晴海高校野球部の平和な夏合宿(1)
01.出発 六月某日、晴海高校校門前。白いマイクロバスが早朝の清々しさの中、排気ガスを吹かしながら滑り込んだ。 エナメルのスポーツバッグを携えた野球部面々は各々寝惚け眼を擦りながら、到着したマイクロバスを見遣り欠伸を噛み殺す。先頭に立つ和輝だけが妙に冴えた目を向け、あれだと指を差していた。 だらだらと三年生から順にバスに乗り込み、前列の和輝が通路で仲間に声を掛ける。 「点呼するぞー」 選手は十人、マネージャーと顧問を加えても十二名の少数人数ながら、和輝が一人一人の名前を呼ぶ。 そして、その点呼の途中、和輝は返事の無い名前を繰り返し呼び掛けた。 「醍醐ー?」 いないのか、と遅刻常習犯の名前を呆れつつ呼ぶ。 予定の出発時刻は目前だった。多少遅れたところで練習に支障は来さないが、連休初日の高速道路は混雑が予想される為、和輝が片眉を跳ねさせながら、件の少年を飛ばして点呼する。 醍醐がやって来たのは出発予定時刻三十秒前だった。 慌ただしく乗り込んで来た醍醐にぶうぶうと非難の声が飛ぶ。部の責任者として和輝が遅刻理由を追及するが、態度に苛立ちは無く、単純な呆れが表情に浮かんでいた。 弁解するように、醍醐は必死になって遅刻の理由を訴える。 「朝起きたら目覚まし時計が電池切れで止まってて、自転車乗ろうとしたらパンクしてて、学校向かう途中に蹲ってる妊婦さんと出くわして、救急車が来るまで付き添ってたら遅刻しました」 そんな漫画みたいなことがあるか、とはその場にいる皆の総意だった。 もういいや、と匙を投げた和輝が醍醐を席に促す。通路を進む醍醐の背中に非難の声が掛かる。 和輝が運転手に声を掛けると、マイクロバスは低い音で吠えた。部員は座席越しに揺れを感じ、やれやれと各々息を吐いた。けれど、唸り声を上げたバスはそのまま静かに眠り込むように息を止めた。 「え?」 何だ何だと、皆が頭上にクエッションマークを浮かべたところで和輝が運転席に駆け寄る。 如何やらエンジントラブルらしいとの伝達を受け、誰もがとんでもない合宿になりそうだと口々に零す。その時、顧問の轟の携帯電話が電子音を鳴り響かせた。 途端、水を打ったような静寂に包まれる。醍醐は一言二言相槌を打つと、携帯をしまい込んで声を掛けた。 「今、病院から電話があったんだけど」 病院とは何事だとざわめく部員を諌めながら、和輝が言葉の先を視線で促す。轟は覇気の無い胡乱な目で言った。 「生まれたって」 「え?」 「子ども、無事に生まれたってさ」 「誰の」 尤もな疑問を投げたのは匠だ。轟が答えた。 「醍醐が道端で助けた妊婦」 沈黙。 いやいやいや。 「嘘じゃなかったの?」 冗談だろうと文句を言い合う面々の中で、醍醐だけが憮然とした表情を浮かべている。 だから、言ったじゃねーか! 顔も名前も知らない何処かの妊婦に祝福の拍手を送り、車内は訳の解らない浮かれムードに包まれ始めたが、怒鳴り散らす醍醐に皆が閉口した。 再び下りて来た沈黙に、醍醐への申し訳無さを感じ皆が視線を落とす。 和輝が言った。 「いやいや、遅刻はお前の自己責任だろ」 目覚ましの電池切れも、自転車のパンクも。 そういえばそうだったと、いきり立っていた醍醐の後頭部は叩かれた。 02.キャプテンの楽しい地獄巡り 練習メニューの記載されているであろうバインダーを片手に、皆の前に弾む足取りで和輝が現れた時から部員は一様に嫌な予感を覚えた。条件反射とも言える恐怖に皆が身体を強張らせる中で、和輝だけが場違いのように微笑みながら、声高らかに口を開く。 「今日の練習はマラソンから始めるぞ。合宿所周辺の勾配はキツイから良い練習になる」 和輝の至極真っ当な言葉に、誰もが面食らった。 というのも、普段から男子高生の悪ふざけの産物にも似た地獄のトレーニングメニューを組む和輝の鬼畜の所業を知っているからだ。 部員が拍子抜けとばかりに両目を瞬かせているのも構わず、和輝は練習内容を淡々と説明して行く。 「柔軟の後、正門に集合な。一度皆でルート確認してから一斉スタート。一応タイムは計測するけど、無理して怪我に繋がるような真似は絶対するな。いいな?」 念を押して和輝が微笑む。童顔に見合わない精悍な笑顔に、皆がぎくりと肩を跳ねさせる。 何だこの人、イケメン。 普段の変人ぶりを知っている面々は驚愕した。普通の練習メニューを告げただけにも関わらず、今にも拍手が起こりそうだった。 追加メニューの無いまま和輝が皆を柔軟へ促す。 何だか腑に落ちないと顔を見合わせる面々もそのままに、和輝はその綺麗な微笑みを崩すことなく仲間を先導して行く。 「おい、和輝。如何いうつもりだよ」 普通の練習メニューであることを不審に思い、箕輪が問い質す。合宿なんて、訳の解らないメニューを考えるのが趣味になっているような和輝にとって、ご褒美みたいなものだった。 これは何か裏があると踏んだ箕輪の言葉に、和輝はきょとんと目を丸くして首を傾げる。あざとい仕草だと箕輪は内心歯噛みする。 「何が」 「いやいや」 心底訳が解らないと腕を組む和輝に纏わり付きながら、箕輪が食い下がる。 普段と何が違うのだと小首を傾げる和輝は、箕輪の問いに明確な言葉を返さなかった。二人の遣り取りを見ながら、主に後輩一同は、頼むから余計なことを言わないでくれ、気が変わって変なメニュー挟まれたら困る、と藪蛇を只管心配していた。 普段以上に入念な柔軟を終え、ただの外周を消化する為に皆で合宿所正門へ向かう。合宿所自体は毎年晴海高校野球部が伝統的に利用して来たもので、年季の入った木造建築二階建てである。元々は地元の人間の所有物であるが、この合宿以外に利用の予定が無い為、掃除等の設備点検を行うことで傍のグラウンドも含めて無料で利用出来ている。加えて、一年前の騒動で和輝に好意的な地元の人間から食材等の提供を受けている為に食費も掛からない。野球部の模範的な行いが評価されていることは、この先も後輩が受け継いで行くべきことだ。 そんな合宿所を横目に、正門前に集合した部員の前に立って和輝が笑う。 「始めは皆でルート確認するから、しっかり付いて来いよ」 へばるなよ、と微笑む和輝に、たかがルート確認で大袈裟だと笑った部員一同は息を呑む。 バスでは気付かなかった。 壁のような坂道、目を疑う獣道、高さも疎らな先の見えない階段。 舗装されぬ山道、事故多発地帯の急カーブ、目の眩むような直線の道。 此処は首都圏だっただろうかと誰もが疑問に感じた。驚愕する面々には目もくれず、先頭を歩き出す和輝に笑顔は既に無い。 「ただのランニングだと思ったか?」 残念だったな、と。 絶対零度の無表情と、切れ味の良い日本刀のような鋭い口調で和輝が言った。 03.憧憬 阿鼻叫喚の地獄絵図と化した午前中の外周後、葬列のような暗い表情で、正しくゾンビのような足取りで皆が如何にか帰り着いた。 ゴール地点ではマネージャーの青葉が、ばたばたと倒れて行く部員に、機械のように淡々と測定タイムを告げて行く。水分補給も儘ならぬ面々が屍の山となっているのも構わず、到着の遅れている後輩に和輝が檄を飛ばす。 鬼だ。醍醐は確信した。 それでも、心配になって居ても立っても迎えに行こうかと右往左往する様は微笑ましい。いや、あんたが組んだメニューだろと内心でツッコミを入れる。 「本当、キャプテン、鬼畜だろ……」 あの人は絶対にドSだ、と蓮見が言う。如何にか水分補給したらしい顔は蒼白かった。こいつ、死ぬんじゃねーかと醍醐は眉を寄せる。 普段の鬼メニューにも音を上げたことのない星原でさえ、流石に蒼い顔で今にも嘔吐しそうに口元を押さえている。合宿初参加の孝助が息も絶え絶えに問い掛けた。 「合宿って、こんなに厳しいんスか……」 醍醐は喉に絡み付く痰を如何にか呑み込みながら答えた。 「いや、一年の時は違ったような」 こんなに厳しくなったのは和輝がキャプテンになってからだ。 そんなことを思いながら、全てはあの人の仕業だと忌々しく思う。けれど、自分の身体能力が飛躍的に向上したのも事実だから怒るに怒れず、恨むに恨めないのだ。 「それにしても、先輩は化物だな」 蓮見が言う。言葉の通り、三年生は始めこそ倒れ込んでいたものの、五分も経たない内に復活して笑いながら後輩の走りを応援している。 一着は当然のように和輝。そして、続く二着は匠。夏川、箕輪と続いて間を開けて後輩がゴールする。自分達が入部してから変動することの少ない順位ながら、彼等が手を抜いていないことは自分達が誰より知っている。彼等を一度だって超えたことのないことが何よりの証拠だった。 醍醐は、ゴール地点で胡坐を掻いて笑う箕輪を見る。 同学年では毎回最下位で、才能に恵まれた仲間の中、唯一の凡人。自身を凡才と称する箕輪だが、その言葉に卑屈さは無く、むしろ仲間を誇るような清々しさで笑顔を絶やさない部のムードメーカーだった。天才が努力していないとは言わないけれど、彼は誰より努力家だった。天才の隣に並ぶ覚悟や、報われない努力への理解も自分達にはきっと出来ない。 蓮見は黙って汗を拭う夏川に目を向けた。 プロ野球選手を父に持つ所謂サラブレッド。朴念仁のように見えて意外に熱血漢。普段は冷静で何処か達観しているようにさえ見えるのに、仲間に何か遭った時、一番に怒るのは夏川だ。才能にも体格にも恵まれ、周囲からのプレッシャーも厳しかっただろう彼がこんな少数精鋭といえば聞こえはいいが、今でこそ強豪校だなんて言われているが、当時は落ち目だった弱小校にいた理由を思うと色々と背負うものもあったのだろうと思う。それでも、今は同学年の彼等の中で違和感無く溶け込み、時にはブレーキとなり、アクセルとなり笑っている。天才の苦悩なんて永遠に解らないけれど、地に落ちた鳥が再び大空に羽ばたく困難を共感は出来なくとも想像することは出来る。 孝助は不機嫌そうに、後輩に檄を飛ばす匠を見る。 天才を幼馴染に持ち、自身も才能に恵まれた名選手。猫のような丸い眼が印象的な整った顔立ちをしているのに、彼の相棒の存在が全てを凡庸足らしめている。それでも、その傍を離れようとしない様はまるで忠犬のようだ。二年前の騒動は噂でしか知らないけれど、凄惨を極めた当時、幼馴染を守る為に自分の何もかもを投げ捨ててこの場所に来た彼の心中は彼にしか解らない。傍にいるのが当たり前になったのだと笑う彼が何も思わない訳が無い。ともすれば孤独に嵌り掛ける相棒を仲間の元に、現実に繋ぎ止めている。部内の参謀であり、暴走しがちな部員を巧みに操る操舵手でもある。 星原は、とんでもない鬼畜メニューを組んだ癖に、到着の遅れる後輩を迎えに行こうか右往左往する和輝を見遣る。 天才の弟に生まれ、自身も類稀な才能を持ち合わせた少年。小さな体躯に見合わぬ実力と気概で曲者揃いの部員を引っ張る唯一無二のキャプテン。常識に囚われない柔軟な思考は時に、練習メニューとなって部員に地獄を見せる。異常な自己犠牲主義は、彼を大切に思う皆をハラハラさせるけれど、それでも見捨てられないのはその信頼を知っているからだ。才能も容姿も常人とは一線を引くにも関わらず、そういう献身的な性格や、形に囚われない性質が親しみを覚えさせるのだ。二年前に地獄を味わったことを欠片も見せず、屈託なく笑う頼れるキャプテン。まあ、果てしない馬鹿であるのは間違いないんだけど。 来た。 漸く到着した空湖と宗助を見て、和輝が声を上げた。駆け寄りそうな足を如何にか留まらせ、ゴール地点から動かないままに声援を送り続ける。 頑張れ、あとちょっとだろ、最後まで遣り切れよ、お前なら出来るから。 座り込んだままの箕輪、夏川。立ち上がった匠と和輝。 「すげーよな」 醍醐が呟いた。共感するように蓮見も頷く。 俺達もこんな風になれるかな。柄にも無く、星原がそんなことを言った。 こんな風になりたいな、と強く、願った。 |
2013.5.19