バッターボックスの匠の背中を、ベンチから箕輪は縋るように見詰めている。 和輝の幼馴染で、親友で、ライバル。一年前編入して来た匠のことが初めは気に食わなかった。けれど、今は信頼の置ける仲間だった。 「頼むぞ、匠……」 絞り出すように、箕輪が声を出す。その隣で、夏川が声を上げた。 「祈ってんじゃねーよ!」 三塁上で和輝が胸を叩く。信じろ。大丈夫だよ。必ず、其処に帰る。 絶体絶命の状況で、プレッシャーの伸し掛る場面で、和輝が蕩けるような微笑みを浮かべる。 初球はあのストレートだ。鈍い音を立てて打球がキャッチャーの後ろに飛んだ。ファール。続く変化球、フォークには手を出さない。ボールになった。 さあ、来るぞ。匠は唇を舐めた。 ナックルボール。和輝が何度も見せてくれた球だ。ぼやけるようにぶれる変化球。匠のバットが火を吹いた。打球はライナーとなって二遊間を抜けた。 追い掛けても追い掛けても届かなかった背中。繋いでも繋いでも断ち切られた勝機。王者、政和賀川高校。和輝の目は確かにホームベースを捉えている。追い掛ける送球を突き放すような加速で、和輝は本塁を走り抜けた。同点のランナーだった。 湧き上がるアルプス。津波のような歓声を背中に、和輝は顔を上げた。二塁上の匠に笑い掛ける。 「玉座から引き摺り下ろしてやるよ、陸」 「王手だ」 二人が、不敵に笑った。 Monster(5) マウンドに政和賀川ナインが集まる。八回表に来て、同点だ。突き放しても突き放しても、食らい付いて来る。背後で猛獣が喉笛を噛み砕こうと迫っているようで、気が休まらない。 五十嵐は口元を隠しながら、苦笑交じりに言った。 「あの一番と四番は要注意って解っとったのに、ほんま、手ぇ付けられんなあ」 「分裂させるのが一番やで」 泉が言う。その通りだ。赤嶺が登板してから、まともにヒットを打てているのはあの二人だけだ。どちらか一方だけなら得点には至らない。 「切り替えて行くで。俺等だって、負ける訳には行かん」 ベンチにすら入れなかった大勢の仲間の夢を背負っている。それをたかだか十人ぽっちの無名チームに踏み躙らせはしない。 宣告通り、五番の孝助を三球三振に抑え、八回表は終わった。 ベンチへ駆けて行く政和賀川、グラウンドに向かう晴海高校。赤嶺と和輝は、草生すグラウンドの外で対峙した。威圧するような赤嶺の剣幕に、今更怯える和輝ではない。見上げる目は子犬のように丸くとも、篭められる光が刃の切っ先のように鋭い。 「反吐が出るぜ」 軽蔑するような眼差しを向ける赤嶺に、和輝が向かい合う。 二人に気付いた匠が駆け寄った。審判に見つかればただでは済まない。それでも、和輝は言い返す。 「俺達はきっと、本当の意味で理解し合うことはできないよ。根底では何時も異なってる。でも、それでいいだろうが。信頼って、許し合うことなんだよ。それでいいよって、認め合うことなんだよ」 訴え掛けるように、和輝が言う。 「楽しくない野球して、お前、それでいいの?」 本当に? 何度でも問い掛ける。激昂したのは赤嶺だった。 「綺麗事並べてんじゃねーよ! それだけじゃ、生活できねーんだよ! 生きて行けないんだよ!」 「厳しいばっかりじゃねーだろ!」 触発されたように和輝も声を荒らげた。 「支えてくれる人に気付きもしないで、自分だけが苦しいみたいな顔してんじゃねーよ! 諦める口実ばっかり探してんじゃねーよ! 玉砕覚悟でぶつかってみろよ!」 二年前、赤嶺は一家を支える父を亡くした。過労死だった。 赤嶺の選ぶ道はプロ以外に有り得なかった。それ以外に、生きる道は存在しなかった。夢は義務になった。赤嶺に、逃げ道は無かった。それでも、嘗てのチームメイトと交わした約束が、赤嶺を支えていた。 和輝が自殺を図ったのは、同時期だった。逃げ道の無かった赤嶺を嘲笑うように、和輝は簡単に逃避を選んだ。何が起こったのか赤嶺は知らなかった。ただ、自分の信頼は、裏切られたことを理解した。 その少年が、今、生きて前に立っている。あろうことか、逃げ道の無かった自分を叱責している。 怒りに視界が一瞬白く染まった。衝動のままに拳を振り上げる。声を聞きつけた審判の視線が向く――刹那、振り上げられた拳は、五十嵐によって阻まれていた。 「試合中やで」 冷ややかに、五十嵐が言った。我に返った赤嶺は、正面の小さな少年を見る。匠が間に割り込んでいた。相変わらず、過保護なことだ。 幾分か頭の冷えた赤嶺はそっぽを向いてベンチへ戻って行った。残された五十嵐が、眉を寄せ申し訳無さそうに謝罪する。匠が「煽ったこいつが悪いんで」とそれを制した。 五十嵐は去って行った赤嶺の背中を見詰め、独り言のように零した。 「あいつも、あんな風に怒ることがあるんやな」 その言葉に耳を疑い、和輝が不満げに言った。 「あいつ、すごい短気ですよ。匠は殴り合ったことあるもんな」 「中学の頃だろ」 「ほんま? そうなんか……」 五十嵐の様子に、和輝は何となく意味を理解する。中学の頃と、今の彼は違うのだろう。 能面のような無表情。けれど、頼れるエース。それが今の赤嶺なのだ。自分は独りだと仲間に背中を向ける赤嶺。それでも、仲間は彼を信頼している。彼だけが、それに気付いていない。 八回裏、晴海高校のエースはその実力を大いに振るい、一つの失点も出さなかった。 そして、最終回。九回表、晴海高校の攻撃。同点で互いにプレッシャ―の掛かる中、晴海高校の打者は六番、宗助だった。 赤嶺は電光掲示板を見遣る。何度見ても、目を凝らしても、同点だ。たった十人の無名チームが、王者である政和賀川と対等に渡り合っている。 マウンドからキャッチャーミットを見る。何も変わらない。何時もの風景だ。――けれど、何故だか、身体が重かった。 どうして重いのだろう。今日は五回からの登板で、そんなに球数も投げていない。疲れている訳が無い。ストレートも走っているし、変化球も調子がいい。それなのに、身体が、肩が重い。そして、こんなことが以前にもあったような気がして赤嶺は首を傾げる。 高校に入学してからじゃない。じゃあ、あれは何時だ? 命を散らすような激しい蝉時雨、河川敷のグラウンド。灼熱の太陽に焼かれながら、あの時も自分はマウンドに立っていた。正面にいたのは泉じゃなかった。青樹大和だ。 身体中が重くて、辛くて、しんどくて、それでもこの場所を譲りたくなかった。自分の様子に気付いた監督が、選手交代の伝令を走らせた。それがまるで死刑宣告のようで、自分は呆然と立ち尽くしていた。鉛のように重くなった両腕をぶら下げた時、声が響いた。 ――踏ん張れ、陸! ああ、あれは誰だ? グラウンドで誰よりも小さくて、けれど、誰よりも頼りになった少年。綺麗な顔で、まん丸の目で、真っ直ぐに此方を見ていたあの少年は。 ――此処で負けんな! ぐらりと、視界が歪んだ。 赤嶺は頭を振ってキャッチャーミットを睨む。過去に回帰していた思考は茹だるように鈍っていた。 あの声は、あの言葉は、あの少年は、何だ。 投球。これまでにない甘いストレートに泉は困惑した。それを逃す宗助ではない。打ち放たれた打球が三塁線を野兎のように跳ねる。宗助は一塁を駆け抜けた。 セーフ。走者一塁。 赤嶺は帽子の上から米神を押さえた。 一度崩れたリズムは中々整わない。コースは甘く、変化は安定しない。四球、後逸。あっという間に塁上は走者で埋まった。 何かがおかしいと思っても、隙があれば逃す手はない。バッターボックス、九番、夏川が立った。 泉がタイムを申し出る。マウンド上に政和賀川ナインが集まった。エースの降板は有り得ない。赤嶺が崩れることは敗北に繋がる。嫌な緊張感を覚えながら赤嶺を見れば、その目はネクストバッターズサークルに奪われていた。 蜂谷和輝は片膝を付いて、赤嶺を見詰めている。 「おい、赤嶺」 呼ばれて、漸く赤嶺は我に返った。 「悪い。暑くてちょっと朦朧としてた」 「ほんま? 大丈夫か?」 労わる仲間の声が、自身の拍動に掻き消される。頭が割れそうに痛かった。 「お前、真っ白やぞ。交代するか」 五十嵐が言った。赤嶺は片手を出してそれを制する。 「いや、もう大丈夫だ」 「そうは見えんぞ」 心配そうに五十嵐が顔を覗き込む。 交代。お払い箱。赤嶺に逃げ道はない。逃避とは死ぬことだ。二年前、嘗てのチームメイトがそれを証明して見せた。 赤嶺は、絞り出すように言った。 「勝たなきゃ、俺はいる意味無いしな」 そう告げた瞬間、仲間が一様にぽかんと口を開けた。 目を瞬かせた五十嵐が言う。 「お前、アホちゃうか」 五十嵐が赤嶺を叩いた。軽い、乾いた音が、した。 「勝てるから野球してる訳やない。好きだから野球しとるんや。勝てるからお前と一緒におる訳やない。好きだから、お前と一緒にいるんやろ!」 そんな当たり前のことを言わせるな、と何処か苛立ったように五十嵐が口を尖らす。 仲間が生暖かく微笑んでいた。 「流石キャプテンは言うことがちゃいますなあ」 「やかましいわ」 「ほな、切って行くで」 ばらばらとグラウンドへ散っていく仲間の背中を、赤嶺は呆然と見ている。 頭痛は止んでいた。霞んでいた視界が急激に開けて、指先の感触が戻る。背中に伸し掛った重石は何処かへ消えてしまった。 顔を上げればキャッチャーポジションに泉が座っている。ネクストには相変わらず蜂谷和輝がいる。ただ、グラウンドを見ている。それだけだ。 「バッチ来い!」 「打たせて行け!」 仲間の声が背中に突き刺さる。同時に、周囲を取り囲む大勢の仲間が、応援団が、観客が声援を向けている。今まで聞こえなかった応援が届く。 甲子園球場の中心にいる――。唐突に、赤嶺はそのことを理解した。 泉がサインを出す。それは、自分が此処にいていいという証明だった。 何故だか無性に笑い出したくなった。喉の奥がくつくつと音を立てる。帽子を深く被り直し、赤嶺はバッターを見た。九番、投手、夏川啓。その存在を視界と脳に刻み込む。 ネクストで、膝を付いた和輝ははっとする。マウンドの赤嶺の口元が、微かに弧を描いていた。 無死満塁の逆境で、赤嶺陸が笑っている。ランナーを背負いながら、赤嶺は大きくワインドアップした。 撓る左腕から放たれた渾身のストレートは、これまでで最も重く、速かった。肉を打つ物騒な音でキャッチャーミットに飛び込んだ。ストライク。その宣告が途切れる前に、泉は中腰のまま一塁へ送球した。 大きくリードを取っていた蓮見が慌てて戻るが、審判が右手を突き出す。そのままに送球は三塁へ向かった。 「アウト!」 併殺。 無死満塁をただ一球で断ち切った赤嶺陸は、笑っていた。 |
2014.9.14