九回表、リードは二点。
 ツーアウト、ランナー一塁。バッターボックスには四番、白崎匠。
 決して体格に恵まれたとは言えない痩躯で、金属バットを肩に担いで不敵に笑うその様は悪童のようだった。猫のような丸い目は細められ、マウンドのピッチャーを見詰めている。


「中学時代は、俺が四番だった」


 水分補給を終えたキャプテンが、隣で言った。
 一塁上には双子の兄、孝助がいる。


「別に打順に拘りは無いんだ。俺は勝つ為に戦略を立ててるだけだからさ」
「キャプテンは」


 吐き出した声は震えている。垂れ流していた涙を乱暴に袖口で拭えば、キャプテンは何時もの綺麗な微笑みで小首を傾げた。


「キャプテンは、自分より匠先輩が四番である方が、勝てると思うんですか」


 打順に拘りが無くても、意地はあるだろう。競争心はあるだろう。負けたくないと思うだろう。
 キャプテンは唸りながら顎に指を添える。考え込む時の癖だった。


「というか、俺が一番の方が得点し易いんだよ。だから、四番は譲ってやったの」


 冗談を言うみたいに軽くキャプテンが笑う。何処までが本音なのかは解らない。此処に匠先輩本人がいれば、小突いて文句の一つくらい言っただろう。


「俺が先頭に立って、道を切り開く」
「はあ」
「それはさ、皆が必ず還してくれるって信じてるからなんだぜ?」


 信頼。このチームはそうした信頼関係で繋がっている。
 総勢、たったの十人。少数精鋭と言えば聞こえはいいけれど、万年人員不足のこのチームは他には無い何かが確かに存在していた。慣れ合いでも無く、潰し合いでも無い。互いを支えに立つように。


「匠なら大丈夫。必ず、孝助を此処に還してくれるよ」


 グラウンド、ピッチャーが振り被る。走者を意識しない渾身の投球だ。
 寸前、キャプテンがサインを出した。それはバッターボックスに立つ匠先輩を同じものだった。
 走れ。
 ツーアウトからのスチールサイン。孝助は、走り出した。
 匠先輩が一瞬、スクイズの構えをする。驚いたようにピッチャーが距離を詰めるけれど、その瞬間、匠先輩はバットを持ち替え振り抜いた。
 打球は二遊間を抜け、センタ―前へ。孝助が二塁を蹴った。
 センターの手元で打球が跳ねる。処理にもたついている。三塁コーチャー、箕輪先輩が腕を回した。回れ。孝助が頷くことは無いけれど、その足は確かに三塁を蹴っていた。
 センターの送球は一塁へ。孝助には間に合わないと判断したのだろう。けれど、其処に違和感。匠先輩が鈍足の筈が無い。送球が一塁と知った途端に速度を増したその足は、大きく踏み出され、そして、一塁へ滑り込んだ。


「セーフ!」


 同時に孝助が本塁へ到達する。一分にも満たないその間に、孝助を帰還させる為に送球を一塁へ誘い込む罠を仕掛けていた。
 その僅かな攻防も呆気に取られるけれど、それ以上に目を奪われるのは塁上の匠先輩と、ベンチのキャプテン。まるで悪戯が成功した悪童のように、遠く視線を合わせて笑い合う。
 信じている。相手の実力を、心を、全てを信じて託している。自分達は双子でありながら、擦れ違い続けているのに、血の繋がらない彼等は確かに繋がっていた。


「俺達も一度、でかい喧嘩をしたことがあるんだ」


 キャプテンが言った。
 グラウンドに指示を出す為に、キャプテンは基本的にコーチャーに回ることは殆ど無い。故に動かないキャプテンはグラウンドから視線を向けたまま続けた。


「お互いを信じ切れなくて、決別したんだ。俺は匠が解ってくれると思っていて、匠は俺を理解したつもりでいたんだ」


 きっとそれは遠い昔のことではないのだろう。俺はぼんやり思った。


「その時、痛感した。どれだけ長い付き合いで、どれだけお互いを信頼していたって、全てを理解し合うことは難しい。口にしなくても解ってくれるからって、言葉にしなければ伝わらないことは幾らでもある」


 僅かに細められたキャプテンの目は何処か遠くを見ていた。まるで過ぎ去った出来事を悔いる罪人のような悲痛な眼差しだった。


「信頼ってのは、相手をただ受け入れることじゃない。ぶつかりながら理解して、認め合うことなんだと俺は思う。そしてそれは、許し合うことから始まるんじゃないかな」


 違うかな。
 キャプテンはそう言って、困ったように笑った。



高架線(4)




 最終回、晴海高校のエース、夏川先輩は三者凡退に抑えた。
 それにも関わらず、グラウンドから飛んだのは見当違いな野次だった。格好良いところを見せたかったと喚くキャプテンこそが、投球の中で誰より大きな声でその背中を応援していたのだけど。
 そんなキャプテンの頭を押し込めて夏川先輩が笑う。縮むと喚くキャプテンの声は雑音のようだった。
 互いに顔を見合わせ最後に挨拶をし、キャプテンは相手校のエースである如月先輩と何か話していた。そうやら互いの健闘を祈るという内容だったらしいが、如月先輩は試合中とは異なって子どもっぽいキャプテンの言動に苦笑していた。
 孝助は、賑わう晴海ナインの輪から外れて立ち尽くしている。如何していいのか解らないらしい。まるで母親に置いて行かれた迷子のようだった。


「孝助」


 俺が呼べば振り返る、十六年間見続けて来た双子の兄の顔が見えた。


「なあ、知ってるか」


 孝助は何も言わない。


「俺、お前がずっと羨ましかったんだ」


 初めて吐露する本心を、孝助は黙って聞き入れてくれる。


「それに、ずっと恨んでた。お前にとって中学時代は取るに足らない価値の無いものだったのかも知れない。でも、俺にとっては全てだった」


 全てだったんだよ。
 お前が否定するチームも、意味の無い努力も、全てが俺の世界だった。呆気無い程、簡単に崩された世界に未練が無い訳じゃない。けれど。


「でも、もういい。俺が欲しかったものは、もう手に入ったから」


 だって、此処にいる仲間は、俺達を無条件に信じてくれる。
 形にならなかった努力なんて欠片も知らないのに、お前なら出来るなんて当たり前のように信じてくれる。俺が抱え込んだ薄汚い感情もひっくるめて、大事な後輩でチームメイトだと受け入れてくれる。だからもう、過去に縋るつもりは無い。


「此処に、そんな価値があるか?」


 懐疑的な孝助の言葉に、ゆっくりと瞼を下ろす。
 自分の抱える不満にばかり目を向けていたから、兄の抱える苦しみに気付かなかった。仲間を信じたいのはきっと、孝助自身だった。それを邪魔して来たのはきっと。


「何で、そんなに悲観的なんだよ、お前」


 能天気な明るい声で、何処か呆れを含んだ口調でキャプテンが言った。
 話し合いは終わったらしい。栄泉学園一行は既に帰り支度を始めている。
 キャプテンは不満げに口を尖らせて、言った。


「ずっと訊きたかったんだ。お前、何で野球してんの?」
「はあ?」


 苛立ったような孝助の口調に、思わず二人の間に滑り込む。試合後に暴力沙汰なんて冗談じゃない。
 けれど、キャプテンは気にした素振りも無く、当たり前のように言った。


「才能があるから? 認めて欲しいから? 違うだろ」


 びしりと指を突き付けて、キャプテンが言った。


「野球が楽しいから、好きだからだろ。違うか?」


 否定を許さないような強い口調で、キャプテンが告げる。
 だけど、と否定の言葉を吐き出そうとする孝助に、更にキャプテンは続ける。


「何でそんなに否定するんだよ。解んない奴だな」
「……」
「誰もお前を否定なんてしてねーんだよ。好い加減、気付けよ」


 大きな瞳を細めて、キャプテンは苛立ったように言った。


「お前が否定してるのは他の誰でもない、お前自身だろ。お前自身が認められないんだろ。お前を一番信じてないのは、お前自身だろ」


 ふう、と腰に手を突いて溜息を零したキャプテンは変わらず仏頂面だった。
 何時の間にか駆け寄って来た匠先輩が、キャプテンを小突く。


「てめぇ、挨拶ちゃんとしたんだろうな」
「うっせぇな。当たり前だろ」


 ぎゃあぎゃあと喧しく二人は、一見すると仲悪く喧嘩しているようにも見える。けれど、吐き出される言葉はきっと相手の理解と信頼で成り立つ予定調和のようだった。
 突如、思い出したように匠先輩が孝助を呼んだ。


「俺はサイン無視、許した訳じゃねーんだぞ!」
「もういいじゃねーか、終わったことなんだから」
「お前は黙ってろ! それじゃ、他の奴等に示しが付かないんだよ!」


 そうして、匠先輩は孝助を他の後輩と同列に扱う。
 才能とか、努力とか、まるでそんなもの如何でもいいと言わんばかりに彼等が受け入れてくれる。


「大体、お前は口の利き方からなってねーし……って、おい、何笑ってんだよ」


 苛立ったように匠先輩が言う。目を向ければ、確かに孝助が笑っていた。


「俺は怒ってんだぞ、其処のところ、ちゃんと解ってんだろうな!?」
「しつけーよ、匠。孝助だって解ってるって、なあ?」


 途端に擁護に回り出すキャプテン。二人は意識しているのか無意識か、互いの役割を分担しているようだった。
 一方が叱れば、一方が慰める。一方が落ち込めば、一方が励ます。一方が暴走すれば、一方が諌める。そうして成り立つ二人の関係性は正しく、信頼あってのものだった。

 俺達も、こんな風になれるだろうか?

 遠くから箕輪先輩が呼んでいる。
 昼食の匂いが校舎から漂い、試合によって疲弊した身体は抗おうともせず引き寄せられる。自分達よりも数段素直な腹の虫が鳴った。
 さっさと飯にしようぜ。キャプテンは何事も無かったように匠先輩の背中を押して歩いて行く。


「宗助」


 そっぽを向いたまま、双子の兄が呼んだ。


「ありがとうな」


 随分と久しぶりに聞いた感謝の言葉に耳を疑う。けれど、その真偽を確かめる間も無く孝助は走り出していた。

 中学時代のあのチームは、互いを利用した利潤関係で成り立っていると思っていた。
 でも、違ったのかも知れない。仲間は本当は、俺達を信じてくれていたのかも知れない。俺達が信じられないまま壊してしまっただけだったのかも知れない。
 終わった過去を取り戻したいとも、やり直したいとは思わない。けれど、失ったものも取り戻せる日が来るかも知れない。
 連絡、取ってみようか。孝助に相談すれば如何でもいいと一蹴されるだろう。不満げな兄の顔を思い浮かべながら、仲間の元へ走り出した。

2013.4.7