毎週、土曜の午後は定休日だ。
 鍛える絶好のチャンスにも限らず休日に定休日を置くのは晴海高校の伝統らしく、創設当時から変わっていないらしい。それを幸いと和輝は今日もせっせと大学病院に通ってはそれまでの遅れを取り戻すようにリハビリに勤しんでいる。志の高い野球部がその伝統を変えようとしないのは、和輝への配慮という点があるのだろう。彼等も大概過保護だと思いながら、匠は副キャプテンとエースの顔を思い浮かべた。
 リハビリ中の和輝を待ちながら病院内をうろついていると、何の因果かまた、彼に出会った。


「あれ、匠先輩」


 奇遇ですねえ、なんて覚えのある台詞を吐きながら空湖が笑った。両手一杯に美しい花を抱える様はシュールだが、何故だか様になっている。それは彼の抱える事情を少なからず知ってしまったせいだろう。
 空湖の出て来た病室の奥には、手元の文庫本に視線を落とす少女がいた。如何やら個室らしい。彼女が件の土屋そら、なのだろう。挨拶でもするべきかと一瞬逡巡するが、扉が素早く空湖によって閉ざされた。


「今日も和輝先輩の付き添いですか?」
「まあな」
「和輝先輩のことも、負けん気の強い女の人のことも、大切にしてあげて下さいね」


 部活での姿が嘘のように表情豊かに話す空湖に他意は無いのだろう。屈託無い笑みは和輝を彷彿とさせた。
 言われなくても。言葉にはせず胸の内で呟く。其処まで非道にはなれなかった。
 一瞬だけ見えた少女の顔色は決して良いとは言えず、紙のように真っ白な相貌はけれど酷く美しかった。奈々も大概可愛らしい容姿をしているけれど、抜け目無い猫のような性格は如何しても女の汚い部分を思わせる。あんな女を受け入れられる人間がいるとしたらただ一人だけだろう。リハビリ中の幼馴染を思い浮かべて匠は溜息を密かに逃がした。
 空湖と別れて再び待合室に戻れば、待ち草臥れたと文句を垂れる和輝の姿があった。手の中に収まる紙パックのオレンジジュースは既に空になっているようで几帳面に畳み込まれていた。
 空湖のことを、話そうかと思った。
 少なくとも、人の心の機微に置いて自分は和輝に敵わない。不特定多数から向けられる勝手な期待に、当たり前のように応えて来た男だ。後輩のこととなれば駆けずり回って、自分では思い付かないだろう見事な方法で事態を丸く収める筈だ。そう思わせるだけの力が、彼にはあると匠は思う。
 けれど、同時に、ここ数日の茫洋とした和輝を思い出す。まるで何かに縛られているかのような、白昼夢でも見ているかのような横顔は見ていてぞっとする。
 これ以上、こいつに何も背負わせたくない。
 空湖が打ち明けたのは自分で、和輝ではない。他言することこそ空湖への裏切りだ。匠は言い掛けた言葉を呑み込んでリハビリの経過を問うた。


「順調に決まってんだろー。夏には右腕も復活させてやるよ」


 二年前に巻き込まれた傷害事件で和輝は右肩と右腕に再起不能の重傷を負った。日常生活すら困難だった和輝は野球が好きだという理由だけで、死にもの狂いでリハビリをして左に転向したのだ。その情熱を欠片でも勉学に向ければ赤点と追試塗れになることもないだろうに、と呆れつつ思う。
 一年前は左に転向しつつも、長時間のプレーは怪我に影響し苦痛に呻いていた。試合中幾度と無くその部位に氷嚢を押し付けて、掛ける言葉も無く背を撫でて来たのは自分だ。そうして漸く、和輝は奇跡とも呼ぶべき回復力で右腕でまたプレーしようとしている。怪我は完治しない。それはもう解り切っていることだ。和輝はきっと、最後になるこの一年に全てを掛ける為に一人闘っているのだろう。
 左投げであるにも関わらず三塁手を張っているのは、自分との連携が他の追随を許さない程に精練されているからだろう。呼吸するように相手の思考が解る。背中を向けながらトスされたボールを見ずに送球出来る。生まれてからずっと一緒だった自分達が育んで来た絆だ。そう簡単に譲れるものでもない。
 とはいえ、左投げで三塁手ということは余分なステップを踏まなければならない。流れるようなステップには一切の無駄が無いけれど、それまでの和輝に比べれば遅い。そのコンマ数秒が試合に大きく影響して行くのだから、必死にリハビリを繰り返して右投げに戻ろうとする気持ちは痛い程に解る。ただ、オーバーワークは目に見えていた。


「あんまり無茶すんなよ」


 先程の空湖の言葉が今も脳裏に響いている。
 和輝は鳩が豆鉄砲喰らったような顔で、少しばかり首を傾げた。張り合いが無い、つまらないと態度が言っている。
 そして、和輝は口を尖らせながら不満げに零した。


「無茶くらいするよ」


 普段の和輝ならば決して発しないような低い声のトーンで、まるで此方を侮蔑するように吐き捨てる。それは張り合いの無い自分への意趣返しなのだろうと容易に想像が付いた。和輝は自分の懐に抱え込んだ人間に対しては過保護ながら扱いはぞんざいだ。
 相手が匠だから、と言うような冷たい口調は既に慣れっこだった。今更、そんなことで腹を立てたりしない。でも、まるで無茶するのが当たり前だと言うような傲慢な態度に神経がささくれ立つ。
 怪我も不調も辛さも苦しさも望んで背負ったものだろう。後悔なんてしない。でも、こいつは何も解っていない。和輝が苦しんだ分だけ苦しむ人間がいて、打ちのめされる程に悲しくなる人間がいることに何時までも気付かない。
 それでいいのかも、知れない。ヒーローとは得てしてそういうものだ。特撮ヒーローだって戦闘の折に負った怪我をピックアップすることはない。次回には全て完治している。必要なのは結果だけだ。
 じゃあ、俺達の心配は必要無いものなのか?
 苛立ちが表に現れたようで空気がぴりぴりと肌を刺した。苛立ったのは自分か、和輝か。
 鋭い視線を向ければ、鏡のように返される。
 此処で感情のままに怒鳴っても、切々と説き伏せても意味は無い。大きく溜息を吐いて意識を切り替えようとすると、それを呆れと取った和輝が眉を寄せた。


「何だよ」


 依然として低い声は此方を挑発しているようだ。


「何でもねーよ。いいからさっさと帰ろうぜ」
「言いたいことあるなら、言えよな」
「突っ掛って来るなよ。俺はただ、心配してるだけだよ」
「お前は俺の保護者か」


 その言葉で漸く、和輝の怒りの訳を理解する。
 こいつはその容姿から、生まれから、謂れの無い庇護を受け易い。それはただの心配だけでなく、お前には無理だろうという決め付けと幅広い。
 別に保護対象として見てる訳じゃねーよ。そう言おうとして、口を噤んだ。和輝はまるで何でもないことのように、さらりと言った。


「人が怪我すりゃ真っ青になって駆け付けて来るし、そんなに俺は頼りねーかよ」


 それは、違う。否定の言葉をすぐに繋げる程、如何やら自分は冷静ではなかったらしい。
 お前は、解らない。二年前、お前が自殺しようとした時の俺の、俺達の気持ちを。謂れの無い中傷を受けても尚、弱音一つ、泣き言一つ零してくれなかった周囲の無力感を、欠片も解っていない。だから、簡単にそんなことが言えるんだ。


「頼りないとか、そんな問題じゃねーんだよ。ただ、信用ねーんだよ」
「はあ? どういう意味だよ」
「そのまんまだろ」


 元来人懐こく丸くて大きな目は、鋭く此方を睨んでいる。けれど、此方とて訂正する気も無い。事実だ。
 こいつはかなり無鉄砲だ。――何時、死ぬかも解らない。
 体中を悪寒にも似た冷たい風が吹き抜ける。今にも殴り掛かって来そうに激昂する和輝だが、握られた拳が振り上げられることはないだろう。自分の為に暴力を振るうことは、無い。
 和輝は忌々しげに舌打ちすると、吐き捨てるように鼻を鳴らして背を向けた。何時になっても一辺倒で解り易い幼馴染だ。この怒りも暫くすれば忘れて跡形も無く消え失せるだろう。忘れた後は結局、此方だけがもやもやして終わる。

 だが、珍しく翌日になっても怒りが引かなかったらしい和輝は当て付けのように視線すら合わさなかった。表面上は普段の態を装っているのが一層性質が悪い。
 ただ、解る人には解るようで、練習開始前の念入りな柔軟の際、適度に体重を載せつつ上体を押す箕輪が背後で耳打ちするように問い掛けた。


「和輝のこと、怒らせたのか?」


 怒らせた、という問い掛けは、言い換えれば原因はお前だろうと言っているようなものだ。相変わらず、周囲には温厚篤実な完璧人間と思われ易い。お前等が思う以上に、和輝は短気だぞ。そう思いつつ、口には出さなかった。
 沈黙を肯定と取った箕輪が溜息混じりに言った。


「何したか知らねーけど、早いとこ仲直りしろよな。失くしてからじゃ、遅いんだから」


 他意は無いだろうぽつりと零された言葉が、不意に空湖の声と重なった。
 うるさい。余計なお世話だ。


「あいつは死なねーよ。つか、死なせねぇ」


 思わぬ箕輪が返答に困ったのが、手に取るように解った。けれど、訂正する余裕等無かった。




ハンプティ・ダンプティ(3)




 同じだと、匠は思った。
 一年前、否、二年前。自分は同じ光景を見た覚えがある。それは掛け替えの無い大切な幼馴染が押し潰されそうになっていたあの頃に酷似していた。
 目の下の深い隈も、扱けた頬も、覚束無い足取りも全部全部、覚えている。
 今にも倒れそうな空湖が部活に顔を出した月曜日、匠は言葉を失った。そんな顔色で一日よくも過ごして来たものだと呆れを越えて感心してしまう。それでも崩れないポーカーフェイスは最早、鉄面皮と同意語だった。
 数秒の沈黙。そして、如何にか絞り出した伺いの言葉に、空湖はまるで子どもみたいに表情をくしゃりと歪めた。


「――そらが、目を覚まさないんです」


 嗚呼、と妙に凪いだ気持ちでその言葉を受け止めた。終にその日が来てしまったのか。
 空湖の抱える事情をただ一人知る者として、大粒の涙を零し続ける彼を宥める自分は、周囲にはさぞ滑稽に映ったに違いない。何しろ、自分はストイックで取っつき難い和輝の保護者だと認識されていた。
 蹲って咽び泣く空湖は、縋る者を持たない子どものようだった。もう、自力で立ち上がることも出来ないくらいに疲弊し切って、その僅かに残ったエネルギーを涙として流して行く。
 それが数秒だったのか、数分だったのか、それとも数時間だったのかは解らない。一頻り泣くと空湖は頬に涙を貼り付けたまま、人形のような虚ろな目で、囁くように呟いた。


「最後に目を開けてからもう二日、昏々と眠り続けています」


 その言葉で漸く、自分の考え付いた結論が杞憂であったと知る。彼の幼馴染はまだ、いなくなってはいない。
 空湖の話ではそのまま昏睡状態が続き、二度と目を覚ますことは無いと医師から診断されたとのことだ。生命維持装置を外すか否かも家族の判断に委ねられ、平たく言えば手の打ちようも無く匙を投げたも同然だった。最後の瞬間まで生きていて欲しいという家族の希望から、今は如何にか命を繋いでいる状況で、それでも長くは持たないとのことだ。
 そんな後輩に何が言えるのかなんて、まだ十七年しか生きていない人生の酸いも甘いも知らない青二才の自分には思い付かなかった。ただただ咽び泣く後輩の背中を摩るのが精一杯だった。こんな時、きっと和輝なら上手いことこと口が回るのだろう。姿の見えない幼馴染を思って視線を巡らせば、グラウンドのホームポジションからじっと此方を見詰める瞳とかち合った。和輝は何も言わなかった。
 結局、抜け殻のような空湖の状況を察して練習は中断された。和輝は特に気の利いた言葉を掛けることも状況を尋ねることもなく空湖を帰宅させ、すぐに何事も無かったかのように練習再開を促した。
 帰り道、結局一日中一言も口を利かなかった和輝の隣に並んだ。部内は空湖を心配する声で溢れていたけれど、和輝はそれに積極的に関わろうとはしなかった。お節介の世話焼きが如何したのかと箕輪は訝しげに見ていたけれど、自分には和輝がいっそ胡散臭いくらいに努めて明るく振る舞っているように感じられた。


「なあ、空湖――」
「匠」


 今日最初の第一声は、相手の出方を窺う自分の声に被せられた。和輝はそれに遠慮することなく、自分勝手に話し続けた。


「明日から一週間、練習休むから」
「――は?」


 唐突な申し出に一瞬耳を疑う。こいつ、何言ってんだ。
 お前がキャプテンだろう。勝手なこと言うな。空湖が大変なのに。また箕輪に負担掛けるつもりか。矢口早に零れた叱責の言葉を、柳に風といった調子でさらりと受け流すと、和輝は話は終わりだと言うようにむっつりと黙り込んでしまった。
 神様の依怙贔屓とばかりに整った横顔を外灯が橙色に照らし出す。幾ら詰め寄っても理由を話すつもりも、考えを改める気も無いだろう頑固な横顔に溜息を逃がした。
 翌日からの練習に、宣言通り和輝は現れなかった。部活は何処か活気が無い。箕輪の喝が飛び交っている。一方で空湖はゾンビのように練習に参加している。完全に心此処に非ずの空湖は素人のようなミスを連発しては鳴海兄弟にフォローされ、叱るに叱れない箕輪が眉を寄せて溜息を零す。それがこのまま一週間続くのかと思うと、自分も休んでしまいたくなる。こうなると悪循環だ。悪い流れを断ち切ってくれるだろう存在は来週まで現れないだろう。
 このままじゃチームが瓦解しちまうと懸念した頃、和輝への不信感がピークに達していた。相変わらず和輝は現れず、空湖はゾンビのまま、彼女は目覚めない。悪夢でも見ているかのようだ。箕輪の疲労は確実に蓄積されている。

 お飾りのキャプテンなら、いらねぇ。

 不意に零れた不満に、箕輪が心底驚いたように目を丸くした。何を驚いているんだと、そんな些細なことにも苛立って無言で睨めば箕輪は意にも介さず言った。


「お前、本当に何も聞いてねぇの?」


 何を。そう言い募ろうとすると箕輪が何かを悟ったように頻りに頷いた。


「ああ、お前等喧嘩中だったっけ」
「……うるせぇな」
「大人になれよ。仕方ないことだろ?」
「はあ?」


 妙なことを言い始めた箕輪がへらりと笑う。


「あいつだって不本意だって。お前だってあいつの性格くらい解ってんだろ?」
「お前、何の話をしてんの?」
「えっ?」


 漸く食い違いに気付いたらしい箕輪が口を噤んだ。
 ごめん、あのことかと思った。苦笑交じりに後頭部を掻いた箕輪の指す事柄が、以前二人で話していた意味深な内容だと気付く。何なんだよ、あのことって。
 あいつのことなら何だって解る。どんな嘘や誤魔化しも見破る自信があった。けれど、そんなものはただの傲慢で、あいつも他人も結局は目に見えないものは解らないのだ。
 そうして俺達は互いを過大評価した末に、決別してしまったのでは無かっただろうか。その離れていた僅かな期間に和輝は地獄のような世界に嵌って、――自ら死のうとさえした。
 失くしてからじゃ遅いんだぞ。何時か箕輪が言った言葉。
 失くさないなんて、言い切れるだろうか。

 日の落ちた空に星が瞬き、流れる。
 ジンクス。不吉な、言い伝え。

2012.11.18