膨れた腹を抱え、満ち足りた昼下がりに呼び出された校舎裏。恥らい顔を僅かに朱に染めた可愛らしい女子生徒を正面に、箕輪翔太は激しく拍動を繰り返す心臓を治めようと平静を装っていた。
 クラスメイトである彼女とは決して親しくは無かったけれど、突然送られて来たメールに呼び出された先で期待するなという方が無理だろう。いじらしく両手を組み合わせて俯く少女の名前も碌に覚えていないのに、好意があると解った途端に可愛らしく見えるのは実に不思議だ。


「急に呼び出したりしてごめんね」
「いや、いいよ」


 落ち着け、落ち着け。
 内心繰り返しながら、気の利いた言葉一つ言えない自分のらしくない不器用さに呆れる。柄じゃないだろうと思いつつ、こうしたイベントは中学以来なのだから仕方が無いと自分に言い訳した。


「これ……」


 少女がポケットに入れていたらしい掌サイズの可愛らしい薄桃色の封筒を、震える両手を添えて突き出した。
 来た、来た、来た。逸る鼓動に落ち着けと内心繰り返しながら手を伸ばす。
 久しぶりの青春らしいイベントににやけてしまう。やべえ、今俺、変な顔してねーかな。鏡見たい。
 伸ばした指先が封筒を受け取る寸前、少女が僅かに顔を背け、恥らいながら言った。


「蜂谷君に、渡してくれる?」


 上っていた血液が、急速に冷え下がって行くのが、解った。




「だああああああッ、和輝のバカヤロー!!」


 他クラスに単騎特攻をしかけた俺を、小馬鹿にするような白く冷えた視線が出迎えてくれた。
 平静のテンションなら踵を返してしまいそうな洗礼を受けながらも、怒りの収まらない俺が豪快な足音を立ててターゲットの座る席に歩み寄る。傍にいた匠が呆れたような白い眼を向けて来る。
 バシン、と先程の薄桃色の封筒を机に叩き付けると、眉一つ動かさないのほほんとした顔で和輝が小首を傾げた。あざとい、あざとい仕草だ。そう思うけれど、悔しいことに様になったその姿は同性でもドキリとしてしまう。


「どーした、箕輪」


 突き付けられたものを一瞥して、何時もの綺麗な微笑みを浮かべて和輝が言った。
 くそ、今日も格好良いな。残念なことに、俺は今までの人生でこいつ以上のイケメンに出会ったことが無い。くっきりした二重瞼の大きな黒目がちの瞳、長い睫、通った鼻筋、小さな唇。短く切り揃えた髪はワックスなんて使っていないし、後頭部には寝癖も残っているのに、自分のルックスには無頓着なその元来の性格すら格好良いなんて卑怯だろ。
 何の手入れもしていないのに整った眉を跳ねさせ、和輝が封筒を再度見る。


「何これ」
「お前宛てだとよ!」


 収まらない苛立ちのままに叫ぶが、和輝は気にした風も無く一言「へえ」と言って、何の感慨も無いまま開封していく。一目でそれが何かなんて誰にでも解るだろう。それなのに、嬉しそうな顔一つせずに受け取るというのは如何なんだろう。尤も、迷惑そうにすらしていないのだから文句を言うのは心が狭いかも知れない。
 手紙に一通り目を通すと、和輝は徐に机からルーズリーフを取り出した。
 えーっと。
 唸りながらシャーペンを走らせる。綺麗な字ではない。けれど、一文字一文字丁寧に書かれた角ばったその文字には好感が持てる。


「……おい、」


 思わず声を掛けると、和輝がきょとんと顔を上げた。色素の薄い瞳が此方を見上げる。
 ルーズリーフにはテンプレートのような断りの内容が記されていた。彼女の手紙は読んでいないが、和輝の返答だけで察せてしまう。というか、こんなところで返事を書くなよ。
 デリカシーが無い奴だな。そう思うけれど、家に帰って夜な夜な手紙を書き綴る和輝を想像して寒気がした。そんな柄じゃないな。
 手紙を書き終えたらしい和輝がそれを丁寧に四つ折りし、ポケットに突っ込んだ。


「何組の子だっけ」
「……封筒に書いてあるだろ」
「そっか」


 此方のちょっとした腹癒せも意に介さず、和輝は封筒を裏返して確認する。
 黒板上部に貼り付けられたシンプルな文字盤の時計を見遣り、和輝は静かに椅子から立ち上がった。動作一つ取っても綺麗だ。


「じゃー、ちょっと行って来るな」
「ちょっと待てぇえ!」


 早々に書き終えた手紙をすぐさま届けに行こうとする和輝を引き留める。人伝に渡そうとしないだけマシだけども、貰ってすぐ断るというのは如何なものだろうか。せめて、一晩くらい悩めよ!
 立ち止まった和輝が困ったように首を傾げた。寄せられた眉と透き通るような瞳が庇護欲を掻き立てる。本当に何なんだこいつ。女じゃなくて良かったー!


「何でお前そんな平然と返事書けるんだよ! 少しは悩めよ!」
「悩んで欲しいのか?」


 言われて押し黙る。そりゃ、そうだけど。
 野球一筋で勉強も恋愛もすっ飛ばして、自分を後回しに仲間のことばっかり考えてるこいつだから、何処までも付いて行ってやろうと思うし、支えてやりたいんだ。部員の誰よりチビの癖に、他の誰より男前なこいつを憎たらしいと思う以上に尊敬している。


「まあ、剃刀レターが来なくなっただけ有難いよなあ」


 なあ、匠。
 隣の席に座った匠に共感を求めるが、返事は無かった。
 一年前のことは思い出すのも憚られる地獄のような日々だった。世間からの痛烈なバッシングを受け続けた和輝は非情な悪者として学校中の敵だった。その常人とは一線を引く容姿すらも標的となって無関係の第三者からの恰好の攻撃の的となってイジメと称されるのも正しい程の嫌がらせを受けていた。
 そして、俺はその非情な現実を間近で見て来たし、簡単に掌を返したことを知っている。まるで仙人のように呑気に微笑んでいる今の和輝が信じられない。俺なら廃人になっていたと思うけれど、やはり、和輝は常人ではないと思う。
 仙人こと我らがキャプテンは今日も美しく微笑んでいる。


「俺は今は誰とも付き合う気は無いし、そんな余裕もねーんだよ」


 はっきりと告げられた言葉に嘘偽りは無い。
 知っている。和輝が誠実な人間であることくらい、知っている。そうでなければ、ただのチームメイトの為に二年もの間、世間から痛烈なバッシングに耐えられた筈が無い。二年前の事件は、言ってしまえば偏に少女の身勝手な自殺だ。それを庇う為に和輝は自らの身を晒して事実を隠蔽しようとした。少女を救えなかった自分への罰として、その状況を甘んじて受け入れ、終に弁解すらしなかった。
 和輝へ好意的なマスコミ関係者によって大々的に知らされた事実によって和輝の無実は晴れ、その聖人ぶりに世間は驚嘆し認識を改めた。今の和輝はヒーローで、スーパースターだ。
 二年前に併発した事件によって利き腕である右腕と肩を故障した和輝は再起不能とまで言われたけれど、今は熱心なリハビリによって回復しつつある。過去以上の実力を発揮し、その才能を鼻に掛けない姿は好感が持てる。
 何なんだよ、こいつ。


「俺も和輝みたいなイケメンになりたかったぜ……」
「そうか?」


 嫌味無く和輝が首を傾げる。真っ直ぐ向けられる目に偽りは無い。
 その澄んだ瞳で、和輝が言う。


「俺は箕輪の方が格好良いと思うけどな。俺が女なら、箕輪と付き合いたいよ」


 さらりと告げられた言葉に、がくりと肩が落ちる。
 本当、何なんだよ、こいつ。顔も声も性格もイケメンなんて、卑怯だろ。異性だけでなく同性にも好かれるなんてずる過ぎるだろ。


「その子には悪ィけど、はっきり断りの返事はするよ」
「何なんだよお前……。この間の、幼馴染と言い」


 類は友を呼ぶ、という諺を俺は身を持って実感している。
 イケメンの和輝の周りにはイケメンが集まる。匠もその内の一人だし、その幼馴染である少女は絶世の美少女だと思う。慣れてしまっているのが和輝は何時だって首を傾げるだけだ。


「あの子との関係は如何なったんだよ」
「ん?」
「前に駅まで来てた子だよ」
「ああ、奈々か。俺の幼馴染だよ」


 そうして和輝は意にも介さない。あんな一般人が居て堪るか!
 世界は不平等だ。



少年Sの憂鬱(1)




 和輝はずるい。
 そりゃ、性格は基本的に竹を割ったようにさっぱりとしていて、大抵の物事は後に引き摺らない。情に厚くて穏やかで、その反面で意外と頭に血が上り易くて大雑把だ。脳味噌は致命的な馬鹿で成績は万年底辺なのに、小さな体格の割に運動神経は抜群で大抵のスポーツは初見で難無くコツを掴んで熟してしまう。
 俺達だけが知っている和輝は、非常に責任感が強い熱血漢だ。そして、彼の最大の短所は、類稀な、常軌を逸した自己犠牲主義である。俺達はその為に何度も傷付く和輝を見て来た。
 そんな和輝だから傍にいたいと思うし、支えてやろうと思うのだ。

 でも、俺だって男だから、モテる和輝を見れば恨めしいし、妬ましい。それを歯牙にも掛けない様は清々しいけれど、やっぱり羨ましいんだ。


 単騎特攻を無駄足に終えた俺が教室に戻ると、件の少年に恋する少女が期待に満ちた輝く眼差しを向けて来た。いや、そんな目をされても困る。俺はただの郵便屋さんだっただろ。
 そんな相手に、今日中に和輝が断りの返事を告げに来るなんて口が裂けても言えなかった。曖昧に言葉を濁して席に着くと、少女は空いていた前の席に座って俺を見詰めた。
 机に肘を突いて此方をじっと見詰める姿は実に可愛らしい少女だ。活発そうではないけれど、性格の良さそうな可憐な微笑みを浮かべている。肩口まで伸ばされた色素の薄い髪は僅かに波打って、窓から零れる微風が揺らしていた。
 悪いけど、期待には応えられないぞ。
 内心で吐き捨てた言葉は決して声に出していなかった。けれど、少女は眉を寄せて困ったように微笑んだ。


「駄目だったでしょ?」
「えっ?」
「ごめんね。解ってた」


 そう言って微笑む少女は、やはり、美しかった。
 内心動揺しながら慎重に言葉を選んでいると、少女はさらりと言った。


「和輝君、部活で一杯一杯だもんね。こんなことお願いして、ごめん」
「いや、俺は別に」


 何だよ、じゃあ俺が四苦八苦する必要無かったじゃん。
 そう思いながら、目の前の少女を見詰める。この子の名前を思い出す。和輝へ宛てられた手紙に書かれた文字を思い浮かべた。


「神部さんは、何で和輝のことが好きなの?」


 そうだ、神部響子。名前に相応しく吹奏楽部でサックス奏者。野球部の応援に、炎天下にも駆け付けてくれていた。
 神部さんは躊躇いがちに目を泳がせながら僅かに頬を紅潮させた。


「一目惚れ、って言ったら如何する?」
「ええ?」


 質問に質問を返され、不快感以上に驚く。
 和輝に一目惚れする女の子は残念ながら少なくない。あの容姿だ。特に年上の女性には大層人気がある。
 神部さんは悪戯っぽく舌を出して笑った。


「嘘嘘! 冗談!」
「どういうこと?」
「うん。実はね、元々は私の友達が和輝君のこと好きだったんだよね」


 如何いうことだと怪訝に眉を寄せれば、少女は紅潮した頬を冷ますように掌で顔を仰いだ。


「春先だったかな。私の友達が、和輝君に一目惚れしてね、手紙で呼び出したんだ。私は一目惚れなんて信じて無かったし、和輝君って色んな噂があるじゃない? ……こんなこと言うと、箕輪君も気分悪いだろうけど、実は女の子とっかえひっかえで遊んでるって噂もあったの」


 初めて聞いた。
 これでも、野球部ではかなりの情報通のつもりだったけれど、改めなくてはならない。和輝に関する噂が、一介の学生に不釣り合いな程に膨大であることは知っていた。それでも、最近は野球部での活躍や何時でも真摯な交友関係の為に好感的なものに変わって来たと思っていた。
 神部さんは、和輝を庇うように言った。


「きっと、振られた子が腹癒せに流したデマだったんだろうね。でも、和輝君ってすごくモテるから私も半信半疑だったの」


 世界は不条理だ。和輝が他人に対してそんな扱いをしたことなんて、一度だって、無い。
 呆気無く掌を返した級友にも何ら変わらぬ対応をする和輝は大人だ。でも、それを知っているのは野球部とか、本当に親しいクラスメイトくらいなんだろう。
 寂しく思いながら神部さんを見れば、やはり困ったように微笑んでいた。



「友達も和輝君に告白するなんて言うから、心配だった。止めようかと思った。でも、その子は思い立ったら一直線だったから、すぐに手紙書いて下駄箱にいれたんだ」


 春先ならば、一年前の事件の蟠りも殆ど身を潜めて剃刀レターの類も来なくなった頃だ。和輝がその手紙に目を通さずに処分したということも無いだろう。


「でもね、その子、直前になって怖くなっちゃったみたいで……。約束をすっぽかしちゃったんだ」
「はあ?」


 思わず零した本音を、慌てて口を押えて誤魔化す。けれど、既に口から放たれた言葉を受け止めて神部さんが苦笑した。そりゃ、そうだよね。……そうだろ。


「放課後だった。私は告白に反対だったから、すっぽかしたことも気にしなかった。むしろ、良かったと思ってた。和輝君もわざわざ律儀に来る筈無いと思ってたし」
「……和輝はそんなことしねーよ」
「うん。そうだった。時間通りに、ちゃんと来てくれたんだよ」


 思い出すように神部さんが言った。


「私はサックスの練習しながら、教室から校舎裏の和輝君を見てたの。部活の無い日だったみたいで、制服のまま其処で待ち惚け」


 想像して、内心舌打ちしたい気持ちだった。
 練習が休み? ふざけんな。きっとその日は、通院の筈だったんだ。再起不能とさえ言われた右腕と肩への終わりの見えないリハビリの真っ最中だった。


「そうしたら、雨が降って来て。流石に帰ると思ったら、ずっとその場に直立不動。何で其処までするのかって驚いたよ。そんなに、あの子のこと好きなのかって」


 ああ、あの日だ。
 リハビリの為に部活を休んだ日、何故かずぶ濡れの和輝と部室で鉢合わせた。お前、病院は如何した。なんて匠に怒鳴られて、皆に心配されて、苦笑いで躱していた和輝。


「私も慌てて友達呼んで、校舎裏に行かせたの。其処までして待ってるんだから、これは脈有りだなって期待したら、『今は部活で手一杯なんだ、ごめん』って良い笑顔でさらっと言ったんだって。勿論、文句の一つも言わないで」


 神部さんが苦笑する。


「友達も期待して行って断られて、泣きながら何でこんなに待っててくれたの、って訊いたんだって。そうしたら、擦れ違いになったら困るでしょって当たり前みたいに答えてくれたんだって。勿論、泣いてるその子を慰めるような期待持たせることはしなかったって」


 そうだ。それでこそ和輝だ。
 何時の間にか俺は、和輝への嫉妬や羨望を何処かに置き忘れて、その男前な対応に鼻が高くなっていた。


「びっくりした。和輝君にしたら、告白なんて日常茶飯事でしょ?」
「多分、そういうことじゃない」
「うん。だから、和輝君のこと見直しちゃって。ああ、この人は私が思ってるような人じゃないんだって」


 あっけらかんと笑う神部さんには悪いけれど、俺は内心苛立った。神部さんにじゃない。その、友達に。
 あの後和輝がどんな目に遭ったか知ってるか?
 春先の雨に打たれて熱出して寝込んだんだぞ。一晩で回復したけど、足取りも覚束無くて匠に背負われて帰ったんだぞ。通院には間に合わなくて、冷やした肩は悪化したんだぞ。知ってるか。
 直前で怖気付くくらいなら、初めから呼び出しなんかするな。何の責任も取れない癖に、俺達のキャプテンに余計な面倒負わせるんじゃない。
 俺は内心で悪態吐きながら、表面上は平々凡々と頷いた。だって、和輝はそんなこと望んじゃいない。


「それから野球部を意識するようになってね。そうしたら、和輝君の活躍とか目の当たりにして」


 世間からの逆風とか、それでも立ち向かっていく後姿とか。
 神部さんが微笑む。悔しいけれど、完敗だった。和輝に。
 ずりーよ、和輝。こんな話聞いたら、余計お前のこと嫌いになれねーじゃん。嫌いになる予定なんて無いけど。


「気付いたら、私が和輝君のこと好きになってたの。笑っちゃうでしょ?」
「いや、解るよ」


 そう?
 神部さんが微笑んだ。

2013.1.13