孝助は天才だった。 才能と体格に恵まれた孝助は、どんなスポーツでもヒーローだった。孝助は何でも出来た。勉強だって苦手じゃなかった。何時でも大勢の仲間に囲まれた人気者だった。 宗助は凡人だった。 何をやっても平均で、孝助と並んでも誰も双子だなんて思わなかった。何をしても出来ないことの方が多かった。何時でも努力をしていた。仲間は誰もそれを知らなかった。 野球を始めたのは、偶然だった。自宅の傍に強豪シニアチームが偶々あって、その練習を偶々見かけて、居合わせた友達に偶々孝助が誘われた。その運動能力にチームの監督が熱烈なオファーをして、孝助は軽い気持ちで野球を始めた。宗助はおまけだった。双子なのだからと両親がついでにチームに入れて、監督がお情けで目を掛けてくれだだけだった。 孝助はすぐにレギュラーに抜擢された。類稀な才能を見込まれたからだ。周囲の期待に応えるように孝助も努力し、その実力は確かなものになっていた。 宗助は長い間三軍だった。常に兄と比較されながら、周囲から兄の自慢話を聞いていた。毎日誰より遅くまで居残って練習をしても、兄には到底及ばなかった。 孝助は何でも出来た。宗助は何も出来なかった。 それでも、中学三年の春、二人は揃ってレギュラーとなった。 孝助は持て囃された。宗助は陰口を叩かれた。 孝助は笑わなくなった。宗助は笑ってばかりになった。 孝助の才能は、地元で有名という程度のチームでは持て余す程だった。打てばホームラン、守れば鉄壁。投手をすれば外野の仕事は無く、内野はエラーを恐れて本来のプレーが出来なくなっていた。 孝助は投手を辞めた。野手に転向した。それでも、孝助と仲間には深い溝が出来ていた。 孝助さえいれば勝てた。其処にチームは必要無かった。ただの数合わせに過ぎなかった。チーム自体が冷え切っていても、試合には勝てた。 宗助は只管努力した。理由は解らなかった。 兄に追い付きたかったのかも知れない。周囲に後ろ指差されたくなかったのかも知れない。気付いたら努力するのが当たり前で、認めてもらえないのは慣れっこだった。 引退試合を目前に控えた頃、チームメイトが言った。 「俺達って必要か?」 軽口のようで、秘められた祈りのようで、そのチームメイトは困ったように笑っていた。キャプテンだった。 孝助が答えた。 「別に」 事実だった。彼等である必要は無かった。ただ、普通にプレー出来る選手が必要数いれば良かった。 キャプテンは一言「そっか」と笑って、いなくなった。引退試合はコールド負けだった。 誰もプレーしようとしなかった。グラウンドには幽霊が立っているようだった。勝とうともしない。負けようともしない。如何だって良かった。振り返るにはもう遅過ぎた。 チームは瓦解した。 否、チームなんて初めから存在していなかったのかも知れない。 孝助の元には多くの高校からスカウトが来た。手元の資料をぼんやりと見詰めて、ゴミ箱に捨てる。 宗助は受験勉強に勤しんだ。そうしていれば、何も考える必要が無かったからだ。 結局、二人で地元の高校へ通うこととなった。 もう野球をするつもりは無かった。けれど、思えばあれは運命だった。 取り巻きに囲まれながら、天才と持て囃されながら、そんなものに価値は無いと冷たく一瞥する。それでも仲間に向ける笑顔は蕩けそうに柔らかく、吐き出す言葉は宝石のようだった。 二人にとって、蜂谷和輝は得体の知れない存在だった。正反対の双子だった孝助と宗助、そのどちらにも似ているのに、誰とも違う。数年前に冷酷非道と罵られ、その後、ヒーローになった。 ヒーロー。 そう、彼はヒーローだった。 高架線(3) 八回が終わる。 終に互いの得点は変わらぬまま最終回を迎える。バッターボックスには夏川が立った。 たった一点のリードで勝てるとは思わない。否、何点取ったって最終回を終わるまで勝負は解らない。ネクストバッターズサークル、キャプテンが膝を着いている。 宗助は、試合を何処か遠くの世界のようにぼんやりと見守っていた。ベンチには今もギスギスと肌を刺すような不快な緊張感が満ちている。練習試合で、一点勝ち越しの状況で嫌な空気に包まれるなんて不可解だ。それでも、原因が何か解っている時点で宗助には何も言えなかった。 双子の兄、孝助は目の上のたんこぶだった。自分が出来ないことを平然と熟し、自分が手に入れられないものを呆気無く掴み取ってしまう。兄に追い付く為の努力なんて、誰も見てはくれない。過程も結果も不必要だと切り捨てられる自分の存在意義は、恐らく無に等しかったのだろう。 孝助には孝助の苦しみがあった。そんなことは解っている。常人には理解出来ないそれを、誰にも打ち明けられなかった辛苦も想像出来ない訳じゃない。けれど、孝助が当たり前のように捨てて来たそれは、自分が喉から手が出る程に欲し、漸く手に入れたものだった。 チームの中で孝助が孤立して行ったのは、当然のことだった。誰に責任がある訳でもない、仕方の無いことだったのだ。 天才とはそういうものだ。同じ土俵に立つ者はいない。比較すれば自分が空しくなるだけだ。それはこの先もずっと同じ――筈だった。 「気ィ抜いてんじゃねーよ、孝助。この回で突き放すんだぞ」 不機嫌そうに、匠先輩が言った。 ベンチの奥、独りきりの孝助がきょとんと顔を上げる。 「……ンだよ」 怪訝に眉を寄せる匠先輩は、何時もの仏頂面だった。まるで先程の遣り取りも、これまでの出来事も無かったかのような自然な振る舞いだった。 何も答えない孝助と、思わず振り返った俺を交互に見て、匠先輩が溜息を吐いた。 「ムカつかない訳じゃねーよ。腹が立たない訳じゃねーよ。お前等みてーなクソ生意気な後輩、こっちから願い下げだよ。でも、あいつが」 猫のような丸い目をすっと細め、匠先輩がグラウンドに視線を映した。 夏川先輩がショートゴロを放ち、ワンナウト。ポーカーフェイスを崩さない彼の肩を軽く叩き、擦れ違うようにバッターボックスに立った小さな少年。――俺達の、キャプテン。 「キャプテンがお前を信じるって言うんだ。俺達は、あいつに従うまでだ」 心底不服そうに、それでも眩しそうにキャプテンを見詰める匠先輩は何処か誇らしげだった。 訳が、解らなかった。 才能に恵まれて、仲間を駒としか思っていなくて、指示を無視して、暴力沙汰まで起こそうとして。そんなお荷物にも等しい後輩を、何で信じられるんだ。 三年間、一緒にいたチームメイトでさえそうだった。誰一人、孝助を、俺を見てはくれなかった。それなのに、何でたった数か月しか一緒にいないような赤の他人が、信じるなんて言うんだ。 「――な、んで」 不意に零れた声は震えていた。 「何で、信じるなんて言うんですか!」 中途半端な気持ちで、そんなこと言わないで欲しい。期待してしまう。解ってくれるんじゃないかと、認めてくれるんじゃないかと。そうして裏切られたら、俺は、俺達はもう何処にも行けない。 叫んだ声と同時に、グラウンドから金属音が響いた。打ち上がった打球は背後のキャッチャーを外れ、ファールゾーンに落下した。 ガチャガチャと防具を揺らしながら、キャッチャーがボールを拾いに来る。その後ろで、バッターボックスのキャプテンが笑っていた。盛大なファールをかまして、バットを肩に担いで何処か嬉しそうに、誇らしげに。 「決まってんだろ! 仲間だからだ!」 当たり前のことを言うなと、キャプテンが笑う。 此方の遣り取りを知っているような言葉に、匠先輩が集中しろと怒鳴る。先程までの嫌な緊張感が霧散し、ベンチは再び穏やかな活気に満ちた。 ピッチャーが振り被る。放たれた速球は、初回から威力を衰えさせない凄まじい剛球だった。けれど、それを弾き返したキャプテンの目がきらりと輝いて見えた。 打球は鋭いライナーとなって内野を抜けた。 回れ! コーチャーが叫ぶ。キャプテンは一塁を蹴った。 レフトが捕球し、三塁へ送る。けれど、キャプテンは三塁手のタッチを掻い潜るようにしてベースを掴んだ。 「三塁打!」 醍醐先輩が嬉しそうに叫んだ。 一死、走者三塁。スコアリングポジションに立ったキャプテンが不敵な笑みを浮かべ、バッターボックスの箕輪先輩を見ていた。 ピッチャーの投球。後ろに強打者が控えている状況で、ランナーを背負いたくは無いだろう。僅かに外されたボールは、箕輪先輩のバットの根元に弾かれてグラウンドに浮かび上がった。ピッチャーフライ。ランナー膠着のまま、ツーアウト。 畜生、と大袈裟に悔しがる箕輪先輩が、擦れ違い様、孝助に言った。 「任せたぞ」 何故。呆然と頷く孝助にその意味は解らないだろう。 三塁でキャプテンは臨戦態勢だ。孝助が、必ず自分を帰還させてくれると信じている。 ベンチでは夏川先輩がサインを出す。見覚えの無いそれは、ダミーサインだと思った。どうせ、孝助は指示に従わない。けれど、相手への牽制になるから出している。そう思うのに、塁上のキャプテンが嬉しそうに笑って、ヘルメットのツバを下げて了解のサインを返す。 蓮見先輩が言った。 「それ、先輩達が時々使うサインですよね。どういう意味なんですか?」 拳で胸を二度叩く。何処か在り来たりなサインに、蓮見先輩が首を傾げる。どうやら野球部全体に浸透しているものではないらしい。 夏川先輩は歯切れ悪く言った。 「あー……、別に試合には関係無いサインだから、気にすんな」 「え、むしろ気になります」 食い下がる蓮見先輩に、夏川先輩が言った。 「まあ、簡単に言えば鼓舞だよ。ピンチやチャンスに、ベンチから、グラウンドから互いに送り合うジンクスみてーなもんだ」 「へー。その心は?」 「『信じろ』」 吐き捨てるように言った夏川先輩は、照れ臭いのかそっぽを向いた。 「始めは和輝が勝手にやり始めて、何時の間にか俺達の中で浸透してたんだ。俺を信じろ、仲間を信じろ。俺が何とかしてやる、お前を頼りにしてる。そんな意味で使ってる」 グラウンドで、キャプテンが胸を二度叩いた。 信じろ。――何を? 薄ら寒いと、笑った蓮見先輩は少しだけ嬉しそうだった。 初球はボール。ツーアウトの状況でスクイズをするリスクは限りなく低いが、それでも走者が恐らく全国一の俊足であれば警戒も当然だろう。孝助が先程放ったホームランを警戒するのなら敬遠も有り得る。 じっとグラウンドを見詰める。三塁上で、キャプテンの拳が胸を二度叩く。それは孝助へ、ベンチにいる自分達へ向けられたサインだった。 (何でだ) たった数か月。それっぽっちの付き合いでしかない赤の他人。 高が練習試合だ。勝敗なんて二の次だろう。それでも、彼等はこれが公式試合だったとしても同じことをするのだろう。――仲間を、信じているから。 「孝助」 ぎゅっと握り締めた掌は肉刺だらけだった。幾千とバットを握り、ボールを投げて来た硬い掌だ。 俺達は、頑張ったんだよ。誰が認めてくれなくても、努力したんだよ。天才と呼ばれる裏で、孝助は走り続けたんだよ。オマケだと嗤われる陰で、俺は向き合い続けたんだよ。誰も理解してくれないけど。 「孝助、頑張れ!」 叫んだ声は、まるで干からびたミイラのように掠れていた。それでも届いた見っとも無い声に、孝助がきょとんと振り返る。 頑張れ、頑張れ、頑張れ。 俺、お前のこと憎かったんだ。羨ましかったんだ。お前は目の上のたんこぶだったから。 俺が必死の思いで掴んだチームを、お前は呆気無く壊した。お前にとっては取るに足らないものだったのかも知れないけど、俺にとっては全てだったんだよ。 「頑張れ!」 知らなかっただろ。知らなくていい。知られないように、隠して来たんだ。 でも、もういいよ。そんな過去、どうだっていい。だって、俺が欲しかったものは、もう此処にあるから。 「うるせーよ、宗助!」 怒鳴り返した孝助が、少しだけ笑っていた。 言われる必要も無いと、少しだけ嬉しそうだった。 ツーアウト・ランナー三塁。スクイズの構えは無い。ベンチからのサインはただ一つ。 信じろ。 ランナー、キャプテンが構えている。 大丈夫だよ。ベンチに戻った箕輪先輩が言った。 あいつは最強のランナーだから。誇らしげにキャプテンをそう称した箕輪先輩が、ベンチから身を乗り出して声援を送る。 初球は外角に逃げる変化球。続く牽制。砂埃を舞わせてキャプテンが三塁に戻る。 三球目、ストレート。長身を生かした渾身のストレートは、孝助のバットに弾き返された。勢いを相殺された白球は獰猛な生き物のようにグラウンドを跳ねた。 キャプテンがグラウンドを蹴った。白球を捕えたショートの送球。レーザー光線のような返球は本塁へと突き刺さった。それはキャプテンが本塁を掴むのとほぼ同時だった。 一呼吸。何かを決意するように審判が息を呑む。起き上らないまま、キャプテンの目はその啓示を見詰めている。 「セーフッ!」 ガタン、と大きな音を立てて身体を乗り出した。足蹴にしたベンチが揺れる。 伏したままのキャプテンが、拳を握った。 「――っしゃああ!」 二点目。キャプテンの短い雄叫びは、仲間の激励に掻き消された。 一塁に到達した孝助が、呆然と立ち尽くしていた。 「お帰り、キャプテン」 箕輪先輩が、蕩けそうな笑顔を浮かべていた。 「ただいま」 キャプテンの向けた拳は、箕輪先輩のそれと衝突した。 迎え入れられるキャプテンが、俺に微笑んだ。本塁への滑り込みのせいか、整った顔には土が跳ね、白いユニホームは茶色く汚れていた。それでも、透き通るような大きな瞳は変わらないままだった。 「ほら、届いただろ?」 何がなんて、問い掛ける気力も無かった。 頬を伝う温かいものが、全ての答えだったから。 |
2013.4.7