教科書に無数のカッターの刃を仕掛けられた俺は、ショックでその後の授業など碌に頭に入って来なかった。こんな嫌がらせをされたのは初めてだった。まさかイジメじゃないかなんて弱気になれば、珍しく醍醐が労わるように声を掛けて来た。
 何で、何が、如何して。
 答えの無い問答を頭の中で繰り返して――、放課後になれば如何でも良くなっていた。
 それにしても、何時の間にあんなものを仕込んだのだろう。犯人がこそこそと仕込む姿を想像したら何故だか非常に空しくなった。俺の教科書に挟む為に、わざわざカッターナイフを調達して、一本一本細かく折って、人が出払った隙に仕込んだのか。涙ぐましい努力だ。
 カッターは適当に処分して、練習の為に部室棟へ向かう。隣に並んだ醍醐は頭の後ろに手を組みながら歩いている途中、何処から現れたのか渦中の人物、星原の出くわした。
 星原は何時もの無気力な死んだ魚のような目を、此方に向けて来た。こいつは本当に、興味無い相手への態度が解り易い。キャプテンには、そんな目、絶対に向けない癖に。


「よう、星原。偶然だな」


 軽い調子で声を掛ければ、星原は胡乱な目を向けて来た。
 俺と醍醐は同じクラスだから自然と一緒に部活に行くことが多いけれど、星原は別行動だ。友達がいない訳ではないようだが、単独行動が好きなのか度々輪から外れて行く背中を見る。俺達も初めは一緒に部活に行こうと声を掛けていたけれど、そうした星原の性質を知ってからは積極的に声を掛けることはしなくなった。
 思い返せば、星原は始めの頃は盛大に猫を被っていた。キラキラと輝くような笑顔と、親切な態度で皆に接していたのだ。今の星原と比べて信じられないけれど、事実だ。


「偶然も何も……。部活なんだから、会うのは当たり前だろ」


 さらりと嫌味のように吐き捨てて、星原は颯爽と歩いて行った。
 隣で醍醐が憤慨したように「ムカつく」と叫ぶ。けれど、俺は、そういう星原の態度が嫌いでは無かった。
 出会ったばかりの頃は、俺達のことも信用しておらず、仮面を被って接していたのだ。何時の間にかその隔たりが無くなって、俺達に遠慮の無い態度で接して来ているとしたら、それは仲間として喜ぶべきことなのかも知れない。
 そんなことを思って薄ら寒くなり、身震いする。柄でも無いことを考えるもんじゃないな。
 部室に行くと、箕輪先輩の声がした。誰かと話しているらしい。その声色は困惑に満ちている。


「気持ちは有難いんだけど、今は募集してないんだよ」


 やんわりと何かを断る様子に、誰と話しているのか気になった。困ったと眉尻を下げる箕輪先輩の前に三人の女子生徒がいた。
 見覚えのある――、否、あれは。
 星原を恨んでいる女子生徒の一部だ。何があったか知らないが、野球部にまで問題を持ち込まれては困る。口を挟むべきか、副キャプテンに任せるべきか。遠目に様子を窺うが、女三人寄れば姦しいとはよく言ったもので、箕輪先輩は今にも押し切られそうだった。
 頑張れ、と内心で応援してみるも状況は変わらない。それどころか、気付いたらしい星原が苛立ったように大股で距離を詰めて行く。これ以上、問題をややこしくするな!
 と、その時だった。


「何してんだよ、箕輪」


 颯爽と現れたのは、キャプテンだった。
 寝癖の残った頭で、欠伸を噛み殺しながら現れたキャプテンは、今日も溜息を零したくなる程、綺麗な顔をしていた。
 女子三人組も、キャプテンの登場に息を呑んだ。


「野球部に何か用?」


 キャプテンの問い掛けに、女子三人組が赤面し口籠る。漂わす雰囲気だけで人を魅了出来るなんてこの人くらいだ。羨ましい、妬ましいと思う以上に、救世主の登場に安心する。
 女子の一人が、火照った顔のままに言った。


「あの、私達、マネージャー志望なんです!」


 妙に気合いの入った化粧と髪型とネイルで、よくもそんなことが言えるものだ。彼女等の思惑に見当が付く俺は内心で吐き捨てた。
 キャプテンは「へえ」と僅かに笑みを浮かべた。
 まさか、この人、承認したりしないだろうな。嫌な予感に背筋に冷たいものが走る。
 キャプテンは言った。


「何で?」


 屈託無い純粋な疑問に、女子三人は面食らったようだった。
 訊かれると予想していなかったのか、互いに顔を見合わせていた。その程度の内容、初めから考えておけよ。そう思うけれど、キャプテンは答えを聞かないままに言った。


「マネージャーの仕事ってのは、所謂裏方だ。用具の点検、準備、発注。ドリンクの用意、怪我の手当、ノックの球出し、他校の偵察、ユニホームの洗濯、グラウンドの草むしり。そういう雑務の諸々が、本当に君等に出来る?」


 出来る訳が無い。俺は内心吐き捨てた。
 女子三人はキャプテンの穏やかな物腰に、ごにょごにょと相談し合っている。
 彼女等が何か言う前に、キャプテンは大きな目を僅かに細め、美しい微笑みを浮かべた。


「ちなみに、今はベンチも一杯だから、最低でも今年度は君達ベンチ入り出来ないからね」


 それでも良ければ、どーぞ。
 迎え入れる気も無い癖に、表情だけは何処までも穏やかで美しかった。キャプテンの拒絶の意味の込められた言葉に気付かない少女達が赤面し、話せただけで僥倖だと言うように会釈して去って行く。
 時間にして、僅か五分。賞賛の拍手でも送りたい気分だった。
 部室の鍵を開けるキャプテンの小さな背中に、星原が飼い犬のように駆け寄って行く。挨拶一つにも隠し切れない好意が溢れている。その好意を欠片でも、周囲の人間に分けてやれればいいのに。そうすれば、こんなややこしい事態にならなかっただろうと、俺は思う。




犬猿の仲に割って入る(2)




「集合」


 着替えもそこそこに、グラウンドに行こうとした俺は足を止めた。部室中央のベンチを陣取って、唐突にキャプテンが招集を掛けたからだ。こんなことは初めてだった。
 着替え途中の醍醐がアンダーシャツを引っ被って慌てて駆けて来る。全員がキャプテンを囲むように集まった。
 キャプテンは俺達に座るよう促すと、切り出した。


「此処最近、身辺で何か変わったことがある奴はいないか?」


 沈黙。
 それまでの穏やかさを消し去って、酷く真剣な面持ちでキャプテンが言う。


「どんな些細なことでもいい」


 そう付け足すけれど、発言する者はいなかった。
 変わったことを指す定義が解らなかったのだ。皆も同様だろうかと黙っていると、小さく溜息を吐いてキャプテンは渋々といった調子で口を開いた。


「野球部への嫌がらせが続いてんだ」
「嫌がらせ?」


 思わず俺が訊くと、キャプテンは頷いた。
 そのままぐるりと周囲を見回して、空湖と目を合わせた。空湖は苦い顔をして、静かに口を開く。


「……俺と宗助で、朝練の前によく外周行くんですよ。それで部室を一番に開けることが多いんですけど、今日、部室に行ったら、扉の前に真っ赤なペンキがぶちまけられてて……」
「ペンキ?」


 俺が訊くと、空湖は真面目な顔で頷いた。


「朝方の薄暗い中で見たから、最初は血かと思って叫び掛けましたよ。でも、よく見たらペンキだって気付いて……。結局、朝練始まるまで二人で掃除して、外周は行けませんでした」


 朝っぱらから掃除する羽目になった二人に同情しつつ、朝練の時点で何も気付かなかった自分を恥じた。
 キャプテンは空湖には何も言わず、今度は隣の箕輪先輩に視線を移す。箕輪先輩は副キャプテンで、部内のムードメーカーであり、野球部の良心でもある。


「ついさっきのことなんだけどな。部活行こうと思って、下駄箱から靴を出そうとしたんだよ。でも、靴、無くなっちまったんだ」
「箕輪が呆けていたとしても、流石に靴を履き忘れることは無いだろう」


 酷く真面目な顔で言い切ったキャプテンが、箕輪先輩に叩かれた。そりゃ、そうだろう。
 続けるように夏川先輩が言った。


「俺は運動靴の紐、ご丁寧に全部切られた」


 晴海高校では通学用のローファーとは別に、体育用に運動靴を用意している。毎日履くローファーは兎も角、運動靴は体育の授業や部活でなければ使用しない。野球部の外練ではスパイクではなく運動靴を使用するが、毎日外周する訳でも無いから使用頻度は高くない。
 それでも、下駄箱は毎日開閉する場所だ。同日に二件も続くなんて不可思議だろう。
 と、俺が考えていると、キャプテンの隣で匠先輩が言った。


「俺は運動靴隠されて、ローファーにカッターの刃を仕込まれたよ」


 何でもないことのように淡々と告げる内容に、俺は思わず黙った。
 悪意以外の何でもない。キャプテンはふう、と溜息を零した。


「まあ、俺は何も無かったけど……」
「何もねーんスか」


 がくりと、醍醐が肩を落とす。その反応は正しいと俺は思う。
 へらりと笑うキャプテンの横で、箕輪先輩が口を挟んだ。


「和輝の下駄箱は、特別に鍵付いてんだよ。嫌がらせ対策というより、ファンとかストーカー対策でね」


 ああ、なるほど。一人納得する。
 だから、三年生は続け様に嫌がらせされても平然としているんだな。これでもしキャプテンまで被害を受けていたら今頃、興奮して犯人捜しでもしていただろう。そんなんだから、蜂谷和輝親衛隊とか陰で呼ばれるんだよ。
 皮肉っぽく思うけれど、その過保護の理由を知っている俺は黙っていた。全ては二年前だ。
 匠先輩の靴に入れられたというカッターナイフで、唐突に思い出した。俺が挙手すると、キャプテンが教師のように畏まって指名する。そういう訳の解らないノリの良さが好きだ。


「俺、教科書にカッターの刃、仕込まれました」


 そこで、空気がざわついた。隣で醍醐は、自分が受けた訳でも無いのに苦い顔をしていた。馬鹿で直情的な単細胞だけど、悪い奴じゃないことは付き合いの長さで知っている。
 黙り込んでいたキャプテンが口を開く。


「理由は知らねーけど、目的は野球部だ。嫌がらせにしちゃあ古典的だが、手が込んでる。特にカッターの刃なんて凶器だし、匠にしても、蓮見にしても下手すりゃ選手生命に関わる怪我になったかも知れない」


 大袈裟だとは、言えなかった。
 もし、匠先輩が気付かずローファーに足を入れていたら?
 もし、俺が気付かず教科書を開いていたら?
 想像にぞっとして、顔には出さずに俺は黙った。キャプテンは真面目な顔で言う。


「嫌がらせで済む内はまだいい。何かあったら、どんな些細なことでもいいから、俺に報告しろ」


 俺はこの一連の嫌がらせの犯人に目星が付いていた。全ては星原へ恨みを持つあの女子生徒達だと思っていた。けれど、確たる証拠も無く口にするのは間違っているように感じた。
 キャプテンに相談するべきだろうか。けれど、星原は間違いなく嫌がるだろうなと思った。
 それまで黙っていた孝助が言った。


「……もし、仮に犯人の目的が野球部なら、キャプテンを狙わないのは可笑しいですね」
「いや、さっき言ってただろ。下駄箱には鍵が付いてんだって」
「だから?」


 醍醐の反論に、孝助がじろりと鋭い視線を向ける。


「別に、下駄箱だけじゃないでしょ。どうせキャプテン、万年置き勉なんだから、教科書は悪戯し放題だし……。それに、部内一チビで非力で、故障から復帰したばっかりだ。狙ってくれって言ってるようなもんでしょう」


 言い草は酷いが、中々に的を得ている。
 その時、真っ青になった星原が声を上げた。


「――俺、ボディーガードします!」


 一瞬、こいつは何を言っているんだろうと頭が痛くなった。
 けれど、同時に気付く。犯人の正体や目的に目星が付いているのは、俺だけだった。だからこそそんなことを言うんだろう。
 キャプテンは子どもの駄々を許容するような穏やかな眼差しで、言った。


「いらねー」
「和輝先輩っ!」


 泣き付く星原を、キャプテンは「いらない」と切り捨てる。この状態の星原に、そんな対応が出来るのはキャプテンくらいだ。というよりも、星原がこんな状態になるのはキャプテンに対してのみだった。
 星原のキャプテンへの態度の理由は聞いている。
 中学生の頃、自宅に押し入った強盗に両親を目の前で殺害された。そして、同じように殺され掛けた星原を救ったのがキャプテンだったとか。
 ……そりゃあ、依存も執着も、凄まじいものだろう。
 武蔵商業の蝶名林皐月先輩も、キャプテンに同様の執着を見せていた。男同時で気持ち悪いとか、女々しいとか、そうして笑い飛ばすことなんて出来なかった。
 出口の無い暗闇のトンネルで、唯一見付けた光。それに縋らない人間なんている筈も無い。


「和輝先輩が心配なんですよっ!」
「うるせーな。いいから引っ込んでろよ」


 邪魔だ、と言うように星原を片手で制す。やはり、星原に対してそんなことが出来るのはキャプテンくらいだ。俺が同じことをしたら何を言われるか。報復が怖い。
 キャプテンは咳払いを一つした。


「話が逸れたけど、暫くは学年ごとの集団行動を義務化する」
「何で、学年ごとなんですか!」
「異論は認めない。第一、その方がやり易いだろ」


 キャプテンの言い分は尤もだった。星原がぐっと押し黙る。


「仲間を守りたいっていう、お前の気持ちは十分解る。俺だって同じ気持ちだ。だからこそ、仲間を信頼しろ」


 慈愛に満ちた声で、蕩けそうな笑顔を浮かべる。こういう顔を当たり前のように出来る人を、俺は他に知らない。そして、それに反論出来る人も、知らない。
 星原の沈黙を渋々ながら肯定と受け取ったキャプテンは、場を切り替えるように手を叩いた。乾いた音を反響させ、練習へと促す。ぞろぞろと足並み揃わない仲間だが、先頭を歩くキャプテンに引き摺られるように部室を出て行く。
 出遅れた俺はタオルとドリンクを抱えて足を踏み出した。ふと振り向くと、苦虫を百匹くらい噛み殺したような星原と目が合った。


「なあ、蓮見」
「んだよ」


 名前を呼ばれたことすら久しぶりだ。
 三年生は言わずもがな、一年三人組もそれなりに交流があり仲が良いようだ。それに比べて俺達二年は、意識していた訳ではないけれど、単独行動の多い星原と、俺と醍醐の二つに分かれがちだった。
 星原は形の良い目をすっと細めた。嫌悪と侮蔑に満ちた嫌な目だ。


「お前、本当は知ってんだろ。何で何も言わなかった」
「……別に。お前を庇った訳じゃねーから」


 言えば、星原が皮肉っぽく口角を釣り上げて笑った。
 黙っていれば美少年なのに、こうした陰険な仕草がそれを台無しにしていると俺は思う。


「まあ、引き続き黙っててくれよ」
「何で」
「和輝先輩に迷惑掛けたくねーから」


 俺達は良いのかよ。そう言ってやりたかったけれど、黙っていた。


「全部、俺が自分で片付けるからよ」


 そう言い捨てて、星原が部室を出て行く。扉の前で俺達を待っていた醍醐が何か言うが、星原は気にする素振りも無く一瞥しただけで歩いて行った。
 憤慨したように醍醐が何か喚いている。醍醐と星原は犬猿の仲だ。俺としては醍醐のあの直情的な性格は見ていて面白いと思うのだが、星原からすればただの熱血馬鹿なのかも知れない。俺から見れば星原の捻くれ具合とキャプテンに従順なところは見ていて飽きないが、馬鹿にされている醍醐は面白くないだろう。
 こんなちぐはぐなまま、暫く集団行動かと思えば頭が痛くなる。犯人が捕まるのが早いか、胃に穴が空くのが早いか。


(俺って、こんな苦労性な性格じゃなかった筈なんだけどなぁ)


 青空に呟いて見るけれど、当然のように返事は無かった。

2013.5.6