橘シニアの監督やコーチ及び経営陣が一斉に退いたと、風の噂に聞いた。
 和輝は鱗雲の浮かぶ空を眺めている。甲子園球場のある兵庫県より帰還し、離れていたのは僅かな間にも関わらず故郷に懐かしさを覚えた。夏の大会が終わり、和輝等三年は惜しまれながらも引退した。夏休みも残すところ数日となり、同級生は受験へ向けて勉強に勤しんでいる。
 手元にはコピー用紙がある。高校三年生、進路調査票だ。三年前は中学生で、自分は晴海高校への進学を決める為に随分と苦労した。昨日のことのように思い出せるのに、既に次のステージが用意されている。選ぶのか、選ばれるのか。和輝は空を仰ぎ、息を逃がした。
 橘シニアチームの運営には、御杖コーポレーションという大手外資系企業が全面的にバックアップしている。監督及びコーチには、今や伝説となりつつある元プロ野球選手の浅賀恭輔が就任した。御杖コーポレーションの会長である御杖拓海、浅賀恭輔は共に父の友人だ。橘シニアに何が起こったのか、訊かずとも察することができる。首をすげ替えるような一連の騒動には十中八九、父、裕が絡んでいるのだろう。今更、訊く気も無いし、父も答えはしないだろう。
 自宅は静かだった。小さな庭を眺めながら、居間で騒ぐテレビの音を聞き流している。甲子園での熱闘を未だに報道し続けているのは、夏川や赤嶺、浅賀がプロ入りが確定したからだ。匠にもどうやらスカウトが来ているらしいが、沈黙を守っている。一方で和輝には野球とは無縁なテレビコマーシャルへの出演依頼が数件来ていた。これ以上、マスコミの暇潰しに利用されたくない。和輝は一切を断っている。
 進学か、就職か。そして、その場所は何処なのか。白紙の進路調査票が早く記せと訴え掛けているようだ。和輝の偏差値は正直、底辺もいいところだ。卒業も危ぶまれている。
 首をぐるりと回せば、関節が乾いた音を立てた。疲労は既に癒えた筈なのに、気力が沸かない。これが燃え尽き症候群かと自嘲する。幼い頃から夢見た甲子園。そして、優勝。目的を果たした今、自分に何が残るのだろう。首を傾げながら和輝は唸る。
 右手を見詰める。肉刺が潰れ硬くなった掌は歪だった。


(何が)


 何が残るのだろう?
 和輝には解らない。確かに胸の中は充足感が溢れている。けれど、目指す先が無いことは苦しい。夜の海で、灯台無く出航することは自殺行為だ。
 此処は夜の海ではないし、灯台も見失っていない。
 右手を握る。覚悟は、もう決まっている。




Funny Bunny(2)






 長いような短いような夏休みを終え、学校が再開された。
 課題と進路調査票の提出が、最初に行われた。クラスメイトが順に提出する様を、匠はぼうっと見詰めていた。高校野球は終わった。夏川や嘗てのチームメイト、競い合った相手は次のステージへ進出することが決まった。匠は、それを選ばなかった。
 匠の選ぶ先は都内の公立大学だ。受験へ向けて長い間勉強して来た級友には劣るが、匠とて偏差値は低くない。十分に合格を狙える範囲にいる。夏休みボケなのか、思考が錆付き鈍っている。これが燃え尽き症候群かと自嘲する。同じことを親友も考えていたとは、匠は知らない。
 自身の進路は既に決まっている。目標が決まれば後は努力するだけだ。立ち止まる暇も、振り返る余裕も無い。ただ、一つだけ懸念があるとすれば、件の親友のことだった。
 偏差値底辺で、驚異的な馬鹿で教師陣目下の悩みの種である和輝の進路を、匠は知らない。中学時代、彼が誰にも相談せず進路を選び、目の前から消えたことを覚えている。今も和輝は自身の進路について明言しないし、相談もしない。それでも和輝は迷いの無い足取りで教壇へ向かい、課題と進路調査票を提出している。ちなみに課題は夏休み終了間近に、OBや兄の助けを借りてギリギリで終わらせた。
 進路調査票だろうコピー用紙を訝しげに見る教師に微笑み、和輝は踵を返した。和輝の席は匠の後ろだ。横を通り過ぎようとする和輝の手首を、匠が捕まえた。驚いたように振り返る和輝は相変わらず綺麗な顔で、小首を傾げている。


「お前、進路なんて書いたんだよ」


 賑わう教室の喧騒の中で、匠は問い掛ける。和輝は微笑んだ。美しい微笑だ。恐らくきっと、この先の人生で彼以上に美しく微笑む人間には出逢えないだろう。


「内緒」


 口に人差し指を立て、悪戯っぽく和輝が言った。
 そうだろうな、と匠も今更腹を立てたりしない。そういう人間だ。自分に対する信用が無い訳ではなくて、そういう性格なのだ。
 和輝にプロからのスカウトは来ていない。あれ程の活躍をしても、圧倒的不利な体格差や二年前の怪我による後遺症は大きな溝を作っている。幾つかの体育大学からの推薦は来ているらしい。目を見張る走力に目を付けた陸上の強豪大学が多いようだが、和輝は興味を示していない。芸能界からのスカウトもあったらしいが、当然のように一切を断っている。
 高校入試でさえ、教師に夢を見るなと匙を投げられるような頭脳だ。進学は難しいかも知れない。かと言って、就職するとも思えない。匠には解らない。けれど、和輝が笑っている内は安心して良いのだろうと確信している。




「花火をしようぜ」


 夏の終わりを思わせる涼やかな風を受けながら、日の落ちた空を背景に和輝が言った。
 蝉の声が遠のく。玄関先に立つ和輝に、匠は首を振る必要も無く頷いた。
 午後八時を過ぎても空はまだ明るい。河川敷を先立って歩く和輝は楽しげだった。軽やかな足取りは踊るようで、このまま川に落ちてしまうのではないかとすら思わせる。鼻歌交じりに歩いていく和輝の向かう先は知れない。匠はただ付いて行く。
 外灯の無い河川敷で、鉄橋下は更に暗い。漸く足を止めた和輝は右手に下げたビニール袋から、花火のバラエティパックを取り出した。芝生にしゃがみ込み、袋の中からライターと蝋燭を探す。闇に満ちた空間で、ライターのオレンジ色の光が浮かび上がる。夕日に照らされたように和輝の面が染まった。
 コンクリートの壁に阻まれ、風は無い。安定して燃える灯火を立て、和輝は白い歯を見せて笑った。
 点火。鮮やかな炎が吹き出す。火薬と煙の匂い。匠は和輝の隣にしゃがみ、同様に花火を手に取った。
 電車の通過音、蝉時雨、火花の散る音、川のせせらぎ。現実味を帯びない空間で、匠は子どものように花火を喜ぶ和輝を見ている。
 花火が消えると、蝋燭の灯火だけが浮かび上がる。和輝は次の花火を取り出し、点火する。途切れること無く闇は照らされる。
 和輝は吹き出す炎をじっと見詰めながら、言った。


「留学する」


 一瞬、時間が止まったのかと思った。吃音のように言葉が紡げず、匠は喉を震わせた。
 何の話なのかも理解できなかった。和輝は相変わらず綺麗な顔で微笑んでいる。


「渡欧しようと思っているんだ」


 大きな瞳に、紅い炎が映る。匠は口を噤み、その花火を見た。
 手持ち花火の先が微かに震えている。瞳は確かな覚悟が浮かんでいるのに、指先だけが痙攣のように震えている。
 三年前、和輝は自身の進路を隠し続けた。でも、今は違う。
 和輝の指先が震える意味を、匠は知っている。――否定されることを、恐れている。


「留学か……」


 匠の言葉は独り言のように零れ落ちた。
 この国を、出るのか。提案を受けてから、どうしてその発想に至らなかったのか匠は自分を疑問に思った。今の和輝が、この国で平穏に暮らすことはできない。良くも悪くも、和輝は世間に知られ過ぎた。
 匠は問い掛ける。


「何の為に?」


 花火が、消える。匠は次の手持ち花火を手に取った。
 箒のような火花が周囲を照らす。燃え尽きた花火を置き、和輝は右腕を抱いた。痛むのだろうかと匠は俄かに焦った。和輝が言った。


「……俺の右腕、ぶっ壊れてもう元に戻れないって宣告されてたんだ」


 目を伏せた和輝の頬に、長い睫毛が影を落とす。


「二年前、日常生活もままならないって言われた。実際、思うように動かせなかった。持ち上げるだけで千切れるみたいに痛くて、少し動かしただけで燃えるみたいに熱くなった。ボールも投げられなくて、バットも握れなくて、鉛筆も持てなかった。もう元に戻らないって言われた時は信じられなかった。リハビリすら勧められなかった」


 匠は奥歯を噛み締めた。
 それまであったものが、理不尽に奪われる恐怖。ましてや、それが自分の身体の一部だ。信じられた筈が無い。


「右腕も肩も動かせなくて、周りは敵ばっかりで、何を信じたら良いのかも解らなかった。前が見えなかった」


 二年前、和輝は自殺しようとした。その選択を匠は認めない。けれど、溺れる者が必死に間違ったものを掴んだからといって、誰がそれを責められるだろう。
 花火に点火し、和輝は続けた。


「その頃、親父がある人を紹介してくれたんだ。外国のスポーツドクターだった。再起不能の俺の腕を診て、辛抱強くリハビリすれば可能性はあるって言ってくれた。大丈夫だよって、言ってくれだんだ」


 その言葉が、どれ程、和輝を支えたことだろう。


「可能性はあるよって、言ってくれた。もう少し早く出会えていたら、俺も自殺未遂なんて馬鹿な真似、しなかったかも知れない」


 俯いていた和輝が顔を上げた。花火が、消える。
 大量にあった筈の手持ち花火は燃え尽き、残りは線香花火のみとなった。和輝は蝋燭の上にそれを垂らした。


「可能性が提示されて、高槻先輩が目を覚まして、匠が側にいてくれて、気付いたんだ。……失っても失っても、希望は必ずある。諦めてはいけない。俺はそれを、示したい」


 小さな火花を見詰めながら、和輝が言った。絞り出すような声は掠れていた。
 祈るように、願うように、縋るように和輝が訴える。顔を上げた和輝の丸い目が、匠をじっと見詰めた。
 三年前と同じだと、思った。三年前も和輝は自分の信念を貫き通す為に道を選んだ。自分達はそれを理解できなかった。和輝も理解してくれとは訴えなかった。
 でも、今は違う。和輝はもう消えない。


「俺は、背中を押すよ」


 匠は言った。


「お前が覚悟して決めたことなんだろ。それなら、俺は背中を押すよ。でも、帰り道だけは見失うなよ」


 帰る場所があることを、忘れないでくれ。待っている人が居ることを、覚えていてくれ。それだけを、切に願う。


「うん」


 口元に僅かな笑みを浮かべて、和輝が頷いた。

2013.9.28