そして、それは一瞬のことだった。

 振り上げられた醍醐の右腕が大きく撓り、抉るような鋭さで振り抜かれた。肉を打つ乾いた音が響き渡ったと同時、星原の身体が勢い良く弾き飛ばされた。
 無人の席を巻き込みながらリノリウムを滑った星原に、野次馬から悲鳴が上がった。
 むくりと上半身を起こした星原は、腫れた左頬を隠すように前髪を垂らしたまま俯いている。醍醐は言葉こそ吐き出さないまでも、その怒りを隠そうともせずに星原を睨んでいた。
 悲鳴の次は耳が痛くなる程の静寂が訪れた。誰も、何も言えなかった。
 立ち上がらない星原に、醍醐が声を張り上げ叫ぶ。


「テメェ、何へらへらしてんだよッ!」


 醍醐の顔面が歪む。怒りというよりも、俺にはそれが泣き出す寸前のものみたいに見えた。


「何で怒んねーんだよ! 何で何も言わねーんだよ!」


 その沈黙に、俺はふと一年前を思い出す。星原を取り巻くこの状況は、一年前のキャプテンに似ていた。
 身勝手な他人の罵詈雑言。一言の弁解も無く耐え忍んだキャプテンのそれに、今の星原はよく似ている。
 正直、俺は一年前のキャプテンの行為が正しかったのかなんて解らない。ただの部活仲間の為に、自分の人生を潰す覚悟を決められるだろうか。その異常なまでの自己犠牲は、俺なら絶対にしない。だって、ただの部活仲間だろう。キャプテンのその行為に救われた人間もいただろうけれど、それにしたってあの地獄のような日々は割に合わない。
 俺には、解らない。何が正しいのか、何が間違っているのか解らない。
 けれど、醍醐はそんなものお構いなしに声を上げる。俺の疑問なんて如何だって良い問題なのだと全身で訴えるように声を振り絞る。


「お前のそれは、ただの甘えだぞ!」


 指でも付き付けそうなくらいびしりと言い切った醍醐の顔は、怒りに歪んでいる。
 星原は顔を上げた。きょとんと呆けたかと思うと、見る見る内に怒りに染まって行く。


「――んだとォ」


 ゆらりと立ち上がった星原の臆することなく、醍醐が真っ直ぐに対峙する。


「弁解一つしないで、解って貰えるとでも思ってんのかよ。格好付けてる場合じゃねーだろ。そのくらい、秀才なら判断出来るだろ!」
「うるせーよ、それでお前に迷惑掛けたかよ!」
「お前、――本当の馬鹿だな!」


 叫ぶと同時に振り切られた醍醐の右手が、再び星原の左頬を掠めた。
 小学生の頃から投手を続けた利き腕で殴るなんて、捕手として俺はどちらを心配すればいいのか解らなかった。ただ、小気味いい音に体勢を崩した星原が双眸に怒りを滲ませ顔を上げる。
 醍醐は怯まない。ランナーズハイかも知れないとぼんやり思う。


「迷惑じゃねーよ! 心配してんだよ! 仲間だから!」


 醍醐が言い放つと同時に、リノリウムを蹴る乾いた音が響いた。
 拳を振り上げた星原が宙を舞う。ただでは済まないだろうその容赦無い一撃は、目の前の男を叩き潰す為に横なぎに振り切られた。
 けれど、その瞬間。


「千明! 醍醐!」


 まるで試合終了を告げるサイレンのように響き渡った声に、俺達はパブロフの犬宜しく身を強張らせた。


「好い加減にしろ」


 苛立ちを深く押し込めた唸るような声は地を這うように低く、背筋に走る寒気と共に俺達の意識を現実へ強制送還させた。
 何が起こったのか。目を瞬かせ状況を見きわめようとするけれど、何度見ても理解の及ばない現実が佇んでいた。
 この場にいる誰よりも小さな少年が、他の誰より圧倒的な存在感を放って立っている。それは俺達にとって見慣れた風景の一部だった。


「和輝先輩……」


 拳を下ろした星原が、それまでの剣幕を消し去った血の気の無い面でキャプテンを見ている。
 何時も微笑みを浮かべながら、俺達に地獄の練習メニューを課すキャプテンが無表情で立っている。俺にはキャプテンが怒っているのか、悲しんでいるのか、何を考えているのか解らない。
 殴り合いに発展しただろう現状を押し留めた彼の相方である匠先輩は、醍醐と星原の間に割って入るようにして立っていた。相変わらず表情は無い。
 漸く笑顔を取り戻したキャプテンに、殺伐とした空気が幾らか緩む。けれど、俺達はその微笑みが決して和やかなものではないと経験上理解している。


「ちょっとお前等、部室に集合」


 キャプテンが言った。



犬猿の仲に割って入る(4)




 俺達のキャプテンは温厚な人だ。性格には難ありだと思っているけれど、基本的には優しく穏やかで親しみ易い良い先輩だ。キャプテンが本気で怒るところを見たことが無い、と思う。普段優しい人が怒るとそのギャップで恐ろしく感じるというけれど、キャプテンはその例に当て嵌まらないような気がする。何というか、本気で相手を物理的にも社会的にも潰すくらいのことはしそうだ。
 そんなキャプテンは、今も決して怒ってはいない。匠先輩と肩を並べ、黙って後を追う俺達に視線一つ向けずに先を歩いて行く。
 醍醐は納得が行かないような憮然とした顔をしているけれど、対する星原は今にも死にそうな顔色だった。俺はどちらかというと後者だ。だって、予測が出来ない。
 部室の扉はペンキによって真新しく塗り重ねられていた。先日、何者かにペンキをぶちまけられたせいだ。
 キャプテンがポケットから鍵を取り出す。普段は体育教官室に保管されているそれが此処にあるのは、何者かの襲撃を防ぐ為だ。
 其処此処に転がる悪意から自分を、仲間を守る為に。
 開かれた部室は何時も新鮮な空気に満ちている。綺麗好きな匠先輩がこまめに掃除し、空気を入れ替えている為だ。使い慣れた青いベンチに座るよう促され、渋々腰を下ろす。死刑宣告を受ける受刑者のような心地で、ロッカーに背を預けるキャプテンと匠先輩を交互に見遣った。
 キャプテンが言った。


「殴り合いの原因は?」


 叱る訳でも無く、諭す訳でも無く、ただ淡々と語り掛けるキャプテンは何時もの掴めない飄々とした態度だった。
 星原が弾かれるように顔を上げた。


「先に手を出したのは、醍醐です!」
「元々はお前が原因だろ!」


 既に掴み合いになりそうな二人を、頭痛を堪えるように眉間に皺を寄せて匠先輩が溜息を零す。
 蓮見、間に入れ。
 容赦無く言い捨て、匠先輩が胡乱な眼差しをする。体育会系の縦社会に逆らえる筈も無く、当事者でない俺は二人の間に座ることになった。
 キャプテンが口を開く。


「喧嘩すんなとは言わないけど、もう少し場所を考えろよな。ただでさえ、うちは学校から睨まれてんだから、傷害事件とか勘弁してくれよ」


 確かにその通りなんだけど、睨まれる原因を作ったのはあんただろうと言ってやりたかった。
 星原はそれまでの剣幕を消し去って、叱られた飼い犬のようにしゅんとしていた。本当に、何なんだよ、こいつは。
 その様子を見ていたキャプテンが、長い息を吐き出した。


「今日、俺の机の中にカッターの刃が貼り付けられてた」


 ぴくりと、肩を揺らした星原の横顔が視界の端に映った。
 物騒な色を浮かべながら、星原は俯いている。


「それから、移動教室の時に階段から突き落とされ掛けた。弁当には針が入ってるし、歩けば植木鉢が落ちて来るし。……言い出したら切りねーし、今日はツいてない日なんだなって思おうとしてたんだけど」


 その思考回路が理解出来ない。悪戯では済まない一歩間違えば大怪我、命の危険の伴う行為だ。
 キャプテンは言う。


「正直、俺も苛々してたんだ。丁度良いから、一連の嫌がらせについては俺が如何にかする。だから、お前等のことはお前等が如何にかしろよ」


 そう言って身を起こしたキャプテンが笑う。あの、輝くような見る人全てを引き付ける綺麗な笑顔だ。
 勝手知ったると言わんばかりにキャプテンは、匠先輩の携帯を取り出して操作する。この二人の間にプライバシーは存在しないらしい。俺と醍醐も幼馴染だけど、年季というか次元が違うなと思う。
 目の前で突然、キャプテンが通話を始めた。
 もしもし。ああ、うん。ちょっと頼みがあるんだ。あー、そうそう。ちょっと限度を超えて来たから、お灸を据えてやらないといけないかなって。先輩としてね。
 何処と無く物騒な話を平然とするキャプテンに、何が何だか解らないままの俺達は取り残されている。やがて通話を終えたキャプテンが、人好きのする笑顔を浮かべ言った。


「じゃあ、ちょっと行って来るから」
「何処に」
「言っただろ。犯人のところ」


 その瞬間、ガタリと星原が音を立てて立ち上がる。
 今にも掴み掛かりそうな剣幕をどうどうと往なしながらキャプテンが言う。


「任せとけって」
「駄目です、俺が行きます! 俺の問題です!」
「もうそんな次元じゃねーよ。野球部全体の問題だ」


 星原の言葉をばっさりと切り捨てるキャプテンが男前だと思う。俺には言えない。


「喧嘩両成敗っていうけど、俺は何があってもお前等の味方なんだよ。先輩として、可愛い後輩くらい守れねーと格好付かないからさ」


 それでも言い募ろうとする星原に、キャプテンはやれやれと肩を竦める。


「頼れる内は頼って置けばいいんだよ。何時でもお前等の傍にいて、守ってやれる訳じゃねーんだから」


 そんなことは当たり前だ。それで、星原はまるでこの世の終わりのような顔をする。
 キャプテンはそのまま、颯爽と部室を出て行った。取り残された星原だけが呆然と立ち尽くし、既に頭の冷えたらしい醍醐が俺に気まずいと耳打ちした。だから、誰のせいだと。
 崩れ落ちるようにベンチに戻った星原は顔を伏せている。
 何だか居た堪れない。


「なあ、星原ぁ」


 ぼんやり天井を眺めたまま醍醐が言う。お前が勇者か。
 拍手を送りたい気持ちでその横顔を見れば、醍醐が怪訝な顔をする。


「殴ったことは、謝らねーから」


 既に頭も冷えて苛立ちも何処かに吹っ飛んでしまったらしい単純な俺の幼馴染は、普段と変わりない呆けた顔で言う。


「だって、俺、間違ってねーし。……前、キャプテンが色んな人からあることないこと言われてただろ。あの時、キャプテンは確かに弁解しなかったけど、今のお前とは状況が全然違うだろ」


 俺は常々、醍醐を本能だけで生きる野生動物だと思っていたけれど、思考する脳味噌が存在したことに驚きを隠せない。
 醍醐は俺の思考なんて気付きもせず、淡々と続ける。


「あの頃のキャプテンは自殺したマネージャーを庇ってたんだろ? 仲間守る為に、身を挺してっつーの? なあ、何かよく解んねーから訳してくれよ、蓮見」


 突然、話を振られて焦った。こんな馬鹿の話に何で俺がつき合わされなきゃなんねーんだよ。
 俺が答えないと醍醐は、こんがらがった頭を解きほぐすように掻き毟りながら、たどたどしく言葉を繋いでいく。


「キャプテンはきっと、お前が何を考えてそういう行動をしているのか察してくれるかも知れねーよ? まあ、あの態度見れば、多分全部解ってたんだろうと思うけど。でもさ、さっきの言われたけど、そういうことばっかりじゃねーだろ。お前の人生にキャプテンが何時でもいる訳じゃねーし。……あー、もう。なんて言えばいいんだよ」


 言いながら頭を抱えているけれど、醍醐が何を言いたいかを俺は察した。それでも、これは俺が代弁するべきじゃない。醍醐が思うことを、醍醐の言葉で伝えるべきだ。
 出されない助け舟に焦れながら、醍醐が眉間に皺を寄せて言葉を探る。


「俺はお前のこと好きじゃねーけど。つーか、むしろ大っ嫌いだけど。でも、もっと頼れよ。――仲間だろ」


 そうだ。
 今年、最後の年を迎える先輩。キャプテンが引退して卒業しても、俺達はきっとこの場にいる。俺達は当たり前に先輩達を頼りにしているけれど、何時までもそれじゃいけないんだ。
 守ってくれる内は守られていればいい。でも、それに安心していたらいけない。


――お前、それでいいの


 キャプテンの声が脳裏を過る。
 星原にとってキャプテンは特別。キャプテンだから仕方ない。そうやって言い聞かせて、俺は星原を独りにした。
 それでいいの。――いい訳、ねーよな。


「まあ、なんだ。取りあえず、仲直りでもしようぜ」
「はあ?」


 それまで黙っていた星原が、顔を上げて不機嫌そうに眉を寄せる。


「仲直りするような仲でもねーよ」
「それもそーだな」


 売り言葉に買い言葉。喧嘩になりそうな言葉の応酬は、決して語彙の少ない醍醐に勝ち目がある筈も無いのにあっさりと集結する。
 其処に星原の思いが隠れているようで、微笑ましく思う。
 熱血単純馬鹿の醍醐。賢いジャイアンな星原。癖の強い二人は所謂犬猿の仲なんだろう。けれど、そんな関係もありだろうと、俺は笑った。



 そして、後日談。
 俺は件の女子生徒一群が、野球部を見ると目を伏せてそそくさと逃げるように早足に去って行くのを度々目にすることになった。
 キャプテンが何をしたのかは解らない。目も合わせようとしない彼女等がどんな目に遭ったのかも口を割らないだろう。けれど、何故か野球部の評判は落ちる事無く、キャプテンへのアイドルにも似た異常な人気は今日も鰻登りだ。
 何をしたんですか。
 俺が問い掛けると、キャプテンは口先に指を立てて笑った。


「お灸を据えただけだよ」


 悪戯っぽい口調の裏に、何か見てはいけない世界が潜んでいるような気がして追求はしなかった。
 昔から言うだろ?
 障らぬ神に祟りなし、ってさ。

2013.5.18