放たれた凡庸なゴロを、構えていた箕輪が掬い上げる。ひょい、と投げられたボールは呆気無くファーストミットに飛び込んで視界から消えた。
 アウト。審判役をしている空湖が言った。一塁線の半ばで足を止めた宗助が表情無く踵を返す。和輝は何か声を掛けるべきか逡巡し、結局、何も口にはせず次の打者を促した。
 晴海高校の休日練習は、徹底的な基礎の反復練習から始まる。それだけで一日の大半が終わってしまう為、ボールに触れる時間はバッテリーでも無ければ極僅かだ。空が朱を帯びて、ナイター設備の無いグラウンドにぼんやりと闇が落ち始めた頃、漸くノックが行われる。
 基礎は重要だが、此処まで徹底するチームは少ない。今年度の新入部員の大半もこの厳しい練習に音を上げて去って行った。
 嫌な感じだ。帽子の下から流れた一筋の汗を手の甲で拭い、和輝は大きく息を吐き出した。
 あれ以来、孝助に目に見えて避けられている。挨拶と業務連絡くらいだ。後輩と親睦を深めることはチーム上必要不可欠だが、その相手がこの調子では参ってしまう。だって、自分達が引退するまで後半年しかない。二つ年下の彼等と過ごせる時間は想像する以上に短いのだ。この現状で過酷な夏を勝ち進める筈が無い。構い倒そうとは思わないけれど、逃げられると追い掛けたくなってしまう。
 孝助は鉄面皮を崩さないけれど、此方へ向けられる嫌悪は明らかだ。そういう真正面から向かって来る敵意は嫌いではない。正面切って罵られる方がマシだと、この二年間で痛感した。
 だから、恐ろしいのは孝助ではない。


「キャプテン」


 呼ばれ、振り返るまでに間があったことに気付かれただろうか。
 目を向けた先で、鳴海宗助が人好きのする綺麗な微笑みを浮かべていた。


「何考えてんですか」


 お前こそ。
 腹の中で吐いた言葉は口にせず、鏡に映したような微笑みを浮かべてやる。宗助が口角を釣り上げた。嫌な笑みだ。曲者相手に、馬鹿正直な答えを返すつもりはない。腹の底を見せない相手に、全てを曝け出す必要も無い。


「この後のメニューだよ」
「なぁんだ」


 けろりと言い放って、宗助が言う。


「てっきり、孝助のことかと思ってました」
「何で?」


 即答する声にも顔にも感情は載せない。そうする必要が無い。


「この前の鼻血、孝助がヘマしたんですよね。すみません」


 素直な謝罪に見せて、嫌味にも聞こえる言葉だ。
 兄の尻拭いか? 鼻血じゃ手緩いって?
 意地の悪いことを考えながらも感情は見せない。見せるべき相手じゃない。


「スポーツに怪我なんて付き物だろ。もし、気にしてんなら、余計なお世話だよ」


 嫌味無く笑ってやれば、宗助が笑みを深めた。放つ言葉以外の水面下で交わされる攻防。
 宗助はまるで楽しくて仕方が無いと言うように、くつくつと喉を鳴らしながら言う。


「キャプテンって、優しそうに見えて結構強かですよね」
「よく言われるよ。同類には」


 付け加えた言葉の意味が解っただろう。互いの本音なんて見え透いている。こんな上辺だけの言葉の遣り取りに何の意味があるのだろう。互いの腹の底を探り合う必要があるのか。同じチームメイトで。


「和輝先輩とは、じっくり話してみたいですね。……二年前の事件について」
「奇遇だな」


 肩を竦め、わざとらしくおどけて見せる。俺の地雷はそんなところに埋まっちゃいないぜ。嘗めるなよ、一年坊主が。


「俺もお前に訊きたいことがあるんだ。天才の弟に生まれたその葛藤を」
「同じ境遇として?」
「まさか。俺はお前みてーに、一々諦念して腐ったことなんてねーし」


 喧嘩を吹っ掛けたのはお前だ。地雷を探すのも、嘘を見抜くのもお前になんて負けやしねーよ。


「世間を恨んだことも、才能を妬んだことも、自分を誤魔化したことも、俺にはねーよ」


 其処で、終に宗助が口を噤んだ。伊達に二年も長く生きてねーよ。単純な口喧嘩の方がまだ分があっただろうに、わざわざ人の土俵に上がって来たんだ。
 せいぜい後悔しろ。
 手を伸ばした以上、今更嫌がったって俺はその手を離さない。泣き叫んでも許してやらない。謝罪なんていらねーよ。黙って其処から引き上げられる覚悟をしろ。



Ding dong bell.(2)




「馬鹿じゃねーの」


 宗助に売られた喧嘩を倍で買い取ってやったことを話すと、匠が心底呆れたように言った。そんなの今更だろう。
 日が完全に落ちて闇に染まった帰路を辿る野球部の短い列。殿を務めると言わんばかりに最後尾をだらだらと歩いていた。それぞれ目的地が違うのに、キャプテンだから常に先頭を歩かなければいけないなんて理不尽なルールは無いだろうと俺は思う。そういうところが、クソ真面目な匠には理解出来ないらしい。
 件の兄弟は遥か前方を歩いているので会話を聞かれる心配も無い。いや、別に聞かれても困らないけどね。俺は。


「天才の兄貴か……。蜂谷祐輝の弟としては、如何なんだよ、蜂谷和輝」


 わざとらしく匠が言った。蜂谷祐輝は俺の兄で、天才の名を欲しいままにするスター選手だった。今はプロ野球選手として新人ながら、今世紀最強の投手とか言われてる。(今世紀が終わるまで何十年あると思っているんだろう)
 二つ上にそんな兄を持つ俺を、世間は日の目を見ない可哀想な弟と言いたがっていた。でも、俺は自分が可哀想だなんて思ったことは無かった。この先も無いだろう。兄は兄だろう。自分は自分だ。勝手に向けられた期待に対する勝手な諦念には理不尽さを覚えるけれど、余り興味は無かった。だって、実際、そういう蚊帳の外の人間に出来ることなんて高が知れている。知らん顔していれば大抵通り過ぎて、調子良く掌を返す。この二年間を堪えられたのは、そういう境遇に慣れていたこともあるのだろう。


「俺には解んねーよ。血の繋がった兄貴を、高が他人の評価を理由に憎いだなんて思う訳ねーだろ」
「はは。お前はそういう奴だよ」


 何処か馬鹿にしたような調子なのに、腹が立たなかったのは、その裏に潜む匠の安堵が解るからだ。そういう奴で良かった。そんな匠の言葉が聞こえるようだ。


「疎ましいとは思わなくてもさ、一度くらいは思っただろ。兄貴になりたいって」
「……考えたことも無かった」
「本当、お前は期待を裏切らない男だよ」


 今度こそ、匠は呆れ切って可哀想なものを見る目を向けた。何でだよ。


「別に羨ましくねーし。俺には匠がいるから」


 兄ちゃんみたいな才能は無いかも知れない。でも、俺にとっての匠を兄ちゃんは持ってないだろう。
 言えば匠が驚いたように目を丸くして、鼻の頭を掻いた。照れている時の癖だ。恥ずかしい奴だな、なんてそっぽを向いて匠が言った。


「あいつ等、如何にかしねーとな」


 列から頭一つ分飛び抜けた孝助と、隣に並ぶ宗助を顎でしゃくる。匠が曖昧な返事をした。


「俺達は少数精鋭だから。ちぐはぐなチームで夏大に挑みたくない」
「放って置けよ。プレーには問題無いんだから」
「嫌だ。喧嘩を売って来たのはあっちだぞ」
「子どもか」


 匠が目を細めて吐き捨てた。
 しょーがねーなー。匠が言った。


「俺もやる」
「……えええ? 如何した」


 如何いう風の吹き回しだ。何時も面倒事は遠ざけてた癖に。


「俺だって相棒をコケにされてんだぞ。腸煮えくり返ってるっつの」
「はあ」


 間の抜けた声を返せば、苛立ったように匠の眉間に皺が寄った。柄でも無いことを言う匠の非だろうと思うけれど、声に含まれた隠そうともしない本心に浮足立つ。
 本当に、こいつは面白い。
 頑固で、真面目で、冷静に見えて熱血漢。放任主義に見せて、責任感が強い。現実主義者に見せかけて理想主義者。そういう裏表を隠さず見せるのは自分だけだと思うのは、聊か気分が良い。信頼されているとその度に感じる。
 腹の底から込み上げる笑いを殺し切れず、つい漏れた声に匠が忌々しげに顔を歪めた。


「何、笑ってんだよ」
「いや、俺は本当に恵まれた人間だなって改めて思ったんだ」


 二年前の傷害事件で世間に叩かれた自分を守る為に、匠は無関係だったのに傍に来てくれた。罵詈雑言の盾になり、降り注ぐ悪意の傘になり、縋り付く壁になってくれた。怪我をすれば真っ青になって飛んで来てくれる。危害を加えられれば自分のことのように怒ってくれる。
 自然と軽くなる足取りでアスファルトを踏み締める。幾度と無く通い続けた帰路は、嘗て事件に巻き込まれる切欠となった忌まわしい場所だった。それを恐れず進めるのは仲間が、親友がいたからだ。
 此処にいられた奇跡を、お前等は知らない。
 この胸に溢れる歓喜を表現する言葉を知らない。伝え切れない感謝を如何すればいいのか解らない。


「ありがとう」


 振り返れば、匠が目を丸くしていた。
 なあ、伝わってるかな。俺はお前等に会えて、本当に本当に嬉しいんだ。世界中に自慢して回りたいくらい誇らしいんだ。お前等を守る為ならどんな嵐も暗闇も泥濘も迷わず進めるんだ。前だけを見て歩けるのは、後ろにお前等がいてくれるって信じてるからなんだよ。
 お前等がいれば、俺は何も怖くないんだよ。何度でも立ち上がれるんだよ。ヒーローにだってなれるんだよ。なあ、伝わってるか。


「意味、解んねーこと言ってんな」


 吐き捨てるように言って、匠が鼻の頭を掻いた。照れている時の匠の癖だった。
 意味なんて解ってる癖に。意地悪く思った。


「なあなあ、匠。相談なんだけど」


 にやける口を隠さずに言えば、匠は何時もの不機嫌そうな顔を向けた。伊達に生まれた時から一緒にいた訳じゃない。碌な相談じゃないと解っている筈だ。
 話なんて聞かずに突っ撥ねればいいのにね。匠がそうしないと解っていて言う俺は大概性格が悪いと思う。


「明日、練習を早めに切り上げてやりたいことがあるんだ」
「……メニューのことなら、箕輪と話せよ」


 相変わらずの真面目な返答は、此方の提案を躱そうとする抵抗だ。


「メニューっちゃメニューなんだけどね」


 前方を歩く彼等に聞かれぬように、匠に耳打ちする。聞き終えた匠が耳を疑うような声を上げ、何事かと振り返る仲間を笑顔で躱す。
 お前、何言ってんだ。ふざけんな。意味解んねーよ。馬鹿じゃねーの。
 捲し立てるように吐き出された否定の言葉は無意味だ。そんなこと、解ってる癖にわざわざ言葉にする匠は本当に真面目だ。


「明日が楽しみだなぁ」


 吐き出された匠の溜息で逃げた幸せは如何程だろう。
 でも大丈夫。逃げた幸せは俺が代わりに捕まえてやるから。遣って来る不幸は俺が追い払ってやるから。今度は俺がお前等の盾に、傘に、壁になるんだ。




 翌日の夕暮れ。何時もの練習風景。早めに切り上げられた練習後、何も告げずに制服へと着替えを促す。
 納得のいかないような仲間達の不満顔も、これから崩れることだろう。
 全員が着替え、帰り支度を終えた。部室前に集合させ、闇に沈む校舎を見遣る。


「好い加減、説明しろよ」


 困惑したように箕輪が言った。副キャプテンの箕輪にすら何も告げないということは、抜き打ちメニュー以外ではない。帰り支度をさせたことから、練習でないと解るだろう。
 大会まで後僅かなのに、練習を早めに切り上げることも不可解だろう。早めに切り上げるくらいなら休息日を作る。
 不満の吹き出しそうな仲間の前に、鎖に繋がれた金属片を提示した。


「……鍵?」


 銀色の金属片を見て、箕輪が言った。
 予想通りの反応に嬉しくなる。


「御名答! これは、校舎の鍵だ」
「はあ?」


 察しが悪い奴等だなぁ。苦笑すれば、事情を唯一知っている共犯者の匠が明後日の方向に視線を投げる。


「校舎内の施錠確認を、今日は野球部がすることになった」


 所謂、鍵当番だ。
 通常、晴海高校の施錠確認は用務員及び当直の教員の業務だ。本日の当直は我らが置物顧問、轟先生だった。出不精な轟先生に代わって施錠を行うことを買って出ただけのことだ。轟先生は怪訝そうにしていたけれど、下校時刻までに校舎内から出ることと、確認をしっかりと行うことを念押しして承諾してくれた。


「施錠確認って……、何でそんな面倒なこと」


 醍醐が素直に言った。愛すべき馬鹿正直な後輩だ。


「俺が何の考えも無く、面倒なことすると思うか?」


 笑みを深くして言えば、醍醐が無表情に首を振った。
 周囲が静まり返る。他の部活も練習を終え、片付けに入る頃合いだった。
 空を見上げる。都会の空は明るく星は居場所を失いつつある。それでも確かに瞬く僅かな星を見遣り、点在する外灯と明かりの消えた校舎を確認した。


「良い頃合いだな」
「だから、如何いう……」


 箕輪が吐き出そうとする疑問を遮って、声を張った。


「これより、第一回、晴海高校野球部肝試しを行う!」


 イエイ!
 声を弾ませて拍手までしてみたけれど、部員の反応は錚々たるものだった。

2013.2.11