週末に続く祝日を加えた連休を機に、晴海高校は今年度初めてとなる合宿を強行した。出不精な顧問、轟が大分渋ったが、昨年の成績と合宿所が静かで仕事が捗り、且つ喫煙可である旨を伝え殆ど無理矢理了承させた。捲し立てるようにつらつらと言葉を並べる我らがキャプテンの豪い剣幕に下級生は驚かされたようだが、目的の為にはある意味手段を択ばない和輝の一面を知っている俺達には予想通りの結果だった。
 満足そうにガッツポーズをした和輝に飛付いた箕輪の気持ちも解らなくはない。
 そして、合宿当日の早朝。まだ空が暗い中で無事全員集合した晴海高校野球部員は、各々欠伸を噛み殺しながら重い荷物を抱えていた。マイクロバスを背後に皆を纏めるキャプテンは睡眠不足を引き摺っているような寝惚け眼に隈を刻み、それでも背筋をぴんと伸ばした元来の姿勢の良さを保って口を開いた。
 東の空が僅かに白んでいる。合宿中は全国的に快晴が続き、正に練習日和だった。我らが晴れ男、蜂谷和輝が伸びやかなボーイソプラノで話し始める。


「……じゃあ、各自、荷物運んで」


 喉が開いていないらしい掠れた不機嫌そうな声で、和輝が言った。強豪校らしい合宿に向けての意気込みくらいは語ると思っただろう下級生の期待外れな視線をばっさりと切り捨てた和輝が早々に背中を向ける。
 バスの側面に設置された収納部位に、運転手が次々に用具や各自の荷物を運び入れる。殆どの部員は朝練以上の早起きに口数が少なく、未だ半分寝ているような状態だった。ロボットのように無言でバスに乗り込んで行く姿はまるでベルトコンベアーに載せられているようだ。全員の搭乗を確認する筈の和輝は先頭で乗り込んだので、当たり前のように副キャプテンの箕輪が点呼している。それはキャプテンの仕事だろ、と文句を言いたかったが、生憎、当の本人はバスの再前席で既に惰眠を貪っていた。
 全員の搭乗確認後、静かにエンジンが掛かる。早朝の死んだように眠る街中をバスが走り出す。惰眠を貪るキャプテンの横で箕輪が点呼完了のメンバー表を畳んで鞄に入れていた。
 添乗員不在の上、部内を取り仕切る筈のキャプテンが爆睡中の為、車内は静まり返っていた。
 県外に向かうバスは渋滞に巻き込まれることなく順調に走行する。昼前になるとサービスエリアに停車し、各自持参の昼食を青々とした芝生の上で輪になって取ることとなっている。賑わう土産物屋を横目に、食事開始の音頭を取ることなく弁当を広げる和輝の後頭部を叩く。午前中、バスの中とはいえ全て箕輪に丸投げなのだから、こんな時くらい仕事をしろ。和輝は此方を不満げに見ると勢いよく両手を叩いた。乾いた音が周囲に木霊する静かな空気の中で、非常に神妙な顔付で和輝が言った。


「いただきます!」


 追い掛ける復唱。皆が勢いよく昼食を広げた。
 午前中の睡眠が利いたらしく、皆は淀みなく手を動かしながら仲間同士の会話に盛り上がっていた。これから向かう合宿所は首都圏ながら田舎と称するに相応しい山奥だ。周囲にはコンビニ一つ無い為、各々菓子など持ち込んでいる。そもそも、昨年までと異なるその合宿所をどういう伝手で確保したのか誰も知らない。ただ、練習に支障を来さない広いグラウンドと静かな環境は事前に知らされていた。蓮見がインターネットで場所を調べれば確かに練習には持って来いだったというので一応安心はしている。
 低身長に見合わない重箱のような弁当をあっさりと平らげた和輝は未だに大きな欠伸を噛み殺し、ペットボトルのお茶を煽っていた。部員の誰よりも眠たそうなその様に呆れながら、疑問に思う。
 此方がじと目で見ていたことに気付いたらしい和輝が、後頭部を掻きながら弁解した。


「昨日、合宿の打ち合わせで寝るのが遅くなっちまったんだよ」
「打ち合わせ?」
「そうそう。お蔭で睡眠時間が随分と削られたぜ」


 打ち合わせというのだから、顧問か箕輪だろう。検討を付けて頷くが、生憎どちらも眠たそうな様子は無い。
 目を細める此方の疑問に今更気付いたらしく、和輝は目を丸くして言った。


「あれ? 合同合宿だって、言わなかったっけ?」


 如何してこいつは、そういう重大事項を簡単に忘れるのだろう。
 誰もが初耳だろう情報に言葉を失う。けれど、和輝はからからと笑いながら言った。


「悪い悪い、言ってなかったな。この二泊三日の合宿、他校と一緒だから。最終日には練習試合も組み込んでる」


 痛い程の静寂も堪えていないらしい和輝は明るく言う。
 皆と同様、初耳だったらしい箕輪が問い掛けた。


「合同って、何処と?」
「武蔵商業」


 さらりと答えた和輝に悪びれる様子は微塵も無い。
 武蔵商業は同県の強豪校だ。昨年は夏大での予選、準決勝で衝突し、辛くも勝利を収めることの出来た好敵手と呼ぶに相応しい相手だ。けれど、それ以上に武蔵商業とは因縁があった。


「向こうの蝶名林皐月ってのが、俺の中学時代のチームメイトなんだよ。その伝手で、合同合宿の誘いが出来たんだ」


 感謝しろよ、と微笑む和輝の真意は解らない。否、何も解っていないのかも知れない。
 蝶名林皐月は、自分にとっても因縁深い相手だ。和輝の嘗てのチームメイトということは自分の元チームメイトでもある。そして、二年の星原千明も同様だ。
 浅からぬ相手であることを察したらしい下級生や箕輪が眉を寄せる。昨年、死闘を繰り広げた相手に不信感が強い醍醐は不機嫌そうに口を尖らせるけれど、我らがキャプテンは何処吹く風で弁当をバンダナで包んでいる。
 昨年の夏大会の準決勝、トーナメントで衝突した武蔵商業。勝利の為には手段を択ばない蝶名林皐月によって醍醐は戦線離脱することとなった。試合は辛くも勝利を収めたけれど、晴海ナインに彼、延いては武蔵商業への不信感は根深く残っている筈だ。
 それでも、和輝は全て気付かないように微笑む。毒気が抜かれたような面々は呆れ混じりに肩を落としていた。


「良い合宿にしような」


 何の陰りも無く笑う和輝に反論する者はいない。そうさせるだけの信頼を和輝は築いている。
 最早、抗うだけ無駄だ。覚悟を決めて溜息を零せば、和輝は悪戯っぽく笑っていた。




風見鶏(1)





 それはまるで突風のように。


「――和輝!」


 待ち続けた飼い主を見付けた忠犬のように、その姿を視認した途端に勢いよく跳び付いて来た元チームメイトに辟易する。高校入学を経て忠誠心を増したような蝶名林皐月は和輝に頬擦りしそうな程の至近距離で何かを捲し立てている。その状況に、呆気に取られる周囲の人間など御構い無しの皐月は和輝だけを見ている。否、和輝以外は目に映らないのだろう。
 どうどう、と往なしながら和輝が苦笑する。
 まるでそれ以外の言葉を失ってしまったかのように和輝の名前を連呼する皐月。和輝に諌められて漸く僅かに落ち着いたようだ。


「長旅、お疲れさん」


 素っ気無くそれだけ告げた皐月の視線はすぐに和輝に戻った。
 蝶名林皐月は、所謂和輝信者だ。和輝以外の全てを否定し、拒絶する。特に、俺に対する拒絶は類を見ない。嫌悪以上の憎悪、憎悪以上の殺意。それを感じながら距離を取る俺を否定する人間はいないだろう。尤も、皐月は此方に興味等無いように目もくれない。後輩である星原に対しても殆ど同様なのだから、彼の中での和輝がどれだけ特別な位置に在しているのかが解る。
 皐月のチームメイトが出迎えてくれるのも気付かぬように和輝に話し掛け続ける皐月に、周囲は見えているのだろうか。苦笑交じりに応答する和輝を見て、その寝不足の理由を察した。打ち合わせではなく、恐らくきっと皐月の長電話に突き合わされたのだろう。
 不意に和輝が此方に目を向けた。


「じゃ、さっさと荷物運び込むぞ」


 今日はきついぞー、と微笑む和輝の背後に黒い何かが見えた気がした。気のせいだと、思いたい。
 合宿所は中々に年季の入った、雰囲気のある木造建築物だった。裸電球に軋む廊下の床板。薄暗い汲み取り式の便所に台所の大きな竈。時代錯誤の建物に息を呑む部員など知らぬ和輝は暢気に、雰囲気あるなー、なんて笑っている。
 荷物の整理もそこそこに、徒歩三分の距離にあるグラウンドに集合を掛けられた。
 大所帯の武蔵商業に比べて、マネージャーも含めて十一名しかいない晴海高校が向けられる大勢の好奇の目に晒されるのは当然のことだった。
 武蔵商業の監督とキャプテンに穏やかな挨拶をする和輝は人好きのする笑みを浮かべている。昨年惜敗を喫した相手に対してギラギラと好戦的な目を向ける相手に笑みを浮かべる和輝は鈍感なのか大物なのか解らない。武蔵商業野球部キャプテン山城が、整列する皆の前に立って挨拶をする。


「今回は晴海高校との合同合宿で――」


 此方が眠くなってしまうような挨拶を長々と告げた山城は真面目な顔で言う。
 大して内容がある訳でも無い。ただ、キャッチャーを務めるだけあって縦にも横にも幅のある体格に感心する。圧倒的に細身の選手が殆どである晴海高校にはいない選手でもある。
 そうして感心している内に、晴海高校の代表として和輝が挨拶の為に前に出る。
 道行く人が思わず振り返ってしまうような整った顔立ちと、老若男女問わず好かれるような美しい微笑みを浮かべた小さな選手に武蔵商業が息を呑んだのが解った。一見すれば体格に恵まれない華奢な和輝を見遣る目は様々だが、昨年の試合の立役者だと知る面々はじっとその様子を窺っているようだった。
 和輝は言った。


「共に野球に携わる者として、実りある合宿にしよう」


 使い古された簡潔な言葉にも関わらず、晴海高校も武蔵商業もぴしりと空気が閉まる。
 和輝はこういう人間だ。常に先頭に立って人を率いて、導く存在。がらりと変わった空気に武蔵商業の監督が苦笑交じりに練習へ促した。
 二泊三日の練習は主に、武蔵商業の練習メニューに従うこととなっている。強豪として、古豪として名を馳せる武蔵商業のメニューは一言で言って地獄だ。
 積み重なる筋トレメニューに不慣れな晴海ナインは早々に音を上げた。特に下級生程、メニューを消化出来ずに倒れて行く。少人数である晴海高校の練習メニューに筋トレは殆ど含まれていない。基本的にはゲーム形式の柔軟性を向上させるものだ。それでも毎日の山登り、ファルクトレが利いているようで、倒れながらも皆が如何にかメニューを消化した。
 疲労に顔色の悪い面々の中。和輝だけが眉一つ動かさずにメニューを消化して予定の確認をしている。体力が無尽蔵なキャプテンと比べてはいけない。
 大きく溜息を吐きながら、ハードな基礎練習に鉛のように体が重くなる。傍で千明が言った。


「相変わらずっスね」


 それが何を指すのか、千明の視線の先を見て納得する。相変わらず、飼い犬のように皐月が和輝に纏わり付いている。
 凡人でしかなかった皐月の、常人離れした走塁技術に才能を見出したのは和輝だ。そして、皐月が才能への絶望の末に野球を辞めようとした時に、引き留めて前へ導いたのも和輝だ。仲間を勝つ為の道具としか見ていない皐月が唯一認め受け入れる和輝。それはきっと、神への崇拝に近い。
 絶え間無く続けられる筋トレメニューは一種の拷問のようだった。腹筋、背筋、スクワット、バービーの筋トレサーキットには慣れている筈の武蔵商業の面々も音を上げる。だが、その中、先頭グループで早々にメニューを終わらせたのはやはり、小さな二人組だった。
 和輝と皐月が汗を拭いながら地面に座り込んでいる。互いに顔を見合わせ苦笑交じりの様は、正に苦楽を共にして来たチームメイトのようだった。事実、彼等は互いを信頼し合うチームメイトだった。今は旧友としての絆をまた築き上げている。
 自分のメニューを如何にか消化し、屍のように地面に突っ伏していると、不意に和輝が立ち上がったのが見えた。まだメニュー中の箕輪に声を掛けると離れて行く。練習内容の打ち合わせだろう。武蔵商業の監督、キャプテンと書面を見つつ何か話している。
 残された皐月に、垂れた子犬の耳と尻尾が見えるようだ。そんな皐月に歩み寄る一人の少年。


「よう、何不貞腐れてんだ?」
「うるせー。だって、和輝が行っちまったんだよ」


 子どものように不満を零す皐月に、少年がへらりと笑う。


「皐月は本当に蜂谷君好きだなー」
「好きだよ」


 至極真面目な目で返す皐月が、何気ないように此方へ視線を向けた。絶対零度の鋭い視線が突き刺さるけれど、皐月はすぐに興味が無いように目を背けた。
 背中を向けて打ち合わせを続ける和輝の背中に、立ち上がった皐月が寄り掛かる。和輝は僅かに驚いたように目を丸めたけれど、さして気にもせず話を続けていた。
 中学を卒業して二年以上経つというのに、皐月の和輝への執着には何か異常性を感じる。
 恐ろしいな、と思いつつ彼等の様子を窺っていると隣から声を掛けられた。


「なあなあ」


 武蔵商業の名前も知らない野球部員が声を潜めて言う。


「皐月って、昔からあんな感じなの?」
「あー、まあ、そうだったかも」


 曖昧に返すと、少年がふうんと頷く。


「あいつ、普段から蜂谷君の話ばっかりしてんだよ。あ、俺は北原隆吾な」


 同い年だぜ、と子どもっぽく笑う様は好感が持てる。
 白崎匠。簡潔に名乗れば北原が復唱して笑う。


「学校もチームも違うのに、ちょっとソッチの趣味疑っちまうよな」
「うーん。でも、皐月がそんなに和輝に拘り始めたのって、高校に入ってからかも」
「そうなのか。でも、元々皐月と蜂谷君って学校違ったんだろ?」


 そういえば、そうだったな。思い返して納得する。
 違う中学で、学校終わりの夕暮れや休日の練習でしか顔を合せなかったチームメイト。才能の差に絶望を感じて野球を辞めようとした皐月を、和輝が繋ぎ止めて導いたとは聞いていたけれど、如何してそれを今も引き摺るのだろう。俺には解らない。
 和輝に纏わり付く皐月を横目に、唸りながら考え込む。


「おーい、隆吾!」


 北原を呼ぶのは、先程、皐月と談笑していた、意思の強そうな太い眉が印象的な少年だ。
 親しげに肩を組む北原はまるで中年の絡み酒だが、相手はさして気にする様子も無い。


「皐月ってさぁ、何時も蜂谷君の話ばっかりしてるよなー」
「まあ、しょっちゅう会いに行ってるしな」
「そうなのか?」


 思わず問い掛けると、北原が答えた。


「最低でも週一で会いに行ってるみたいだぜ。あいつもモテんのに、そんなんだから彼女出来ねーんだよ」
「彼女出来た皐月とか、想像も出来ねーわ。むしろ、蜂谷君と付き合うって言われた方が現実的だよな!」


 軽口を叩き合う武蔵商業の会話に入ろうとは思わないが、元チームメイトのせいで大切な幼馴染に有らぬ噂が立てられては堪らない。何か反論すべきだろうかと逡巡していると、さらりと少年が言った。


「皐月にとって蜂谷君は、神様みたいなもんだったんだろ?」


 神様。
 その言葉に得体の知れない恐怖が悪寒となって体中を駆け巡る。知らず身震いすれば、目聡く気付いた少年が真意の知れない笑顔を此方に向ける。
 元チームメイトとは言え、同い年の少年に向ける言葉だろうか。


「あ、俺は設楽雅義。副キャプテンなんだ」


 それまでの穏やかな雰囲気のまま設楽が微笑む。
 此方を見る北原の目が、設楽の目が、それまでと違って見えるのは気のせいなのか。
 神様。

 そういえば、和輝と皐月の関係性を、自分達は殆ど知らないと、今更になって気付いた。

2012.12.15