最終回、政和賀川の攻撃。 同点で迎えたこの場面、一つでも失点すればゲームセット。張り詰めるような緊張の漂う中、政和賀川の打順は先頭に戻る。伊東はバッターボックスに立ち、マウンド上の投手、夏川啓を見詰めた。 彫りが深く、何処か西洋を感じさせる男前だ。マウンド上で表情を崩すことなく、淡々と投球を熟している。背中を仲間へ預け、自身はバッターと向き合う。良い投手だ。無名チームのエースでは勿体無いと思う。 初球、唸るような剛球。伊東のフルスイングは掠りもせず、ボールはミットに収まった。ストライク。 続けて二球目もストレートだ。大きな体格を活かした凄まじいストレートが打者を圧倒する。赤嶺の強烈なバックスピンの掛かった、手も足も出ないような魔球ではない。手元で伸びるような正統派のストレート。 バットを掠めた打球が頭上に浮かび、捕手が立ち上がった。蒼穹に浮かんだ打球はゆっくりと、確かにミットの中へ落ちた。バッターアウト。 夏川は頬を伝う汗を拭い、蓮見からの返球を受けた。身体が軽かった。指先の感覚が鋭敏で、腕がよく上がる。頭がすっと冷えて、視界が広くなる。 二番打者、結城が現れる。 (どいつもこいつも、でかくて嫌になるぜ) 痩せ型の選手が多い晴海高校とは、まるで厚みが違う。練習量も、質もきっと違うのだろう。加えてベンチにすら入れず、アルプスで三年間を過ごす選手もごまんといるのだ。 どちらが良いか、なんて愚問だ。彼等はそれを望んで、自分達は此処を選んだ。それだけのことだ。 結城の表情は固い。まるで、俺達は仲間の夢を背負っているんだ、と訴えているようだ。 (そんなの、俺達だって一緒だ) 夏川が振り被った。ステップ、テークバック、投球――。 ストライク。動けなかった結城が、確認するようにキャッチャーミットを見る。 何千何万と繰り返した投球を、丁寧に確認するように行う。溢れたものを拾い集めるように、包み込むように。 ストライク。今度はバットを振り切ったが、ボールには当たらない。恐らく、ストレートの速度と距離を測ったのだろう。次は打つ、という気迫がマウンドまで届く。 夏川はサインに頷いた。首を振る必要は無い。指先から放たれたボールは、剃刀のような切れ味で滑るように落下した。 高速スライダー。夏川にとっての決め球だ。バットを振り切った姿勢のまま、結城は驚愕に目を見開き硬直していた。そして、静かに礼をして去って行く。 ツーアウト。後ろから、和輝の声がした。 三番打者、五十嵐がバッターボックスへ。どっしりとした山のような体格だ。こいつには一発がある。 本塁打を貰えば試合終了だ。サインは内角低め。ストライクゾーンギリギリのコースを要求する蓮見は、夏川が外すことなんて微塵も考えていないようにミットをその場所へ構えている。 本塁打ならおしまいだ。夏川が振り被った。 金属バットの振り切られる銀色の閃光が、夏川の視界に映った。強烈な打球が空へ吸い込まれるようにぐんぐん伸びていく。嫌な汗が滲み、夏川は拳を握る。耳元にあるように拍動が煩い。 大きい。本塁打なら、おしまいだ。 キャッチャーマスクを上げた蓮見も言葉を失くし、その方向を見ている。青空に吸い込まれた打球を見失った。まさか、もう、アルプスに落ちたのか。観客犇めくあの場所に、落ちたのか? 「センター!」 拡声器でも使ったような、よく通るボーイソプラノが響き渡った。そろそろと後退していた空湖が、声に肩を跳ねさせ視線を泳がせる。 青空の一点を見詰めたまま、和輝が指を差す。白い浮雲に霞む、確かな白球があった。 大丈夫。彼の声が聞こえたような気がした。空湖がグラブを構える。目が眩むような高空から落下するボールは、予定調和のように、静かに、その場所へ吸い込まれて行った。 「アウト!」 バッターアウト。九回裏、無得点。 駆け寄った和輝が、夏川の肩を叩く。 「さあ、延長戦の始まりだ」 Monster(6) 晴海高校側アルプスには、準決勝で敗退した青樹大和と浅賀達矢が座っている。大勢の観客の中に紛れ、グラウンドからはとても見付けられないだろう。 青樹は延長戦に突入した電光掲示板を見遣り、息を漏らす。この場面で、晴海高校もまた、打順は先頭に戻った。先頭の打者は、晴海高校の切込隊長で、彼の出塁は反撃の狼煙だ。 バッター一番、蜂谷君。背番号、五番――。 アナウンスを背中に受けながら、小さな少年がバッターボックスへ向かう。中学時代から殆ど変わらない体躯で、全国一と名高い政和賀川と対等に遣り合っている。 和輝は、ベンチを出る刹那、振り返った。心身共に疲弊し切っている仲間は、暑さに頬を紅潮させながらも声援を送ることを止めない。此処に必ず帰って来いと訴え掛ける。 ずっと、欲しかった。解り合えなくても良い。反発し合っても良い。けれど、それでもいいよ、と受け入れてくれる場所。自分が自分でいられる仲間。安心して背中を預けられる信頼。何時でも帰れる場所。 「行ってきます」 和輝は歩き出した。 バッターボックスに入る前、丁寧に礼をする。頭を上げ、瞼を下ろす。周囲の喧騒が遠のいて、暑さに茹だる神経が鋭くなる。目を開ければ、其処はモノクロの世界だ。必要最低限の情報以外は遮断される。 グラウンドの状態。守備位置。試合経過。風向き。自分の調子。マウンド、投手の姿。 マウンドで、赤嶺陸が、笑っている。 (笑ってる) ただそれだけのことが、泣き出したいくらい嬉しかった。 バットを構えれば、赤嶺が振り被る。まるで中学時代にタイムスリップしたような心地だった。吸い込まれるような迫力、威圧感。撓る腕から放たれる剛速球。キャッチャーミットまでの18,44mを一瞬で駆け抜けていく。 ずどん。耳を疑うような重い音がした。ストライク。 和輝は動かなかった。否、動けなかった。電光掲示板には、160kmという球速が表示されていたが、和輝は気付かなかった。 バットを構える。初回と変わらない自然体のフォームだ。 二球目、命を振り絞る蝉のような、渾身のストレート。和輝はバットを振り抜いたが、掠りもしなかった。ストライク。審判が宣告する。 浅賀は、観客席からその様子を見下ろしている。160kmの球を投げる投手なんて、プロにもそうそういないだろう。この状況で笑ってみせる度胸も含めて、赤嶺陸は正真正銘の怪物だと思った。 「天才とか怪物とか呼ばれる選手が、もしも本当に存在するなら、それは、赤嶺みたいな選手のことを言うんやろうな」 その呟きは独り言に近かった。隣で聞いていた青樹は静かにバッターボックスを見る。 30cm以上の身長差は最早暴力的だ。あのストレートに対応するなら、少しでもバットを短く持ってスイングを早くしなければならないだろう。けれど、彼の体では外角の球に届かない。 だから、一瞬早い判断、一瞬早い動き出しが求められている。迫り来る才能と、刹那の駆け引きで渡り合っている。 濁った音がした。打球は後方へ弾かれる。ファール。 追い詰められら状況でも、和輝のフォームは変わらない。口元には笑みすら浮かんでいる。 カットするつもり等、毛頭無いというフルスイング。力負けは歴然だろう。それでも、抗うことを止めない。 ファールが続く度に、グラウンドの緊張は張り詰めていく。 向き合う二人に、青樹は中学時代の橘シニアを想起させた。夕暮れの河川敷、和輝は赤嶺の球を打ちたがった。天才と、エースと呼ばれる彼のボールに和輝は明らかに力負けしていて、バットは当たっても前に転がすのがやっとだった。通常のスイングでは間に合わない。速さを優先すれば力負けする。才能、実力。勝負は目に見えていたのに、和輝は何度でも声を上げた。 もう一球。 目に見えている勝負を、青樹は匠と呆れて見ていた。けれど、そういう時、赤嶺は嬉しそうに笑っていた。 もう一球。 徹底的な才能至上主義の敷かれた橘シニアで、和輝は才能が全てではないと抗い続けた。けれど、大人の作り上げた箱庭を壊すことができないまま、自分達は時間の流れと共に追放された。 それでも、彼は今も抗い続けている。 「才能の壁は歴然と存在する。それは、凡人が幾ら足掻いてもびくともしない、途方も無く高い壁だ」 ファール。審判の声も何処か切羽詰っている。 八つ目のファールに、苦しいだろう二人が、向き合うようにして笑っている。 青樹は、言った。 「だけど、もしも、その壁を越える術があるとするなら――。それは、努力だけなんじゃないかな」 鐘の音にも似た高音が響き渡った。打球が赤嶺の横を貫き、二遊間を駆け抜けた。 勢いの衰えない打球はミサイルのように内野を抜け、センターの前へ落球した。拾い上げた打球が、精錬されたステップを踏んで一塁へ送られる。和輝は滑り込んでいた。 小さな少年は起き上がらない。祈るように拳を握るその上で、審判が声を上げた。 「セーフ!」 その声を聞きながら、和輝は固く目を閉じた。起き上がればユニホームは泥だらけだ。 格好良くなんてなくていい。馬鹿にされたって構わない。ただ、此処にいたい。誰にもこの場所を譲りたくない。 迷って、間違って、失敗して、後悔して、傷付いて、それでも結論は一つしかない。勝ちたい! 無死走者一塁。和輝の出塁は、晴海高校にとって反撃の狼煙だ。二番、箕輪翔太はバッターボックスに立った。 才能の壁というのなら、箕輪はそれを誰より側で実感して来た。どう足掻いたって自分は凡人で、天地が引っ繰り返っても彼等のようなプレーはできない。生まれ持ったものに文句を言ったところで意味も無く、虚しさだけが残る。 だけど、それでも、仲間がいる。 行ってきますと、和輝が言う。ならば、彼をこの場所へ帰すのは自分の役目だ。 迫り来る剛球は、箕輪のバットの根元に当たった。打球は力無くグラウンドへ転がり落ちる。ホームを飛び出した泉が一塁へ送球した。アウト。それでも、ランナーは二塁へ進んでいる。 一死走者二塁。打者は三番、星原千明。何でも卒無く熟す万能選手だった。二塁上の和輝は視線が合えば笑い掛け、誇らしげに拳で胸を二度叩く。だが、体力を消耗しているのは明らかだった。 右腕と肩が痛いだろう。自分でも気付いていないのかも知れないが、何処か動作はぎこちなく傷を庇っているようだった。 晴海高校にこれ以上延長戦を戦う体力は無い。この回で決めたい。 焦りや緊張は無かった。グラウンドにいるのは最強のランナーで、後ろにいるのは最強の打者だ。一番嫌なのは、中途半端なヒットで、走者を危険に晒すことだ。 三振は有り得ない。ゴロも無しだ。なら、方法は一つしかない。 星原のバットは掬い上げるように振り上げられた。落下して来るストレートを線で捉えた打球は大きな弧を描き、内野を越え、外野――ライト頭上に向かった。本塁打すら思わせる美しい放物線だった。 ライトフライ。観客席から漏れる嘆息にほくそ笑み、星原はバットをぶら下げベンチへ駆けて行く。走者はまた一つ進んだ。無死走者三塁。星原はすれ違い様、匠の肩を叩いた。 「お膳立てしてあげましたよ」 そんなことを言って、星原はベンチの奥へ消えていく。ありがとさん。匠は独り言のように呟いた。 四番、白崎匠。晴海高校最強の打者。三塁の親友を見遣り、静かに構える。 お膳立て、なんて柄でも無いことしやがって。ベンチに消えた星原を忌々しく思う。本当はこの場所に立ちたかった癖に、へらへら笑いやがって。 マウンドの赤嶺を見て、おや、と思う。何時の間にか随分と懐かしい顔をしている。中学時代幾度となく見て来た最強のエースの顔だ。殴り合いをしたこともあったけれど、何が発端だったかなんて忘れてしまった。野球の方針についてだったかも知れないし、和輝のことだったかも知れないし、好みのグラビアのことだったかも知れない。もう思い出せない。自分が急に年老いたような気がした。 初球、ストレート。試合に夢中で気付かなかったが、球速は160kmを超えていたらしい。高校記録を塗り替える一球だ。とんでもない瞬間に居合わせているのだろう、興味も無いけれど。 ストライク。匠は構え直した。 二球目は、赤嶺の指先を離れ、僅かに軌道がぶれた。ナックルボールだ。キャッチャー後逸は即失点を意味するこの場面でナックルボールを投げる神経はどうなっているのだろう。投げさせる方も投げさせる方だ。 捕れると、信じているのか。必ず止めてくれると、信頼しているのか。 ストライク。追い込まれた場面で、匠は三塁を見た。和輝がいる。 ヒーローになりたかった、と和輝は言った。子ども染みた幻想ではなく、救ってやれなかった人に対する罪悪感だった。匠は、和輝はヒーローだと思う。仲間もそう思っている。和輝だけが認められない。 無力さに打ちひしがれた日もあっただろう。罪悪感に押し潰されそうな日もあっただろう。だけど、その全てを引っ括めて蜂谷和輝という人間なんだ。完璧でなくていい。ヒーローでなくていい。お前がお前らしくいられるなら、俺は、俺達はそれでいいんだよ。 ナックルボール。攪乱するような軌道は、襲い来るように内角へ放たれた。延長戦でコントロールが乱れたのだろう。匠が身を引き、泉がボールを追って立ち上がる。――その、刹那。 身を引いた勢いで、匠はバットを叩き付けた。打球が目の前でバウンドし、大きく跳ね上がる。体勢を崩した匠は倒れ込んだ。三塁、和輝が突っ込んで来る。 泉は立ち上がっている。本塁はガラ空きだ。赤嶺の元にボールが落ちる。一瞬にも満たない動作で、ボールは体勢を立て直す泉に向けられた。 和輝の目には本塁が映る。手を伸ばす。手を、伸ばす。 ――笑っていれば、必ず助けてくれる仲間に出逢える。支えてくれる友達が得られる。だから、どんな時も笑ってろ。伸ばされる手に気付ける人間に、なれ 不意に父の言葉が脳裏を過ぎった。 今度は、届く。 伸ばした腕、投げ掛けた言葉、向けていた信頼。 今度は、届く! 送球と滑り込みは同時だった。泉はマスクを上げる余裕等ある筈もなく、縋るように審判を見た。審判は神妙な顔をして、ゆっくりと、確かに両手を開いた。 「セーフ!」 逆転だ。起き上がれない匠はアウトとなり、十回表が終わった。 和輝は匠に手を差し出す。その手は、確かに取られた。 |
2014.9.14