「お前も大変だな」
「え?」


 振り返った先にいた見覚えの無い男子生徒に、和輝は無防備に小首を傾げる他無かった。
 突然掛けられた労いにも似た同情を、何の理解も無く受け入れる程柔軟である筈も無い。行こうぜ、と仲間と連れ立って去り行く背中をぼんやりと見送る。
 漫画ならば頭上にクエッションマークが幾つも浮かんでいることだろう。
 何の話だろうと、和輝は再度首を傾げて腕を組んだ。

 昼下がりの学校は、物騒だと囁かれる世間からは切り離されたように、穏やかに時間が流れていた。
 空腹を抱えたまま和輝は、教室の出入り口を潜った。食事を開始するクラスメイトが各々仲の良い友人と机を囲み、それはまるで海面に浮かぶ小島のようだった。
 先程の男子生徒は何だったのだろう。ぼんやり考えながら椅子を引くと、背後から唸るような声が掛けられた。


「おい、おせーよ」


 不機嫌さを隠そうともせず、机に突っ伏していた匠が顔を上げて言う。
 まあまあ、と宥めるのは箕輪だ。隣で夏川は腕を組んで溜息を零す。野球部三年のこの四人組が、キャプテンである和輝の教室で昼食を取るのは最早恒例となっていた。同じクラスの匠は兎も角として、此処に集合するのは慣れとしか言いようがない。三年目の付き合いになり、此処は他の何処よりも居心地が良いのだ。
 和輝の到着を待っていたらしい仲間に、苦笑交じりに謝罪する。先に食べていればいいのに、と和輝は言うけれど、それでは集まる意味がないと女子のようなことを箕輪が言う。
 箕輪ってそういうところあるよな。匠が何時か言っていた。優しいというより、女々しい。悪口のようなその言葉に箕輪は憤慨していたけれど、あながち的外れでも無いと和輝は思う。
 一つの机を囲み、手を合わせる。妙に行儀良いこの挨拶を始めたのは夏川だ。挨拶をしないと食べた気がしないと言う夏川は、中々育ちが良いようだ。


「で、何で遅かったんだよ」


 食事を開始するや否や、口内に米飯を溜め込みながら箕輪が言った。隣で米が飛ぶ、と夏川が眉間に皺を寄せる。
 昼食前、トイレに行っただけだった。和輝は他の生徒のように財布を持たない為、購買や自動販売機等には縁の無い生徒だ。
 まあ、確かにトイレにしては長かったか。そんなことを思いながら生姜焼きを咀嚼する。蜂谷家、本日の食事当番は父だった。和輝は父の作る料理が好きだ。ソースが固まっていたり、冷凍していたものが解凍し切れていなかったり、うっかり二段弁当の上下白米ということもあるけれど、父の作る料理は大雑把だが優しい味がする。お袋の味を知らない和輝にとっては何よりも懐かしい胸に沁みる味だった。
 そんな料理を咀嚼しながら、和輝は先程会った男子生徒を思い出す。やはり、覚えの無い顔だ。


「声、掛けられたんだよ」
「あー、はいはい。イケメン爆発しろ」
「いや、男だけど」
「おい、匠セコムの出番だぞ」


 男女でこうも対応が変わるものだろうか。箕輪の言葉を笑いながら、和輝は箸を動かす。
 いや、匠セコムって何だよ。突っ込もうと思った言葉を遮って、匠が低い声を出す。


「何組の奴?」
「いやいや」


 お前、何する気なんだよ。和輝は呆れた。
 殺気にも似た不穏な空気を醸し出しながら立ち上がった匠が、渋々と椅子に座り直す。ただの冗談だろ、本気にすんなよな、と和輝は軽く笑った。
 どうも、ここ二年で匠は過保護になったようだ。世間からの痛烈なバッシングと噂好きな生徒達による陰湿な嫌がらせを、今も忘れていないらしい。それが切欠で、箕輪と夏川は昼食以外にも何かと和輝を守るように此処に集まるようになったのだ。掌を返された後、所謂嫌がらせは無くなったけれど、代わりに異常な好意を寄せられるようになった。その最たるものがストーカーだった。
 匠が過保護になるのも無理は無いな、と和輝は思う。ストーカーの被害は本人だけでなく、周囲にも大変迷惑を掛けていたからだ。特に、四六時中一緒だった匠は度々脅迫状を受け取ったし、部活帰りに襲撃されたこともあった。その上、犯人が同級生の男子生徒だと解った時は世も末だと思った。


「そういうんじゃねーよ」


 軽い調子で否定すれば、何処か匠は安心したように食事を再開した。
 先程会ったばかりの男子生徒を思い出す。名前も知らない同級生なんて幾らでもいる。それ程に、晴海高校は生徒が多い。


「いきなり、同情されたんだよ。お前も大変だなって」
「へー」


 興味を失ったように夏川が相槌を打つ。確かに、言葉だけ聞けばその程度だ。
 それでも、それだけで終わらせてはならないような違和感に、和輝は続けた。


「何に対する同情だったんだろうなって思ってさ」


 何かと事件を起こしがちな野球部も、最近は落ち着いて平和だった。少なくとも、部外の人間に同情されるような問題は起こしていない。
 唸りつつ首を傾げる和輝に、匠も夏川も既に興味が無いようだ。箕輪だけが何だろうな、なんて軽い調子ではあるが返してくれる。
 どうせ、答えなんて出る筈が無い。三人寄れば文殊の知恵なんて言うけれど、四人集まっている内の二人は非協力的だ。和輝は溜息を零した。
 二人の思うように、大したことでは無いのだろう。そう決め付けて話題を変えようと逡巡したところで、傍で食事していたクラスメイトが唐突に口を挟んだ。


「それって、あいつのことだと思うぞ」


 短い黒髪を適度にワックスで立たせた男子生徒、赤木絢斗が言った。何の因果か一年の頃からずっと同じクラスだった彼は、所謂ムードメーカーだった。クラスの人気者で愛すべき弄られキャラ。和輝はそう認識しているが、本人としては不服らしい。
 ちなみに、和輝は彼の名前が旧友の青樹大和と似た響きを持っているので何と無く親近感を覚えている。三年目の付き合いであるのに、親しみを覚える理由が旧友と名前が似ているから、というのも悪いと思って口にしたことはない。
 赤木は頬に米粒を付けたまま、箸で空を混ぜながら言った。


「ほら、何だっけ。お前のとこの二年で、綺麗な顔してる奴」


 名前が思い出せないらしい赤木がうーんと唸る。一年の頃のクラスメイトである箕輪が言った。


「星原?」
「ああ、それそれ!」


 合点いったと赤木が笑う。赤木と箕輪は一年の時のムードメーカー二本柱だ。クラスが離れた今も仲が良い。
 思い出したら元の話題をすっぽり忘れたらしい赤木は、再び友人等との食事を再開しようとしている。匠が不機嫌そうに言った。


「で、千明が何なんだよ」


 匠は、赤木に対して余り好意的ではない。それは三年になったばかりの頃に、親睦会と偽って和輝と匠を合コンに半ば無理矢理参加させたからだ。その時に出会った少女が後に和輝のストーカーとなって匠に脅迫状を送ることになったのだから、今でも赤木は匠に頭が上がらない。
 赤木は思い出したように、後頭部を掻きながら笑う。相手に対して壁を作らない赤木の裏表の無い性格が、和輝は何より好きだった。ついでに言うと、赤木は和輝が世間から痛烈なバッシングを受けて、学校中から目の敵にされていた頃に表立って味方をして、庇ってくれたことから大きな借りがある。彼がそうして立ち回ってくれていたから、あの頃も和輝はクラスでは安心して過ごすことが出来たのだ。それはストーカーの一件程度では返せていない恩だとも思う。
 そんな御人好しとも言える赤木が、もぐもぐと絶え間無く咀嚼しながら言った。


「今、すげー有名なんだよ。女癖悪ィとか、素行不良だとか、そんなん」


 あの、超禁欲的でド真面目な千明が?
 和輝と匠は、顔を見合わせた。



犬猿の仲に割って入る(1)




 晴れ渡る青空に、深い溜息を吐き掛ける。初夏を迎える平和な街並みなのに、窓の外を眺める蓮見の心は重苦しい曇天に他ならなかった。
 何の前触れも無く、野球部の先輩である白崎匠から一通のメールが入ったのは、膨れた腹に満足感を抱えていた昼休みだった。また、キャプテンが訳の解らないトレーニングを考案したのかと身を固くしてみれば、内容は練習とは関係の無いものだった。
 今現在、二年生の間で広まりつつある、とある下らない噂についてだ。
 蓮見は再び溜息を零し、何と返事をするべきか考えた。


「おーい、蓮見。昼休み終わるぞー」


 間延びした幼馴染の声に、適当な相槌を打つ。睡魔に襲われているらしい醍醐の暢気な顔面を叩いてやりたい。
 何でわざわざ自分にメールをして来たのだろうと考え、すぐに答えは出た。隣で机に頭部を載せる醍醐の間抜け面に辟易する。こいつが噂を知っているとも思えない。
 というか、こいつは知らないのか?
 間抜け面、もといアホ面を晒す醍醐を見遣る。醍醐は此方の気も知れず炬燵の猫のように微睡んでいた。


「なあ、醍醐。お前、星原の噂知ってるか?」
「はあ? 星原ァ?」


 なるべく声を潜めたというのに、醍醐は此方の気も知らず声を上げる。クラスメイトの何人かが此方を振り向き、穏やかだった教室に微弱な電流のようなものが流れた。
 それでも気にする素振りすら見せない醍醐は、大物か大馬鹿か。俺としては後者一択なのだけど。


「星原が如何したんだよ」
「いや、いい。何でも無い」


 その反応だけで醍醐が噂を知っているか否かが解ってしまう。
 中々、有名になりつつある噂なんだけどな。
 毎日部活漬けで、授業は体力回復の仮眠に費やす毎日だ。それに加え、俺達二年は昨年の一年間、主にキャプテンに関わる根も葉もない噂に振り回されて来た。他人の囁く噂なんて下らない。少なくとも、それが俺と醍醐での共通認識だった。
 あの頃とは規模も性質も違う。星原千明は同級生で同じ部の仲間。それ以上でも以下でも無い。というか、野球部じゃなかったら友達にすらならなかっただろうなと思う。


(星原の噂か……)


 醍醐は良く、俺のことを三度の飯より情報収集が好きな変態だと言うけれど、あながち間違いでも無いのが辛いところだ。
 星原の噂は、一か月前からじわじわ広がっていたのだ。内容は単なる悪口に過ぎない。女癖が悪い。ヤリチン。煙草を吸っている。飲酒している。実に下らない内容で、出所も解っていた。
 星原に告白して振られた女子の集団が、彼の評判を貶める為に流し始めたのだ。
 そうして、星原も否定しなかった。否定する機会が与えられなかったというのが正しいけれど、どのみち問い質したところで星原は何も答えなかっただろう。噂が事実だからではない。興味が無いからだ。
 自分の知る星原千明を思い浮かべる。
 中性的だが、整った顔をしている。野球部の三大イケメンの内の一人で、運動神経抜群で成績優秀。身長は平均より僅かに高いくらいで、痩せ型。モテるのも無理ない容姿だから、女子が騒ぐのも当然だ。物腰も穏やかだから、容姿に釣られた女子がホイホイ告白に行く。――そして、痛い目を見るのだ。
 星原は野球部随一の性悪だと、俺は思う。まず、他人に興味が無い。そして、その態度を隠しもしない。自分は干渉しないから、お前も干渉するなというスタンスを一切崩さない。あれはクールなんてもんじゃない。冷酷な性格と言っても過言じゃない筈だ。
 そんな星原が、貴重な休み時間を興味も無い女子生徒に潰され、揚句に見当違いな問答をすればどんなことになるかなんて、大して付き合いの無い俺にだって想像出来る。
 正直、どっちもどっちだ。人の噂も七十五日と言うし、下手に掘り返して大事にするのも面倒だ。
 匠先輩への返事を考える。噂のことにしたって、俺からすれば今更だ。
 直に収まりますよ、と当たり障りなく返事をする。そのまま携帯をポケットに押し込み、形だけは授業に参加しようと机の中から教科書を探る。と、同時に携帯が再び振動した。


from:匠先輩
sub:no title

>同意見。
急に悪かったな。また、部活で。


 食い下がるかと思ったけれど、意外にすんなりと終わった応酬に肩透かしを食らった気分だった。
 さては、最初のメールはキャプテンが送ったのかと見当を付ける。携帯電話も財布も持たないキャプテンは実に不便で迷惑だ。こうして度々匠先輩の携帯から業務連絡もして来る。
 何だったんだと思いつつ、社交辞令の一つとして返事をする。
 とんでもない。また部活で。
 短い文章で返し、漸く携帯をしまうことに成功する。授業開始まであと僅かだ。教員が扉を潜ったと同時に聞き慣れたチャイムが鳴り響く。教科書を出していなかったことを思い出して、机の中に手を突っ込んだ。
 目当ての教科書を見付け、机に用意した瞬間、その違和感に気付いた。
 一冊の教科書の、奇妙な厚み。


(何だ、これ)


 違和感に、心臓が早鐘のように拍動する。
 ゆっくりと手を伸ばす。指先に触れる、使い慣れた表紙に指先で触れ、違和感に満ちた教科書を開いた。


「う、あ」


 開いた教科書からばらばらと零れ落ちるのは、無数の刃。
 途中で手折られたカッターの刃だった。
 机の上に広がった刃を見て、隣で醍醐が目を向いた。状況が理解出来ないまま呆然としていると、ポケットで再び携帯が震えた。
 覚束無い指先で、使い慣れた筈のスマートフォンを操作する。匠先輩だ。


from:匠先輩
sub:Re:Re:no title

>和輝が嫌な予感がするから、気を付けろってさ。
まあ、何もねーと思うけど。


 俺達のキャプテンは予言者か。

2013.5.5