見覚えのある後姿に、思わず匠は声を掛けた。 振り返った少年は茫洋とした胡乱な瞳を向け、僅かに開いた口から掠れるような声を漏らした。制服と練習着姿しか見たことの無い少年の私服姿を新鮮と思いながら、少年の名前を思い出そうと脳内を掻き回す。けれど、匠がその名を呼ぶよりも早く少年は口元をほんの少し親しみを込めて歪めて言った。 「奇遇ですね、匠先輩」 この後輩の名前は何だっただろう。匠がそう考える程度には、目の前の少年に強い印象が残っていないということだ。ここ数日の入部騒動もあって忙しなかった日常とはいえ、たった三人の新入部員を覚えていないなど和輝に知られれば馬鹿にされる。 匠の内心の焦りなど知らぬ後輩は普段と変わらぬ穏やかな物腰で問い掛ける。 「怪我でもされたんですか?」 抑揚の無い口調の中に、此方を窺うような色が含まれている。 土曜日、昼下がりの大学病院。健康優良児である匠にはてんで無縁な場所だ。 「いや、俺じゃねーよ。和輝の付き添い」 「ああ、なるほど」 和輝の怪我は部内に留まらず周知の事実だ。定期的に検診の為、通院している。不定期な部活の休暇日は身体を休めるべきだが、こればかりは仕方が無いことだ。当の本人は今正に検診真っ最中である。 それじゃ、と少年が軽く会釈をする。向けられた成長期半ばの薄い背中が自動ドアの奥に消えて行く。其処で漸く、匠はその名を思い出した。 「空湖だ」 「――何が?」 零れた独り言を拾い上げたのは、切欠の一つである幼馴染だった。和輝はことり、と首を傾げて匠の見遣る出入口に目を向ける。けれど、賑わう大学病院の待合室は入院患者や見舞客等で溢れ返り、既に件の少年の後姿は何処にも見当たらなかった。 一頻り周囲を見渡して満足したらしい和輝が匠に目を戻す。 「知り合いでもいたか?」 「一年だよ。ほら、空湖っているだろ」 「ああ、来てたんだ」 誰にでも後ろ暗いことはある。それを体言するように和輝は彼の事情を追求しようとはしなかった。 後輩が病院に来るような事態なら追求したって誰も咎めはしないだろう。素っ気無く病院を抜け出そうとする和輝の後を追って匠は早足に待合室を離れた。 空湖はたった三名の新入部員のうちの一人だ。ポジションはセンターだと告げた通りその走力には目を見張るものがある。少数精鋭を貫きたい晴海高校野球部にとって願ったり叶ったりの人材だった。 リハビリは順調だと和輝が幾分か疲れた横顔で告げる。二年前は日常生活も含めて再起不能と診断されていたものをある程度正常に戻そうとするリハビリが相当困難であることは容易に想像つくが、右利きを左に転向した和輝を前にしてみれば、もっと頑張れと尻を蹴飛ばしても文句は出る筈も無い。弱音や泣き言を一切零さない和輝だが、今日は何時もに増して顔色が悪い。自分でなければ気付かないような機微を察して様子を窺うように小さな顔を覗き込めば、途端に不機嫌そうに眉を寄せられた。 ここ数日の奇妙な言動といい、本格的に体調でも悪いのかも知れない。そう思った匠は額に掌を当てようとして振り払われた。小突かれるとでも思ったらしい和輝の顔色は既に正常だった。 むすっとそっぽを向く和輝の機嫌が急降下して行くのが手に取るように解り、匠は内心溜息を吐きつつ話題を変えようと口を開いた。 「そういや、今年の一年さ」 「うん」 話題を変えたかったらしい和輝がすぐさま相槌を打つ。相変わらず解り易い男だ。匠が笑う。 「双子がいるだろ? えっと」 「鳴海、な」 呆れたように和輝が言った。 人の名前を憶えないのは大抵和輝の方だ。解ってるよ、と悪態吐きながら匠が言う。 「でっかい方だよ」 「孝助か」 「あいつ、中学じゃかなり有名だったみたいだな」 「ふうん。確かにガタイも運動神経も良いよな」 高校一年生にしては恵まれた体格を持つ後輩を思い浮かべながら和輝も頻りにうんうんと頷く。 体格に恵まれなかった天才の幼馴染を見遣り、匠は薄く笑う。何時まで経っても成長期の訪れない和輝は匠の思考を読み取ったらしく眉を跳ね上げた。 「俺は今充電中なんだよ。これから一気に伸びるんだ」 「はいはい」 「馬鹿にすんなよ? 俺は本当に」 「もういいから、さっさと帰ろうぜ」 和輝の言葉をさらりと受け流して先を歩き出すと、後ろから脹脛を軽く蹴られた。怪我を心配する必要も無いが、悪戯にしては力の籠った蹴りだった。 なんかさあ。 不意に和輝が言った。 「空湖って、正直得意じゃねーんだよな。なんつーか、同族嫌悪?」 「……俺に訊くなよ」 博愛主義のようでいて、意外に好き嫌いのはっきりとした幼馴染は何処か遠くを見ていた。 それきり、和輝は口を噤んだ。 ハンプティ・ダンプティ(2) 流血事件があった。 ここの所、何処かぼんやりしていた和輝は家庭科の調理実習で、有ろうことか指先に包丁を滑り込ませた。包丁も俎板も食材も血塗れにしたその惨事に調理室はパニック状態に陥った。刻んでいた豚肉が自身の血液に染まるのを他人事のように見詰める和輝の元に、教師と共に匠は救急隊員宜しく駆け寄った。 豚肉料理という課題を受けて豚カツを作る予定だったらしいが、最早実習どころではなかった。生徒の一人を職員室まで走らせる若い女教師は蒼褪め、動転しているのが手に取るように解った。だが、和輝は周囲の喧騒などBGMに過ぎないと言うように慣れた手付きで止血を始め、あっという間に簡単な応急処置をして笑って見せた。 駆け付けた教師陣と共に、和輝は大事を取って病院へ搬送されて行った。その対応が大袈裟だと訴える和輝の言葉はばっさりと切り捨てられ、調理室は響き渡ったチャイムによって落ち着きを取り戻し始めていた。 放課後の部活では、既に和輝の流血事件が知れ渡っていたらしく箕輪が苦笑交じりに練習開始の声を掛けていた。当然ながら、この場にいない和輝は今頃病院で手当てを受けて自宅療養だろう。負傷したのは右手だからと言って甘く見られては困る。最近、心此処に非ずといった調子の和輝には丁度良かっただろう。 外野へのノックを見渡しながら、匠は後輩の様子を窺っていく。 センター、空湖大地。レフト、鳴海宗助。ライト、鳴海孝助。 鏡のように揃って外野の双子は箕輪の馬鹿正直なノックを容易く捕球し、内野へ送り込んで行く。空湖の元に転がり落ちる意地の悪いボールも危なげなくフォローする孝助の守備範囲の広さに感心しながら、匠は先日病院で出会ったことを思い出していた。 五体満足でプレーする空湖に不調は感じられない。ただ、左右が期待の新人過ぎて浮いてしまっているように思う。双子に挟まれてさぞ居心地が悪いだろうと同情しつつも、箕輪が絶妙な位置にノックすれば思考は其処で終了だ。 基礎練習を一通り熟すと休憩が言い渡される。 キャプテン不在の今日は、副キャプテンの箕輪が主立って仕切らなければならない。けれど、少数とはいえ決して気負うことなく堂々と練習へ促していく箕輪に、昨年度の先輩は人を見る目があるなと思う。和輝が存在しなければ箕輪が部長だ。和輝さえ、いなければ。 「――匠先輩」 奇妙な方向に転落しそうな思考が、棒を差し込まれた歯車のように止まる。呼ばれた先に目を向ければ空湖が汗を拭きながら小走りに向って来ていた。 和輝程ではないが、彼も決して体格に恵まれた訳では無い。飛び抜けた才能がある訳でも無い。 「あの、和輝先輩、大丈夫なんですか?」 躊躇いがちに問い掛ける空湖の顔色は悪く、お前こそ大丈夫なのか、と問い掛けそうだった。 如何して、この野球部には痩せっぽちばっかりが集まるのだろう。 「ああ、大したこと無さそうだったよ。連れて行かれる時もぎゃあぎゃあ騒いでたし」 「そうですか……」 心底ほっとしたように胸を撫で下ろす様子に、匠は苦笑する。入部して一月も経っていないのに大した慕われようだなと、皮肉っぽく思う。 生憎、和輝は携帯電話を持っていないので連絡は取れないが、教師にでも確認すればすぐに解るだろう。 話はそれだけだろうと踵を返そうとしたところで、空湖が更に言った。 「和輝先輩って、去年すごい噂になった先輩ですよね」 当時中学生だった空湖が知る程に有名な噂を持つ生徒は、晴海高校に一人しかいないだろう。匠が曖昧に肯定すると空湖が口元に笑みを浮かべた。 「俺、実際に会うまで結構ビビッてたんです。でも、実物見て噂なんて馬鹿らしいと思いました」 「へえ?」 「言ったら悪いですけど、あの身長じゃないですか。それで暴力事件起こしたとか眉唾物ですよね」 いや、それは事実だけど。 匠は言葉を呑み込んで無理矢理笑った。まあ、一般的に考えたらそうだろう。 言いたいことはそれだけだ、と空湖は軽く会釈して歩いて行った。礼儀正しい可愛い後輩だ。和輝は同族嫌悪だなんて言ったけれど、そんなものは微塵も無い。あの嘘吐きで傲慢でめちゃくちゃな幼馴染とは大違いだ。 飼い主を待ち続ける忠犬ハチ公のような星原の背中を蹴飛ばして匠はグラウンドに走って行く。傍目にも解る程に元気の無い星原に、見えない垂れた耳と尻尾が見えるような気がして呆れた。 一日の静養を受けて部活に和輝が顔を出したのは翌日のことで、指先には大袈裟な程に包帯がぐるぐると巻き付けられていたが、本人は至って普通のようで平然とファインプレーで部活を歓声で沸かせていた。 大したこと無かったな、と軽口を叩こうとして失敗する。血塗れの和輝を見るのは二度目だった。二年前に和輝は自殺を図り、その手首を切り裂いた。それがまるでこびり付いた油汚れのように匠の心に残り、本人が平然としていても如何しても安楽には考えられなかった。 仮にもキャプテンを相手に、練習を休んで見学していろとは言えず、プレーする和輝を苦い思いで見詰める。練習中は天才の名を欲しいままにグラウンドを駆ける和輝だが、休憩になると張り詰めていた糸が切れてしまったかのようにだらりと地べたに座り込む。外見に見合わず化物のような体力を持つ和輝に限って練習に疲れているとは如何しても思えない。あの流血事件の時もそうだったが、ここの所やはり和輝は茫洋と遠くを見ている。 その視線の先が何なのかなど解らない。気遣う言葉など持たない匠にとって、気軽に相手を労われる箕輪はまるで天からの助けのようだった。 「如何した? 最近、やけにぼうっとしてるよな」 遠くを見ていた和輝が箕輪の声に振り返る。傍にいたことにすら気付かなかったらしい和輝は何時もの微笑みを浮かべて一蹴しようとするが、流石に三年目の付き合いになる仲間には通じないらしく、箕輪は口元に笑みを浮かべながらも引き下がる様子は無かった。 突き抜けるような晴天。桜も散り始めた四月の半ば。不慣れな新入部員に、自己犠牲主義のキャプテンのフォローまでしていたのでは箕輪が疲れてしまう。そんなことを考えながら匠は二人のやり取りを見守っていた。 「いや、ちょっと考え事してて」 「もしかして、あのことか?」 意味深な言葉を零した箕輪に、和輝が悪戯っぽく笑う。 何だ、あのことって。 解らない匠が不機嫌そうにしているのを見兼ねて、夏川が肩を叩いた。大したことじゃねーから。そう言って溜息を零す夏川もまた、事情を察しているらしく、疎外感を感じた。 「気にすんなよ。あれはしょうがなかったって。お前だけが悪い訳じゃねーし」 「いや、でも」 「いいから。終わったことは忘れようぜ」 屈託なく笑う箕輪は純粋そのもので、苦笑交じりに和輝が頷いた。 其処で話題は終了。勢いよく立ち上がった和輝が安っぽい腕時計を確認して練習再開を告げる。練習が始まれば何時もの和輝だ。 自分の知らないところで何かが起こって、終わろうとしているらしい。隣の夏川を見遣れば立ち上がってグラウンドへ向かうところで、その話題にはもう触れようともしなかった。 結局、何が起こったのかも解らないまま、匠は普段の強豪校に引けと取らない練習を熟し、重い足取りで帰路を辿ることとなった。 月明かりだけが頼りとなる山道を、重荷を背負って歩くのは自殺行為だ。けれど、晴海高校野球部の足腰の強さはこの登山が鍵とも言える。最後尾を荷物の乗った自転車で押し歩く一年を見遣るが疲れ切っているようで言葉は何一つ交わされていなかった。 以前は全国でも名を馳せる栃木の私立エトワス学院の野球部であった匠ですら、この山道には苦戦を強いられた。一年の頃から通っていたという和輝、箕輪、夏川の平然とした顔に驚かされたくらいだ。中学を卒業したばかりの一年には酷だとは感じるが、慣れるより道は無い。この登山に音を上げて退部した新入部員も数多い。 さり気無く先頭を歩く三年組から抜けて最後尾に回ると、息も絶え絶えに自転車を押す空湖の隣に並んだ。 「……大丈夫か?」 「きつい、です」 今にも倒れそうに顔面を蒼白にする空湖の代わりに、自転車を支えてやろうかと思ったが、それこそ彼の為にならない。誰もが通る道だと心を鬼にしてそれとなくペースダウンしてやる。ゴール地点が見えた頃には幾分か顔色の良くなった空湖が安堵の息を漏らした。 漸く現れた人工の外灯に酷く安心する。オレンジ色の光が乾いたアスファルトを照らすが、往来には人っ子一人いなかった。 先頭集団の姿は既に見えなかった。一年の為にペースダウンしてやるような甘っちょろい考えの人間は此処にいない。そういう意味では、晴海高校は志高く実に遣り易いチームだった。 荒い呼吸を整えながら、掠れそうな声で空湖が口を開いた。 「匠先輩は、」 「あん?」 「和輝先輩の、幼馴染でしたっけ」 「あー……」 幼馴染には違いない。親友で戦友でライバルだ。ある種歪んだこの関係は最早腐れ縁と呼ぶのが相応しいのかも知れない。 匠が答えずにいるのも構わず、空湖は更に続けた。 「俺にも、幼馴染がいるんです」 「へえ」 「つっても、女なんですけどね」 「俺にも女の幼馴染いるよ」 脳裏に北城奈々を思い浮かべながら匠も言った。空湖が興味深げに相槌を打つ。 「どんな人ですか?」 「あー、そうだな。負けず嫌いで、男勝りで、我儘で、トラブルメーカーで……」 奈々を貶めるつもりは無い。全ては事実だ。奈々の引き起こす数々のトラブルに和輝共々幾度と無く巻き込まれて来た。 匠の話がまるで在りもしない美しい空想であるかのように、瞳を輝かせて空湖が頻りに頷く。こいつ、こんな顔もするんだな。普段の感情の殆ど現れないポーカーフェイスに少しばかり驚きながら匠は話を続けた。 「でも、素直で、純粋な奴だ。誤解され易いけど、悪い奴じゃない」 「……匠先輩は、その人のことが好きですか?」 「まあ、嫌いじゃないな。同い年だけど妹みたいなもんか」 「俺も、好きです」 空湖が指す人物が誰なのか解らず一瞬焦るが、それが彼の幼馴染だと悟り安心する。如何して安心したのかは解らない。 「俺の幼馴染、土屋そら。生まれた時からずっと一緒で、器用貧乏な奴だったから貧乏籤を引き易かった」 それはどちらかと言うと、和輝に近い。匠は自分の二人の幼馴染を思い浮かべる。 空湖は真っ直ぐ前を見据えていた。重荷を載せているとは思えない程、自転車は揺らぐことなく進んで行く。その先に告げられる言葉が何と無く予想出来るような気がして、匠は思考した。 恋の悩みという奴だろうか。和輝程でないにしろ、それなりにモテて来た匠にも恋愛経験の一つや二つはあるし、多少のアドバイス位出来るだろうと思考を巡らせば、空湖の凍り付くような目とかち合った。 「もうすぐ死ぬんです」 言葉を失った。否、息すら出来なかった。 それでも空湖の足取りは止まらず、数歩遅れた匠を何でもないような微笑みで急かす。 こいつ、今、何て。 「癌です。悪性の腫瘍が全身に転移してもう助からないと、余命一か月を、先月告げられました」 返す言葉が無い。如何にか鉛のように重い足を動かして空湖の隣に並ぶ。 「匠先輩には、幼馴染がいますよね。とても大切な、何者にも代え難い幼馴染が二人」 匠先輩なら、如何しますか? 何を答えれば正解なのだろう。この少年は何を求めているのだろう。口を閉ざす匠に、空湖は悪戯っぽく小首を傾げて笑った。それは酷く作り物めいていた。 「……変なこと言って、すみません。忘れて下さい」 先を歩き出した空湖は振り返らない。 少しずつ離れて行く後姿を呆然と見詰めながら辿る帰路は酷く長い道程に思えた。夜の闇が脳にまで染み込んで来るようで、思考が黒く塗り潰されて行く。 その中で浮かび上がる一つの光景。豪雪に襲われた二年前の冬。フローリングを染めた鮮血の中に横たわる幼馴染の姿。 匠先輩なら、如何しますか? 空湖の声が、何処かから響いて来る。 |
2012.11.17