五回表、晴海高校の攻撃。打者は八番、蓮見創。 下位打線から始まる攻撃だが、前半戦で付けられた二点差を早い内に埋めておきたかった。蓮見がベンチから出た時、アナウンスが響き渡った。 『選手交代をお知らせします』 視線を巡らせる。ぐるりとグラウンドを巡り、視線はマウンドに止まった。 すっと大きな体。何も言わなくとも、何もせずとも、其処にいることが解る圧倒的な存在感。吸い込まれそうに強烈な迫力。右手に付けられたグラブ。背負われた一番。 『ピッチャー猪俣君に代わりまして、ピッチャー一番、赤嶺君。背番号一番――』 ざわりと、空気が揺れが感じられた。風の流れすら見えるような鮮明な気配に、蓮見は踏み出そうとした足を止めた。後半戦、エースの登板。文字通り止めを差しに来たのだろう。 ベンチが静まり返る。劣勢でも声援を送り続けた仲間は、マウンド上の怪物投手に目を奪われていた。 帽子の影で、切れ長な鋭い目が闇夜に獲物を狙う猛獣のように光っている。愛想の欠片も無い仏頂面から感情は何一つ窺い知れない。 審判に促され、蓮見は吸い寄せられるようにバッターボックスに入った。挨拶すら忘れた。 ワインドアップ。流れるようなステップを踏んで――、投球。まるで竜巻のようだ。踏ん張っていなければ吸い込まれそうだった。唸るような剛球は重力を無視するように、一直線に、キャッチャーミットへ突き刺さった。聞いたこともないような鈍い音がミットから響いた。 ストライク。蓮見は呆然としている。返球を受けた赤嶺は涼しげで、頭上の日光すら感じていないようだ。赤嶺の目に映っているのはキャッチャーミット、ただ一つ。 ストライク。一年前を想起させる冷たい目だ。まるで歯が立たなかった。バッターボックスに立つだけで精一杯だった。あの投手が今、目の前にいる。 凶暴な生き物のような剛球が視界から消えていく。ストライク。バッターアウト。見逃し三振どころか、身動き一つ出来なかった。 才能が全てではない。けれど、それは歴然と存在する。才能の壁を体現するかのような怪物投手だった。 どうにか礼をして、蓮見はバッターボックスを出る。一年前、自分はどうやって彼の前に立ったのだろう。彼の放つただのストレートは、まるで、球児の夢を喰らい尽くす悪魔のようだった。 九番、醍醐も同様だった。圧倒的な才能の差に愕然とする。三球三振。騒ぎ立てるアルプスが遠い世界に感じられた。 そして、打順は一番に戻る。和輝は静かに目を閉じた。三年間――否、十年以上だ。赤嶺と過ごした過去が走馬灯のように過ぎり、消えた。目を開く。世界は静かだった。 和輝はバットを右手に、赤嶺に対峙した。30cm以上の身長差は、それだけで卑怯だと言ってしまいたくなる。掲げたバットの向こうに、嘗ての仲間が立っている。マウンドから冷気でも漏れ出しているのか、バッターボックスは冷凍庫のように冷たかった。肌が僅かに粟立つ。 初球。強烈なバックスピンの掛かったストレートが、空気を引き裂きミットへ突き刺さる。 ストライク。和輝はミットを見た。外角低め、ストライクゾーンギリギリに入っている。 空気を切り裂く音が、まるで悲鳴のようだった。和輝はフルスイングした。バットは確かにボールに当たった筈なのに、弾かれたのはバットだった。空中で木の葉のように回転し、グラウンドへ落下する。ボールはミットに入っていた。ストライク。 掌が痺れていた。僅かに痙攣する指先を握り、和輝はバットを拾った。 三球目、ストレート。 (嘗めんな!) 直球勝負で負ける訳にはいかない。和輝は振り切った。 根元に詰まらせた打球が、赤嶺の頭上に浮かぶ。そして、顔を上げることもなく、グラブに収められた。 バッターアウト。チェンジ。後半戦、三者凡退。背中に鉄の塊が伸し掛ったような気がして、和輝は舌打ちを漏らした。 Monster(4) 選手交代。晴海高校もまた、エースが登板する。 夏川啓はマウンド上でロージンバッグを弄び、足元へ落とす。五番から始まる政和学園の攻撃に、グラウンドでは先程のショックが抜け切らないのか何処か覇気が無かった。 準決勝で対戦した浅賀達矢も才能溢れる良い投手だったが、赤嶺陸は別格だと称せざるを得ない。顔色を失くしたキャッチャーを、夏川は忌々しく思う。 何処見てんだよ。お前が今見るべきは、此処だ。 ワインドアップ。一番を背負った背中に、仲間の声援が突き刺さる。 「ぶちかませ!」 先程凡退したばかりのキャプテンが、何か戯言を言っている。けれど、彼はそれでいい。 放たれた白球が、白い閃光となってミットに飛び込んだ。ストライク。審判の宣告に、漸く蓮見が顔色を取り戻す。打者が息を呑んだのが解った。 打者は動けない。ストライク、ストライク。バッターアウト。やり返すような三球三振は続き、五回裏は呆気無く終わった。 六回表、晴海高校の攻撃。打者は二番、箕輪。 和輝はグラウンドを見詰めている。吸い込まれそうな迫力に鳥肌が立つ。観客席で見るのと、バッターボックスに立つのは違う。匠は問い掛けた。 「どうだった」 「バックスピンがすげえ。オーバースローで落下する筈の軌道が、空気摩擦で微妙に変化してる。あと、重い」 和輝は自分の掌を見た。まだ痺れているような気がした。 匠は口元に指を当て、何かを思案している。グラウンドでは箕輪が三球三振に抑えられた。初見であの強烈なストレートを打てと言う方が酷だ。戻って来る箕輪の肩を軽く叩き、匠はベンチを出て行った。 三番、星原の打席。初球のストレートを何時もの涼しい顔で見送り、構え直す。こんな場面で怖気付くようなか細い神経ではない。星原とて、赤嶺のストレートは飽きる程に見て来た。 ストレートに狙いを絞り、バットをフルスイングした。半端なスイングでは打ち返せない。だが、手元でボールは軌道を変えた。嘲笑うかのような変化球。フォークだった。目を疑うような変化幅に星原は対応できなかった。敢え無く三振に終わる。 匠はバッターボックスに立った。 安っぽい感情論。馬鹿げた理想論。綺麗事。赤嶺は、和輝にそう言った。匠も概ね同感だった。――けれど、和輝がどんな思いで道を選び、此処に立ち、それを告げたのか匠は知っている。 和輝の言葉は何時も真っ直ぐだ。自分の思いを思うように口にしている。自分と異なる考えだと理解していても、馬鹿みたいにぶつかって行く。匠は、それでいいと思う。 (俺は、それがいい) 以前、箕輪が言った。和輝が笑っているから、それでいい。匠も、そう思う。 才能の壁は歴然と存在する。それが全てでないと和輝は訴える。それでも限界がある。けれど、譲れないと叫ぶ和輝を誰が否定できる? 彼が挑むというのなら、自分も同じだ。 初球、ストレート。悪夢のようなストレートを打ち砕く。打球はファールゾーンに弾け飛んで行った。 匠は掌に残る痺れと共にバットを握り締めた。二球目、ストレート。またも打球はファールゾーンだった。力負けしていることは明白だ。悪態吐く寸前、声が響いた。 「匠!」 闇を切り裂く朝日のようだった。思わず振り向いた先、親友が真っ直ぐ見詰めている。 生まれた時から一緒だった。喧嘩もした。殴り合いもした。決別もした。それでも、其処にいる。彼が死のうとした日を、匠は一度だって忘れたことはない。生まれた時から当たり前に側にあったものが突然失くなる恐怖を、他の誰が理解できるだろう。 辛くて苦しくて、縋るように死を選んだ彼が今、グラウンドに立っている。安っぽい感情論でも、馬鹿げた理想論でも、綺麗事でも構わない。誰に否定され、笑われてもいい。彼が生きて、笑っていられるなら、俺はそれでいい。 高音が鳴り響いた。打球は大きな弧を描き、センターとライトの間に落ちた。力負けする剛球を、匠は持てる技術の全てを集め、渾身の力で打ち返したのだ。バッターボックスを飛び出した匠に和輝が叫ぶ。 「行けぇ!」 匠は一塁を蹴った。外野から槍のような送球が向かう。二塁へ滑り込む。 送球と殆ど同時だった。審判が声を張り上げた。 「セーフ!」 二塁上で匠が、ベンチで和輝がガッツポーズをする。短い雄叫びが、確かに互いの耳に届いていた。 視線を合わせ、鏡に映したように拳で胸を二度叩く。信じろ。 お前が信じてくれるなら、俺は何処へでも行ける。 二死走者二塁。五番の孝助は生まれて初めてバッターボックス立った時を思い出した。グラウンドに立つ高揚感以上に、緊張していた。バットが重かったことを覚えている。 目の前にいる投手は化物だった。ストレートを見送る、というより動けなかった。そんなことは初めてだった。匠先輩、よく打ったな。胸の内で素直に賞賛する。 六回表、二点差で負けている。この投手を相手に出塁ことがまず困難だ。それでも先輩が必死に出塁し、自分に繋いだ。二塁上で匠は真っ直ぐ孝助を見ている。打てよ、なんて言わない。信じていると解る。 フォーク。凄まじい変化は見送ればボールにもなる。つい手が出てしまいそうになるが、孝助は堪えた。 ストレート。根元に詰まらせた打球が三塁線に転がった。捕手と投手の間、絶妙な場所だった。 三塁を蹴った匠が突っ込んで来る。孝助は、準決勝で匠が本塁に届かなかったことを覚えている。三塁で待っていれば追撃も有り得たのに、どうしてわざわざその可能性を潰したのだと責めた。だが、今は違う。 今しかない。次があるなんて確証は無いのだ。匠の猫のような目が、キャッチャーに隠れた白いホームベースを睨む。しなやかに伸ばされた腕が叩いた。 「セーフ!」 赤嶺は顔色一つ変えず一塁へ送球している。アウト。チェンジ。 一点を返し、匠は拳を握った。ベンチに戻った匠を仲間が手荒く受け入れる。その奥で待っていた和輝が拳を向けた。強めに当てられた拳に、互いに照れ臭くなって笑う。 和輝が言った。 「やっぱり、匠はヒーローだ」 匠の口が、開かれた。 「お前が、」 言葉を止めることができなかった。グラス一杯の水が風に揺られ溢れるように、匠の口からは声が漏れた。 「お前が、信じてくれるから!」 何度でも! 驚いたように目を丸めた和輝が、擽ったそうに笑った。 六回裏、夏川は極めて作業的に打者を三者凡退に抑えた。電光掲示板に無得点が記され、ほっと胸を撫で下ろす。それでも一点差。七回表、晴海高校の攻撃は六番の宗助から始まる。 其処から試合は膠着状態に陥る。互いの投手の球威に押され、走者すら出ない。七回は互いに無得点のまま、八回を迎えた。 政和賀川のエースが登板し、打者が一巡した。バッターボックスに蜂谷和輝。チームの小さなキャプテンだった。 お願いします。和輝はバットを構える。 ストレートに力負けするなんて情けない。先の見えない暗闇で、道を切り開くのは自分の役目だ。 初球、あのストレートだった。和輝のバットが振り切られる。掠りもしないボールはミットに突き刺さった。ストライク。和輝は眉一つ動かさず、静かに構え直した。 一点差が酷く重い。追い付いても追い付いても、突き放される。繋いでも繋いでも、切り落とされる。それでも諦められないから、全力で足掻くと決めた。 打球がファールゾーンへ転がった。和輝は空気の塊を吐き出す。集中して呼吸すら忘れていたらしい。 赤嶺の左腕が唸る。放たれたボールに違和感を覚え、和輝のスイングは躊躇した。軌道が揺れる。拳で肉を打つような鈍い音が後ろからして、和輝は振り返る。キャッチャー、泉の胸にボールが衝突したらしい。ボール。 和輝は瞬きをした。見間違いではないと確信する。 赤嶺の球種はストレート、カーブ、フォーク。決め球はフォークの筈だ。けれど、今放たれたボールはその何れにも当て嵌らない。 ナックルボール。和輝は胸の内で呟いた。 キャッチャー泣かせの変化球だ。事実、泉は受け止められなかった。投手への負担も大きい。それでも赤嶺は涼しい顔をしている。 苛烈なバックスピンの込められた白球が空気抵抗で軌道を変える。ぶれるような変化球に和輝が打ち損じる。ファールゾーンに打球がころころと転がった。 ナックルボールが続く。お前が難いと全力で訴え掛けるような凄まじいボールだった。泉はミット、或いは自分の体でそれを受け止める。赤嶺だけが、涼しい顔をしている。 カウントが全て埋まっても、赤嶺は呼吸一つ乱れない。マウンドで、赤嶺が侮蔑するように言った。 「諦めねーの? 勝てないと思わないのか?」 痺れた掌を握り締め、和輝は状況も忘れ言い返していた。 「諦めねーよ!」 俺がどんな気持ちで此処に立っているか、お前に解るか。 努力とか才能とか訳の解らないレッテルばかり貼られて、本当の自分を見失って、仲間の姿が見えなくなって、自分を信じられなくなって――、それでも、諦められなかった。 此処に立ちたいと、血を吐くように願ったんだ。 「可能性がどんなに低くでも、諦めることは絶対しない。――自分から可能性捨てるような真似は、死んだってしねーよ!」 審判が警告する。和輝は噛み付きそうに赤嶺を睨んでいる。 謝罪の意を込めて頭を下げ、和輝ばバッターボックスに戻った。 昨夜、赤嶺は、結局最後は独りだと言った。そうなのかも知れない。和輝には解らない。けれど、少なくとも今は独りじゃない。 腹が立った。苛立った。こんなに頭に来たのは久しぶりだった。 何も見えてない。何も解ってない。自分が其処に立っているのは、生まれ持った才能の為だと本気で信じているのだろうか。一人何も感じていないみたいな涼しい顔をする赤嶺に腸が煮え繰り返る。 独りだなんて、冗談じゃない。 (壁でも、相手にしてるつもりかよ。お前の目の前にいるのは、仲間だろ!) 受け止めてくれる捕手がいて、受け入れてくれる仲間がいてこその投手だろう。 どうしてそんな簡単なことが解らない。続くナックルボールをカットしながらも、和輝の構えは序盤から変わらなかった。 泉は、その様に驚愕している。 赤嶺のナックルボールはまだ試合で試したことはない。即戦力になり得る決め球だったが、捕手である泉が確実に捕らえられなかった為、封印していたのだ。 この球はまだ見せたことがないのに、それなのに、それなのに、対応しやがった! それどころか、何球もカットし続けている。 小さなその選手を、初めて恐ろしいと泉は感じた。未知のものへ対する生理的な恐怖だった。 (出塁は最低条件。俺の仕事は、後ろの為に、一球でも多く投げさせてやることだ!) 仲間が繋いでくれると信じて前へ進め。和輝はバットを振り切った。 打球が痛烈なライナーとなって赤嶺の横を抜ける。セカンド手前で着地し、打球が大きく跳ね上がった。バッターボックスを飛び出した和輝が一塁を踏み抜く。 二つ。泉の声も通り過ぎ、和輝は二塁を蹴った。三塁、内野に挟まれながら和輝は身を低くした。 タッチアウトを交わすスライディングは、嘗てのチームメイト、蝶名林皐月と泥塗れになって練習し、会得した技術だった。 「セーフ!」 和輝は三塁に立つのは、晴海高校にとって反撃の狼煙だった。 八回表、一点差で負け越し。無死走者三塁。バッターは箕輪翔太。政和賀川が前進守備を敷く。グラウンドに打球が落ちれば、走者は必ず帰還する。そういう走者を背負っている。 それでも、赤嶺の表情は変わらない。凍り付くような無表情だった。 凄まじいストレートが突き刺さる。バットの根元に当たった打球が赤嶺の手元に返って行った。ワンナウト。苦々しく礼をして、箕輪がベンチへ戻っていく。星原にはあのナックルボールが放たれた。動揺に鈍るバットが打球を詰まらせる。キャッチャーフライ。アウト。 繋がらない攻撃にアルプスで息が漏れる。だが、ツーアウトの絶体絶命の状況で、打者は四番だった。 白崎匠。 再度、匠はバッターボックスに立った。 |
2014.9.14