線へ向かった。待ち構えていた和輝が拾い上げ、そのまま一塁へ送った。アウト。
 ほっと胸を撫で下ろす間もない。打順は一番に戻った。
 一番、伊東は夜の湖畔のような静寂を保って構えている。不気味だと蓮見は正直に思う。此処で切れば前半戦が終わる。一点差だ。焦るような場面じゃない。けれど、政和賀川が嫌に落ち着いているから不安になる。間違いを知っているのに指摘しない意地悪な教師のように思った。
 伊東は変化球を打ち返した。打球はセカンドフライ。アウト。
 二番、結城。走者はいないし、ツーアウトだ。あと一人。
 結城は一塁線へ打球を転がした。目を剥くような瞬足で、あっという間に一塁を駆け抜けていた。


「セーフ!」


 星原は送られたボールをミットの中で眺め、醍醐へ返した。
 政和賀川の安定感は何だ。醍醐が劣っているのでも、蓮見が愚かなのでもない。やるべきことはきっちり熟している。それでも、安定して出塁して来る。
 気力をじわじわ削っていくような試合だ。頭上から降り注ぐ日光が恨めしい。少しくらい、陰ればいいのに。
 二死走者一塁。三番、五十嵐がバッターボックスに立った。
 五十嵐の力強いスイングが、ボールを弾き返す。大きな放物線は本塁打を思わせ、グラウンドに緊張が走った。ライト、宗助が追い掛ける。
 打球はフェンスに直撃し、そのまま落下した。一塁走者、結城が二塁を蹴った。


「バックホーム!」


 呼応するように、宗助の腕が振られる。匠が中継するものの、結城は既に本塁を踏んでいた。
 追加点。また、二点差だ。
 切っても切っても繋いで来る。政和賀川の安定感にぞっとする。四回裏、五点目。
 流石に和輝はタイムを申し出た。あと一人切れば前半戦が終わる。この嫌な流れを後半戦に持ち込みたくない。
 マウンドを中心に輪を描く晴海ナインは一様に口元をグラブやミットで隠している。周囲の喧騒を置いてけ堀に、グラウンドは妙に静かだった。
 これだけ出塁が続けば気力も切れるか。和輝は腰に手を当て、口を開いた。


「研究されてるな」
「そりゃ、そうでしょう」


 宗助が同意する。


「嫌になっちまいますね。王者の癖に貪欲で」
「飢えてるのはこっちも同じだ。俺達は一年間、ずっとこの日を待ってたんだぞ」


 匠が不敵に笑う。


「落ち込んでる時間は無いし、必要も無い」
「そうだね。さあ、行こうか」


 和輝は胸元に拳を当てた。二度、叩く。
 信じろ。彼が作り出した、彼だけの、仲間の為のサインだ。強ばった口元をふっと緩め、晴海ナインは声を上げた。
 四番、泉。二死走者二塁。
 蓮見のサインはストレートだった。低めのストレートを、泉が打ち上げる。打球が三塁上に上がった。
 和輝のミットに、雨粒の如くそれは落下した。アウト。チェンジ。
 前半戦の終了と共に、晴海ナインは顔に出さないまでもそれぞれ胸を撫で下ろす。
 接戦という接戦なら幾らでも熟して来た。けれど、こんなじわじわ削られるような劣勢は初めてだった。ベンチに戻った面々が水分補給に急ぐ。日光とグラウンドからの照り返しに体中が干からびてしまいそうだった。
 和輝だけが、変わらず微笑んでいる。


「余裕っすね」


 皮肉っぽく孝助が言う。和輝は振り返り、苦笑した。


「余裕ではないよ。すげーしんどい。――でも、楽しい」


 楽しい、と言った和輝の双眸が、まるで日輪の如く輝いて見えた。


「劣勢でも優勢でも、この場所に立って戦ってる。前を見れば相手がいて、振り返れば仲間がいる。ボールを追い掛けることができて、バットを振ることができる。こんなに楽しいこと、他にあるか?」


 当たり前のことは、当たり前じゃないんだよ。そう言っているようだった。
 眉間に皺を寄せる孝助にも解るだろう。和輝はそれだけ言うと、トイレに行くと残してベンチを出て行った。
 廊下は薄暗かった。節電なのか蛍光灯も仄暗い。擦れ違う人も無い廊下は寂れた病院を連想させ何処か不気味だった。和輝は通い慣れたトイレの扉を押し開ける。
 用を足しながら前半戦を振り返る。政和賀川の攻撃が厳しいことは解っていた。此方も対策を練って来た筈なのに、これだけ打ち込まれたのは、やはり、徹底的に研究されていたのだろう。
 投手交替かな。そんなことを思いながら手を洗う。冷水に神経が研ぎ澄まされた。
 扉を押し開けた先、壁のように大きな少年が立っていた。
 切れ長な鋭い双眸。大きな体格。仏頂面。政和学園賀川高校のエース、赤嶺陸。
 今更交わす言葉も無いと、適当な挨拶を口にして和輝は擦れ違う。見上げる程の体格差だが、旧知の仲間に怯えはしない。和輝の背中に、声が刺さった。


「楽しそうだな」


 振り返る。赤嶺が、睨むように和輝を見据えていた。
 和輝は笑った。


「楽しいよ。お前は、楽しくないのか?」
「別に」


 吐き捨てた言葉に、和輝は口元を結んだ。
 一年前もこの顔を見た。赤嶺は何時もつまらなそうな顔でマウンドに立っている。過去に見た筈の彼の笑顔が思い出せず、和輝は眉を寄せた。
 何かを言おうとした和輝を遮り、赤嶺が口を開く。


「下らない。高校野球なんて、プロ野球の品評会だろ」


 否定はしない。事実、高校野球にはそういう側面がある。
 けれど、それだけではないことも和輝は知っている。自分の積み重ねて来た時間は、スカウトの為のパフォーマンスではない。
 勝ちこそ全て、負けは無意味。それは或る意味真実なのだろう。
 和輝の目は自然と鋭くなった。


「お前の野球、つまんねーよ」


 今度は和輝が吐き捨てた。


「内容の無い結果なんて、虚しいだけだろ」


 赤嶺の眉間に皺が寄った。大股で距離を詰め、見下ろす赤嶺は確かに怒気を漂わせている。
 だが、和輝はがんとして譲らない。


「楽しいと思うから全力でプレーできるんだろ。嬉しいと思うから勝ちたいんだろ」
「安っぽい感情論だ。それで勝てなきゃ何の意味も無いだろ」
「感情論の何処が悪い! 笑ったっていいだろ、泣いたっていいだろ、生きてるんだから! 一喜一憂しない人生なんて、虚しいだけだ!」
「一度死のうとした男が、笑わせるぜ」


 一瞬、和輝は言葉を失った。
 二年前、確かに和輝は死を選んだ。自宅で、殆ど衝動的に手首を切り裂いたのだ。兄や幼馴染の手際の良い対応のお蔭で、今もこうして生きている。
 廊下の奥から、足音が近付く。――匠だった。


「それを否定する権利は、お前に無いだろ。何も知らない癖に」


 毅然と、匠が言い返す。ポケットに手を突っ込んだままふてぶてしく匠が続けた。


「価値観なんて、解り合えないんだろ。だったら押し付けるなよ。お前がお前の思うものを大事にしてればいいだろ。こいつはこいつなりに、自分の大事なもの抱えて此処まで来たんだよ」
「馬鹿げた理想論のことだろ」


 びしりと言い返した赤嶺に、匠は苛立った。
 どうして否定する。どうして認めない。匠には解らない。


「そんな綺麗事じゃ、やってけねーんだよ」
「厳しいだけが現実じゃねーだろ!」

 ああ、こいつもか。匠は隣で食って掛かる和輝に呆れた。
 解り合えないと解っている相手に、どうして此処まで食い下がる?


「勘違いすんな、陸!」


 叱り付けるような強い口調で、和輝が言った。


「自分だけが苦しいと思うなよ」


 真っ直ぐに見据える双眸に、赤嶺は言葉を失った。中学を卒業する前、橘シニアで皆の先頭に立っていたキャプテン。あの頃と同じ目をしている。
 不満げに鼻を鳴らし、和輝は踵を返した。行くぞ、匠。それだけ呟いて、無言で八つ当たりするように足音を立てる。こいつが此処まで苛立ちを表すのも珍しいな、とぼんやり思う。
 背後に嘗てのチームメイトを残し、和輝は言った。


「後半戦の始まりだ」

2014.9.14