キャプテン。 行き場を失くした迷子が縋るような儚さで、後輩の一人が自分を呼んだ。振り返った先、横顔を夕焼けに染めながら宗助が立ち尽くしていた。 こんな顔をする少年だっただろうか。僅かに俯くその様は遠目に泣いているように見えた。 何でもない風を装って、優しく問い掛ける。如何した、なんて今更な言葉を平然と吐き出せる自分は相当性格が悪いに違いない。 キャプテン。 もう一度、宗助が呼んだ。 まるで、此方の返事を確かめるように。許容と拒絶を綯交ぜにして訴え掛ける掠れた声。 お願いだから、頼むから、後生だから。ひたりひたりと距離を詰める無言の足音。宗助の弱り切った姿が嘘偽りでないことは一目で解る。揺れ動く針が指すのはイエス・ノーの簡単な答えだ。ならばいっそ、軽口でも叩くみたいに悪戯っぽく愚痴ってくれないか。 「昔話をさせて下さい」 吐き出された言葉の裏に潜む本当の願いが、透けて見える。 助けて。助けて。助けて。どうか、助けて下さい。 神様に祈るように、英雄に縋るように零れた声。そんな声で、そんな言葉を聞かせないでくれ。迷うくらいなら初めから逃げ出してくれ。 俺は伸ばされた手を、離すことなんて出来ないんだから。 高架線(1) 夏大会の迫る初夏の休日。突き抜けるような青空を見上げようと面を上げれば、燃え盛る太陽に眼球が焦げ付くようだった。 グラウンドを均して行く後輩を遠目に、今日のメニューを手元のバインダーで確認する。 同県の名の知れた強豪校。昨年度の成績のお蔭か休日の練習試合は引く手数多だ。少数精鋭で校内のグラウンドを使用せず練習している晴海高校のプレーは秘匿性が高いのだと誤解されていて、度々偵察の学生が侵入して来る。実際、特殊なメニューは殆ど組んでいないのだが。 練習試合ということで校内の設備の完備されたグラウンドが使用出来る為、校舎を背中に仲間を見遣る。普段の厳しいメニューでないと解ってから何処か浮足立っているようで、この先を予想して昏い気持ちになるのは自分だけだった。 轟々と唸りながらマイクロバスが校門に現れた。白っぽい在り来たりなデザインと時刻を確認し、現れたのが本日の対戦相手と確信する。監督と部長らしき長身の少年に続き、ぞろぞろと日に焼けた高校球児が下りて来る。移動距離は決して長くないのに、公共の交通機関を利用せずにわざわざマイクロバスを一台貸し切る真意は何だろうか。虚勢か、それとも。 箕輪が慌ててやって来る。職員室で書類に追われていたらしい置物顧問、轟も姿を見せた。 此方の姿を認めると勇み足で寄って来る対戦校の監督と部長。真正面に立つ少年の上背は自分と比べて20cm以上ある。逞しい脚も、太い腕も、自分には無いものだ。 「今日は宜しくお願いします」 対戦校の監督は、わざわざマイクロバスで乗り付けるくらいだから傲慢なものと思っていたけれど、二十代も半ば程の溌剌とした精悍な男だった。私立であることから移動手段は伝統的なものなのかも知れない。 部長らしき少年が口を開いた。 「栄泉学園野球部キャプテンの如月清志です。今日は宜しくお願いします」 此方も爽やかな少年だ。 差し出された手を取って微笑む。 「晴海高校野球部キャプテンの蜂谷和輝です。此方こそ、宜しくお願いします」 小学生に見えるとさえ言われる自分を前にしても、一切の侮蔑も無く如月が笑った。今更身長に劣等感なんて無いけれど、対等に向き合う態度には如何しても好感を抱く。例え、数十日先には互いの夢を潰し合う相手になろうとも。 挨拶もそこそこに、互いの練習時間を割り振ってグラウンドの説明をする。視界の端にちらちらと宗助の蒼い顔が見える。 まばらに散っていた仲間に召集を掛けて、揃った十人を見渡す。 栄泉高校は準備に勤しんでいた。その様子を横目に確認し、練習内容を業務的に告げた。 蒼い顔をする孝助は、プレーには影響を来す事無く黙々とメニューを消化している。一足早く練習を終えた俺の後を追う足音。ひたりひたりと此方を窺うように、遠慮がちに寄り添う影。 「ひでー顔してるぞ、宗助」 振り返ることなく呼び掛ければ、足音の主は動きを止めたようだった。 ゆるりと視線を向けた先で、宗助は俯いてじっと爪先を見詰めていた。 「宗助」 顔を上げろなんて、言えない。顔を上げた先に何も無い恐怖を、俺は痛い程に知っている。 周囲に人はいなかった。それぞれが自分の役割を理解して行動している。晴海高校のプレーは特殊な練習によって培って来たものじゃない。日々積み重ねた信頼がチームプレーとして反映されているだけだ。 中学時代を思い返す。強豪、橘シニア。レギュラーとして日の目を見る為に仲間を蹴落とし踏み躙り、失敗を誘い嘲笑う。実力至上主義なんて聞こえはいいけれど、結局は弱肉強食で大勢の絶望の上に立つ砂上の楼閣だった。 どれだけ恵まれた才能があっても、どれだけ優れた頭脳があっても、どれだけ仲間を切り捨てても、橘シニアは頂点には上れなかった。それは切り捨てて来たチームプレーというものの逆襲だった。 だから俺は、もう二度と同じ轍を踏みたくない。 立ち止まるのなら背中を押して、蹲るなら引っ張って、涙を零すならそれを拭い、弱音を零すなら叱咤激励を飛ばす。負けたら肩を寄せて泣いて、勝ったら抱き合って喜ぶ。どれも、二年前、この晴海高校で得たものだった。 今度は俺の番だ。 「行くぞ」 向けた背中の意味を、どうか穿き違えないでくれ。 言葉にしなければ伝わらないことがある。言葉にしなくても伝わることもある。言葉にしても伝わらないこともある。だから、言葉にしない。――解って欲しいから。 ゆっくりと歩き出す後ろから、砂利を踏み締める音。追い掛ける足音が聞こえる。大丈夫。お前が前を見ている限り、見失ったりしないから。 不協和音が聞こえる。そこかしこから響いているようでいて、音源はただ一つだった。 視線は向けずに意識だけを移す。鳴海孝助。輪になった一角が傍目にも解る程に奇妙に歪み、不協和音を奏でている。 俺は気付かない振りをして、手元のバインダーに挟んだ資料を捲る。 「じゃあ、今日のスタメン発表するぞ」 普段の態を装って笑ってみる。匠が怪訝そうに片眉を跳ねさせたが知らん顔をする。 「一番サード、蜂谷和輝。二番セカンド、箕輪翔太。三番レフト、鳴海孝助」 名を呼ばれて孝助が不満げに口を尖らせている。何か言いたいことがあるのだろう。 「四番ショート、白崎匠。五番ファースト、星原千明。六番ライト、鳴海宗助。七番センター、空湖大地。八番キャッチャー、蓮見創。九番ピッチャー、醍醐環。ベンチは夏川」 へいへい、と軽い調子で夏川が言った。 晴海高校の打順やポジションは殆ど変動しない。少数精鋭の為に一人一人が別ポジションを兼任しているけれど、基本的には固定だ。 グラウンドに散って行く面々。残ったのは俺と孝助だった。 「……何か不満か?」 問い掛けても孝助は答えず、不満げに鼻を鳴らすだけだった。 言いたいなら、言えばいい。挑発するように口角を釣り上げて嘲笑えば、苛立ったように孝助が此方を睨んだ。 「相変わらず、やり方が温いっすね」 「そうか?」 「仲良しこよしの慣れ合いじゃないすか、こんなもん」 こんなもん。 俺達が築き上げて来たものを、何も知らない一年坊主に貶されるのは許せない。挑発したつもりが、逆上してしまいそうになる自分を無理矢理押し込んで微笑む。孝助にその意図は無いのだろう。気だるげに視線を遠くに投げている。 「三番が不満か?」 幼子に語り掛けるように、殊更優しく問い掛ければ孝助が目を細めた。 「俺なら、匠先輩を四番にはしません」 「何故」 「あんたと同じ」 まるで取るに足らないことのように、孝助は此方を顎でしゃくった。 確かに、匠は決して体格に恵まれた選手ではないだろう。平均身長に加えて、痩せ型の薄っぺらい身体。体質なのか俺も匠も筋肉が付き難かった。 それが何だと言ってやろうと思い、止める。この議論は無意味だ。それでも食って掛かる孝助は普段の冷静さを忘れたように、唾を吐くように言葉を続ける。 「ホームランも打てないような四番で、一人で得点出来ないような選手で、相手に見縊られるようなチーム編成で……。あんた、本当に勝つ気あんのかよ!」 息荒く捲し立てた孝助が、一拍置いて冷静になる。ばつが悪そうに視線を足元に落とし、それ以上に続ける言葉を持たないようだった。 以前、宗助から聞いた彼等の昔話を思い出す。孝助の叫びが糸で繋がる。尤も、そんな材料が無くたって俺は同じ言葉を吐いただろう。 「お前、何で一人で戦ってるみてーに言うの」 視線を彷徨わせていた孝助が、ぴたりと動きを止めた。 俺には、心底解らなかった。 「ホームランが打てなくてもいいんだよ。一人で得点する必要なんて無いだろ。相手が見縊って来るなら好都合。いいじゃねーか、その為のチームプレイだ」 俺は中学時代、一人で得点出来ない四番だった。 後ろ暗い過去くらい、誰にだってある。脛に傷の無い人間なんていない。 「なあ、野球は楽しいか?」 ぎろりと上げられた視線に竦むようなか弱い神経は持ち合わせていない。怖いと思うものなら、俺はもっと恐ろしいものを知っている。汚いと言うのなら、俺はもっと汚いものを見て来た。 「いいじゃねーか、他人の評価なんて。お前が心から楽しんでいるなら、それでいいんだよ」 返す言葉を失くしたように、孝助が一瞬呆けた顔をした。それが余りに彼らしくなくて、ふっと息を漏らして笑えば孝助が睨む。 「行くぞ、孝助」 くるりと背を向けて、振り返る。忌々しげに睨む孝助の目は、まるで俺を親の仇だとでも言うようだった。 挑発したことは事実だが、其処まで睨まれる理由も無い。切り替えるように笑い掛けてやる。この話はもう終わりだと、暗に告げる。 そろそろ、ショートからの視線が痛い。 見遣った先で匠が不貞腐れたように口を尖らせている。 「……ん……だよ」 辛うじて聞き取れた言葉の断片に、振り返る。自分が背中を向けた先、俯いた孝助が両手を固く握り締めていた。 勢いよく顔を上げた孝助の瞳に映るのは、燃え盛るような憤怒だった。 「誰もがあんたみたいに、生きられる訳じゃねーんだよ!」 びりびりと、室内でも無いのに孝助の声が反響した。ぞわりと総毛立つ。 此方に向ける感情がまるで過去の自分を見るようで、思考が絡み縺れ合う。自己否定、自己愛、侮蔑、悔恨、羨望、憧憬。 「知った気になって、人の事情に面白半分に首突っ込んで土足で荒らして、あんた本当に何なんだよ! この、偽善者!」 耳を劈くそれはまるで悲鳴のようで。 けれど、明確な拒絶でもあった。 背を向けた孝助がグラウンドに走って行く。取り残されたのは、自分だけだ。 俺は、間違ったのか? 自問する。自答に意味は無い。だって、俺は自身に向ける否定以外の言葉は持ち合わせていない。 「和輝! さっさとしろ!」 ショートから、匠が呼ぶ。 立ち竦みそうになる足を無理矢理動かす。蹲りそうな背中を押してくれるのは、何時も匠だった。 「お前、好い加減、孝助に突っ掛るの止めろよ」 苦々しげに匠が言った。 「俺達は、お前が悪戯半分に人の事情詮索するような奴じゃねーって解ってるからいいけど、他はそうじゃない」 むしろ、そういう人間が圧倒的多数だ。 匠の苦言を拾い上げながら、それでも俺は立ち止まれなかった。 「突っ掛った覚えは、無いんだけどな……」 見当違いな反論に、匠がこれ見よがしな溜息を吐いた。 |
2013.3.10