息荒く状況を繰り返す醍醐先輩の声を聞き流しながら、俺は肩を落とす。
 確かに十三段あったんだ。見てただろ、空湖?
 突然問い掛けられ、俺は答えに迷った。否定も肯定も無意味だった。だって、俺が見ていたのは階段を下る最後の最後に脚を踏み外した醍醐先輩の姿だった。倒れ込む醍醐先輩を受け止めたキャプテンも苦い顔をする。登る方に集中していたから、下る時まで一緒になって段数を数えていた訳じゃない。
 共感を得られず俯く先輩には悪いけれど、学校の七不思議なんて都市伝説だと思う。もう階段を上りたくないという醍醐先輩と付き添った蓮見先輩を残した八人で再度階段を上り、十二段であることを確認してからも先輩は何処か納得いかないようだった。
 恐怖の余り数え間違って、階段を踏み外したんだろう。醍醐先輩以外の見解はそうだった。
 キャプテンは二人を残し、施錠されている筈の屋上への扉を簡単に押し開けた。鍵が故障しているんだと告げたキャプテンに表情は無い。相変わらず読めない人だ。


「屋上には七不思議の一つ。繰り返し、がある」


 扉の向こうには、都会の光に姿を掻き消された星空の名残があった。
 明るい夜空の向こうに満月が見える。例えこれが三日月だったとしても不気味に感じただろう。


「よくある話だ。屋上から自殺した男子生徒が、自分の死に気付かず繰り返し投身自殺をするという」


 キャプテンはそれ以上は知らないようで、その男子生徒の自殺の理由も場所も詳しくは語らなかった。
 ただ、静かに欄干に手を添える。


「じゃあ、空湖。此処から、下を覗き込んでくれ」


 不敵に笑うキャプテンの真意は読めない。この人は何時だってそうだ。単純そうに見えて、熱血そうに見えて、実はそうじゃない。どんな発言にも行為にも裏があって、易々と挑発に乗って来ない。先輩達は揃って救えない馬鹿だと評価するけれど、極端な考え方をしているだけで、この人は実は本当は、物凄く頭の回転が速い人なんじゃないかと俺は思う。
 言われた通り、キャプテンの横に立つ。既に全校生徒は下校し、グラウンドには人影一つ無い。まばらな外灯が照らすグラウンドを一瞥し、促されるままに視線を真下に移す。


「あっ」


 声を上げたのは自分だったというのに、それがまるで遠い世界のようだった。
 此方を見上げる二つの目。真一文字に結ばれた口元がゆるりと弧を描く。
 声を失った俺の身体が何者かに引き摺られるように欄干の向こうへ傾いた。デジャヴだ。先程の醍醐先輩の姿が脳裏に過り、呼吸が止まる。
 上半身を乗り出した俺の腕を、何者かが掴む。声が聞こえた。

 お い で

 途端、全身に鳥膚が立った。
 腐り落ちる寸前のようなどろどろとした声に視界が一瞬暗くなった。
 誰か。誰か。
 声を上げたのは俺か、それとも。


「大丈夫」


 状況を何もかも察したような力強い声に、硬直した体が動き出す。ゆるりと顔を上げた先にキャプテンの横顔があった。その視線は何処か遠くを見据え、俺が見たあの双眸等見えていない様子だった。
 キャプテンが言った。


「空湖は行かないし、行かせない」


 囁かれた声は、仲間には届いていないようだった。背中に感じる仲間の気配は訝しむようで、此方を労わるような声に満ちている。キャプテンが微笑んだ。


「繰り返す幽霊……。空しい存在だな」


 静謐な声が響き渡る。この人には一体何が見えているのだろう。
 俺の腕を掴んでいた手がゆっくりと離れて行く。そして、その冷たく歪な掌は、キャプテンの細い腕を掴んだ。


「今度は俺か? 節操の無いことだ」


 くつりと、皮肉っぽく嗤う。離すまいと力を込められた歪な蒼白い掌が爪を立て、キャプテンの皮膚を破いた。其処で異変に気付いたらしい匠先輩が声を上げ、慌てて駆け寄って来る。
 けれど、キャプテンは全てを受容するような美しい微笑みを浮かべて、死刑宣告のように厳しい口調で言い放った。
 残念だけど。キャプテンが言った。


「俺はもう、選んでしまった」


 その瞬間、腕を引き千切らんばかりに掴んでいた歪な掌が静かに離れた。諦念にも似た弱々しさで離れた掌はゆっくりと木の葉のように落下し、闇の中に消えて行った。



Ding dong bell.(4)




 排水溝から呼ぶ声。魔の十三階段。屋上の繰り返す幽霊。
 施錠を確認しながら回る学校の七不思議。宗助は何事も無かったように先頭を歩く小さなキャプテンの背中をじっと見詰めた。
 音楽室の歌う肖像。理科室の歩く人体模型。増える飼育小屋の青い兎。
 屋上以来、特に怪異に遭遇することなく作業は順調に進んだ。顧問と約束した時刻まであと少しだ。残すところは職員室のある一階。唯一大人が存在する場所に無意識に安心する。あんな置物顧問でもいないよりはマシだ。
 明かりの灯った職員室から離れ、キャプテンは皆を連れて北階段へ向かった。最初に上った階段を避けるように擦り抜け、向かった先は階段下の倉庫だった。
 埃っぽい倉庫は碌に掃除もされていないのだろう。両開きの青い扉が開かれる。闇に包まれた倉庫内は物陰一つ解らなかった。


「最後の七不思議を教えてやるよ」


 迷いの無い足取りでキャプテンは真っ直ぐ、倉庫の奥へと歩いて行く。暗闇の中へ突き進む彼の後を追ったのはやはり匠先輩だった。次いで箕輪先輩と夏川先輩が歩いて行く。彼等の中には確かな絆がある。それは地獄と称される二年間の中で築いて来たものだ。
 星原先輩が飄々とした態度を崩さずに足を踏み入れる。先程の事故がトラウマになっているらしい醍醐先輩は蓮見先輩と顔を見合わせ、渋々と入って行った。空湖が無表情に追い掛ける。
 俺と孝助は立ち尽くしたまま、動けない。
 振り返らないキャプテンが足を止める。倉庫に入ろうとしない俺達には見向きもしない。


「過去を見る鏡」


 倉庫の奥に安置された大鏡を引っ張り出して、キャプテンが言った。
 煤けた白いカバーの掛けられた鏡は長い間使われていなかったのだろう。それにも関わらず、一点の曇りも無く磨き上げられているのが不気味だった。


「この鏡に見えるのは置いて行かれた過去だと言う」


 未来が見えるというのは良く聞く話だ。果たして、過去が見えるというその鏡の価値は何だろう。
 興味本位で一歩足を踏み出せば、隣の孝助は立ち尽くしていた。
 其処で、漸く理解する。キャプテンが肝試しなんて言い出したのは、俺達を此処に連れて来る為だったんだ。置いて行かれた過去を直視させる為に、企画したのだ。
 余計なお世話だと、腹の底から苛立ちが込み上げる。
 幾ら先輩でもキャプテンでも、人の過去を詮索する権利なんて無い。


「午前零時とかじゃなくていいんですか?」


 星原先輩が鏡を覗き込みながら言った。傍から見れば何の変哲も無い鏡のようだった。
 キャプテンは鏡を真っ直ぐに見据えている。


「見るべき人が見れば、見えるものらしいぞ」


 それは何と言うか、酷く曖昧だ。肩透かしな語り部に呆れる。
 馬鹿な振りをして、実は物事を深く考えている策士なところ。易々と腹の底を読ませない癖に、行き当たりばったりで無鉄砲なところ。俺はこの人が読めない。解らない。


「何か見えるか?」


 夏川先輩が言う。それぞれ鏡を覗き込みながら首を傾げる。噂は噂ということだろう。
 キャプテンに文句を零す醍醐先輩の後ろで、顔を蒼くした空湖が立ち尽くしていた。


「空湖?」


 言葉を失ったような空湖に声を掛ける。空湖はゆるりと腕を上げ、鏡に向けて指を突き付けた。半袖シャツにより露わになった腕には赤い掌の形の痕が残っている。屋上で何があったのかは知らない。けれど、何も無かったとは思えない。
 空湖が、震える声で言った。


「そら、が」


 空?
 俺が首を傾げ鏡を覗くと、其処には有り得ないものが映っていた。
 立ち尽くす二人の少年。鏡の前にいる野球部員の姿は掻き消され、俯く背丈の異なる二人の少年が映り込んでいる。――あれは、俺だ。俺達だ。
 同じものが見えているらしい孝助が、鏡を見て呆然としている。
 置いて行かれた過去が見える。それは昇華出来なかった過去の残骸、口惜しいと訴え掛ける声無き声。
 ふと顔を向けた先で、キャプテンは何も解っていない様子できょとんと首を傾げていた。


「大丈夫か、空湖。真っ青だぞ」


 如何やら、キャプテンにも何も見えていないらしい。
 空湖を労わる声は優しさに満ちている。空湖が嘔吐でもしそうな顔色で口元を覆う。くぐもった声は掠れ、まるで悲鳴のようだった。


「そらが、見えます……!」


 その言葉に全てを理解したらしいキャプテンが、慈愛に満ちた穏やかな微笑みで空湖を撫でた。


「大丈夫」


 屋上で放ったあの言葉を繰り返す。
 大丈夫。大丈夫だよ。もう大丈夫。大丈夫なんだ。馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す言葉の意味なんて解らない。空湖が縋るようにキャプテンのシャツを掴んだ。


「望んだんだ。選んだんだ。進むことを決めたんだ」


 誰が、何を。
 当然の疑問である筈なのに、皆が黙り込んで二人を見詰めている。
 ふと視線を上げた先で、鏡の中の俺達はやはり俯いたままだった。仲間の姿なんて見えない。お互いの姿なんて見てもいない。誰もいない地べたを睨み付けるその姿は正しく、――置いて行かれた過去だった。
 突如、聞き慣れたチャイムが鳴り響いた。こんな時間でも鳴るんだな、なんてぼんやりと思った。
 縋る空湖は咽び泣くような声で、ただ只管に返事をする。大丈夫と繰り返すキャプテンが空湖を撫でる。自分よりも背の高い後輩を労わる姿は絵になっていないと思うのに、如何してかこの人がいるだけで様になる。


「責めるな。誰もお前を恨んでなんていない。誰も間違ってなんていない」


 そんなこと、言われなくても解っている!
 目の前の非現実的な光景が、過去と重なって言いようのない焦燥感になる。キャプテンの言葉は空湖に向けられているのに、まるで、俺達に言い聞かせているみたいで眩暈がする。
 チャイムが尾を引いて響き、やがて消えて行った。残された静寂の中で、居た堪れないように醍醐先輩が周囲に目配せをする。キャプテンが言った。


「――さあ、帰ろうか」


 穏やかに優しい声で、キャプテンが訳の解らない肝試しの終了を告げた。
 キャプテンは箕輪先輩と連れ立って職員室に向かった。残された面々が肝試しの感想を口々に言い合う。怖かったな。怖くなかったよ。何だったんだろうな。そんなやり取りを遠くに、俺は鏡の中で見たあの光景を思い浮かべる。
 残された八人。視線で追い掛けながら無意識に数える。

 一人、多い――。


 そのことに誰も気付かないらしい。
 一人一人に目を向けるのに、どれも覚えのある顔で判別が付かない。


「助けてくれ」


 何処からから聞こえた声に体が固まる。
 呻き声のような、懇願のようなその言葉に不思議と恐怖は無かった。
 視線の先で、迷子のような目を向ける少年。あれは、俺だ。
 もう一人の自分を茫然と見遣りながら、くつりと喉で嗤った。


「俺だって、助けて欲しいよ」


 独り言のように零した声に誰も気付かないようだった。
 目の前の自分の姿をした少年は泣き出しそうに顔面を歪め、やがて静かに消えて行った。

2013.2.24