顔を上げることは、怖い。目の前が暗闇であることを知っているから。 歩き出すことは、辛い。足元は泥濘だと解っているから。 手を伸ばすことは、哀しい。掴めなかった手を覚えているから。 高架線(2) プレイボール。審判が高らかに宣言する。 先攻、晴海高校の一番として、キャプテンとして背筋を伸ばして腰を折る。バッターボックスに入る前の型式的な儀式だ。 ピッチャーは先程の爽やかなキャプテン、如月清志だった。此方を見遣って口元に笑みを浮かべ、小さく会釈する。好感の持てる一連の動作を見遣り、微かな笑みを返した。一投目、振り被っての投球。恵まれた体格を生かす鋭い直球がミットに突き刺さった。 ストライク。審判が叫んだ。 良い投手だ。才能にも体格にも恵まれているのに、それを歯牙にも掛けず、驕りも慢心も無く真っ直ぐに向き合っている。ただ、この競技が好きだとその瞳が訴えて来るようだ。 二球目、ストレート。対角線を射抜くような厳しいコースを難無く狙うコントロールに舌を巻く。良い具合に荒れているだけだとは思えない。振り抜いたバットは虚空を切って空しく鳴った。ストライクツー。 あっという間に追い詰められたな、と傍観者のように思う。栄泉学園の成績は芳しく、春夏と続けて甲子園に出場している。その結果はピッチャーである如月によるところが大きい。プロからも期待される才能ある選手だ。晴海高校と違い大所帯である栄泉学園で、只一人しか成り得ないエースの名は伊達じゃないということか。 それでも、負ける気は更々無い。自分達が勝ち進む為には、如月は勿論、それ以上の投手と遣り合わなければならないのだから。 三投目。走者を背負わない余裕か、大きく振り被った如月の唸るような速球が目前に迫る。顔面を狙うような内角高目のストレートは自信に満ちていた。素早く腕を折り畳み、迫り来る白球を跳ね返す。こつん、と空しくなったバットを足元に転がし、バッターボックスを飛び出した。 一つ。守備が叫ぶ。追い掛けるように、投げるなと投手が訴えた。腕を交差し送球を拒む一塁手の横を擦り抜けると審判が言った。セーフ。 無死、走者一塁。 自分は晴海高校の切り込み隊長だ。出塁することは大前提。それでも、仲間が自分の健闘を当たり前のように喜んでくれる。ナイラン。溢れる労いの言葉に笑みを返した。 二番打者は箕輪だ。あいつなら、きっと解ってくれる。 体制を低く、大きくリードする。牽制をギリギリで躱せる位置まで進み、バッターボックスを見遣る。不意に向けられた視線は鋭かった。 バントの構えをする箕輪に、如月が一塁手に視線を投げた。そして、すぐに放たれた内角低めのストレート。箕輪のバントは投手と捕手の間、絶妙な位置に転がされた。捕球も送球も目を向けず、真っ直ぐに狙う三塁。踏み締めた一瞬後に白球が追い付いた。セーフ。無死、走者一・三塁。内野の大きく開く得点のチャンスに、バッターボックスに立った鳴海孝助。ベンチで匠が、ダミーを混ぜ込みながらサインを送る。自分に向けられたものではないが、了解の意を込めて帽子のツバを下げた。ベンチで、匠が怪訝に眉を寄せた。 流石にこの状況で振り被りはしない。クイックピッチ。それでも威力の衰えない鋭い速球は、孝助の膝を襲うかのような低目のストレートだった。 打って行け。孝助の実力を信じているからこその指示だ。バッターボックスで孝助がバットを振り抜く。打球は大きな弧を描いて青空に浮かび上がった。――恐らく、センターフライ。 犠打であろうが、十分だ。出発の合図を待って身体を屈める。 GO!! 三塁コーチャー、夏川が叫んだ。同時に踏み出す一歩、グラウンドを踏み締める。 送球なんて間に合わない。それが解っているように白球の向けられた先は二塁、箕輪の元だった。 アウト。 箕輪と白球の到着は殆ど同時だったけれど、間一髪間に合わなかったらしい。余裕に手に入れた本塁を後にしながら、グラウンドを振り返る。箕輪が膝に手を突いて悔しげに呻いていた。 既にバッターボックスを離れ、ベンチへ向かう孝助の背中が見えた。犠打とはいえ、得点は得点だ。完璧主義者らしい孝助に何か声を掛けるべきかと逡巡し、結局黙った。今は何も言わなくていい。藪蛇になって試合をぶち壊したくはない。 四番の匠がバッターボックスへ。二死、走者無し。全国区の強豪相手に一点のリードなど、無に等しい。 頼むぞ、四番。 期待を込めて視線を送れば、振り返った匠が不機嫌そうに目を細めた。 栄泉学園と戦うのは恐らくこれが最初で最後だ。次があるとすれば、それはきっと本選。夏大会まで時間が無い。やれることは全てやって置きたい。それはきっとお互い様だ。 この状況で出す指示なんて決まっているけれど、それでも律儀にベンチを確認する匠に笑い掛ける。 打って行け。匠を信じているから。 ヘルメットのツバを下げる匠が、ピッチャーに向き合う。猫のような丸い目が、すうっと細められた。 匠のプレーは見ていて面白い。ホームランをパカパカ打つような選手ではない。けれど、チャンスを確実にものにするコントロールと、仲間を信頼したゲームメイク、冷静なようで意外と好戦的な性格で、試合の流れを引き寄せてくれる。 胸が躍るような心地で拳を握った。そして、鋭い金属音。 放たれた打球が内野を抜ける。やった、と声を上げそうになる刹那、ショートが跳び付いた。鋭いライナーを捉えたショートがグラウンドに滑った。けれど、掲げられたグラブには確かに白球が収まっている――。 「アウト!」 ああ、とベンチから感嘆の息が漏れた。 良いコースだったし、勢いもあった。あのショートがいなければ確実に内野を抜いていただろう。 チェンジだ。グラブを取って、誰より早くベンチを出る。溜息を零すような状況ではない。軽口の一つくらい吐いてやろうかと、戻って来る匠を見れば、不機嫌を隠しもしないしかめっ面だった。 「何、苛々してんだよ。そんな面する場面でもねーだろ」 「うるせーな。んなこと、言われなくても解ってるっつうの」 舌打ちと共に匠が吐き捨てる。幼馴染の欲目があったとしても、匠はその時の気分をプレーに影響させるような選手じゃない。 何、苛立ってんだか。 内心で呟いて、グラウンドへ向かう。既に仲間がボール回しを始めようとしていた。 其処からはシーソーゲームだ。互いに得点のチャンスは訪れるが、紙一重で躱し合いながら両者の得点は無い。一点のリードで勝てる程、傲慢にはなれなかった。 試合は進み、五回表。晴海高校の攻撃は二番、箕輪から始まる。 一塁コーチャーとして膝に手を突き、経過を見遣る。晴海高校に一発屋はいないし、必要無い。一人一人が歯車の一つであることを自覚し、試合の流れを引き寄せ、好機を生かし確実に得点する。その淀みないチームプレーが晴海高校最大の武器だ。その為には試合経過をじっと観察しなければならない。 強い日差しの下、互いの投手の消耗は激しい。裏の守備では先発だった醍醐は交代の予定だが、如月はチームのエースとして最後まで投げ切るのだろう。 内角に食い込む変化球。直球勝負の多い如月は、変化球に自信が無い訳ではないのだろう。切れの良い変化に箕輪が強張る。弾き返された打球は力無くグラウンドに転がった。 如月が拾い上げた。箕輪が懸命に走る。 「走り抜けろ!」 思わず叫んでいた。声が届いたのか箕輪は滑り込まず、一直線に走り抜けた。 セーフ。審判が腕を開く。 あからさまにほっと息を逃した箕輪が小走りに一塁へ戻った。滑り込むよりも走り抜ける方が実質早い。タッチアウトを躱す目的が無いのなら、走り抜けるのは当然の選択だ。 走者が再び立ったことに、ベンチが俄然盛り上がる。とはいえ、先程から出塁が得点に至らないという展開の繰り返しだ。シーソーゲームは互いの精神力を削り取って行く。 バッターボックスに再び孝助が立つ。ベンチを見遣れば、匠が指示を出していた。 バント。 孝助を信頼していない訳じゃない。ただ、此処で確実に得点してこの膠着を解きたいのだ。その為のバント指示。自分が匠だったとしても、同じ指示をしただろう。 ふと視線を向けた先、孝助はあの仏頂面で其処に立っていた。 ベンチで匠が苦い顔をする。――まさか。 (孝助) 胸の内で呼び掛ける。孝助は目も向けない。 一回表も、同様か。だから、匠があんな顔をしたのか。 放たれる白球。孝助がバットを振り抜いた。 金属音が高く鳴り響いて、青空にぽつりと白球が浮かび上がった。けれどそれは、大きな弧を描きながらゆっくりと、ゆっくりと外野もフェンスも越えて消えて行った。 ホームラン。 唖然と空を見上げる如月。孝助がバットを投げ捨てる。思い出したように箕輪も走り出す。静かにダイヤモンドを廻る孝助の背中を見詰めた。僅か数か月の付き合いだが、その背中を随分と昔から知っているような気がした。 本塁ベンチに戻った筈の箕輪が駆け寄って来る。交代する、と苦笑交じりに箕輪が言った。 「ベンチが葬式会場だぜ」 擦れ違い様に吐き捨てた箕輪の呟きが耳に残った。 言われた通りベンチに戻れば、確かに其処は確かに葬式会場だった。 何が原因かなど言わずもがな。隅で独り悠々と試合を見遣る孝助に周囲は見えていないようだ。 (嫌な空気だなぁ) 苦笑いを浮かべると、不機嫌さを隠そうともしない夏川が露骨に舌打ちする。何笑ってんだよ、なんて在り来たりな質問をする。 解ってんだろうな。 夏川が耳打ちした。解ってるよ、嫌と言うくらい。 「孝助」 名を呼んだだけで、ベンチ内が緊張感に包まれた。 二度のサイン無視。それだけでは済まないこれまでの傲慢な態度やワンマンプレー、仲間への罵倒、キャプテンへの暴力。少しずつ蓄積されて来た孝助への不信感が終に形となって空気に溢れる。其処等中から不協和音が聞こえる。 積み上げて来た信頼関係が、ぽっと出の後輩に呆気無く崩される。取るに足らない塵のように、不必要だと捨てられた玩具のように。 苛立たない訳じゃない。悔しくない訳じゃない。だけど、此処で怒っても何にもならない。 なるべく、平素を装いながら孝助の横に座る。孝助はグラウンドだけを見詰め、視線すら寄越さない。 「サインを無視したな?」 否定することを想定しない、予定調和に等しい問い掛けだった。 案の定、孝助は否定しなかった。 「それが、最も適切だと判断したからです」 悪びれる事無く、孝助が言った。 何の感情も含まない淡泊な返事に拍子抜けする。 「そっか。……前に、言ったとは思うけど」 何を話せば孝助に伝わるのだろう。 「晴海高校はチームプレーに重点を置いている。幾ら優れた選手でも、ワンマンプレーに走ってチームの不協和音になるような選手は、四番には出来ねぇよ」 諭す訳で無く、労わる訳で無く、台本を読み聞かすような感情の籠らない声で言った。 孝助は漸く此方に視線を向けたかと思えば、すぐに侮蔑するように一声嗤った。 「慣れ合いが、そんなに大事かよ。同好会だって言いたいのかよ」 「同好会じゃねーよ。なあ、何がそんなに気に食わないんだ?」 解らない。解らない。解ってやりたいのに、孝助の本心が何処にあるのか解らない。 チームプレーを批判したいのか、俺を否定したいのか、自暴自棄なのか、それとも。 彼の放つ言葉の目的は何だろう。何の為に吐き出している? 「仲間を信じて、何が悪い」 はっきりと訴えた言葉に、孝助がぎくりと強張った。地雷だったと気付いた時にはもう遅い。勢いよく立ち上がった孝助が握り締めた拳は、既に振り上げられていた。 けれど、それが振り下ろされることは無かった。 彼の双子の弟、宗助がその拳を受け止めている。 「……好い加減にしろよ」 震える声で、顔を上げた宗助が言った。困惑と苛立ち、僅かな寂寞に揺らぐ瞳で真っ直ぐに射抜く。 「何時までも昔のこと、引き摺ってんじゃねーよ!」 兄の拳を受け止めたまま、宗助が叫んだ。 途端、孝助の目が大きく開かれる。孝助が何かを叫ぼうとする。その声を、遮った。 「兄弟喧嘩は後にしろ。試合中だぞ」 呆れたように、夏川が言った。 自分達三年の中で、常に冷静なのは夏川だった。誰が暴走しても客観的に声を掛けてくれる。その実、結構切れ易いけれど俺達のストッパーだった。 夏川の言葉に冷静さを取り戻したらしい孝助は漸く拳を下ろした。 ばつが悪そうに視線を逸らす双子を見て、内心、安堵の息を漏らす。 孝助の考えが解らなかった。読めなかった。それが何より怖かった。こんなに近くにいるのに、手を伸ばす先が解らなかった。見えなかった。恐ろしかった。 あんたには、解らないだろう。 孝助の声が聞こえる。――でも、お前にだって解らない。 助けを求める声が聞こえているのに、手を伸ばす先が解らない。大事に抱え込んだものが、指の隙間から零れ落ちて行く。そんな虚しさが、無力感が、お前に解るか。 俺達がどんな気持ちで、この野球部を守って来たのか、お前に解るか! (ああ、そっか) そうして漸く、理解する。 解らないことが怖いんじゃない。俺は、こいつが。 (ムカつくんだ) 解ってもらおうともしないのに、解ってくれないと周囲に当たって嘆いて蹲って。 見当違いな質問ぶつけて、思う通りにならないと喚いて、挙句に八つ当たりして。 それでも、その間違いを指摘することは正解じゃないのだろう。 ムカつくけど、腹が立つけど、苛々するけど、――こいつは俺の仲間で、後輩だ。 嘗ての高槻先輩が、俺にしてくれたように。俺もこいつを信じよう。受け入れよう。 「見てろ、孝助」 静かに繰り返す瞬き。眼球が太陽に焼かれぬよう、視線がグラウンドへ戻す。バッターボックスで匠がバットを構えている。 キャッチャーフライ、アウト。 ち、と舌打ちした匠が不満そうにやって来る。 「俺達を、見てろ。……お前が否定するチームプレーがどんなもんか、その目に焼き付けておけ」 |
2013.4.6