笹森エイジは携帯電話のディスプレイをじっと見詰めている。電源の落ちた電話の向こうで確かに聞いた親友の言葉を思い返し、口元は自然と弧を描いていた。
 賭けは、勝った。
 ただそれだけの報告だ。この場にいない蜂谷裕と浅賀恭輔のしたり顔を思い浮かべる。
 テレビには、熱気溢れる甲子園球場が映っている。既に球場を後にしただろう面々も、間も無く帰って来る筈だ。大部屋の隅には荷物が纏められ、中央には机を囲み、彼等の関係者が興奮冷めやらぬ様子で頬を紅潮させていた。
 玄関の扉の開く音がする。磨かれた床を軋ませ、一人の青年がやって来る。笹森は、青年を見ると軽く手を上げた。


「久しぶりやねえ、祐輝」


 蜂谷和輝の兄、祐輝だった。祐輝は作り物のような綺麗な面を上げ、笹森の姿を認めると、小さく会釈した。現役のプロ野球選手で、多忙を極める筈の彼も、弟の活躍にいてもたってもいられなかったのだろう。僅かに息を弾ませ、挨拶もそこそこに居間へ足を踏み入れた。
 祐輝と同い年の幼馴染である浩太と涼也が、諸手を挙げて歓迎する。能面のような無表情も俄かに綻び、気の知れた相手に何処か安心したように見える。
 有名人の登場に驚きの声も上がるが、祐輝は気にせず部屋の奥で壁に凭れ掛かる青年に目を向けた。
 退屈そうな仏頂面で、高槻智也が腕を組んで胡座を掻いている。


「……球場、行かなかったんだな」


 祐輝が、言った。高槻は皮肉っぽく鼻で笑う。


「行ったよ。OB全員で応援しに行ったさ。今さっき、帰って来たところだ」


 言われてみれば、確かに彼等の頬は赤く火照っている。興奮だけではなく、日焼けしているようだ。
 行かない訳も無いよな、と祐輝も釣られるように笑い、畳に腰を下ろす。慣れた動作で涼也が冷えた麦茶を出してくれた。
 男ばかりのむさ苦しい部屋は、相変わらず賑やかだった。当然だろう。彼等の後輩が、全国一に上り詰めたのだ。一度は廃部寸前で、世間から痛烈なバッシングを受け続けた。それでも、優勝という栄冠を勝ち取った。それを誇らず、先輩等と名乗れないだろう。
 祐輝は部屋を見渡し、胸の中が温かい何かで満たされるような気がした。才能を妬む先輩も、努力を踏み躙る指導者も、信頼を蹴り落とす仲間も此処にはいない。厳しくも温かく、純粋に仲間を受け入れる。そういう環境が、弟を守ってくれた。


「和輝が、晴海高校のこのチームにいて、良かった」


 兄として、心からそう思う。
 ぽつりと呟いた祐輝に、高槻は笑った。




Funny Bunny(1)






 大騒ぎで帰って来た晴海高校野球部を手厚く出迎え、宿では簡単な祝いの席が設けられた。
 日が傾く頃には騒ぎ疲れたのか、試合後の純粋な疲労か畳の上で眠ってしまった。雑魚寝する彼等を見守る目は温かく、浩太が甲斐甲斐しくブランケットを掛けて回る。
 その中で、体力等微塵も残っていない筈の三年生四人組だけが起きて縁側に座っている。
 見詰める先、中庭は夕陽が差し込み赤く染まっている。鹿威しの涼やかな音を聞きながら、和輝が隣の匠へ目を向けた。猫のような目に夕陽が映り、きらきらと輝いて見えた。
 今は遠い故郷に流れる律見川のせせらぎを思い出す。和輝は言った。


「中学を卒業する時、賭けをしたんだ」


 匠は視線だけを向け、言葉の先を促す。


「橘シニアにいた頃、俺は監督やコーチの方針にどうしても納得できなかった。才能の壁は確かに存在するけれど、それが全てだとは思えなかった。結果の無い努力も、自分自身が認めれば意味がある。競い合うってことは、仲間を蹴落とすことじゃない。――俺達は確かに仲間で、努力は無駄じゃなくて、あの日々は無意味なんかじゃないって、証明したかった」


 負けたくなかった。その頃の和輝にあったのは、それだけだった。
 才能とか努力とか、幼稚で青臭いと思う。けれど、彼は譲れなかったのだ。個人の価値観を、他人に否定する権利はない。匠は口を開いた。


「それで、優勝したから、証明できたのかよ」


 和輝は少しだけ、笑った。
 勝たなければ意味が無いという大人の考え方を崩す為に、勝ち進む道を選んだ。それは不毛なのかも知れない。結局は大人の作り上げた箱庭の中から、自分は脱出できていないのかも知れない。大人の掌で弄ばれただけかも知れない。
 けれど、それでも。


「解んねー。でも」


 和輝は振り返り、畳に寝転ぶ後輩達を見遣った。
 醍醐、蓮見、星原、空湖、孝助、宗助。そして、隣に並ぶ匠、箕輪、夏川。


「此処にあるものが、全てだと思う」


 三年間。人生を構成する青春時代の三年間を懸けて作り上げて来た仲間の存在が、全ての答えだ。誰に否定されても、笑われても、認められなくても、今更揺らぐことも無い。そういう確かなものが此処にある。
 それでいい。それがいい。――今なら、自分自身にそう言って誇れる。


「ずっと、迷っていたんだ」


 和輝は言った。


「此処にいることは正しいのか。間違ってはいないか。誰かを傷付けてはいないか。伸ばされる手を見逃してはいないか。生きていても、許されるのか」


 匠は黙っている。その問いが、ずっと和輝自身を否定して来た。
 誰でもいい。誰か助けてくれ。その願いを口にすることは無く、ずっと堪え続けて来た。苦しかっただろう。辛かっただろう。死にたかっただろう。けれど、此処まで生きて来た。
 なあ、匠。
 泣き出しそうな顔で、和輝が絞り出すように言った。


「俺、此処にいて良かったんだよな」


 匠は、笑った。


「知らねーよ。でも、お前が此処にいて、俺は良かったよ」


 存在の肯定。生存の証明。ただ其処にいるだけで、価値がある。
 生き方に正解や不正解があるのかは解らない。もしも採点があるのなら、それは誰がするのだろう。神様がいるのなら、どういう意味を持って生かしたのだろう。そんなこと、誰にも解らない。
 目の前すら見えない暗闇を歩く中で、自分の存在すら曖昧になる世界で、道標を無くして生きることは難しい。何を信じたらいいのかも解らない現実で、確実なものを何一つ持たなかった和輝が縋るように選んだ道を誰が否定できる?
 匠の脳裏に、トラウマが蘇る。凍えるような極寒の冬、自宅で自身の手首を切った和輝。血塗れになったリビングを今も覚えている。きっと、永遠に忘れることはない。限界だった和輝が、衝動的に逃避を選んだことは、誰にも否定できない。それでも、匠は和輝に生きていて欲しかった。此処にいて欲しかった。
 ただ、それだけで良かった。


「お前が生きていて、良かったよ……!」


 堪え切れず、匠の目から大粒の涙が溢れた。
 膝を抱え、匠は目を伏せた。指先が震え、心臓が拍動する。もしも、あの日、和輝が死んでいたら?
 この場所に和輝がいなかった可能性を、匠は思う。あの日、あの瞬間、和輝は死んでいたかも知れない。そう考えるだけで恐怖で体中が震える。生命の危機に等しい恐怖を匠は感じていた。
 存在証明というものがあるなら、匠にとって、和輝こそがそうだった。
 和輝が生きているということが、匠の生きる意味だった。


「良かった……!」


 掠れるように絞り出した匠の声を、和輝が静かに聞き入れる。
 縁側に並んだ幼馴染の肩を、和輝は強く抱き寄せた。逆の立場だったなら、自分は彼を支えられただろうか。


「匠」


 和輝は目を閉じた。ぽつりと、涙が溢れた。
 ずっと一緒だった。道を分かったこともあったけれど、其処にいると信じていた。そういう存在を永遠に失う恐怖を、自分は想像することしかできない。


「ごめんな。……ありがとう」


 うるせえ。見るな。悪態吐く匠を、和輝がただ抱き寄せる。自分よりも大きな肩を、しっかりと掴む。ずっと側にいた、たった一人の親友。
 帰れる場所。助けを求める先。逃避を許される存在。この世は冷静な天国で、祝福された地獄だ。現実以上の世界は無い。冷徹で、残酷で、醜悪で、不条理で、――けれど、光は必ず、ある。
 猫のような丸い目が、和輝をじっと見詰めた。大きな瞳から零れ落ちた透明な涙が、宝石のように煌めいている。何時か、こんな風に肩を抱き寄せて泣いたな、なんて匠は笑った。

2013.9.28