ごろごろとキャリーバッグが走っている。匠は小さな背中を見ていた。
 あれよあれよという間に和輝の留学が決まり、卒業式に出席することなく旅立つこととなった。卒業単位は満たしている。赤点だらけだった成績は急上昇していた。集中力に才能というものがあるなら、和輝は集中の天才だった。野球に向けられていた情熱が全て勉強に注がれ、学力は学年でもトップクラスになった。俄かには信じ難いけれど、事実だ。人生が物語ならば、和輝は主人公で、全てはご都合主義のように進む。予定調和のように前進する和輝は立ち止まらないし、迷わない。
 登校するだけになった高校を休み、匠、箕輪、夏川は見送りに来ている。先を行く和輝の背中に黙って付いて行く。三年間を共に過ごした戦友が、味方のいない未開の地へ旅立とうとしている。箕輪や夏川は、和輝の留学が決まっても驚かなかった。夏川は「宇宙進出くらいしないと驚かない」と笑った。冗談の裏には確かな信頼が滲んでいた。
 皐月は県内の大学へ進学することになった。和輝が海外へ行くと知ると、寂しいと泣いた。けれど、必ず定期連絡をしろと釘を刺した。
 青樹は都内の難関校へ現役合格を果たし、大学でも野球することを明言している。プロからのスカウトを蹴って進学したのは、自分の可能性を限界まで信じたいからだと言った。国内から去ろうとする和輝を、青樹は笑って見送った。
 赤嶺はプロ入りし、現在もトレーニングを重ねている。その名が海外まで知れ渡るのも時間の問題だろう。和輝の進路に対して「やれるところまで、やってみろ」と挑発するように笑っていた。
 それぞれがそれぞれの道を選び、進んでいく。
 搭乗口へ向かう和輝が何を思うのか、匠には解らない。空港の外は降雪に見舞われている。豪雪になれば飛行機も飛ばないだろう。けれど、我らが晴れ男の和輝の門出が、天候に左右される筈も無い。運航に支障は無いようだ。
 吹雪になれば、和輝は卒業式に出られただろうな。匠はそんなことを思う。答辞を読む予定だった和輝が式に出ないと決まれば、学校側は大いに慌てた。教師の制止も構わず和輝は留学の日程を組んでいた。揺らがないからこそ、決心というのだ。馬鹿らしいと思うなら笑えばいい。けれど、誰にも否定する権利は無い。成功の保証が無くとも、負け犬として逃げ帰ったとしても、和輝は選んだ道を後悔しないだろう。
 天候の安定を、祈る。吹雪で飛行機が煽られて事故に繋がることが一番怖い。現実は何時だって不条理だ。
 門出に縁起でもないことを言う訳にもいかず、匠は口を結んだままだった。口にしたところで和輝は鼻で笑うに違いない。キャリーバッグと、大きなビニール袋をぶら下げた和輝の背中をじっと見詰める。
 和輝が、立ち止まった。目の前は搭乗口だった。その先はもう、別の世界だ。和輝に倣って匠も立ち止まる。後ろから、駆けて来る足音が響いた。


「和輝!」


 通行人が、その大声に立ち止まる。振り返った先、見慣れた少女が立っていた。
 奈々だ。何時も綺麗に化粧をして、髪型を整えている奈々が息を弾ませている。膝に手を付いて呼吸を整え、まるで親の仇とばかりに地面を踏み締め和輝に向かっていく。
 噛み付きそうに睨む奈々を、和輝は無表情に見ていた。奈々が、叫ぶように言った。


「行かないでよ!」


 皆が言いたくても言えなかった言葉を、奈々が大声で訴える。
 行くな。此処にいろ。そんなこと、皆が思っていた。それでも、背中を押してやりたかった。そんな矛盾した気持ちが奈々に解るだろうか。匠は奈々を止めようと手を伸ばす。
 和輝はキャリーバッグを置き、ぶら下げたビニール袋に手を入れた。
 赤だ。鮮やかな赤。あの日の花火よりももっと深い、真紅の色。無表情の和輝が、少しだけ、笑った。
 奈々が、呆然と立ち尽くしている。


「何、これ」


 真紅の薔薇の花束だった。和輝が、美しく微笑む。


「来ると思ってた」


 だから、用意して来た。
 旅立つ直前、空港まで花束を持って来る神経はどうなっているのだろう。匠は唖然としている。
 奈々のが、言った。


「馬鹿じゃないの」


 うん、俺もそう思う。和輝が微笑む。


「何考えてんのよ」


 同感だ。口にはせず、和輝は胸の内で呟く。同じ立場だったなら、きっと同じ言葉を吐いたと思う。
 それでも、差し出した冗談みたいに真っ赤な薔薇は引っ込めなかった。
 だって、本当なんだ。
 嘘吐きと散々言われて、周りに沢山迷惑掛けて、挙句に自分勝手な都合で大切な人を何度も傷付けて来た。
 でも、本当なんだよ。
 夢が叶って、目標が消えて、漠然とした未来を想像して真っ先に思い浮かんだのは、君だったんだ。
 君のいない未来が想像できないんだ。君がいないと駄目なんだ。――君が好きなんだよ、心の底から。
 他人には常々格好良いとか言われて来たけど、君以外に褒められたって意味なんか無いんだよ。
 収入の安定も、目標の達成も、君がいないと虚しいだけなんだよ。


「奈々が好きなんだよ、世界中の誰よりも」


 ぼろりと落ちた涙が、ダイヤモンドみたいに綺麗に光る。
 勿体無いな、と思うより早く、胸の中に奈々を受け止めていた。


「行かないでよ……!」


 掠れる声で、奈々が訴える。衝撃で落ちた紅い花弁を見遣り、和輝は苦笑した。


「行くよ。決めたんだ」
「勝手に決めないでよ!」
「決めるよ。俺の道だから」


 和輝は、花束と一緒に奈々を引き離した。


「付いて来てとは言わないからさ、待っていてくれよ。帰る場所があることが、俺の支えなんだ」


 泣き出しそうに眉を寄せた和輝が言った。
 泣きたかったのかな、なんて匠は今更に思う。送る側と送られる側、寂しい気持ちは同じだろう。
 ポケットから携帯を取り出し、和輝が時刻を確認する。留学が決まった折、兄から贈られたものだ。最新式のスマートフォンは防水性らしい。これなら、川に投げ捨てても、花瓶へ落としても大丈夫だ。


「時間だ」


 一歩、後ずさる。和輝の背中にはゲート、境界線がある。
 高い壁か、大きな門か、深い溝か。境界線を越えようとする和輝に、花束を抱えたまま奈々が言った。


「必ず、帰って来なさいよ!」


 その言葉に、綻ぶように和輝が笑った。幼い頃から一緒に育った自分達が、ずっと見て来た彼本来の純粋な笑顔だった。何故だか懐かしい気がして、匠は胸が軋むように痛んだ。
 境界線の向こうへ、和輝が進む。匠は言った。


「いってらっしゃい」


 鼻を啜る。匠の目に涙が滲んだ。和輝が振り返らないならば、見られることもない。止める間も無く溢れた涙をそのままに、匠は拳を握った。――刹那、和輝は振り向いた。歩調を緩め、白い歯を見せ笑う。


「行って来ます」


 だから、どうか、お帰りを聞かせて。
 そんな願いを込めて呟かれた挨拶を、匠は確かに受け止めた。





Funny Bunny(3)





キミの夢が叶うのは
誰かのおかげじゃないぜ
風の強い日を選んで
走ってきた
(Funny Bunny/the pillows)










End.








2013.9.28