晴海高校野球部の平和な夏合宿
(2)







04.弁当には人生が詰まってる


 そう言って、醍醐が俯いた。隣に座った蓮見は蔑むような冷たい視線を送っていたけれど、醍醐は気にする素振りも無く、視線の先、自身の弁当箱をじっと見詰めている。
 午前中の練習が終わり、漸く迎えた昼休憩。合宿所前に自然と円を作り座り込む。醍醐は溜息を零した。
 紺色の平たい弁当箱は大量生産された安物で、詰められているのは母が大量生産した生姜焼きだ。運動部員だと言うのに、栄養バランスなんて欠片も考慮されていない。タンパク質さえ摂っておけば万事解決だとのたまう母らしいと、醍醐は食べ慣れた生姜焼きに箸を入れる。
 蓮見も追及するのが馬鹿らしいと言うように手を合わせ、食事を開始した。


「お前のとこ、何時も美味そうだよな」
「いや、冷凍食品ばっかりだろ」


 その言葉の通り、蓮見の弁当箱には冷凍食品がこれでもかという程に詰め込まれている。それでも色彩に気を使う余裕はあるようで、気休めのようにプチトマトやレタスが入っていた。
 羨ましげな視線を向ける醍醐こそ、恵まれていると蓮見は思うのだ。だって、自分の弁当は販売されていた冷凍食品を解凍して詰め込んだだけだ。比べて醍醐の弁当は確かに大分手抜きではあるけれど、母親が彼の為に調理したものだった。


「所詮、俺は大量生産・大量消費の人生なんだ……」


 訳の解らない悲観は兎も角、事実弁当にも個性があると蓮見は思う。
 隣を見遣れば星原が此方を睨んでいた。そんな彼の弁当は全体的に茶色で、煮物やら焼き魚やら年寄の健康弁当のようだった。
 意外に感じて星原の顔を見遣る。星原は不満げに箸を咥えて言った。


「俺の弁当は、ばあちゃんが作ってるからな」


 悪かったな、と鼻を鳴らしながらも、弁当には文句一つ言わずに平らげて行く。
 別に悪くはないけれど。むしろ、見直したけど。
 言葉にせず、蓮見は視線を巡らせる。
 空湖の弁当は使い捨てのパックに詰められたバランスの良いおかずと、ラップに包まれたおにぎり。合宿で余計な荷物は一つでも減らそうという彼の母なりの配慮が感じられる。
 鳴海兄弟の弁当は彩豊かな、一見すると可愛らしいものだった。双子らしく同じものが同じ位置に並べられている。キャラクターものの楊枝やシリコンのカラフルな仕切りも、明らかに彼等の趣味ではないだろう。
 箕輪は所謂買い弁だ。コンビニのおにぎりと菓子パン、サラダ。一応バランスは考えているらしいが、得体の知れない新商品が目を惹く。新しいものはとりあえず試すタイプだ。
 夏川の弁当はサラリーマンのようだ。昨夜の残り物が詰め込まれたような品々を、綺麗な箸使いで抓んでは咀嚼して行く。そして、それらは全て彼自身の手で作られたものだった。
 匠の弁当は、運動部員の息子を気遣った母親がバランスと彩を考え詰め込んだものとなっている。大きめの弁当箱とタッパーが一つ。林檎やキウイ等の果物が入っている。

 そして、我らがキャプテンの弁当は――。

 視線を向けた先で蓮見は、隣の醍醐と共に硬直した。
 小柄な体格の彼に見合わぬ大きな二段の弁当箱。その二つとも、白米がこれでもかと詰め込まれた日の丸弁当だった。


「やべ」


 ぽつりと和輝が漏らす。弁当の惨状を悟った箕輪が吹き出し、指差して笑う。
 困ったと後頭部を掻きながら和輝が言った。


「あー、親父の弁当と間違ったんだ……」


 しょんぼりと箸を取り出す和輝を見ていられないと、部員がおかずを分けるべく列を作った。
 結果、誰よりも豪華になった弁当を彼は一人で完食したのだった。





05.ドキッ☆鬼畜だらけの体力測定
〜罰ゲームもあるよ〜



 合宿初日の午後は体力測定に重点を置いたスポーツテストを行うこととなった。
 部員の前に立った和輝が競技内容と測定方法、目的を極めて端的に説明する。恒例となった彼の適当な言葉に慣れた面々は、その裏に潜む思惑も含め早急に理解していた。
 合宿自体が初参加の一年生を除く部員達は、このスポーツテストが合宿の恒例行事であることを知っている。当然、競技の流れも項目も承知の上だ。
 陸上競技が主となる種目の数々を思い浮かべ、不敵に笑う者もいれば、苦い顔を浮かべる者もいる。それでも、此れから執り行われるスポーツテストに皆は何処か浮足立ち、周囲の仲間と囁き合っていた。
 それを諌める訳でも叱る訳でも無く、和輝は輝くような微笑みを浮かべ、傍に待機していたマネージャーの青葉に視線を向ける。合図を受けた青葉は一度頷き、用具の群れに置かれたそれを手渡した。


「で、今日の罰ゲームなんだが」


 今日の、って。
 皆が同じことを考えた。まるで罰ゲームが恒例であるかのような物言いに、何か反論するべきだろうかと口を開き、結局は閉ざすことになる。罰ゲームが恒例なのは事実だった。
 これまで悪ふざけとしか思えないえげつない罰ゲームを考案する和輝は、自身がその餌食になったことは一度も無い。だからこそ、平気な顔でとんでもないことを言い出すのだ。それに歯止めを掛けられない自分等の未熟さを知っている部員は閉口するしかない。
 和輝は依然として微笑みを浮かべている。


「恒例のゲロマズプロテインを、競技数分用意してみた。ついでに、お前等は筋力が足りないからカルシウムも足してやったぞ」


 有難く思え、なんて尊大な物言いに誰もが内心で言い返す。お前が言うな。部内最小で最軽量の選手にこそ必要なものじゃないか。
 この状況に唯一対抗し得るであろう匠は、プロテインへのトラウマが蘇り顔を蒼くして口元を押さえている。今にも倒れそうな顔色だ。
 牛乳を混ぜた白濁色は、一杯のグラスに並々と注がれ、其処には謎の沈殿物がある。まさか、合宿に胃薬を持参するようなか細い神経の部員は一人もいない。
 ふざけんな、と言いたい気持ちを押し込めたのは、他でもない提案者である和輝がそれを真剣に考案したことを知っているから。悪ふざけのように見えて、寝る間も惜しんで組まれたメニューの数々が事実、自分達の力になっていることを解っているから。
 これまでの和輝――キャプテンを知っているから、誰も文句を言わずに付いて行く。
 もう少し遣り方があるだろうと思うけれど、ただの馬鹿ではない和輝の言葉に否定はしない。重苦しい沈黙が下りると、和輝は満足そうに微笑んで口を開いた。


「――で、今日は合宿だからスペシャルだ」


 阿吽の呼吸で青葉から手渡されたのは、先程と異なる青い液体の注がれたグラス。


「成長期に欠かせないビタミン、ミネラル、鉄分の不足を補うスペシャルドリンクも用意して見た。ちなみにこれは、俺の友達が試飲してくれたから、効果の程は保障するぞ」


 何を足せば青色になるのだろうと誰もが疑問に思うくらい、清しく鮮やかな青色だった。
 誇らしげな和輝に、嫌な予感を覚える面々。箕輪が震える声で言った。


「あれ、赤木に飲ませた奴だ……」


 赤木とは、和輝のクラスメイトだ。人の良いムードメーカーで三年目の付き合いになる共通の友人でもある。聞き覚えのある単語に、三年三人組が目を向ける。
 箕輪が言った。


「赤木を保健室送りにした、血塗れの青(ブラッディ・ブルー)だ……」


 何だその厨二は。DQNネームに皆が震撼する中で和輝だけが微笑んでいる。


「飲んだ後は何故か胃痛で保健室に運ばれたけど、それからのそいつは快便・快眠・快調で俺に感謝してるくらいだぞ」


 話の真偽は兎も角として、負ける訳にはいかないと誰もが胸に誓った。
 競技数分用意されているということは、各競技での最下位が必ず白濁色のプロテインと青い栄養ドリンクを飲まされるということだ。
 負けられない。
 ちょっと試合でも見られないくらいの覚悟を決めた、戦場に向かう戦士のような目で部員は覚悟を決める。嬉々として競技へ促す和輝の足取りは踊るように軽い。それを追う部員の足は葬列のように重い。
 青い顔をした匠が、胡乱な眼差しで言った。


「わりーけど、負けらんねーわ。仲間だろうが、後輩だろうが、一切容赦はしねぇ」


 それは誰もが同じ思いだった。正々堂々は晴海高校野球部のモットーの一つではあるけれど、今ならラフプレーも反則行為も辞さない覚悟だ。

 あの罰ゲームから逃れる為なら、何を犠牲にしても構わない。

 交流を深める筈の合宿が、阿鼻叫喚の地獄絵図になることを、この時の彼等は知らない。





06.人は見掛けによらない



 マネージャーを除く総勢十名の部員の内、凡そ八割が胃痛で再起不能の状態だった。それでもスポーツテストは無事に終了した。偏に、更なる罰ゲームから逃れたいが為の意地だった。
 ずきずきと痛む胃を押さえながら、今にも喉の奥から逆流しそうな液体を如何にか呑み込む。嘔吐すれば二杯目が待っていることは解り切っていたからだ。
 夕食は自炊の予定だったが、部員の殆どが碌に動けない状態に陥った為、仕方なしに上級生が中心となって炊事を始めた。マネージャーは料理が苦手だと言うので免除になったのだ。
 部員には鬼畜の所業も厭わない癖に、マネージャーには優し過ぎる。今にも倒れそうな顔色で、醍醐は炊事を始める上級生の背中を見詰めていた。
 竈のある古めかしい台所。床は土間になっており、練習着にサンダルを引っ掛けた三年生は寝間着で夜食でも作っているようだった。
 三年生――キャプテンと夏川先輩が調理器具の場所を調べ、水洗いして行く。スポーツテストのような競技では常に上位をキープしている筈の匠先輩と箕輪先輩は、あの青い栄養ドリンクの恐怖を知っていただけに必要以上に緊張し、思うように動けず、結局その餌食となってしまった。下級生は結果として順番にそれ等を飲まされたけれど。


「夏川ー、ジャガイモ何処だ」


 胃痛を抱えながら、正直今は何も食べたくないと思った。何を食べても吐く気がする。
 大体、彼等に料理が出来るのだろうかと甚だ疑問だ。二人のどちらも料理をする姿が想像出来ない。失礼かも知れないが、包丁の握り方すら危うい気がする。
 キャプテンが、投手の夏川先輩を気遣って包丁を取る。万一、指先に傷でも負ってしまったら大変だ。かといって、それでキャプテンが指先を切り落とされても困るのだけど。
 自分達はこの合宿から無事帰還出来るのだろうか。頭の痛くなるような不安に戦きながら、傍で倒れ込む星原に声を掛けた。普段のいけ好かない態度は陰を潜め、蒼い顔で呻きながら視線を向ける。


「キャプテンが飯とか、不安しかねーよ」


 第一、現在自分達を苦しめている地獄のドリンクを調合したのは彼だ。味覚が狂っている可能性もある。
 そう言えば、星原が呻くように言った。


「和輝先輩の飯は美味いから、大丈夫」


 額に手を当てながら、星原が言った。何が大丈夫なのか最早疑問だった。
 けれど、その言葉の通りキャプテンは手際良く体力の食事を生成して行く。漂う香りに、弱った胃が空腹を訴え微かに鳴いた。夏川先輩は、小さな体に見合った非力さを補助するだけだ。
 凡そ三十分程で、見た目も美しい美味そうな食事が机に並べられた。


「キャプテンって、何でも出来るんスね……」


 驚きを隠せずに言えば、キャプテンは豚肉の生姜焼き丼を並べながら答えた。


「別に、大したことじゃないだろ。俺の家、飯は当番制だったし」


 それはつまり、今を時めく天才プロ野球投手である彼の兄、蜂谷祐輝の食事すらも作っていたということだ。下手な筈が無い。というか、不味い食事であんな投手が育つ筈も無かった。
 キャプテンの低身長を考えれば栄養価はちょっと疑問に思うところだが、それでも食事は間違いなく美味そうだった。昔話のような大盛りの白米に、親の仇のようにこれでもかと豚肉を載せてキャプテンは席に着く。


「それでは、いただきます」


 何時の間にか部員は皆、復活していた。手を合わせての挨拶。皆は数日ぶりの食事だとでも言うように、並べられた料理に貪り着いた。





07.キャプテンの眠れないブラックジョーク



 食事に入浴を終え、波乱の合宿初日の夜は更けて行く。
 就寝時間の迫る畳の大部屋は、几帳面に整列された布団が並べられ雑魚寝とは呼び難い。匠が定規で計ったかのようにきっちりと並べたからだ。
 女子ならば恋バナでもしたのだろう夜更けに、男子のみの部屋で盛り上がるのは異性ではあるが、所謂下ネタだった。
 部内のムードメーカーである箕輪と醍醐が率先して始めた話に、疲労と眠気から妙なテンションで下ネタが盛り上がる。馬鹿笑いの響く室内は、自然と異性との付き合いへと話題が移って行く。


「箕輪先輩、彼女と如何なんですか」


 部内唯一の彼女持ちである箕輪に話題が飛び火する。標的となった箕輪はへらりと締まらない笑みを浮かべた。


「如何もこうも無く、順調だよ。次の定休日に、デートするんだ」


 後頭部を掻きながら笑う箕輪の周囲で、彼の同輩はガタリと立ち上がった。
 あー、次の定休に練習入れたくなって来た。とはキャプテンである和輝の言葉。匠がリア充爆発しろと微笑む。面白いことは期待してけど、惚気なんて求めてねーんだよ、と夏川が唸る。
 随分勝手な物言いだと後輩一同は震撼するけれど、大半は匠と同意だった。
 話題が次々に飛び火する中で、標的は後輩へと移り変わる。
 これまで付き合って来た彼女だとか、初恋だとか、甘酸っぱい話題が飛び交う中で、空気の読めない醍醐が地雷を踏んだ。


「ねえ、キャプテンってモテるんですけど、童貞なんですか」


 その瞬間、空気が音を立てて凍り付いた。それでも、就寝前の妙なハイテンションで食って掛かる醍醐に、和輝が底の見えない笑みを浮かべる。
 訊きたいか?
 訊きたいですよ、ねえ。
 二人の遣り取りに同意する者はいない。そうだなあ、と笑みを深くした和輝が顎に指を当てて何か思案する。


「あれは小学校三年の夏だったな」


 あ、これは不味い。
 確実に悪夢に繋がるだろう語り口に何人かは布団を深く被った。状況を察した醍醐が顔を蒼くするけれど、今更口に出したことは取り消せない。和輝はつらつらと何でも無いことのように言葉を繋いでいく。


「近所に住んでた綺麗なお姉さんがいたんだ。二十代前半くらいかな。シニアの練習帰りに声を掛けられたんだよ。これから、家に来ないかって」


 顔を蒼くした醍醐に助け舟を出す者がいる筈も無い。硬直し切った醍醐に気付いているのかいないのか、和輝は上機嫌で語り続けて行く。


「その日は偶々早く練習が終わって時間もあったし、俺は何の疑いも無く付いて行った。其処で……」
「さー、明日は早いぞ!」


 空気を読んだのか違うのか、箕輪が言った。
 途端に醍醐が布団を被る。つまらないと和輝が口を尖らせるけれど、狸寝入りをしていた面々はほっと息を吐いた。尊敬するキャプテンの黒歴史など知りたくも無い。
 布団を被った醍醐の横で、匠がそっと言った。


「あれ、全部嘘だからな」


 言葉が届いたらしく、安堵の息が彼方此方から漏れ出した。和輝だけが可笑しそうに声を上げて笑っている。
 ただし、全員が漸く眠りに着いたのは、日付が変わってから二時間後のことだった。




05.夏が来る



 二泊三日の合宿から帰還するマイクロバスの中は、彼方此方から漏れる寝息とエンジンの唸る音以外に聞こえるものは無かった。部員は悉く、文字通り屍のように眠り込んでいる。合宿中にこれでもかという程に詰め込まれたメニューは鬼畜の一言で、身体を痛める一歩手前のようなラインナップであった。
 それでも、部員の寝顔に浮かぶのは酷い疲労感だけでなく、山場を乗り越えたかのような達成感が強かった。其処等から滲むのは、厳しい合宿の練習が終わったことへの安堵ではなく、其処で培った力を発揮させたいと疼く高揚感だ。
 合宿最終日の夜、晴海高校野球部の目標を明確なものとした。それは誰が強要した訳でも無かったけれど、何処からか上げられた提案に和輝は二つ返事で頷いて会議の場を設けたのだ。
 日本一。それが、晴海高校野球部の目標である。
 甲子園優勝。全国制覇。完全勝利。言い回しは各々違うまでも、皆の認識は同じであり、今更確認するものでも無かったのかもしれない。
 部員達がやいのやいのと騒ぎ立てる中で、和輝は一人輪から外れて思考に耽った。胸の中に満ちた温かさを何と呼ぶべきか、和輝には解らなかった。
 馬鹿だな、と笑えば良かったのか。
 今更だったな、と呆れたら良かったのか。
 後ろに飛んでいく長閑な風景をぼんやりと見詰めながら、行きとは打って変わって静寂に包まれた車内でほくそ笑む。

 お前は間違ったんだよ。

 一年前の赤嶺の罵倒を今でも覚えている。
 その場では、言葉を否定することしか出来なかった自分の不甲斐無さを、今は嗤うことしか出来ない。

 もしも、自分の選択に正解や不正解があるならば、それは一体誰が採点してくれるのだろう。
 これまで、散々周囲には迷惑を掛けて、否定されて、罵倒されて来た。他人の罵詈雑言なんて今更怖くは無い。自分が怖いのは。


「……和輝?」


 バスの振動に目を覚ました箕輪が、隣で寝惚け眼を擦りながら身体を起こす。筋肉痛と疲労で辛いだろう軋む身体で此方を労わってくれるその優しさに、自分は何時も助けられて来た。


「なあ、箕輪」


 視線は車窓に向けたまま、何でもない日常の他愛ない会話の一つという態を装って。


「俺、お前に会えて良かったよ」


 箕輪に出会った二年前。遅刻寸前だというのに、呑気にクラス発表の掲示で名前を探し、自己紹介をした。ただの部活動を求めていた箕輪は、きっとあの時、野球でなくても良かったのだ。それを自分が巻き込んで引き摺り込んで、揚句に辛い思いを何度もさせて来た。
 ごめんな、なんて謝罪を箕輪はきっと聞き入れてくれないから。
 ありがとう、なんて感謝は照れ臭いと突っ撥ねるだろうから。
 一年の頃、夏川の入部を賭けた一打席勝負。負ければ退部しろという夏川の条件を、自信から安易に呑んだけれど、一緒にいた箕輪は随分と肝を冷やしたことだろう。
 北里工業との練習試合。過去のトラウマから立ち直れず、エラーを連発した自分への不甲斐無さからベンチに戻れなかった時に出迎えてくれたのは箕輪だった。
 あの傷害事件でも、ただのチームメイトでしかなかった自分の為に奔走してくれたこと。何も知らない他人の罵詈雑言の中で、身を挺して庇ってくれたこと。
 振り返れば当たり前のように傍にいてくれて、何でもないことのように笑ってくれて、大丈夫だよと受け入れてくれること。

 お前は間違ったんだよ。

 自分がいなければ、箕輪はもっと充実した学生生活を送れたのかも知れない。あんなに辛い思いをすることも無かったのだろう。だけど、それでも。


(俺は、お前が、お前等がいてくれて、本当に良かった)


 この想いを何と呼べばいいのか解らない。
 他人の罵詈雑言なんて今更怖くない。自分が傷付くことも厭わない。全力で挑んだ結果がどんなものであってもきっと後悔はしない。

 俺が、ただただ怖いのは。


「そんなの、俺達だって同じだよ」


 欠伸を噛み殺しながら、箕輪が何でも無いことのようにさらりと告げる。
 胸に満ちるこの温かさを何と呼ぼう。信頼と感謝を綯交ぜにしたこの気持ちを何と称すればいい。

 俺が怖いのは、仲間からの、


「大丈夫だよ」


 ふにゃりと微笑んで、幼子にするように箕輪が頭を撫でた。


「俺達は、お前を独りにしないよ」


 大丈夫大丈夫、と言いながら箕輪が笑う。
 和輝は何も言わなかった。俯いたまま言葉を発することが、出来なかった。




 再び静寂に包まれた車内で、箕輪は一人、前を睨むように見据えていた。隣では和輝が、額を窓に押し付けるようにして眠っている。


(お前を独りなんてしないよ。――俺達、は)


 其処に含まれる意味を、和輝は知らない。知らなくていい。
 普段は馬鹿みたいに尊大な態度で部員達を纏める癖に、時折こうして迷子のように弱り切った姿を見せる。それが信頼だと、箕輪は知っている。けれど、そういう弱さを隠す癖を付けさせたのは。
 夏が終われば自分達は引退する。そうすれば、もうチームメイトでは無くなる。そして、今度は友人となって長く付き合っていくのだろう。ただの名称や枠組みに囚われて本質を見失うなんて馬鹿な真似、俺達は絶対にしない。

 窓の外の長閑な田園風景も孰れは消えるだろう。暗いトンネルを越えた先で見慣れた近代的な街並みが現れる。

 大丈夫だよ。
 何度目にもなるか解らない言葉を内心で吐き出し、見据えた先は目に映るものではない、遥か遠くだった。

2013.6.1