呑み込んだ悲鳴。噛み殺した嗚咽。握り潰した激情。踏み壊された努力。
 つらつらと羅列された言葉の意味は解らなかった。此処が境界線だと言うように、正面に立った和輝は其処から一歩だって動くことなく此方を見て微笑む。通り抜ける風が踏み荒らされた芝生の青臭さと、何処か懐かしい鉄臭さを連れて来る。
 和輝は動かない。駆け寄りたい俺の足は根っこでも生えているかのように微動だにせず、ただ伸ばした腕だけが生温い空気を引っ掻いた。

 ごめんな。

 独白のように零された謝罪の意味が解らなくて、問い掛けようと開いた口からは空気の塊だけが、水中のようにごぽりごぽりと零れて行った。
 ゆっくりと動き出す和輝が、黙って背中を向ける。強く握り締められた拳は皸のように皮膚が裂け、今にも血液が滴となって落下しそうに見えた。ゆるりと向けられた整った相貌は、滑らかな頬は拳大に赤く腫れている。重たげな瞼に伏せられた睫が微かに震えた。

 ごめん。

 何で、如何して。
 必死に紡いだ言葉は、叱責のように小さくなっていく背中を追い掛けた。もう届かない彼に突き刺さる無数のナイフは錆びても抜け落ちることは無い。
 違う。違うんだよ。俺はお前を責めたかったんじゃないんだ。俺はただ、その謝罪の意味が知りたいんだ。お前が謝る理由が何処にあるっていうんだ。頼むから、何処にも行かないでくれ。置いて行かないでくれ。消えてしまわないでくれ。
 漆黒の闇に溶けてしまった背中はもう振り返らない。




風見鶏(2)





 日の落ちた山中は暗闇に包まれている。風が吹き抜ける森林は静寂が支配し、葉の擦れ合う音はまるで魔獣の歯軋りのようだ。
 普段以上の徹底した基礎トレーニングに音を上げる体は関節がぎしぎしと痛んだ。
 練習を終えた面々は蟻の行列のように宿舎に吸い込まれていく。点在する外灯が照らす足元は乾き罅割れたアスファルトに舗装され、縺れそうな両足を如何にか進ませてくれる。
 匠は重い身体を引き摺りながら、先頭を威風堂々と歩く和輝の背中を追っている。この小さな体の何処にそんな力があるのか、地獄のような筋トレサーキットを軽々熟して今も仲間を率いていた。
 武蔵商業のキャプテン山城健太郎に案内された大部屋に、限界まで体力を使い果たした晴海ナインがばたばたと倒れ込む。後輩の前で見っとも無いところは見せられないと、最上級生である三人は畳の上に座り込むことに留まった。和輝は鴨居の下でこの後のスケジュールを山城と確認している。


「……しんどかったな……」


 掠れた声で箕輪が言った。身体能力も才能も、強豪と呼ばれるチームでは余りにお粗末だった彼が、厳しい練習をリタイアすることなく最後まで遣り抜いたことは賞賛に値すると思う。
 口に出さない言葉は伝わることなく、箕輪が此方を見て屈託なく笑った。
 畳に倒れ込んだ面々が穏やかに談笑し始める。明日になればまた厳しい練習が待っているけれど、今だけは構わないとゆったりと時間が経過する。
 時計と睨めっこしていた和輝が顔を上げた。


「さて、風呂に行くぞ」


 部屋に入るなり立ちっ放しの和輝が平然と言った。皆は身体を起こすことすらしんどそうだった。
 もう少し待ってやれよ、と思うけれど、武蔵商業にも事情がある。大所帯である彼等も、少数精鋭で客である晴海高校に先を譲ってくれているのだから、待たせる訳にもいかないだろう。
 起き上れない後輩の背中を叩いて促す。敷居の向こうで和輝が待っていた。
 歩く度に軋む廊下を進む小さな背中は振り返らない。皆が付いて来ていると疑わないのか、後ろを見るのは副キャプテンである箕輪の仕事と割り切っているのかは解らない。
 年季は入っているが丁寧に手入れされた大浴場は疲れを取るのに十分だった。入浴後はそのまま眠ってしまいたかったけれど、すぐに夕飯だと言われて落胆する。
 夕飯は膨大な量だった。長身痩躯の多い晴海高校に足りないのは練習メニューではなく、食育だったのだと理解する。
 質量保存の法則を覆すように和輝は夕飯を簡単に平らげた。本日のメニューは終了と宣告され、漸く解放されたとばかりに皆が安堵の息を零した。
 大部屋へと戻る途中、待ち伏せしていたかのように皐月が顔を見せた。
 満面の笑みを浮かべる皐月に対して、普段の態を崩さない和輝が小首を傾げる。


「何してんだ、皐月」
「決まってんだろ。――和輝を、待ってた」


 ふう、と一つ溜息を零す。けれど、それはうんざりとした鬱屈した気持ちを吐き出したものではなく、何処か子どもの悪戯を許容するものに見えた。
 和輝が時計を確認する。消灯時間は差し迫っていた。
 くるりと自分達に向き直った和輝は困ったように眉尻下げる。


「悪ぃ。先に部屋戻っててくれ」


 此方の了承を聞くことなく、和輝が皐月を連れて歩き出す。小さな二人の背中は穏やかな空気を漂わせながら廊下の角に消えた。
 仕方なしに先頭に立った箕輪が時計を確認しつつ襖を開く。
 押し入れにぎっしりと詰め込まれた布団を引き摺り出し、畳の上に隙間なく敷き詰めて行く。空湖が率先して重い敷布団を運び出そうとするけれど、各個人が自分の布団をそれぞれ敷く方が早い。五分と掛からずに入眠の仕度が整う。自然と出入口傍の布団は空となって、未だ戻らない主をただ静かに待っていた。
 隣に寝そべっていた箕輪が枕を抱えて言った。


「和輝と蝶名林君って、すげー仲良いのな」


 他意は無いだろう穏やかな口調に違和感を覚える。
 仲が良いのは、確かだろう。彼等の目には、ただ仲の良い元チームメイト同士に見えるのだろうか。


「皐月にとって、和輝は神様らしい」
「神様?」


 きょとん、と箕輪が復唱する。正しい反応だろう。
 けれど、箕輪は何か納得したように一人頷いて笑った。


「まあ、和輝だからな」
「はあ?」


 納得は出来なかったけれど、このチームにも和輝を英雄視する後輩はいる。想像出来ないことではないのだろうと無理矢理納得しようとして布団を引き上げる。


「昔、和輝に助けられたことがあったみたいだよ。俺には解んねーけど」
「そっか。匠には、解んねーだろうな」


 如何いう意味だ。問い掛けようとした言葉は、敷居を滑る襖に掻き消された。
 時間にして十五分程だろうか。漸く戻って来たキャプテンは普段通りの和輝だった。当たり前のように自分の隣に滑り込んだ和輝は何も語らず布団に潜り込もうとする。


「皐月と話して来たのか?」
「うん」
「何を?」
「別に。世間話だよ」
「なあ、皐月ってお前のこと好き過ぎねえか?」


 沈黙。和輝はすっぽりと被った布団の下、ひょっこりと顔を覗かせた和輝が笑う。


「お前等には、解んねーよ」


 箕輪の言葉を思い起こされる言葉と、浮かべられた微笑は侮蔑ではなく、子どもの悪戯を許容するそれと同じだ。
 お前等、が誰を差すのかは解らなかった。和輝はそれきり、スイッチが切れたように寝入ってしまった。
 体は疲れているのに、脳はやけに冴えて寝付けない。
 思い起こす中学時代。飼い犬のように和輝の後を付いて回った皐月。引退試合にただ一人出場出来なかった皐月は蚊帳の外で俺達を見ていた。独りきりになった和輝を、皐月は如何見ていたのだろう。叱責の末に離れて行った俺達を如何感じたのだろう。俺には解らない。
 何時の間に寝付いたのか、起きた時には既に和輝は起床して布団は蛻の空だった。欠伸を噛み殺した箕輪が、顔を洗いに行ったぞ、と教えてくれた。
 便所で顔を洗う和輝は擦り付けるように水滴の貼り付く顔面を拭いていた。和輝より遅い起床となったのは腹立たしい。隣に並ぶと和輝は何でも無いことのように笑っていた。


「寝る前にさ」


 唐突に切り出した言葉に、和輝はタオルから顔を上げた。


「俺達には解らないって言ってたこと、如何いう意味だ?」


 和輝は困ったように、何かを諦め許容するように微笑む。


「そういう意味だよ。……解らなくていいし、解って欲しくも無い。解ってくれるとも、期待していない」


 穏やかに告げられたそれが拒絶の言葉だと気付いた時には既に和輝は便所から出て行っていた。後を追うように出入口を潜れば、朝一では会いたくなかった少年がいた。


「うげ」


 失礼な奴だな、とは思ったが口にする気にはなれなかった。皐月は此方を見るなり忌々しげに顔面を歪ませる。会いたくなかったのはお互い様だろう。
 挨拶する義理も無いと、和輝を追い掛けるように早足に踏み出せば、皐月が息を殺して嘲笑染みた息を吐き出した。振り返る先で皐月はやはり、口角を釣り上げたシニカルな笑みを浮かべている。


「追い掛けたって、もう遅いんだよ」


 確かに、和輝の姿は其処に無い。
 皐月の意図する言葉は別の場所に潜んでいる気がして、沈黙する。けれど、容易くヒントを差し出す程に御人好しでは無い皐月は皮肉めいた笑みを浮かべたまま消えて行った。
 二日目の朝は酷い倦怠感に包まれていた。この状態で地獄のようなトレーニングと耐えられるのかと自身疑問に思いながらも、人間というのは状況に適応するのだから図太い生き物だと思う。
 相変わらずのスパルタに耐えながら、漸く挟まれた昼休憩にもすぐには動き出せない。木陰で死体のように横たわりながら浅い呼吸を繰り返す。一人で全世界の酸素を吸い尽くす勢いで深呼吸すれば、閉ざした瞼の奥に影が落ちたのが解った。こんな状態の自分の傍に寄って来るのはただ一人だと解っている。


「……相変わらず、余裕だな」
「余裕じゃねーよ」


 そう言って、和輝が笑った。頬にぴたりと当てられたスポーツ飲料の冷たさが意識を繋ぎ止めてくれる。
 生まれた時から一緒だった。呼吸をするように互いの存在を認識し合える。けれど、自分が彼の嘘を見破れるようになったのは短い年表からすればつい最近のことだった。和輝の嘘の巧さは、その御人好しさとは反比例している。
 隣に腰を下ろした和輝が長い息を吐き出す。


「きっつい練習だよなぁ」


 返事を求めない独り言のように、和輝が言った。
 初日にそれを痛感した此方にとっては今更な言葉を吐き出した和輝に呆れてしまう。けれど、何か言い返す気も起きずに激しく拍動する心臓を落ち着けるように呼吸を繰り返す。和輝は何も言わず、沈黙が流れた。
 和輝は何も言わなかった。決して不快でない静寂。けれど、それを打ち破る覚悟をする。


「皐月は、お前を神様だと思ってるよ」


 零した言葉に、和輝は何か逡巡する仕草も無くくつりと笑った。


「俺が神様だなんて、過大評価だな」


 皐月の感性の異常に気付くことなく、和輝が言う。


「なあ、知ってるか、匠」


 目を向けた先で和輝は笑っていなかった。表面上に浮かべた凍り付いたような絶対零度の笑みで、此方の言葉を全て切り捨てるような残酷さで和輝が訴える。


「この世は不公平で不条理だって。そして、お前等はそれを欠片も解ってない」


 それが何に対する怒りで、諦念なのか和輝は決して答えないだろう。
 昼飯食いに行こうぜ、とそれまでの剣幕を一瞬で消し去った和輝が微笑む。生まれてからずっと一緒にいた自分の片割れと呼んでも過剰でない存在。離れていたのは中学卒業前からおよそ一年の間なのに、和輝の抱える何かを俺は絶対に共感出来ない。後生大事に抱え込むようなものでないと解っているのに、和輝がそれを打ち明けるとは思えなかった。
 追い掛けたって、遅過ぎる。皐月の言葉が過る。
 午前中の練習の疲労を感じさせない堂々たる足取りで歩いて行く和輝の背中に、武蔵商業の面々が奇異の目を向ける。それはそうだろう。外野の人間に共感しながら小さな背中を追い掛ける。
 昼食は具沢山の饂飩だった。親睦を深めることを目的として昼食も武蔵商業と同席となる。少数故に散り散りになった晴海ナインも、それぞれの場所で打ち解けているようだった。隣に座った北原が付け合せのサラダを咀嚼しながら言った。


「相変わらず、お前のとこのキャプテンは化物だなー」


 間延びする暢気な口調で北原が笑う。化物という言葉は侮辱的なのに、其処に響く意味合いは尊敬に近い。北原に目を向ければへらりと笑われた。


「うちって結構、色んな学校と合同合宿するんだけどな。この合宿特別メニューに顔色一つ変えないでコンプした奴初めて見たよ」
「……やっぱり、そんなにきついんだな」
「そりゃそうさ。武蔵商業でも脱落者が後を絶たないんだぜ。レギュラーだって瀕死ものだよ。皐月も大概化物だけど、蜂谷君もだな」
「皐月も?」


 あの低身長コンビの片割れが高評価されるのは何故だか新鮮だ。思わず聞き返せば北原は何でも無いことのように言う。


「あいつ、足も速いけど体力もあるんだぜ。校内マラソンじゃ二年連続優勝だったし」
「そうなのか」
「すげー努力家だからな。扱い辛いところもあるけど、選手としては尊敬してる」


 性格は本当に難ありだけどな、と軽口を叩くように北原が子どもっぽく笑う。
 自慢するように皐月という人物をつらつらと語る北原からは終に、その体格に関する言葉は一つとして出て来なかった。一目で解るスポーツに向かない短身痩躯も、中性的な顔立ちも取るに足らないことであるように見向きもしない。それが普通なのだろうか。走塁技術に優れた非力で小さな選手。切り込み隊長であり、それ以外では存在し得なかった少年。身長で野球してる訳じゃないけれど。
 俺は皐月のことを何も知らないな、と思う。
 北原が言った。


「皐月ってさ」


 周囲に目配せしながら声を潜める北原は、表情には何も出さずに続けた。


「あの外見のせいで、入学当初から中々風当たりきつかったんだぜ。見た目で馬鹿にする奴も、否定する奴も、努力する姿を嗤う奴もいた。そういう逆風とずっと戦って来たんだ。だから、俺達はあいつを心底尊敬してるし、認めてるし、励まされて来た。なあ、お前も? お前のとこのキャプテンも?」


 答えられなかった。俺は皐月のことを何も知らない。でも、和輝もことも解っていないのかも知れない。
 解って欲しいと言わない和輝が、その裏に何を抱えていたのか欠片も解っていない。解ろうとする努力も、して来なかった。解った振りで切り捨てて来た多くを和輝は知っているから、だからこそ諦念しているのかも知れない。




「逆風なんて、今更だろ」


 長い日の落ちた宿舎への帰り道。昨日の疲労が蓄積されたままの身体を引き摺りながら箕輪と並んで歩く。昼に北原に掛けられた言葉を思い出して問い掛ければ、まるで当たり前のことのようにさらりと返された。
 箕輪はきょとんとして、小首を傾げている。


「天才の弟っていうネームバリューに、あの体格、あの外見、あの性格。何を取っても俺達凡人にとっては手の届かないものだからさ、偏見なんて当たり前だろ」
「……そうか」
「いやいや! 俺達は違うぞ!?」


 慌てたように頭を振った箕輪の言葉に嘘は無い。伊達に、入学当初から一緒にいた訳じゃない。


「俺達は、あいつの弱さも優しさも知ってるからな。完璧を求められる裏でどれだけ努力を重ねたのかも、天才と呼ばれる中でどれだけのものを犠牲にして来たのかも解ってるから」
「お前に何が解るんだよ」
「見てれば解るよ。あいつは、何時だって堂々として来たからな」


 薄らと笑った箕輪に何が見えているのか、俺には解らない。
 堂々と真っ直ぐ生きて来たことなんて、ずっと解っている。何時だって一番傍に痛んだから、気付かない訳無いだろう。
 それでも、続ける言葉も返す言葉も持たない俺は一言だって零すことは出来なかった。
 一日が終わって行く。合宿最後の夜が、暮れて行く。

2012.12.27