「そらも、野球してたんですよ」


 ぽつりと、空湖が言った。
 和輝が練習に現れなくなって五日間が経過し、空湖はいよいよ摂食障害と睡眠障害を起こして倒れてしまった。流石に練習をさせる訳にもいかず、放課後真っ直ぐ様子を見に保健室へ行くと空湖はベッドの上で死んだように目を閉じていた。
 気配を察して目を開いた空湖は相変わらず紙のような白い面に、幽霊のような深い隈と、乞食のような扱けた頬だった。力の無い声で名を呼び、困ったように笑う。そんな余裕がある筈も無いのに。
 そういう無駄な気遣いは和輝そっくりだな、と思う。
 如何見ても大丈夫ではない空湖に問い掛ける声は空中に霧散し、居た堪れない沈黙の中で空湖が零したのは、目を覚ますことの無い幼馴染との思い出だった。


「リトルリーグで、投手をしていました。女だから男に比べれば力は無いけど、それでもあいつは努力で得た切れのある変化球で何人もの打者を打ち取って来ました」


 何か相槌を打とうとするが、言葉は声にならなかった。空湖はまるで罪を告白する贖罪者のようで、此方の様子を窺いはしない。
 独白。それがきっと、最も近しい表現だった。


「あいつがマウンドに立つことが、俺の誇りでした。強打者を前にしても怯まないで、劣勢にも笑って見せる。不当な評価を実力で覆して皆に認められて……」


 贔屓目に見ても、いい投手だったんだろう。匠は朧げにしか思い出せない少女の横顔を思い浮かべる。


「女の癖に、俺が怪我すれば真っ先に飛んで来て、自分も顧みず喧嘩して……。ガサツで男勝りで、でも、誰よりも優しくて……」


 ぼんやりと遠くを見る空湖の目から涙が一つ零れた。
 どれ程泣けば涙は涸れるのだろう。胸を裂くような悲哀に満ちた独白だった。


「俺は、あいつの傍にいたかった……。いてやりたかった……」


 それはたった十五歳の少年が受けるには過ぎた悲劇だ。その喪失感を抱えて、如何すればいいと言うのか。


「喧嘩もしました。口喧嘩も、取っ組み合いの喧嘩も……。小学校の頃は引き分けることが多くなって、中学で男女の違いを知って俺が手加減するようになったのに気付いて、あいつは癇癪起こしたみたいな金切声で詰って来たりしました」


 空湖が微笑む。


「俺がほっぺたにでっかい蚯蚓腫れを作っても、親は苦笑いで、俺も不思議と怒りは沸いて来ませんでした。それまで遠慮無く何でも言い合えていたのに、急に距離を置かれたら、そりゃ怒るよなぁって」


 その言葉で、和輝との言い争いを思い出す。
 互いのことを唯一無二の親友として認め合っていたのに、自分は和輝に信用出来ないと言った。
 そりゃ、怒るよなぁ。空湖の言葉を反芻した。其処で黙って呑み込まなくなっただけ、和輝にしては大きな進歩だったのに、俺はそれを受け止めるどころか否定してしまった。
 そんなに頼りねーかよ。和輝は言っていた。頼って欲しかったんだな、と冷静に思う。もしかしたら、和輝は自分が空湖の事情を知って抱え込んでいることに気付いていたのかも知れない。
 守って欲しくない、見縊って欲しくない。和輝の精一杯の願いだった。


「とうとう変化球でも打者を躱し切れなくなるくらい男女の差が顕著になって、あいつはチームを辞めました。俺は部活に入って、あいつは独りで時々壁に向かって投げる程度になりました。……何で俺、あの時、あいつの前に座ってやれなかったんだろう……」


 また一つ、空湖の瞳から涙が零れた。


「如何して大切なものって、失くしてから気付くんでしょうか」


 失くしてからじゃ、遅いんだから――。
 箕輪の声がフラッシュバックした瞬間、保健室に据え付けられた電話がけたたましい電子音を響かせた。




ハンプティ・ダンプティ(4)





 転がり込むようにして辿り付いた病室では、彼女の両親らしき壮年の男女が互いを支え合うようにして啜り泣いていた。部屋の中央に置かれた白いベッドには人間だったものが横たわっている。沈黙を守る証としてその面は白い布で覆われている。

 全てが終わった後だった。

 病室の前で茫然と立ち尽くす空湖は両腕をだらりとぶら下げ、匠は苦虫を噛み潰したような顔をする。
 だが、医師の影に隠れるようにして椅子に凭れ掛かっていたのは見覚えのある後姿で。


「――和輝?」


 練習に来ないお飾りキャプテン。
 五日間の詳細不明の欠席者が、まるで当然のように椅子に座っている。和輝はその場に見合わない酷く鋭い眼差しで空湖を振り返るとその名を呼んだ。
 何で此処にいるんだ、何してたんだ、とか。訊きたいことは山程あったが、それを許さない和輝の何時に無い真剣な空気に圧倒される。


「お前のこと、待ってたんだぞ」


 招かれるようにして傍に寄った空湖の目は隠された彼女を見詰めている。匠は追い掛けるように、引き寄せられるように親友の元に行く。椅子に座る和輝は何かを強く握り締めていた。
 ずっとずっと、待ってたんだぞ。
 何処か責めるような口ぶりで、和輝は何かを握る腕を持ち上げた。その掌にあったのは、泥のこびり付いた軟球だった。
 医師が、看護師が足早に立ち去って行く。啜り泣いていた母親が崩れ落ちるように膝を突き、病室には慟哭が響き渡った。
 和輝は空湖から逸らした目を眠りに着いた彼女に向け、ぽつりと言った。


「本当は、直接渡させてやりたかったよ」


 持ち上げた掌を空湖の前に突き出す。


「この子から、お前に。――最後の、キャッチボール」


 和輝の声が、聞いたことも無い少女の声に重なった。彼女の声を聞いたことがある筈も無いのに、如何してかそれが幻聴だとは思えなかった。
 空湖は渡されたボールを受け止め、呆然と見詰める。


「最後の、キャッチボール……」
「そうだ。お前が逃げて隠れて現れないから」


 その言葉で漸く、和輝の欠席の理由を知る。授業が終わってすぐに病院に向かって、彼女の傍にいたのだろう。見知らずの、少女の傍に。
 一歩、空湖が足を踏み出す。震える指先が彼女の面を覆い隠す布を払った。まるでただ眠っているかのような穏やかな顔はそれまでの苦しみを微塵も感じさせない。空湖が彼女を呼ぶ。けれど、返事は無い。――未来永劫、無いだろう。
 彼女の顔を見て、驚いた。それは春先に自分達が出会った、中年男性に絡まれていたところを助け出したあの少女だった。今にも泣き出しそうな瞳で、震える指先でスカートを握り締めていた少女。溢れそうな涙が零れ落ちないように、魔法を掛けるように和輝は彼女に「泣かないで」と囁いた。あの、少女だった。
 和輝は空になった掌をぶらりと下げて目を伏せた。


「一週間。一週間待っても来なかったら、引き摺ってでも連れて来ようと思ってた」


 現実と向き合えない程の痛みを、知っている。それでも、嘗ては和輝も目覚めることの無いと言われた高槻の病室へ何度も足を運んだ。ただ、あの頃の高槻は彼女のような明確なタイムリミットが存在しなかった。
 だからこそ、空湖の逃避を許した。


「こんなことなら、ぶん殴ってでも連れて来れば良かった……」


 間に合わなかったのは、誰なのか。
 咽び泣く母親と連れ立って父親が病室を後にする。和輝に何か声を掛けて行ったが、匠には聞き取れなかった。
 和輝は目を閉ざした彼女の髪を梳いた。


「よくやったね。お疲れ様。……もう頑張らなくて、いいんだよ」


 たった一日を生き抜く為に掛けた情熱を、努力を忘れてはいけない。自分達が死にたいと願う今日は、生きられなかった彼女が願う明日だったのだ。


「遺す方と遺される方、どちらが辛いかなんて俺には解んねえけど」


 独白のように吐き捨てた和輝がくるりと向き直る。透き通るような真っ直ぐな瞳に何が見えているのか匠には解らない。


「最期の瞬間まで、前を見て生きようとしたこの子は最高に格好良かったよ」


 それは嘗て自ら死を選ぼうとした和輝自身に返るものだった。出口の見えない暗闇の中を歩き続けた末、自ら足を止めて進むことを諦めようとした和輝。全てを諦めて逃避と復讐を選んだ水崎亜矢。終焉を前にそれでも足掻き続けた一人の少女は、和輝自身と救えなかったあの少女を重ね合わせる。
 この世は冷静な天国で、祝福された地獄だ。因果応報、結果は必ず自身に返って来る。
 迷いの無い眼差しで、絞り出すような掠れた声で、和輝は確かに問い掛ける。


「なあ、空湖。前が見えてるか?」


 ジンクス。四葉のクローバー。覆水盆に返らず。
 それまで和輝が口にして来た意味不明な話題の意味を漸く理解する。全てはただ一つの糸によって繋がれ紡がれていく。意味の無いことなど何一つ無いのだと訴え掛けるような和輝の数々の問い掛けを思い出して苦く思う。


「どんなに辛くても、見失ったらいけないんだ。たった一度の人生だから、前を見て生きていくしかないんだよ」


 それは果たして誰に向けた言葉なのか。
 匠には、それが和輝自身に言い聞かせているように聞こえた。
 ベッドの傍まで歩み寄った空湖が、もう二度と開かれることの無い少女の掌を握って口を開く。動かないそれは何処か人形のようで、現実と幻想を綯交ぜにしたまま警告する。
 開かれた口から零れ落ちたのは後悔とも悲哀とも憤怒とも付かない噛み殺された嗚咽だった。
 形を成さない音の中で、確かに空湖は目の前の少女を呼んでいるのに、その目は開かれることも彼を映すことも無い。死ぬ、というのはそういうことだ。全てが一方的に終わる。逃避した先に残るものは何も無い。


「そら……」


 止め処無い涙を頬に貼り付けながら、空湖が一度、その名を呼んだ。当然、返事は無い。
 顔を上げろ。和輝が言った。


「死んだら何も残らないなんて言うけど、お前には残ってるだろ。……残して、くれたんだろ」


 空湖の掌に収まるただ一つのボール。
 最期のキャッチボール。相手の顔を見ずに、顔を上げずにキャッチボールなんて出来ない。それはきっと、汚れた軟球に残した彼女からのただ一つのメッセージ。


「顔を上げろ」


 己を叱咤する和輝の声は、二度聞くことの叶わない少女のものに酷似していた。
 崩れ落ちるように膝を突いた空湖の慟哭が、身を切り裂くような絶叫が響き渡っていた。




大地、一緒にキャッチボールしよう?

何で手加減なんてするの!
相棒じゃなかったの!?

不器用だけど優しくて、大人しいのに気の強い大地が好きだよ

独りじゃ野球出来ないよ
だから、一緒に行こう?

大地が一緒にいてくれて、本当に良かった


顔を上げて








「ひでー面見せてんな」


 病院からの帰り道、既に周囲は闇に包まれている。冷えた夜風が撫でる腕を擦りながら、侮蔑するように和輝が嗤う。昔はこんな風に嗤う奴じゃなかったのに、と思いながら鼻を鳴らす。
 自分よりも頭一つ分小さい和輝は横目に見上げながら口角を釣り上げる。
 ああ、そういえば喧嘩中だったな。ぼんやりと思い出すが、今ではもう何もかも如何でも良い。未だに不遜な態度と棘のある言葉を隠しもしない和輝をガキっぽいと思うが、その執念深さに驚く。昔から和輝は物事を後に引かない。つまり、この態度の意味は、自分に対する不満の表れだ。
 気持ちを落ち着けるように一つ息を零し、改めて和輝を見遣るが視線は合わなかった。


「誰のせいだと思ってんだ。……何で、あの子のこと、黙ってた」
「そりゃ、空湖から相談受けてたお前に言ったら、間違いなく空湖引っ張って来るだろ」


 それの何がいけないのか匠には解らない。黙っていた結果、空湖は最期の瞬間に話をするどころか顔を合わせることも出来なかった。
 和輝は呆れたように溜息を吐いた。まるで此方の思考を読んだかのようだ。だから、お前は駄目なんだ。声にしない言葉が確かに突き刺さる。


「あの状態の空湖を連れて来て、何か変わるか?」
「……何が如何なるかなんて、当事者じゃない俺達には解んねーだろ」
「解るよ」


 遠くに視線を投げながら、和輝が言った。確信を持ったその言葉の根拠が何と無く、解るような気がする。
 空湖大地と土屋そら。それはまるで鏡を見ているかのようで、相似形のようで。
 誰よりも何よりも、自分達にそっくりだった。


「空湖のこと、同族嫌悪って言ってたのはそういう意味か?」
「それはただ単に、あいつが嘘吐きだったからだよ」
「嘘?」
「その内、解るさ」


 意味深に笑い、和輝は歩調を緩めた。何かを惜しむかのような足取りは、既に散り終えた桜花を探しているかのようだった。舞い落ちる桜花を掴んだ末、和輝は何を願うのだろう。匠には解らない。
 和輝が言った。


「俺が匠の立場だったら、間違いなく空湖をあの子のところに引き摺ってでも連れて行ったけどな」
「何だよ、結局」


 喉を鳴らして嗤う和輝の真意は読めない。そうして悟れないことを快く思わないと知っている和輝は、殊更丁寧に説明するように言葉を続けた。


「俺なら空湖をぶん殴って、腑抜けた面を洗わせて、あの子のところに行って土下座させたよ」
「お前らしいな……」


 空湖は以前、和輝の起こした暴力事件を眉唾物だと言ったけれど、意外とこいつは手が早い。


「じゃあ、何でそうしなかった」


 責めるような物言いで訴えれば、和輝は欠片も気にならないというようにからりと笑う。


「だって、俺に手を伸ばしたのはあの子だった」


 あの子とはきっと、土屋そらのことだ。
 それまでの穏やかさを置き去りに、和輝が凍り付くような冷たい目で言う。


「全てを救えるとは思ってない。だから、伸ばされた手は絶対に離さないし、見失わない。必ず、救って見せる」


 それが昨年の事件を通して学んだことだった。自分の選択を疑わない自信が瞳に光として宿る。
 ただ、僅かに俯いた和輝の横顔に差す陰りを今更見落とすような浅い関係では無い。匠は舌打ち交じりに吐き捨てた。


「だったら、気負うんじゃねーぞ」


 その言葉に和輝は一瞬ぎくりとしたようだったけれど、すぐに曖昧に笑って見せた。
 土屋そらの手を掴む為に、空湖の思いを置き去りにした。自身が選んだ選択によって潰えた可能性も、彼等の願いも全て背負う覚悟で其処にいた和輝の心中を悟る。数日前の喧嘩を思い返し、苦く思う。
 あれは、上辺だけの喧嘩だ。全部の事情を知った上で、中途半端に関わった自分が何も背負うことが無いように蚊帳の外へ追い出す為の芝居。結局、何処までも和輝の掌の上だ。


「大事な仲間を背負く覚悟無く、キャプテンなんてやってねーよ」


 けろりと返した和輝が悪戯っぽく舌を出して笑った。

 翌日、グラウンドには昨日までの虚ろな姿が嘘のような空湖が現れた。
 たった一晩で何かを吹っ切ったらしい空湖の目は何処までも真っ直ぐで、如何しても其処にキャプテンの面影を重ね合わせてしまう。崩れた体調も徐々に回復することだろう。
 同様に部活に復帰した和輝を責める者が誰もいないことに疑問を覚えつつ、匠はグラウンドへ走り出そうとする星原を捕まえた。首根っこを掴まれた星原が蛙の潰れるような声を上げるが気にせずに声を潜める。


「和輝の無断欠席、疑問に思わないのか?」
「いや、無断っていうか周知の事実でしょ!」


 笑い混じりに星原が言う。


「何のことだ?」
「いやいや、学校中が知ってることですよ」


 流血事件のことかと思いを巡らせるが、和輝は翌日も平然と練習していた。考えを否定すると星原が笑った。


「和輝先輩らしーですよね。クラスメイト庇って課題塗れなんて」
「課題?」
「え、マジに知らないんすか」


 此方の言葉を疑うように星原が目を丸める。


「流血騒動の次の日ですよ。持ち物検査があったでしょ。和輝先輩のクラスは教室の端の席から順番に鞄と机の中身を机の上に並べさせられたらしいんですけどね、その時、偶々和輝先輩の前の席の女の子が机の中に好きな人から貰ったっていうお菓子入れてたらしいんですよ」


 既に守備位置に付き終えた仲間を見回しながら、星原は話し続ける。


「お菓子の持ち込みなんて校則違反で没収じゃないですか。好きな人から貰ったお菓子で罰則なんて笑えませんよね。和輝先輩、その女の子の恋愛相談受けてて事情を知ってたらしくて……」


 何と無く察しが付いて軽く相槌を打つ。庇ったのだろうな、と予想した結果は外れてはいなかったのだが、その手段が余りにも馬鹿げていた。


「机の中に突っ込んであったエロ本、床にぶちまけたらしいんすよ」
「――はあ?」


 数瞬前までは美談にでもなりそうだったのに。思わず声を荒げた匠に、星原は相変わらずからからと何処か嬉しそうに笑う。


「しかも、そのエロ本って箕輪先輩のだったらしいです。結局、大量のエロ本にクラスが騒然となって持ち物検査は強制終了。エロ本は没収されて、罰として課題が山積みってことです」


 数日前、箕輪と和輝が話していたことを思い返す。終わったことは仕方ない。気にするな。あれは――、エロ本のことか!
 続け様に夏川が大したことじゃねーから、と言ったことも思い出す。確かに、大したことじゃないけれど。しょうもないことだけど!
 そして、和輝が自分に黙っていた理由は恐らく、いや、絶対――課題のせいだ。自分が烈火の如く怒り狂うことを予測して黙っていたに違いない。山積みということは相当な量だった筈。部員はその騒動を知っていたが為に、課題に追われて部活に参加出来ないのだと踏んだらしい。実際は課題どころではなかったのだけど。
 つまり、課題は手付かずのままで。


「おーい、匠と千明! さっさと守備位置に」
「和輝ィィイイイイイィィイイ!!」


 キャプテンの声を遮った怒声に肩を跳ねさせたのは恐らく全員だった。
 練習を中断してグラウンドにキャプテンを正座させて怒涛の勢いで説教を続けた。それ以降、飄々として掴み所の無い完璧人間だと認識されているらしい和輝が、何の変哲もない一般生徒である自分に頭が上がらない理由を誰もが理解することとなる。
 練習前に思わぬところで体力を消費したらしい和輝が屍のように歩いて行く。項垂れた顔は見えず、少し言い過ぎたかと反省する。和輝はだらりと下げていた腕を上げて、傍にいた空湖を手招く。疑問符を浮かべた空湖が駆け寄れば、やはりヘロヘロのままで和輝が力無く言った。


「暫く、夏川のキャッチしてくれ」
「えっ」


 僅かに顔を上げた和輝が、心底面倒臭そうに吐き捨てる。


「え、じゃねーよ。お前、捕手だろーが」
「いや、俺は……」


 言い淀む空湖に、畳み掛けるように和輝が言う。


「プレー見てりゃすぐ解るよ。お前が嘘を吐いていたのも、隠し事してたのも」


 それは彼の幼馴染である土屋そらに聞いたことではないのだろう。全て、和輝自身が気付き考え理解したことだ。人間嘘発見器と呼ばれる和輝の前で隠し事をするのは無意味だった。
 其処で漸く和輝は普段の穏やかな笑みを浮かべて言った。


「ずっとキャッチやれとは言わねーよ。事情は考慮してやる。ただ、まあ、うちのエースのボールが受けれないなら言語道断というか、切り捨て御免というか」


 言いたいことは解るが、その言葉の選択は間違っている。訂正するべきだろうかと様子を窺っていると、空湖が顔を上げて和輝を真っ直ぐに見詰め返した。


「やります。いや、やらせて下さい。……何時までも逃げてたら、あいつに笑われてしまいますから」


 口元に僅かに笑みを浮かべ、空湖は夏川の元へ駆けて行く。
 秘密主義者の和輝が空湖を同族嫌悪と称した意味を理解し、匠は溜息を吐いた。結局、何処までも全部、和輝の掌の上だったということだ。
 それでも憎めないのは彼の人柄か、腐れ縁か。
 どっちでもいいか、と半ば投槍に思いつつ、想像を絶する課題の消化方法を考えることにした。

2012.11.23