猪のように突進して来る冴えない男が向かう先は、予想出来ていた。 標的である和輝は身動ぎ一つせず、迫る男を迎え撃つように身を低く構えている。周囲を囲む彼の仲間は、男を取り逃がさぬように配置された漁網のようだった。 それは一瞬だ。 銀色に光るナイフを翳した男に怯えることなく和輝は不敵な笑みすら浮かべ、振り抜かれた凶器を紙一重で躱した。右脇腹を抜けた腕を、振り下ろした肘で打ち付けナイフを弾き飛ばす。 そんな技能、何時の間に習得したんだ。アクション映画でも見ている心地で俺は、現実離れした目まぐるしい現状を見ていた。 男の低い呻き声が上がる。和輝は正面から突き進んだ男の右腕を拘束したまま、右足を振り上げた。男の左脇腹にヒットした強烈な一撃にくぐもった声が漏れる。けれど、浅かったらしい一撃に男は和輝の腕をを振り払って距離を取る。周囲は現実離れした状況に、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。警察への通報に忙しない俺の仲間に比べ、和輝の仲間は落ち着き払ってその男を逃がすまいと陣形を敷いている。 男は弾き飛ばされたナイフを疲労事無く、襲撃を諦めたらしく逃走を図った。人込みを掻き分け、中年女性のママチャリを強奪すると勢いよくペダルを踏み抜いた。その前輪は間違いなく、距離を取った筈の俺へ向いていた。 「――行ったぞ!」 何処か嬉しそうな、和輝の声が響き渡った。 ざわりと揺れ動く野次馬の群れを、強引に突き進もうとする自転車に、彼方此方から悲鳴が上がる。布を裂くように人込みが割れて行く。 にゃろう。俺は舌打ちした。 自転車相手に、俺の体格で押し留めるだけの力は無い。片膝を着いて周囲を見回す。そして、視界の端に映ったのは驚き腰を抜かした老婆の姿だった。手にしていたであろう杖が転がっている。 俺は歓喜した。 「ばあちゃん、借りるぞ!」 引っ手繰るように杖を掴むと、俺は大きくワインドアップした。 槍投げの要領で木製の杖を投げ放つ。何の変哲も無い一本の杖が、まるでミサイルのように突き進む。空気を裂く音が聞こえるようだった。 杖はそのまま、自転車の後輪に突き刺さった。強制的な急ブレーキに自転車がつんのめり、勢いよく前方に吹っ飛んだ。 投げ飛ばされた男がアスファルトに叩き付けられる。背中を強かに打ち付けた男が、よろめきながらも逃走を図り立ち上がっている。 男の進路を塞ぐように、和輝が立っている。 「和輝!」 俺は避けんだ。殆ど無意識だった。 けれど、息を吐く間も無く和輝はアスファルトを蹴った。 ふわりと浮き上がった小さな体が捻られる。瞬きすら間に合わない一瞬。和輝の右足が男の後頭部を捉え、遠心力を加えた恐ろしい勢いで振り切られた。 耳を塞ぎたくなるような鈍い音で、男がスーパーボールみたいに跳ね飛んだ。 着地と同時に、和輝の靴底がアスファルトを叩く乾いた音がした。 男は熱された鉄板のようなアスファルトに頬を擦り付け、痛みに呻きながら起き上ることが出来なかった。 あれを受けて立ち上がる人間がいるとするなら、それは余程鍛えられた玄人だろう。 俺が傍に駆け寄ると、和輝は変わらぬ、全ての人を魅了する輝くような微笑みを浮かべていた。俺は腰に手を当て、しみじみと言った。 「相変わらず、派手だなぁ」 和輝は口角を釣り上げ、得意げに微笑んだ。 I'll be there.(2) 死に行こうとする夕日を背中に、微笑んでいた和輝を今も覚えている。 三年前、橘シニアを引退した日。無残な結果に終わった引退試合の翌日だった。キャプテンとしての引き継ぎを終え、次代に全てを託した和輝は何時も通りに凛と背筋を伸ばしていた。俺はグラウンドに立つことは出来ず、高熱に魘されながら観客席でその試合の結末を見守ることしか出来なかった。体中を包む倦怠感と熱で朦朧とした意識の中で唯一、一粒の涙も見せずに全てを終えた和輝が何処かすっきりした顔をしていたことを覚えている。 和輝が泣く筈ないことくらい、初めから解っていたことじゃないか。匠達の物言いたげな眼差しを、その完璧な微笑みで黙殺し、和輝は、目を開けて立っているだけで限界の俺を見た。 ごめんな。 生理的な涙の浮かぶ俺の視界はぐにゃぐにゃと生き物のように歪んでいて、和輝の顔は如何したって見えなかった。それなのに、何故だか俺は、和輝の顔が解るような気がしていた。 あの時、きっと和輝は笑っていた。 俺が先輩達の訳の解らない八つ当たりの暴力に晒されていた頃。俺を庇って殴り飛ばされた和輝が頬を腫らしながら、同じように謝罪した。綺麗な笑顔で、大きな瞳に涙の膜を張って、震える声でその言葉だけを繰り返していた。 何で、和輝が謝るんだろう。彼が何を間違ったというのだろう。如何して、彼が責められるのだろう。 全打席敬遠で負けたこと? 仲間に弱音や泣き言を零さなかったこと? 自分の為に進路を選んで、誰にも相談しなかったこと? 俺には解らない。自分の不甲斐無さへの怒りはあっても、矛先が和輝に向くことは有り得ない。 俺の前から消えた小さな背中。俺は灯台を見失った。けれど、俺が顔を上げれば和輝は其処にいて、背中を向けて待っていてくれた。俺が立ち止まれば振り向いて、俺が俯けば言葉を投げて、蹲れば手を引いて、置いて行かれた迷子みたいな俺を迎えに来てくれたのは、和輝だった。 「――なあ、お前等」 俺が声を掛けた先、晴海高校野球部は犯人の捕縛や通報に忙しなく動き回っていた。手慣れ切った対応は流石としか言いようが無い。その中で彼等が視線を、意識を俺に向けた。 「そいつのこと、頼むぞ」 それが誰を指すのか、皆が瞬時に理解したようだった。 和輝にしてみたら、頼まれる謂れも無いのだろうけれど。一人不満げな顔をする和輝の周囲で、仲間は「当たり前だろ」と言わんばかりに不敵な笑みを浮かべていた。 三年前、仲間は彼を独りにした。否、和輝が離れて行ったのかも知れない。 なあ、和輝。 お前、独りになりたかったの? 違うだろ? 仲間を信じてたんだろ? 離れ離れになっても、通じ合えるって。 だから、背中を向けたんだろ。背中を預けたんだろ。 だって、本当に消えようとするなら、少なくとも県外に行っただろう。けれど、お前は此処から動かなかった。それはさ、俺達が迷うことのないように灯台として此処で、先の見えない進路を照らしてくれたんだろ? お前の意図が何処にあったっていいよ。俺は俺の都合に良いように解釈するから。 俺が大きく手を振れば、意味を理解したのかしていないのか、和輝が満面の笑みで手を振り返した。それがまるで停船を迎える水兵のようで、俺は少し笑った。 待たせちまったな、と俺が仲間の元へ戻ると、ケンタローが生暖かい目で出迎えてくれた。ケンタローこと山城健太郎は俺達を纏めるキャプテンで正捕手だ。その眼差しに薄ら寒いものを感じて身じろげば、ケンタローはその太い腕と強靭な肩でチョークスリーパーを掛けて来た。 「イテテテテテ! 離せ、この馬鹿力!」 「何、単独行動してんだよ! 輪を乱すな、この馬鹿!」 助けを求める俺を皆が生暖かく見守っている。畜生。 レフェリーを務めるリュウゴこと北原隆吾が両手をゴング代わりに打ち鳴らした。試合終了。ゴリラのようなポーズで勝利を喜ぶケンタローを恨めしく睨む。俺は漸く解放され、何度も新鮮な空気を取り込んだ。 「大丈夫か、皐月?」 今頃心配するくらいなら、もっと早く助けてくれ。 俺は蹲って深呼吸を繰り返しながら、手を差し伸べるマサこと設楽雅義を恨めしく睨んだ。 マサは怖い怖い、と微塵もそんなこと感じていないだろう口調で笑って、俺の手を掴んで引っ張り起こした。 「蜂谷君はもういいのか?」 フラットな口調でマサが問い掛ける。俺にとって和輝が如何に特別な存在なのか、仲間は皆理解している。それというのも、俺が春の合同合宿で試合中に強烈なスタンドプレーをかましてしまったからだ。あの時の俺は正直、頭が如何かしていたと思う。それでも、瞬間湯沸かし器みたいに頭に血が上ってしまって、真っ赤に染まった視界に和輝しか映らなかった。 俺の願いは和輝に出会ったあの頃からただ一つだった。 「もういいんだよ」 言えば、マサが妙な顔をした。何か言いたげに口を尖らせている。 俺はただ、和輝に置いて行かないで欲しかっただけなんだ。連れて行って欲しかったんだ。相手にも意思があるということを忘れて、自分の主張ばかりをガキみたいに喚いていただけだったんだ。あいつはずっと其処で待っていてくれる。置いて行かれたんじゃない。俺がまだ追い付けていないだけだ。 「今度は必ず、追い付くから」 自分に誓うつもりの言葉は声となっていたようで、マサがきょとんと目を丸めた。 途端、背中にどしりと重みを感じて前のめりに傾く。後方からのタックルだ。如何して、俺の部活はこうも体力筋肉馬鹿ばかりなんだろう。晴海高校は実にスマートだ。そう思うのに、その暑苦しさも、もう、慣れてしまった。 ケンタローが不敵な笑みを浮かべて、俺の背中に圧し掛かっている。凄まじい体格差を意にも介さない理不尽さには目を瞑る。ケンタローが言った。 「晴海高校と対戦するのは、決勝戦か」 ケンタローが、ガサガサとゲロみたいな無秩序の鞄からトーナメント表を取り出す。B5の白黒コピー用紙に収まるそれが、俺達のこの夏を運命付けるものだった。 俺達は横や後ろからそれを覗き込んで頷いたり、囁き合ったり、あからさまに顔を顰めたりした。百校ほどの出場校の中で、勝ち残るのはたったの一校だ。 そして、和輝のいる晴海高校とは逆山だった。昨年の夏の優勝校である晴海高校は第一シード。ベスト4の俺達もシードを獲得したけれど、それでも道程は果てしなく長かった。 「とりあえず、目下の壁は光陵学園だな!」 俺達の山にいる最大の敵は、昨年度の準優勝校である私立光陵学園。曲者、筋金入りのサディストと名高い見浪翔平率いる強豪チームだ。 晴海高校、特に和輝とは一年時からの因縁があると聞いているけれど、そんなことを聞いたら尚更引けないだろう。 「光陵学園のデータってあるか?」 「去年の夏と今年の春甲ならあるぞ」 「今の内から対策しておこうぜ」 レギュラー、非レギュラー問わず勝利に向けて動き出す。 俺が中学時代所属していた橘シニアは、実力至上主義でチームプレイを顧みないチームだった。けれど、それは監督やコーチ、大人の方針でしかない。少なくとも俺や和輝は、仲間に愛着を持ったし、努力に価値を見出していた。 俺達の世界は閉鎖されていた。意思は黙殺されていた。足掻き続けた俺達を滑稽だと笑うか。それでもいい。誰を憎んでも、何を祈っても、結局は弱肉強食だ。あの頃の俺達はきっと負け犬だった。大人の構築した箱庭を終には破壊することが出来ず、結果も残らず消えて行くしかなかった。 チームメイトの存在意義、チームプレイの価値、チームで勝利する意味。俺は終に解らないままだった。だって、大人によって囲われた鉄の檻の中、俺の世界には和輝しかいなかった。チームなんて必要無かったんだ。ただ、必要な人数が存在していればよかったから。 でも、和輝と再会して、このチームで過ごして、ちょっとずつ解って来た気がするんだ。 愛すべき、野球馬鹿共。 馬鹿の癖に真剣な顔付きで頭を付き合わせるチームメイト共。その脳筋じゃあ碌な考えも浮かばないだろう。 先程の仕返しとばかりに、ケンタローの背中へタックルをかましたけれど、悲しいことに全く動じなかった。山のようなどっしりとした重量感は流石捕手だと褒めてやってもいい。 「珍しく楽しそうだな、皐月」 マサが言った。 「俺だって、そんな日もあるさ」 言えば、マサが擽ったそうに笑った。 そりゃ、そうだよな。なんて言って俺の肩を抱く。そんな安っぽい慣れ合いも、悪くはないと思う。 |
2013.7.9