「中学の頃の話だ」


 静かに口を開いた和輝に表情は無い。息が詰まりそうな空気の重さを裂くように箕輪が、普段の態を崩さないまま問い掛ける。


「中学って、橘シニアか?」
「そう。地元じゃかなり有名なチームだったんだ」


 地元どころか、全国区で名を知られる強豪チームだろう。不満げに夏川が言うけれど、和輝は少し困ったように笑うだけだった。


「徹底した実力至上主義だった。聞こえはいいけど、その反面で何人もの選手が弱者のレッテルを貼られて切り捨てられてたんだ」


 何か思うところがあるらしい箕輪が口を噤んだ。和輝の声は淡々として感情を読ませない。


「実力があればいい。ただそのスポーツが好きというだけでは、到底届かない世界だ。俺は小学生になってから入った。……まあ、この身長だからな。何年も底辺で辛酸嘗めさせられたよ」


 そうして苦笑する和輝の言葉に、誰もが耳を疑う。それだけ、和輝の実力と才能は抜きんでていた。
 ただ、その辛苦を知っている此方としては彼等の反応は苦いものだった。それでも、野球を始めて三年程で全国区の強豪チームのレギュラーの座を勝ち取ったのだからその才能は確かなものだった筈だ。


「中学二年の夏、初めて皐月に会ったんだ。入れ替わりも激しいし大所帯だったから、顔も名前も知らないチームメイトもいた。特にレギュラーだとさ、練習内容も違うしそれ以外の奴と関わることが殆ど無いんだよ。正直、俺はそれまで存在も知らなかった」


 少数精鋭を貫く晴海高校じゃ考えられないことだなと、過去を振り返りながら思う。そして、同時に気付く。その少数精鋭に和輝が拘る理由はきっと、それだったのだろう。


「練習が終わった後、匠とか何時もの面子で自主練してたんだ。そうしたら偶々、草叢に飛んでちまったボールを追い掛けて、皐月に出会った。……たった独りで、誰にも見られないようなところで黙々と練習する皐月に」


 静かに瞼を下ろした和輝の目には過去が見えているのだろうか。俺には解らない。


「素振りも投球もお粗末なものだったよ。体格でやるスポーツじゃないけど、それでも非力さは何処にでも付いて来る。ただ、その走塁技術は群を抜いていた」


 和輝が言うくらいなのだから、事実だろう。実際に試合で対峙した自分達は痛い程にその技術の高さを知っている。和輝は過去を思い出すように少し微笑んでいた。


「それから、一緒に練習するようになったんだ。俺もチビだから、あいつと練習するのは勉強になったし……、何より、一緒にいるのが楽しかった」


 和輝が此方を見て困ったように笑った。理解出来ないという感情が顔に出ていたのかも知れない。
 己の利潤に関わらず、皐月の人間性だけで一緒にいたいと願ったのだ。皐月が天才でなくても、ただ皐月が皐月手あることを望んでいた。掛け替えの無い存在であったことを其処で漸く知った。


「ただ、逆風の凄まじさをその時初めて知ったんだ。……今じゃ笑い話だけど、俺も色々逆風きつくてさ。やっかみも多かったんだ」
「やっかみってどんな?」
「そうだな。グラブや練習着が切り裂かれたり、先輩に呼び出されたり、用具倉庫に閉じ込められたり」


 軽い気持ちで問い掛けた箕輪が黙り込む。和輝が何でも無いことのように笑っているのが唯一の救いだった。


「俺は兄ちゃんの存在とか、チビで非力なのにレギュラーなのが面白くなかったんだろうなって解ったから結構納得出来たんだ。でも、皐月への逆風は種類が違ってた。ただ、其処にいるだけで恨まれる。報われない、実らない努力への焦燥感が皐月への暴力に走っていた」


 知らない事実に、耳を疑った。
 あの、皐月が?
 問い掛けたかったけれど、表情を消し去った和輝がそれを許さない。


「八つ当たりだよ、あんなもん。俺が一緒にいたのも面白くなかったんだろうな。気付いたのは一か月くらいしてからで、正に皐月が囲まれて殴られようとしてるところだった」


 純粋に野球が上手くなりたいという気持ちだけでプレー出来る人間がどれくらいいるんだろう。
 和輝は話し続ける。


「咄嗟に間に入って、止めることも出来なくて殴られたよ。俺が来たことに驚いたみたいでそいつ等はすぐいなくなったんだけどさ、皐月を問い詰めたら一度や二度じゃないって聞いてからは居ても立ってもいられなくって。それからはずっと、皐月と一緒にいるようになった。レギュラー入りしてからはそれが苛烈なものになっていったし、上級生が引退して、俺がキャプテンになるまで続いたんだ」


 皐月の和輝への依存、執着を思う。苛烈を極めたその陰惨な過去で、和輝だけが唯一の救いだった。見返りを求めずに傍にいてくれて、助けてくれる存在。才能を見出して認めてくれる仲間。皐月が、ずっと欲しかったもの。


「俺も悪かったんだ。一緒にいれば皐月への風当たりが厳しいものになるって解ってたのに、離れたくなかったし、離れられなかった。守ってやれると思ってたし、何より、あいつと一緒にいたかったから……」


 ふと顔を上げた和輝が、じっと此方を見た。


「なあ、匠、お前等は何も知らなかっただろ。何も知らなくていい、何も解らなくていい。でも、簡単に否定しないでくれよ」


 祈るように組まれた両手が微かに震えていた。触れればそれは氷のように冷たく硬いのだろう。
 見た目にも弱い彼等が針の蓆になることは目に見えていた。事実を知らされれば当たり前のことだったのに、当時は彼等が隠していることにも気付けなかった。振り返れば思い出す彼等の腫れた頬やすぐに買い換えられる用具の数々を見過ごしていた。
 誰が悪い。誰を責める。誰が望んだ結果だ。隠し通した彼等の卑屈さか、気付けなかった自分達の愚かさか、他者を虐げることで安心していたチームメイトの身勝手さか。そのどれもが正解で不正解だ。


「引退した後、俺は誰にも相談せずに独りで進路を決めて、黙って離れちまった。そのことで随分と匠にも叱られたけど、俺はその選択が間違ったとは思っていない。今でも。でも、当時はすっげー悩んだし落ち込んだし、余裕が無くて視野も狭まってた。これは皐月にも何も話せてなかった俺の過失だ」


 さて。
 場の空気を切り替えるように努めて明るく言って、和輝が立ち上がる。


「置いて行っちまったあいつを、迎えに行くんだ。……情けねーキャプテンだけど、協力してくれ。この試合は練習試合だけど、負ける訳にはいかねーんだよ」


 頼む、と頭を下げた和輝に反論する者がいる筈も無かった。
 ヘルメットで僅かに潰れた頭頂部の髪が跳ねている。格好の付かない男だ、と内心ほくそ笑みながらその頭を掻き回すように撫でてやった。痛いと反論しながら顔を上げた和輝が目を丸くする。
 皆がただ一点、和輝だけを真っ直ぐ見詰めている。


「勝つに決まってんだろ。別に、お前に言われなくても」


 ぶっきら棒に夏川が言った。その通りだ。
 過去が如何のこうのと言っても何も始まらない。嘗て道を別った自分だからこそ、皐月の気持ちが痛い程に解った。
 箕輪が普段のおどけた態度で笑い混じりに言った。


「じゃあ、気持ちが一つに纏まったってことで」


 ほら、キャプテン。
 箕輪にせっつかれて和輝が照れたように笑った。
 マネージャーを含めてたった十一名。監督は無く、顧問は名ばかり。問題続きの悪名高いチームと呼ばれることもあったけれど。


(良いチームだなぁ)


 改めて、そんなことを思う。中学時代の辛苦を糧に、世間の逆風を受けながら和輝が作り上げたチームだ。これが、和輝が本当に望んだチームの形なのだろう。
 黙ってベンチを出た和輝を追い掛ける仲間が、自然と輪を作った。失いながら傷付きながら築かれた信頼関係を確かめるようにチームメイト一人一人を見渡して、和輝がくすぐったそうに微笑んだ。同性でありながらドキリとするような綺麗な笑顔だった。
 大きく息を吸い込んだ和輝の喉から、変声期を迎えない耳障りの良いボーイソプラノが飛び出した。


「勝つぞ!」
「おおッ!!」


 腹の底から吐き出された声は一つに纏まって、磨かれたような蒼穹に吸い込まれて行った。



風見鶏(4)





 程無くしてプレイボールが宣告された。予測不能の事態を受けながらも、最終回を残して試合が中断されなかったのは晴海の名ばかり顧問、轟の進言あってのことだったようだ。
 中断を考える相手方との会話の最中に轟いた晴海ナインの声に、考えを改めたらしい。普段の好い加減な姿からは想像も出来なかったけれど、グラウンドの外で煙草を吹かせる背中を少しだけ見直した。
 九回表は武蔵商業の攻撃だ。グラウンドに散った仲間を見渡して、蓮見がキャッチャーマスクを押し上げて叫んだ。


「しまってこー!」


 途端に彼方此方からの声が返って来る。ああ、本当に良いチームだ。少数チームにありがちなだらけ切った雰囲気も無く、全員が一つの目標へ真っ直ぐ向かっている。これが、和輝の作って来たものだ。
 三年前に自分は和輝の選択を否定したし、罵った。一言も相談せず黙って離れて行った和輝の行動は振り返ってみても身勝手極まりないし、自分達の怒りも正当だったと思う。でも、それなら俺達は和輝を理解しようと努めたかと問われれば頷けない。
 それでも、此処にあるものは誰にも否定出来ない筈だ。
 武蔵商業のベンチの奥で、皐月が今にも噛み付きそうな目で睨んでいる。けれど、和輝は其方に視線一つ向けずにバッターを見詰めていた。
 マウンドの夏川が地面を均す。ワインドアップ。ゆっくりと丁寧な一つ一つの動作がこの試合への意気込みを示しているようで、此方も身が引き締まる思いだった。
 右腕から白球が放たれる――。
 ズドン。乾いた、重い音が響き渡った。


「トーライ!」


 バッターが息を呑むのが、セカンド定位置からでも解った。
 蓮見からの返球を受け取った夏川が再度地面を均す。浅黒い項を容赦無く太陽が焼いて行く。そして、大きく振り被って――、投球。
 顔面に迫るようなストレートに、打者が引き攣ったように震えた。黒いヘルメットが太陽光を鋭く反射している。


「トラーイ!」


 たかが練習試合で、それも最終回で、連日の猛暑と厳しいトレーニングに疲れ切った体に鞭打って夏川が一球一球を確かめるように投げて行く。傍目には機械のように淡々としているのに、向けられた背中には仲間への信頼が見える。端から打たれるつもりでは投げていない。けれど、打たれても構わない。――俺達を信じているからだ。
 ふと目を向けた先で和輝が眩しそうにその背中を見ていた。


「トラーイッ! バッター、アウッ!」


 三振――。
 ナイピー、と誰より早く声を発した和輝が楽しそうに微笑んでいる。
 続く打者は明らかに緊張で固まっていた。これまでと何かが違う晴海の空気に押されるように萎縮した身体を誤魔化すように無理矢理伸ばして、バットを構える。硬直したようなフォームだった。
 一球目は膝を襲うような低目のストレート。要求通りに走り抜けた白球を受け止めた蓮見がマスクの下、一瞬だけ微笑を浮かべた。
 二球目、山なりのフォークが僅かに浮き上がった。固い動作ながらも打ち返された打球が、地を這うような鋭いライナーとなって三塁線へ向かって走った。三遊間を抜けようとする打球に和輝が跳び付いた。派手に地面に倒れ込んだ周囲で砂埃が舞い上がる。和輝がグラブの中、白球を掲げた。


「アウト!」


 ツーアウト。丁寧に白球を擦ってこびり付いた泥を落としながら、和輝がマウンドの夏川に手渡す。


「ナイピー」


 白球と共に渡された言葉に、夏川が照れ隠しのように鼻を鳴らした。
 苦笑しつつサードに戻ろうとする和輝の背中に、呟くような微かな声が向けられる。ナイスサード。はっとして和輝が振り返った先で、夏川は既に背中を向けていた。
 良いチームだ。何度も思う。橘シニアも悪いチームじゃなかった。栃木のエトワス学院だってそうだ。けれど、此処には他に無い何かがある。
 それを作ったのは、あいつなのか。


「バッチ来い!」


 前進守備を敷いたグラウンドで和輝が吼える。バッターボックスに上がったのは、蝶名林皐月。この試合のキーマンだった。
 バント警戒の前進守備でも、皐月は変わらない。ヒッティングへの意識は皆無のようだ。端から転がして足で掻き回すつもりらしい。割れたガラス片のような鋭い視線がグラウンドを射抜いている。
 先程の打者とは異なり、皐月の構えに緊張は無い。普段通りの余裕が見える。練習試合とはいえ、この局面で大した度胸だ。
 初球――。外角高めに外されたストレートを、短い腕を伸ばしてぶつけた。カィンと鳴ったバットは白球を投手と捕手の絶妙な中間距離に転がした。巧い。元チームメイトの欲目でなくとも、そう思う。一番打者の技術としては和輝が尊敬するというだけあって、他の追随を許さない。
 打球を拾い上げた先で夏川が振り返る。容易く一塁を蹴った皐月が二塁へ滑り込む直前だった。


「セーフ!」


 武蔵商業ベンチから声援が飛んで来た。二死走者二塁。こんな芸当が出来るのは和輝と皐月くらいだ。その技術は天賦の才能だけではなく、血の滲むような努力の末に獲得したものなのだろう。
 二番打者がバッターボックスに入る。皐月の出塁は、武蔵商業にとって反撃の狼煙だ。
 皐月が先を確かめるように三塁を睨む。その視線一つが彼の本心を示しているようだ。執着と依存、信頼と憧憬、嫉妬と羨望。けれど、ほんの一瞬、皐月が眩しそうにくっきりした二重瞼の目を細めた。三塁手、和輝はランナーに一瞥もくれない。打者を、前だけを見詰めている。
 夏川の放った外角へのボール球に手を出す事無く、淡々と打者が見送る。その間に皐月は簡単に三塁を盗った。ランナーの到着に三塁へ和輝が戻る。ピリリ、と嫌な緊張感が走った。
 和輝、と掠れるような声で皐月が呟いた。名を呼ばれた和輝が振り向く。口元に微かに浮かんだ笑みの意味を知っているだろうか。和輝が皐月に微笑み掛ける。ずっと変わらない、人懐っこい綺麗な笑顔だった。
 二球目。先程のボール球からの対角線の内角低めのストレート。思わず拍手を送りたくなるようなコースだったにも関わらず、打者は上手く腕を畳んで打ち返して来た。放たれた打球はピッチャーの横で地面に着地すると大きく跳ね上がった。
 しまった、と思う間も無く打球は内野を越えてレフト頭上に浮かんだ。
 けれど、皐月は動かなかった。


「セーフ!」


 一塁を走り抜けた打者が、呆然と立ち竦む皐月を怪訝そうに見遣る。それは責める視線ではなく、動けない皐月を労わる色を見せている。皐月なら余裕で本塁へ帰還出来た筈だ。
 如何したんだとどよめく周囲の中で、一人事態を理解したような和輝が困ったように微笑む。子どもの悪戯を許す保護者のような穏やかなそれに皐月が泣き出しそうに顔を歪めた。
 皐月がその名を呼び掛けるより早く、和輝が言った。


「置いて行かないよ、もう二度と」


 だから。
 和輝が手を伸ばす。それを皐月が取ることは無かった。伸ばされた掌は触れるような優しさで皐月の背を押した。
 全てを救えるとは思っていない。和輝が言った言葉を思い出す。だからこそ、伸ばされた手は絶対に離さない。救ってみせる。


「だから、手を伸ばしてくれ。頼むから――」


 祈るように、縋るように、和輝が言った。
 言葉と反対に背を押す和輝は蕩けそうな微笑みを浮かべている。伸ばした手は絶対に離さないから。伸ばしてくれなきゃ、救えないだろう。俺はお前を迎えに来たんだ。その為に此処にいるんだ。だから、如何かその手を伸ばしてくれ。
 和輝の声が聞こえるようで胸が軋んだ。彼等を包む環境は何時だって劣悪で、冷たく厳しい逆風が吹き付けていた。それでも、並んで前だけを見据えて歩いて来たんだろう?
 向かい風を探す、風見鶏のように。
 背に触れた和輝の小さな掌を受け止めるように、皐月が空の筈の掌を握った。
 二死走者一・二塁。内野が広く開いた中で、視界の端の皐月を捉える。皐月はゆっくりと歩き出し、大きくリードを取った。低い姿勢は着陸態勢に入った旅客機のようだった。
 三番打者がバッターボックスに北原だった。ベンチで設楽が声を張り上げ叫んでいる。そのどれもが皐月へ、仲間へ向けられる声援だった。
 夏川が構える。北原の目には確かな覚悟が見える。
 初球のボールは皐月への牽制だ。バッチ来い。グラウンド中から声が上がる。俺は此処だと、命を振り絞る蝉のように叫び続ける。

 鋭い高音が鳴り響いた。打球が開いた三遊間を抜けた。
 走り出した皐月に躊躇は無かった。進む先は和輝の元ではない。仲間の待つ、本塁へと向かっていた。


「セーフッ!」


 窮地からの追撃だった。けれど、レフトの宗助が拾い上げた打球はツバメ返しのようにすぐさま一塁へ放たれた。


「アウト!」


 ゲームセット!
 審判の声が響き渡っても、誰も動けなかった。ただ、一瞬の静寂の後、溢れるような雄叫びが響き渡った。
 感極まったように箕輪が和輝に跳び付いた。疲弊していた和輝が体勢を崩し、倒れそうになるのを寸でのところで夏川が支えた。それがまるでこのチームを表しているようだった。
 敗北を喫した武蔵商業のベンチを見遣る。迎える仲間を怪訝そうに見ていた皐月の肩を設楽が抱いた。動けない皐月の周りを、彼の仲間が囲んで行く。


「ナイラン!」
「皐月は最高の切り込み隊長だ!」
「お前がいて良かった!」


 その言葉が理解出来ないというように瞠目した皐月が、静かに俯いた。汗を拭うように顔面を頻りに擦る皐月を囲む仲間が苦笑交じりに叩く。
 良いチームだな。何度目かも解らない言葉を、今度は敵に思う。
 審判の促しに従って整列した先、満ち足りた充足感を漂わせた両チームが向かい合う。


「二対三で、晴海高校の勝利! 両校、礼!」
「ありがとうございました!」




 夏を思わせる日差しの照り付ける中で、皐月が立っていた。大きな二重瞼は赤く腫れぼったかった。ベンチに戻ろうとする和輝が足を止めて微笑む。


「お疲れ」


 嫌味の無い穏やかな声で言った和輝に、皐月が無表情で頷く。腫れぼったい眼のせいか少し不機嫌そうに見えた。
 良い試合だったな。淀みなく告げた言葉には何の嘘も無い。ゆったりとした動作で伸ばされた掌は体格に見合って小さいのに、幾つもの肉刺や胼胝が潰れ硬くなっている。皐月が手を取る。ただそれだけのことがまるで、生き別れた肉親との再会であるかのように眩しく見えた。
 けれど、本当は、暗闇の中で蹲っていた皐月へ伸ばされた唯一の光だったのだろう。三年の月日を経て漸く届いた祈りだったのだろう。


「和輝は、本当にすげーや」


 それまで見たことの無いような幼い微笑みで、皐月が言った。こんな顔も出来るんだな、と意外に長い付き合いになった元チームメイトを見遣る。
 和輝の手を取ったまま、皐月が此方を見た。


「おい、匠」


 相変わらずの不機嫌そうな顔で、ぶっきら棒な声で皐月が呼ぶ。俺への態度は改善されないのかよ。不満を零したかったが、一々文句を言うのも面倒だし、今更だった。俺達はこれでいい。


「約束、忘れんじゃねーぞ」


 和輝には何のことか解らなかっただろう。小首を傾げた和輝を横目に、頷いた。


「忘れねーよ」
「なら、いい」


 じゃあな、和輝。それだけ言って颯爽と皐月は仲間の元へ帰って行く。淀みない足取りに迷いは無いようだった。
 残された和輝が不思議そうに目を丸くして此方を見ていた。


「約束って?」
「お前には関係ねーよ」


 和輝の声を遮るように背中を向けて歩き出せば追い掛けて来る足音がする。それ以上追及しようともしない和輝は皆に労いの声を掛けながら仕度を始めた。
 和気藹々と和やかな雰囲気の中、一年前に交わした約束を思い出す。


――もう二度と、あいつを、独りにするな


 言われなくても、同じ過去を繰り返す気は無い。
 ほら、行こうぜ。早々と仕度を整えた和輝が左肩に鞄を担いで言った。仲間に囲まれる和輝は疲労感を滲ませながらも何処か楽しげに微笑んでいる。
 余計な心配しなくたって、こいつは独りになんかならねーよ。
 悪態吐くように内心で吐き捨てる。和輝が笑っていた。

2013.1.7