星原がそう言った翌日、俺は人間の恐ろしさを痛感する。 早朝練習の為にグラウンドに向かうと、使い慣れた下駄箱で異臭が漂っていた。所謂足の臭いとは異なる生臭さに思わず顔を顰めれば、隣で醍醐が鼻を抓んで同じ顔をしていた。 何だ、これ。 訳の解らない状況に周囲を見遣る。自然と原因は理解出来た。 星原の下駄箱。これでもかというくらいに詰め込まれた生ごみの数々に、今更、古典的だなんて嗤えなかった。 「どうする?」 問い掛けた先、醍醐は既に掃除用具入れに手を伸ばしていた。 何の躊躇も無く取り出した塵取り挟みに塵取り。さも当たり前のように掃除し始めた醍醐の背中を見詰める。お前、星原のこと嫌いだっただろう。そんな軽口を叩く暇も無いくらい、手早い動作だった。 俺が何かする間も無く清掃完了した下駄箱を眺め、醍醐が息を吐く。冷静で硬派を気取ってるけれど、如何足掻いたって不器用で熱血な全力少年だ。周知の事実であるのに、本人だけがそれを認めようとしない。 苦笑いを浮かべていると、登校して来たらしい星原が怪訝そうに眉を寄せていた。 星原は既に掃除を終えて元通りになった下駄箱で、何事も無かったかのように上履きを履き替えようとする。其処で、俺ははっと気付いた。ごっそりと塵を取り除いた下駄箱の中に何があるのかなんて――。 「……あれ?」 星原らしかぬ呆けた声が、ぽつりと漏れた。 下駄箱の中に、何か入っている筈も無い。汚れた上履きは、詰め込まれた塵と一緒に袋の中に片付けてしまった。 ひそりと眉を寄せる星原に、何か都合の良い言い訳を考えているだろう醍醐が、解り易い程に慌てふためく。下手に取り繕うよりも、何も知らない振りをした方が楽だろう。 俺が醍醐の口を塞いで沈黙を守ると、星原はさして気にする素振りも無く、ローファーを下駄箱にしまった。そのまま慣れたように来客用のスリッパを履いて歩いて行った。 「おい、蓮見……」 何かを言い淀む醍醐の心中は容易に想像出来る。 このままでいいのかよ。このままにするつもりかよ。俺はこんなの、絶対に嫌だぞ。 顔面を歪める醍醐の目に映る苛立ちも、見なかったことにした。そうすることが一番楽だ。第一、俺に何が出来るっていうのか。 部室棟へ向かう事無く、真っ直ぐ教室へ歩いて行く星原の背中を見詰める。 (あいつ、部活は……?) 星原が部活をサボる筈が無い。だって、部活にはキャプテンがいるから。 じゃあ、何で部活に行かないんだ。 嫌な予感に胸騒ぎを感じたけれど、今更動く気も無かった。それなのに、馬鹿正直な俺の幼馴染は、猪突猛進を地で行くから――! 「おい、醍醐!」 鉄砲玉のように飛び出した醍醐を、大慌てで追い掛ける。 おい、待てよ、止まれったら! 俺の言うことなんて聞いた試しが無いのに、如何にかして呼び止めなくてはまずいと直感が言う。登校している生徒はいない。無人の廊下を闊歩して行く星原の背中が、教室の入り口でぴたりと止まる。 追い掛ける醍醐もまた、釣られるように歩みを止めた。呆然とする醍醐の前で、立ち尽くしていた星原の瞳が猫のように細められる。 クラスの異なる星原の席が、今日、初めて解った。 教室の隅、机の上にぶちまけられた塵の山。異臭を放つそれを一瞥すると、星原はやはり、何でもないことのように無表情で片付け始めた。 部活開始まで時間が迫っている。時計を確認しながら、無表情の星原を見詰めていると、いきり立ったように顔を歪めた醍醐が駆け寄った。 無言で片付ける星原は、醍醐を一瞥すると冷ややかに言った。 「……関わんな」 汚物でも扱うかのように手を払い除けられた醍醐が、何処までも冷ややかな星原に食って掛かる。 「てめ、人の親切を……!」 「求めてねーし」 眉一つ動かさずに言う星原は、事実、この状況を気に掛けているようには見えなかった。 取り付く島も無く片付けを終えた星原が、両手を叩きながら鞄を背負う。何事も無かったかのような振る舞いに、この酷い状況も堪えていない図太い神経に呆れた。 「お前等、遅刻すんぞ」 颯爽と歩き出す星原の背中に見えた壁掛け時計が、部活開始五分前を知らせていた。 犬猿の仲に割って入る(3) 「千明のことなんだけど」 朝練終了後、皆が出払った部室でキャプテンが言った。 二人きりになる状況事態が稀だ。意図して作られた状況なのか偶然か、判断し辛いところがある。単純そうに見えて、腹の底を読ませない不気味さがキャプテンにはある。 キャプテンには何も言うなと、星原に注意深く釘を刺されている。けれど、このまま状況が変わるとは思えなかった。俺達が何を言ったって星原にはどうせ届かない。キャプテンじゃなきゃ駄目なんだから。 「あいつ、何であんなにピリピリしてんの?」 ほら、見ろ。 俺達には無表情しか見せない癖に、キャプテンにはそういう弱さを見せるんだから。 キャプテンは何の思惑も無いと訴えるような無邪気な顔で、ことりと首を傾げた。そういうあざとい仕草が様になっているせいで、最早苛立ちすら沸かないというのも不思議に思う。 「今日の朝も遅れて来たし、何かあったんだろ」 「……俺、一連の嫌がらせ事件の原因を知っています」 言うと、キャプテンは驚いた様子も無く微笑みすら浮かべて見せた。 「千明、何て言ってた?」 その質問は、キャプテンが背景を把握していなければ出ないものだった。 キャプテンは、全てを察している。その上で黙っている。理解すると同時に疑問に思う。何故、黙っているんだろう。キャプテンが問わなきゃ、星原は絶対に口を割る筈も無いのに。 俺の沈黙を急かす事無く、穏やかにキャプテンが待っている。 「……俺に、何か言う筈ないじゃないスか」 「何で」 「あいつが何か言うのなんて、キャプテンだけですよ。キャプテンだけが、特別なんです」 これでも一年間一緒に過ごして来たんだ。星原の性格くらい把握している。今更なことを言わされるのは非常に面倒臭い。 これでも、年上の受けはいいんだけどな。キャプテンの人柄のせいか、体格のせいか。穏やかな筈の俺の心中が僅かに波立ち、神経がささくれ立つ。 苛立ちのままに強い口調で言い捨て、はたと気付いた時にはもう遅い。キャプテンは驚いたように目を丸くして、――少しだけ、微笑んだ。 「お前、それでいいの」 どういう意味だ。問い掛ける間も無く、キャプテンが言った。 「千明を、一人にしないでやってくれよ」 懇願のようだった。普段の彼らしくも無く弱り切ったような目で、掠れるような声で語り掛ける。それは幻のように、一瞬のうちに消え失せた。 「おーい、和輝。早くしろよ」 「蓮見、置いて行くぞ」 扉から顔を覗かせた匠先輩と醍醐が言った。授業開始まで時間が無い。 今日はなんだかんだと時間に追われてばかりだ。すっかり普段通りの態度に戻ったキャプテンが、匠先輩に急かされながら歩き出す。早く出ろと促されて扉を開ければ、待っていたのは醍醐だけだった。 集団行動の義務化は施行された筈なのに、星原は既に此処にいない。キャプテンの言うことは何でも聞く忠犬のような奴が如何したんだと周囲に視線を巡らせれば、不意に匠先輩とぶつかった。 何か言いたげな眼差しを向け、ふっと逸らされる。まるで何の興味も無いと、捨て置かれたような心地だった。 仲間と早々に分かれ、醍醐と共に教室へ向かう。既に賑わう廊下は生徒達の他愛の無い会話に溢れていた。朝の清々しい日差しを受けながら、俺の心中は淀んだ曇天にも等しかった。頭に浮かぶのは不機嫌そうな星原の横顔だけだった。 キャプテンと星原は、ただの部活の先輩と後輩という間柄には収まらない。趣味の一環にもなりつつある情報収集で、俺は星原の過去を知っていた。 一年前、星原は近くの大学病院の屋上から投身自殺を図った。しかもそれは、自分の内面にあるものを苦にした自殺ではなく、偏にキャプテンへの復讐と呼ぶに相応しかった。 星原は中学時代、両親を目の前で強盗に殺害された。同様に命の危機が迫った星原を救ったのは、偶然にも駆け付けたキャプテンだったという。 類稀な才能も、誠実な性格も、誰もが振り返る美しい容姿も、人々を惹き付けて離さない人望も。当時の星原の目にはヒーローに映った。その結果が憧れの先輩という憧憬ではなく、ヒーローへの崇拝。羨望ではなく依存。歪んだ価値観が生まれた。 俺から見てもキャプテンはすごい人だ。何でも出来る超人みたいな癖に、驚異的なチビで絶望的な馬鹿。ともすれば遠巻きにされるような人種なのに、親しみ易い性格や短所が彼を人間足らしめている。そういう意味でも、俺はすごい人だと思う。 二年前の傷害事件の折、世間からの場違いなバッシングを一身に受け、終に自身の口からは一度たりとも弁解せずに堪え切った。世間が事実を知って掌を返してもそれまでとの態度を変える事無く微笑む姿は、神懸っていた。 そういうキャプテンに憧れる気持ちは解る。俺だって同じだ。だからこそ。 だからこそ、キャプテンと俺達の違いに絶望する。 お前、それでいいの。 淡々とした口調でありながら、責めるような物言いに内心で言い訳をする。だって、仕方が無いじゃないか。俺達はキャプテンとは違う。中学時代から一緒だったというキャプテンと、一年ちょっとの付き合いの俺達。信頼関係に違いがあるのは、当たり前のことだろう? 大体、それを望んでいるのは星原じゃないか。俺に何か言う前に、星原の言ってやってくれよ。 そうこうしている間に、俺達は教室の前まで辿り付いていた。隣で醍醐が何やら熱弁していたようだけど、考え事をしていた俺は綺麗に右から左に聞き流していた。 教室は閑散としていた。授業開始前にしては異常な程の人気の無さなのに、何処か皆が浮足立っている。何だこれはと眉を潜めるよりも早く、クラスメイトの一人が俺達の姿を認めると駆け寄って来た。 「なあ、おい。四組のこと聞いたか?」 「あ?」 四組は星原のクラスだ。醍醐が柄悪く聞き返す。 クラスメイトが言った。 「黒板に、星原の妙なビラが貼られてたって」 嫌な予感がした。冷たくなるのは背筋の筈なのに、まるで手足が氷水に浸されるように感覚が衰えて行く。 弾丸のように駆け出した醍醐を、俺は今朝宜しく必死に追い掛けた。 四組の前は異常な程の人だかりが出来ていた。以前、キャプテンが俺達のクラスに来た時も同じくらい賑わっていたなとぼんやり思い出しながら、人込みを掻き分けて中を覗き込む。 黒板の前で独り、星原が立ち尽くしていた。 「星原」 大した距離を走った訳でも無いのに、心臓が嫌に激しく拍動していた。 俺は何も言えないまま、黙って教室に割って入る醍醐の背中を見ている。 黒板に貼られたA4サイズのコピー用紙。パソコンで印刷された文字が躍る紙面には、星原の過去が面白おかしく刻み込まれていた。 強盗に両親を殺されたこと。独りだけ助けられたこと。 ついでに言うと、キャプテンとの同性愛が如何とか書き込まれていたけれど、確かめる必要も無いデマなので割愛する。星原はその紙面を穴が空く程、じっと見詰めていた。 隣に並んだ醍醐が、奪い去るようにそれを剥がした。黒板に御丁寧に糊付けされたそれが乾いた音を鳴らす。無言でそれを細切れに破り捨てる醍醐は無表情だった。 直情的な幼馴染のこんな姿を見るのは、初めてだった。 「……れ、だよ」 掠れるような声で、醍醐が呟く。 聞き取り辛さに眉を寄せれば、弾かれたように醍醐が顔を上げて叫んだ。 「誰だよ! こんな悪趣味な悪戯しやがってッ!!」 直情的で短絡的で、御人好しで単純な俺の幼馴染。冷静な男に憧れながら、如何したって熱血な少年漫画の主人公タイプの醍醐が、憤怒を露わに声を振り絞る。 ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。 自分のことのように怒る醍醐に、俺は何も言えなかった。そんな態度を取ったら、その紙面が事実だと認めているようなもんだろう。そう言ってやりたいのに、何も言葉に出来なかった。 醍醐の足元に、破かれた紙面が木の葉のように舞い落される。 水を打ったような静寂の中で、星原だけがへらりと笑って言った。 「暇な奴もいるもんだよな」 まるで他人事のような物言いだった。 「和輝先輩、とんだとばっちりだよな。あーあ」 自身の暴露された過去への弁解は一言もせず、ただ、キャプテンのことだけを気に掛けている。 そういうところが、俺達との違いだと痛感させるんだ。 醍醐が、目を伏せていた。空になった掌をぎゅっと握り締める両腕が、微かに震えている。何かを堪えるようなその仕草に気付くことなく、星原は塵になった紙面をぼんやりと眺めていた。 |
2013.5.15