どんな逆境も、真っ直ぐ歩いていく背中が好きだった。



I'll be there.(1)




 七月某日、公営球場の前はまるで角砂糖に群れる蟻のような人間が犇めき合っていた。
 既に太陽の顔を見せている早朝、私立武蔵商業高校は地元の駅に集合し、夏の一大イベントの開幕場へと乗り込むことになった。まるで親の仇だと言うように地上を睨み付ける太陽の下、鉄板のようなグラウンドに押し込められた高校球児の姿は、天空を翔ける鳥類からどのように見えているのだろう。
 馬鹿馬鹿しいと溜息を吐けば、後ろから背中を小突かれた。


「……ンだよ、タケ」


 俺の後ろで、馬鹿真面目に式次第を真剣に見送る古谷武則、通称、タケ。
 何故だか、武蔵商業野球部は仲間を綽名や下の名前で呼び合うことが伝統になっている。例に漏れず、俺も有難く仲間内から下の名前を呼び捨てられている。
 タケは一瞬、何か言おうと口を開き掛け、すぐに閉ざした。代わりに顎で前をしゃくる。前、というのは神奈川県内の高校球児が集められたこの儀式の中心部、平たく言うと檀上だ。
 壇上には小太りのオッサンが額に脂汗を滲ませながら訳の解らない講演を行っている。
 全国高等学校野球選手権大会神奈川県予選。長ったらしいそれが、この儀式の正式名称だった。そして、それが俺達の懸けて来た三年間の運命を左右する、舞台でいうならリハーサルではなく本番という訳だった。
 クソ真面目なタケが促すのも当然と思う。むしろ、このグラウンド上で呑気に欠伸なんてしているのは俺くらいのものだった。押し込められた何百もの人間が文句一つ言わず、碌に知りもしないオッサンの話を有難がって聞いている。これは何の宗教なんだと問い掛けたくなる状態だ。
 外国に言わせれば、夏の甲子園は理解不能の行事だという。夏の炎天下、一月以上もの間、己の限界を超えてプレーし続ける。才能や肉体を消耗させる拷問のような行事だ。大和魂なんて、今時流行らないと思う。事実、野球人口は海外の人気スポーツに圧されて減少気味だというくらいだ。
 それでも、この夏は例年に無く熱が入り、野球のやの字も知らないような女子生徒まで注目している。その理由は少なくとも、今現在、壇上で訳の解らない演説を繰り広げているこんなオッサンの為ではない。


『――選手、宣誓』


 二年前、失墜したヒーローの復活。
 感情の籠らないアナウンスに促され、むさ苦しい男子生徒の隊列から一人の少年が颯爽と歩み出る。誰もが振り返るような美しい横顔に表情は無い。くっきりとした二重瞼、通った鼻筋、真横に引かれた唇。こいつになら抱かれてもいいと、何度思ったことか。俺だって普通に女の子が好きだけど、あいつと出会ってしまうと自分の性癖すら疑いたくなる。


「蜂谷和輝」


 タケの声が背中に刺さった。
 ロボットのように完璧な歩行で、何かに吸い寄せられるように和輝が小走りに駆けて行く。極自然な動作で大勢の前に立つその姿は、まるで其処に立つことが生まれた時から決められていたようだった。
 和輝の中に強烈な引力の元があるように、その仲間が後ろに並ぶ。俺にとって憎々しい男もその群れに混ざっていたけれど、見ない振りをする。
 マイクの前、和輝が胸を張る。一際小さな背中が、何故だか此処にいる誰よりも大きく見える。圧倒的存在感を放ちながら、和輝の右手が上がった。


「――宣誓」


 決して張り上げた訳ではないだろう澄んだ声が、会場余すところなく凛と響いて行くようだった。


「二年前、僕は、仲間を救うことが出来ませんでした」


 ざわりと、空気が揺れ動くのが解った。
 壊滅的な彼の頭脳を思えば、選手宣誓の原稿は学校側の介入も当然だった筈だ。ならば、少なくとも二年前の事件に触れる訳も無い。これは和輝のスタンドプレー。
 心臓が激しく脈打つ。面白い。和輝は本当に、面白い。
 一切の感情を読ませないフラットな口調と完璧な無表情で和輝は続けた。


「選手では無かったけれど、チームを支えてくれる大切な仲間でした。僕には彼女の助けを求める声が聞こえていたのに、伸ばしていた手が掴めた筈なのに、救えませんでした」


 知っている。二年前、世間を賑わせた傷害事件の裏で自殺した一人の少女。何も知らない世間は、彼女が和輝に振られたショックで自殺しただなんてゴシップ記事を書き立てたけれど、その真相は翌年、明らかになった。


「それから、僕の先輩が、僕のせいで重傷を負いました。昏睡状態の末、生涯植物状態になるだろうと医師からの通告を受けました。先輩を傷付けることになった人は服役することになりました」


 選手宣誓とは思えない、まるで懺悔のような内容だ。
 主催側もどよめき、中断の判断を出しあぐねていている。


「俺は、出口の無いトンネルを歩いたことがあります。身動きの出来ない泥濘を知っています」


 会場はしんと静まり返っている。喧しい蝉時雨すら遠退き、それまでの熱気がまるで嘘のような静けさだった。
 和輝は相変わらずの無表情だった。


「でも、一年前、二度と目覚めないだろうと医師に宣告された先輩が、目を覚ましたんです。……恐らくきっと、俺にとっては人生最大の恩師です。その先輩が俺に教えてくれました」


 其処で漸く、和輝の無表情が氷解するように綻んだ。


「失っても失っても、希望は必ずある。だから、諦めたらいけない。俺は絶望を知っています。同じように、奇跡を知っています」


 僅かに弧を描いた口元と、微かに歪んだ瞳がその心情を物語るようだった。
 王子様のような容姿に見合わない強靭な精神力で、彼は地獄のような二年間を乗り越えて来た。そして、それは和輝一人では到底成し得なかった。


「人が起こすことの出来る奇跡を、俺は知っています。誰かの為に、なんて理由は弱い。それでも、人は誰かの為に本気になり、奇跡を起こすことが出来る。今まで自分を支えてくれた大勢の人に感謝し、スポーツマンシップに則って全身全霊でプレーすることを、此処に誓います」


 誰一人、囁き合うことすら許されぬ沈黙の中で、和輝が微笑む。


「――晴海高校野球部主将、蜂谷和輝」


 最後に名乗り、壇上より下る。
 恐ろしく洗練された動作で礼をすると、会場は割れんばかりの拍手と歓声が溢れ返った。中断の指示を出しあぐねいていた主催者側さえも魅了する完璧な微笑みで和輝は仲間の元へ帰って行く。その一挙一動を見逃すまいと凝視していた俺の背中を、再びタケが小突いた。


「なあ、皐月」


 クソ真面目なタケが、こうして声を掛けることは非常に稀だ。
 和輝から目を逸らさぬままに耳を傾ければ、タケは俺にとって至極当然でわざわざ口にする必要も無い言葉を掛けて来た。


「蜂谷君は、恰好良いな」


 そんなこと、知っている。タケに言われなくても、和輝に出会った頃から解っていた。
 和輝は恰好良い。誰もを魅了する。常人とは一線を引くその容姿と才能も、人間らしいエゴも弱さも解っている。
 背筋を真っ直ぐ伸ばして歩いていく後姿も、時々振り返る横顔も、緩められる歩調も気付いている。
 和輝は本当に恰好良い男なんだ。俺にとっては神様だった。


「和輝が恰好良いことくらい、知ってる」


 純然たる事実だった。
 あの背中を、俺は何年も見続けて来た。そして、時折向けられる弱さを知っていた。
 和輝のスタンドプレーなんて何事も無かったかのように、滞りなく進められる式次第。俺は少数精鋭を貫く晴海高校野球部の先頭で胸を張る、和輝の背中だけを見詰めていた。
 この大会は、互いの夢を潰し合う謂わば殺し合いにも似た絶望的な戦いだ。選ばれるのはたった一校で、その他はまるで存在しなかったかのように切り捨てられる。そうと解っていて選んだのは俺だった。
 三年前、俺は、目の前から和輝が姿を消した日のことを思い出していた。
 橘シニアが全国大会への切符を手に入れたその三回戦。優勝も確実と言われた橘シニアは敗退した。
 和輝は全打席敬遠だった。最終打席、彼は届く筈の無いボール球にバットを振り抜いた。蚊帳の外に追い出されていた四番。バットを振るなと、俺が還してやると言う匠の声も聞こえない振りをして最後の最後までバットを振り抜いた。それでも立ち上がったキャッチャーは座ることなく、和輝は最後の一球を見送った。仲間を信じたのか、ただの意地だったのか俺には解らない。結局、匠の打席は審判の明らかなジャッチミスで試合は幕を下ろした。誰一人喜びはしない、葬式のような静寂の中で俺達は引退した。
 和輝は一度として涙を見せなかった。笑顔すら浮かべて、後輩を鼓舞し、同輩を励まし、最後の最後までキャプテンらしく振舞っていた。泣き言一つ零さず、弱り目一つ見せず引退した和輝は、相談することも無く独りの道を選んで、消えようとした。それを咎めた仲間は彼を罵倒して見放した。
 相談してくれなかったことを咎めるのか。頼ってもらえなかったと嘆くのか。俺はそのどちらでもなく、向けられた背中の意図を理解していた。
 彼を罵倒した仲間を、俺は罵倒したかった。
 なあ、何であいつが背中を向けたのか、本当に解らなかったのか。
 何で、あいつが相談しなかったのか、本当に気付かなかったのか。
 試合中だって、あいつは凛と背中を向け佇んでいただろう。振り返る横顔や、緩められる歩調に気付かなかったのか。向けられた背中が全ての答えだった。
 対峙することなく、背中を預けたその意味を、嘗ての仲間は穿き違えた。そして、彼を傷付け突き放した。俺はそれを許さない。同時に思うのは、あの頃の和輝の傍にいられなかった俺の無力さだった。
 俺がもっと強ければ、俺がもっと信頼に値する男だったなら、和輝はその弱さを打ち明けてくれただろうか。
 それだけが、俺の後悔だった。
 選手宣誓以降は滞りなく進んだ開会式は、殆ど予定通りに進み、閉幕した。
 解散を宣言され、俺の所属する武蔵商業野球部は午後からの練習の為に学校へ戻るべく駅を目指した。途中、幾人ものマスコミを見掛けたけれど、開会式に参加した選手には目もくれない。彼等の目的はただ一つだった。
 墜落した筈のヒーローの復活。悲劇のヒーローを未だ求める世間を嘲笑う和輝を探し求めている。
 馬鹿らしいと内心嘲笑う。彼の仲間の元へ突撃インタビューなるものをかますけれど、晴海高校野球部は極めて冷め切った目でそれ等を一刀両断し、キャプテンの到着を待っているようだった。
 俺にとっては忌々しい存在である白崎匠が、携帯で時刻を確認しながら球場を見遣る。どうやら、和輝の到着が遅れているらしい。
 何故だか、俺の中に不思議な悪戯心が湧いて、その匠に声を掛ける気になった。


「よう、匠」


 平静ならば絶対に掛けないだろう声に、匠が怪訝そうに見遣る。今更そんなものに興味は無いけれど、俺は鼻で嗤ってやった。


「和輝、いねーの?」


 俺の言葉を予想していたとばかりに匠が溜息を零す。


「お前に関係ねーだろ」
「それを言うなら、お前も同じだろ」


 俺の言葉に、匠が不機嫌そうに眉を寄せる。


「どういう意味だよ。チームのキャプテンを待っていて、何が悪い」
「チーム? お前が?」


 嘲笑う俺の口調に匠は鋭い視線を向けた。そんなもの怖くも何ともない。俺は笑みを崩さなかった。
 けれど、匠は食って掛かることもなく嘆息交じりに答えた。


「ここの所、和輝のストーカーが過激化してたんだよ。チーム云々の前に、あいつの安否が気掛かりだ」


 匠の言葉に晴海高校野球部がそれぞれ顔を見合わせる。曇った表情にそれが事実と悟り、俺は気付くと匠の胸倉を掴んでいた。


「お前、何で和輝を独りにするんだ」


 思った以上に低くなった声に、俺自身が驚愕する。
 解っている。和輝はあのスタンドプレーを主催者側に問われたか、選手宣誓後に打ち合わせをしているのだ。彼の仲間は、彼を決して独りにしない。そうだと解っているのに、この苛立ちを抑えられないのは、三年前、孤独の道を選ばざるを得なかった和輝の絶望を知っているからだ。
 匠は胸倉を掴まれても動じる事無く、平然と答えた。


「お前、あいつを見縊ってんのか」


 まるで、俺の言葉を馬鹿にするような口調だった。
 匠は予め決められていた台詞のようにつらつらと続けた。


「過激化したストーカーなんて、俺達は慣れっこなんだよ。俺達に危険が及ばないように和輝が全部背負い込むことも想定内。放って置いても、和輝は独りで全部片付けるだろうよ。でも、それじゃあ、意味が無いんだよ」


 匠が、笑った。


「俺達は何度だって、あいつに教えてやる。――絶対に、お前を独りになんてしないって」


 匠と同様にずらりと向けられた晴海高校野球部の瞳が、俺に訴え掛ける。
 心配されなくても、俺達は和輝を独りにしない。そう知らしめるような強い瞳に、不覚にも俺は圧倒された。
 和輝が現れたのは、その時だった。


「あれ、皐月じゃん」


 それまでの遣り取りなんて当然知らない和輝が、呑気に言った。選手宣誓した時のような緊迫した圧倒的存在感は無い。親しみだけを残した美しい少年が、俺を見て蕩けるような笑みを浮かべる。
 俺の前から消える時のような、泣き出しそうな微笑みでは無い。


「何で、こんなとこにいるんだよ」


 何の邪気も無い純粋さで和輝が言った。俺は毒気を抜かれて肩を落とした。
 晴海高校野球部は揃って和輝を受け入れる。和輝は嬉しそうに微笑んでいた。
 その時だった。
 俺達のすぐ傍で、甲高い悲鳴が上がったのは。

2013.7.7