十回裏、政和賀川の攻撃。
 打者は四番、泉。迎え撃つエース夏川は、静かに投球動作に入った。
 赤嶺は、ベンチからそれを見ている。たった一点差だ。されど、一点だ。延長十回、一点差が重く伸し掛る。赤嶺の隣には、三年間を共に過ごし、チームを支えて来たキャプテンである五十嵐がいる。泉へ向けて声を振り絞る横顔は汗と泥に塗れ酷いものだった。


「……悪かったな」


 ぽつりと、赤嶺は言った。気付いた五十嵐が怪訝に眉を寄せる。
 首を傾げる様は、謝罪の意味を本当に理解できないのだろう。赤嶺は言った。


「お前等のこと、信頼してなくて」


 ストライク。審判の声が響く。
 自然と俯いた赤嶺の頭を、五十嵐は軽く叩いた。五十嵐は相変わらずグラウンドに顔を向けているが、その言葉は間違いなく赤嶺へ向けられた。


「アホか。俺達は、そう思っとらんかったわ」


 今度は、赤嶺が眉を寄せた。
 ストライク、バッターアウト。ベンチから思わず嘆息が漏れる。だが、すぐさま次の打者への声援に切り替わった。帰って来た泉を迎え入れ、グラウンドから目を逸らすことは無い。
 五十嵐が言った。


「背中を預けるっちゅうことが、信頼だったやないかい」


 後ろに仲間がいると信じて、前だけを見て戦う背中。それが信頼以外の何者だというのだろうか。
 当たり前のことを言わせるな、と五十嵐が鼻を鳴らす。
 赤嶺の脳裏に過ぎったのは、中学時代のキャプテンだった。行ってきます。そう言い残して向けられた背中を今も覚えている。――あれが信頼だったと、どうして気付かなかったのだろう。
 五番、白鳥がバッターボックスへ。


「バッチ来い!」


 グラウンドから響くあの声が、信頼だったと、何故解らなかった。
 解り合えないと解っていて、それでもぶつかって来る小さな少年。
 打球が三遊間へ走る。匠が飛び付いた。派手にグラウンドに転がりながらも、グラブの中には確かに白球が収まっている。
 此処にいるぞ、と声を上げる。
 ツーアウト。六番、一之瀬。
 赤嶺は、声を上げた。


「頑張れ!」


 在り来りな声援。使い古された言葉。それでも、掛けるべき声は一つしか無かった。
 此処にいるぞ。信じているぞ。前だけ見ていろ。勝つぞ。声を振り絞り、体中の力を込めて、どうかそれが仲間に届けと祈るように。
 一之瀬がストレートを後方へ弾いた。ファール。
 ファール。ファール。食らい付く一之瀬に、自然と声援は多くなる。負けたくない。勝ちたい。縋るように手を伸ばして、その場所に立ちたいと願う。
 王者、政和賀川。彼等の勝利は絶対だった。負けは許されない。文字通り必死に食らい付く様を、固唾を呑んで浅賀は見守っている。まるで自分がバッターボックスに立っているようで現実感が無かった。
 ファール。気力との勝負だ。永遠にも思われるファールの連発に、思わず打者を応援したくなり、浅賀は口を開き掛けた。けれど、それを遮ったのは隣の青樹だった。


「絶対も永遠もこの世にはない。勝敗は必ず、訪れる」


 高音と共に打球が浮かび上がる。白球はマウンド、夏川の元へ、静かに落ちて行った。
 ゲームセット。審判の声が高らかに響き渡った。溢れんばかりの歓声と、割れんばかりの拍手が球場を包み込む。グラウンドから、聞き覚えのある雄叫びが轟いた。青樹は静かに目を閉じる。


――俺は自分の選んだ道を後悔なんてしていない


 エースに飛び付き、仲間にもみくちゃにされる小さな少年が、瞼の裏に鮮明に浮かび上がった。
 サイレンが鳴り響く。晴海高校、政和学園賀川高校が向き合うように整列している。両校、礼。ありがとうございました。青樹は拍手を送った。感謝と賞賛を込めた心からの拍手だった。




Monster(7)





 同時刻、神奈川県某所――。
 橘シニアチームの幹部が使用する集会場は、静まり返っていた。室内に篭る者の目は薄型の最新テレビ、そのディスプレイを凝視し動かない。真夏だというのに凍り付くような冷気が足元から立ち上っている。
 物音一つ立てることすら躊躇する静寂を、乾いた足音が破った。リノリウムを叩く革靴は草臥れているが、長い時間を掛けて摩耗し、維持されて来たことが解る。男の纏うグレーのスーツは糊が聞いていて、まるで下ろしたてのようだった。
 両開きの扉が、開け放たれる。びくりと肩を揺らした一同が一斉に振り返った。
 ディスプレイには、甲子園球場で行われた全国高等学校野球選手権の決勝が映っている。室内の静寂をそっちのけで盛り上がる画面中央に、一際小さな少年がいる。嘗てはこの強豪橘シニアで四番、キャプテンを務めた少年だった。くっきりとした二重瞼、透き通るような大きな瞳。喜びの涙に濡れるその目は、扉を開け放った男にそっくりだった。
 蜂谷和輝の父、蜂谷裕が、其処に立っている。


「お久しぶりです」


 丁寧な礼は、彼の息子がバッターボックスへ立つ様に酷似している。
 五児の父親で、五十代に差し掛かるとは思えない程、蜂谷裕は若々しい。それは同世代に見られない彼の息子によく似ている。一見すれば穏やかな優男で、裕は邪気の欠片も無いような綺麗な微笑みを浮かべている。
 裕は一同に等しく礼をすると、顔を上げた。


「約束を果たしに来ました」


 三年前、この場所で取引があった。
 彼の息子、蜂谷和輝が全国優勝を果たした時、橘シニアの幹部は一人残らず辞表を書き、監督とコーチを解任する。橘シニアに関する権利は全て蜂谷裕の元へ譲渡される。
 長年の横領の証拠を並べて提出した蜂谷裕に、反論できるものはいなかった。彼はそれを賭けと称し、負けた時には如何なる罰も受け入れると言った。
 そして、その結果が、ディスプレイの向こうに映っている。


「約束通り、皆様は橘シニアから撤退して頂きましょう」


 高級レストランのオーナーが自慢のフルコースを提示するように、蜂谷裕は高らかに言った。
 互いに目を配り合い、様子を探るばかりで反論は一つも出ない。沈黙すら心地良いと蜂谷裕は優雅に微笑んでいる。これは正式な取引で、書類も作られている。反論の余地等、初めから無かったのだ。
 それでも、長年に渡り甘い汁を啜って来た監督は声を荒らげた。


「ふざけるな、青二才が!」


 怒りを爆発させた監督の顔は紅潮し、酒精が漂う。机の上には缶ビールやつまみの類が並べられ、室内は嫌な臭いに満ちていた。裕の周囲だけが切り取られたように清浄だった。


「こんなものは無効だ! お前のような野球のやの字も知らぬ若造に、チームを渡す訳にはいかない!」


 侮蔑するように監督の男が吐き捨てる。その時、裕の後ろからは一つの足音が近付いていた。
 すっと背の高い壮年の男だ。健康的に日に焼け、鋭い目が刃の切っ先のように光っている。三年前もこの場所に訪れ、賭けの成立に立ち会っていた男だ。
 浅賀恭輔。北里工業のエース、浅賀達矢の父。伝説となった元プロ野球投手。その登場に監督は息を呑み、喉を震えさせた。
 浅賀は男の声を聞き、おかしくて堪らないと口角を釣り上げた。


「お前、甲子園出場経験があることを、売りにしとるらしいなあ」


 くつくつと喉を鳴らしながら、浅賀は言った。


「それなら、お前が今馬鹿にした男は、嘗て甲子園優勝したチームの元キャプテンやで」


 監督が、言葉を失った。
 敵のことも知らず、感情だけで言い返す男が酷く矮小で愚かに思えた。浅賀は笑うしかない。


「こいつが不満なら、俺が引き受けたってええんやで。取引は正当なものやし、汚職の弱み公表されたくないお前等に選択肢は無いんとちゃう?」


 なあ。浅賀の目が、猫のように細められた。
 その通りだ。蜂谷裕に漬け込むところは何もない。ケチを付ける余地も無い。だが、安寧の地をただで奪われる訳にはいかない。言葉を失った監督に代わり、コーチが声を上げた。


「あんた、頭おかしいんじゃないか! たかが子どものボールゲームだろう! 大の大人がのうのうと口を出して、恥ずかしくないのか!」


 裕の目が、すっと細められる。清浄な空気が、一瞬で凍り付く極寒に変わる。
 空気の変化に気付いただろう一同は身を竦ませるが、コーチはアルコールの為か気付かない。濁ったその目を真っ直ぐに見据え、裕は言った。


「大事な息子が人生懸けているのに、黙って見てる親が何処にいる!」


 才能の壁――。
 確かにそれは歴然と存在する。どう足掻いても越えられない、届かない途方も無く大きな壁だ。回り道を選ぶ者もいるだろう。それでも、乗り越えると抗うことを止めない和輝を、彼等は罵倒した。
 努力を踏み躙った。信頼を叩き壊した。意志をへし折ろうとした。子ども達が選ぶことのできた筈の未来を、汚い大人の打算で消し去ったのだ。大人が守らず、他の誰が守れるというのか。
 その迫力に言葉を失ったコーチが、後退し、無様に尻餅を付いた。裕は冷ややかに見下し、呼吸を整えるように小さく息を漏らした。


「……期限は三日間。それまでに身辺を綺麗に纏めて置いて下さい。間に合わなければ、僕は皆様の不正の証拠をマスコミに公表します」
「馬鹿な。そんなことをすれば、子ども達は」
「ご心配無く」


 裕は微笑んだ。


「三年前にも言ったでしょう。子ども達は、必ず守る。橘シニアは潰させない」


 それより、と裕は小首を傾げた。


「御自分の心配をなさったら如何でしょう。皆様を社会的に抹殺することくらい、僕には造作も無いのですから」


 一同が戦慄する様を、裕は無表情に見ていた。
 汚い大人だ。反吐が出る。保身の為に、他人を犠牲にすることも厭わない。其処に信念や意志は無く、ただ甘い蜜を吸いたいという薄汚れた欲望だけが横行している。無法地帯だ。
 それでも、其処には確かにあったのだと、息子が全身全霊で訴える。仲間だった。チームだった。過ごした日々は無意味ではなく、努力は無駄じゃなかった。そうして叫ぶから、裕はこの橘シニアを守ろうと決めたのだ。
 ディスプレイの向こう、蜂谷家の末息子、蜂谷和輝が仲間に囲まれ笑っている。
 現実は綺麗なことばかりじゃない。汚れ仕事も多いだろう。だが、今、お前の周りにあるものは間違いなく、自身の力で掴み取った、綺麗な宝物なんだよ。

2014.9.15