『間も無く、開会式が始まります。準備が整うまで、暫くお待ち下さい――』


 学生らしき若い声のアナウンスが、尾を引いて響いていく。
 阪神甲子園球場。深い緑色の包まれた球場は、白いユニホームを纏った少年少女が浮かび上がるようだ。音楽隊の列が揃ったところで、打楽器の賑やかに奏でられる。ファンファーレが届く。足並み揃った彼等の演奏を迎える観客の頬は興奮に紅潮する。
 列が停止すれば拍手が包み込む。開会式の始まりを告げるアナウンスの中で、選手入場の指示が入る。
 テンポの良いリズムを刻みながら手が叩かれる。先頭のチームが入場を始めた。
 一年ぶりだな、と和輝は静かに目を閉じた。後ろで、箕輪が緊張するなぁ、なんて呑気なことを言っている。
 神奈川代表、晴海高校――。
 行くぞ。短く言って、目を開けた和輝は足を踏み出した。
 通路とグラウンドの明暗の差に、目が眩む。力強い演奏の中で、大勢の視線を感じながら和輝は背中を伸ばして歩いていく。先輩の後を追っていた去年とは違う。自分が先頭で、引っ張っていくのだ。
 大きく足を上げ、歩いていく。列は乱れず一つの生き物であるかのように進む。和輝の腕の中には、学校の旗が収まっている。グラウンドに登場した瞬間の歓声と拍手に背筋が伸びるようだ。
 プラカードを持つ女子生徒の後に続いて定位置に到着後、全選手の入場終了を待つ。何の因果か、隣りには大阪代表北里工業高校がいる。先頭に立つすらっと背の高い選手、青樹大和が不敵に笑ったけれど、流石に声は掛けて来ない。身長差が際立つな、と和輝は忌々しく思った。
 滞りなく開会式が進んでいく。国歌斉唱、新聞社会長の挨拶、優勝旗返還、祝いの言葉、選手宣誓。
 昨年度優勝校、兵庫代表政和学園賀川高校、主将が現れる。赤嶺は主将ではない。だが、前列にいることは解っている。
 三年前、決別した自分達がこうして同じグラウンドに立っていると思うと、因縁とは中々断ち切れないものだと皮肉っぽく思う。


(こいつ等全員、倒して行くんだ)


 和輝は顔を上げ、優勝旗を睨んだ。




その訳を(1)




 茹だるような熱波だ。和輝は額の汗を拭った。
 開会式直後の甲子園球場は、全国から集められた球児で満ちている。息苦しいような気がして大きく息を吸い込んでみるが、夏の湿気が取り込まれただけだった。
 過酷な環境だ。けれど、この場所で、闘うのだ。
 球場を背中に遠ざかりながら、和輝は目を閉じる。二年前、兄はこのグラウンドに立っていた。マウンドで真っ直ぐ背筋を伸ばし、何者にも侵しがたい威圧感を放って、背中の信頼を背中に背負って立っていた。
 目を開ける。振り返らない仲間がいる。けれど、置いていかないと緩められた歩調だ。
 県内では異様に浮いていた悪名高き晴海高校も、全国の舞台では無名チームだ。ポケットの中のトーナメント表には出場校48校が記されている。そして、明日に迫った初戦の相手を見て唇を噛み締める。
 栃木代表、私立エトワス学院高校。
 匠の在籍していたチームと思えば、これも因縁の一つだろう。
 トーナメント表を丁寧に畳み込み、和輝は顔を上げる。背中を向けて前へ進む仲間達の間を縫うように、逆走する少年が二人。
 すらりと背の高い少年。


「――和輝!」


 波を避けるようにして前に立った少年――、青樹大和が人懐こく笑った。
 でかい。純粋に、思った。視界全てがその体に遮られている。見上げる和輝からは、まるで彼が天を突く巨塔に見えた。
 人好きのする優しげな微笑みで、青樹は和輝の頭をくしゃりと撫でた。


「久しぶりだなぁ!」
「ああ、久しぶり。元気?」


 嬉しさを隠し切れない様子の青樹、その後ろでやれやれと腰に手を当てているのは浅賀達也。捕手である青樹の相方、投手だ。
 浅賀も、でかい。ひょろ長い青樹に比べて、厚みもある。優勝候補の一校である北里工業高校だ。


「ちょっとは身長伸びたのか?」
「うるせーよ、余計なお世話」


 青樹に気付いたらしい匠が歩み寄って来る。


「よう、大和」
「おお、匠じゃん。元気そうだな!」


 穏やかな表情で、青樹が言う。
 でかくなったな。お前こそ。そんなやり取りを交わす彼等の横で、和輝は浅賀達矢を見上げた。
 北里工業のエース。伝説のプロ野球選手の息子、サラブレッド。幼い頃には度々一緒に遊んだ友達でもある。精悍な顔付きは大人の男と呼んでも過言で無いだろう。
 浅賀は値踏みするように和輝を見詰めると、口元に笑みを浮かべて言った。


「トーナメント表、見たやろ?」


 独特のイントネーション。関西弁。
 浅賀達也が嬉しそうに続けた。


「去年惨敗した政和賀川は逆山やから、戦うとしたら決勝戦やねぇ」
「そうだね。その前に、お前等か」


 和輝の目が光ったように、浅賀には見えた。
 言葉の通り、北里と晴海が対戦するならば、それは準決勝。


「此処まで来いよ、和輝」
「お前こそ」
「甲子園じゃ、何が起こるか解らんぞ」
「そんなの、甲子園じゃなくたって一緒さ」


 和輝が、笑った。


「勝負の世界で何が起こるかなんて誰にも解らない」


 浅賀も、笑った。


「やってみないと解らん。楽しみにしとる」


 浅賀の差し出された手を取り、握手を交わす。
 大きな掌だと思った。和輝はその掌に刻まれた無数の肉刺や胼胝に気付く。慢心なんて微塵も無い。才能に胡座も掻かない。勝利と上達への貪欲なまでの強い意思。刺すような気迫。全国区のエースだ。
 手を話すと、浅賀は再び腰に手をやって言った。


「その前にはまず、初戦やね。お前のとこは栃木のエトワスか。強いでぇ、エトワスは」
「知ってるよ」


 和輝はちらりと横目に匠を見た。談笑する匠は此方に気付かない。


「どんな相手だってぶっ倒して行くんだ。約束したからな」
「約束?」
「ああ。政和賀川の赤嶺に、言ったんだ。勝つって」


 一陣の風が吹き抜けた。湿気を吹き飛ばすような爽やかな風が通り過ぎていく。
 赤嶺陸。今世紀最大と呼ばれる化物投手だ。例え旧友だったとしても、昨年度惨敗した相手に対して勝つと宣言するとはどんな神経をしているのだろう。呆れではなく、賞賛。驚愕ではなく、感心。浅賀は誰よりも小さな選手に、まるで巨大な壁を前にしているかのような錯覚に陥った。


「お前等も、俺達の越えるべき壁なんだぜ」


 不敵に笑った和輝が言った。
 ぶるりと体が震え、浅賀は首を傾げる。これは武者震いか。


「はは、言ってくれるやんけ。踏み潰したるわ」


 言葉の通り、靴底が迫ってくるような圧迫感に和輝は目を鋭くする。
 退きはしない。前しか無いならば、超えて行くしかないのだ。世間の付けた勝手な勝算や予測なんて関係無い。例え圧倒的不利な状況で、相手が優勝候補であったとしても、前に進むことは止めない。


「おい、浅賀」
「おい、和輝」


 青樹と匠が、揃って名前を呼んだ。それで我に返ったように振り返った二人を、青樹と匠が苦笑する。


「場外乱闘なんてすんなよ?」
「するか。乱闘どころが、俺の一方的な暴力沙汰になるわ」
「和輝は手ぇ出るの早いから、互角かも知れないぞ」
「喧嘩も野球も一切手は抜かないからな」


 シャドーボクシングの真似をする和輝を、浅賀と青樹が笑った。
 二年ぶりだというのに、まるでつい最近顔を合わせたかのような関係が居心地良い。
 じゃあ、準決勝でな。さらりと言ってのけた青樹が手を振って去って行く。和輝と匠も同様に手を振って歩き出した。仲間は待ちくたびれたと言わんばかりにぶうぶうと文句を言っている。
 球場広場を抜けた先で、何処かのチームがミーティングをしていた。大所帯ながら、誰もが真剣な表情で監督の話に耳を傾けている。強豪っぽいな、なんて箕輪が笑う。
 お前、気付かないの。
 夏川が呆れたように言った。投げ出された紺色のエナメルバッグにはチーム名が刻まれている。
 ETWAS――エトワス学院。先述の通り、晴海高校初戦の相手だ。
 日に焼けた精悍な少年達が真っ直ぐに立っている。ぴりぴりと肌を刺すような緊張感を放っている。
 初戦の相手は神奈川代表の晴海高校だ――。監督らしき壮年の男が言った。
 匠は彼等の後ろ姿を一瞥し、すぐに目を背けた。
 二年前、匠はエトワス学院に所属していた。けれど、一年の終わりに晴海高校へ編入したのだ。彼等から見れば匠も、裏切り者なのだろうか。和輝には解らない。
 監督の話が終わると、レギュラーらしき一陣が此方を見た。対戦相手である晴海高校を見ただけかも知れない。けれど、その視線は間違いなく、匠へ向けられている。視線を交わさぬようにと前だけを見て匠は進んでいく。一言くらい、何かあってもいいのではないか。そんな気もするけれど、逆の立場だったとして自分に何が言えただろう。
 和輝は彼等の目から匠を遮るようにして間に立った。


「明日は、宜しくお願いします」


 静かに頭を下げるその動作は精錬されている。バッターボックスに立つ時、試合前後と同様だ。相手に対する敬意が込められている。
 エトワス学院から一人、がたいの良い少年が進み出た。


「此方こそ宜しくお願いします」


 和輝と比べて30cmはあろうかという身長差だ。縦にも横にも幅が広く、まるで大人と子供のようだ。
 それでも怯むことのない和輝は口元に笑すら浮かべて言った。


「晴海高校キャプテンの蜂谷和輝です。お互いに悔いの残らない試合にしましょう」
「ええ。全力で」


 体格差に相手を見縊ることもない。エトワス学院の少年が言った。
 くるりと方向転換した和輝が仲間の元へ合流する。彼等からの視線から逃れた広場の外になって、和輝は小走りに匠の隣へ並んだ。


「いい人だな。キャプテンかな」
「多分な」
「名前は?」
「黒河」


 素っ気無く、匠が答えた。
 黒河、か。和輝が繰り返す。


「知り合い?」
「そりゃあ。元、ルームメイト?」


 何で疑問形なんだよ。和輝が笑った。
 エトワス学院は寮がある。県外からの入学生の多い強豪校ならではの設備だ。寮生活も楽しそうだな、と和輝はぼんやり思う。
 一年近く共同生活して来た癖に、二年ぶりに会う仲間に挨拶一つ無しかよ。そんなことを思うが、明日には互いの夢を潰し合うと思えば、何も言葉を掛けないことが正解かも知れないなとも思う。


「お前が白崎で、向こうが黒河か。面白いな、オセロみたいで」
「はあ」


 匠が面倒臭そうに言った。
 もうじき、数週間の拠点となる宿が見えて来る。置物顧問が宛にならないので、独自に宿は和輝が手配した。というよりも、父の知り合いに頼み込んだだけだ。
 球場から歩いて十五分という好立地。古い高級旅館といった風体の宿屋に晴海高校一同息を呑む。こんなところに宿泊してもいいのだろうか。何かの間違いではないのか。
 けれど、和輝は見覚えのある男性が入口で大きく手を振っていることに気付いて息を逃した。
 糸のような目、肩程の白髪まじりの髪を後ろで一つに括っている。渋い和服を纏った男が下駄を鳴らしてやって来る。


「笹森さん!」


 男性――笹森は口元に笑みを浮かべた。
 笹森エイジは父の親友の一人だ。大阪を拠点に何か商売をしているというが、詳しいことを和輝は知らない。けれど、傍に停められた黒塗りの外車やがたいの良いスーツ姿の男達を見れば、堅気ではないのだろうと思う。
 笹森が言った。


「開会式見たでぇ。格好良かったやんかぁ。お前の親父もテレビで見て、今頃涙ぐんでんとちゃう?」
「そんなキャラじゃないっすよ」
「そうかぁ」


 まるで孫を見るような目で笹森は和輝を撫でた。可愛くて可愛くて堪らないというようだ。
 ぽかんとする晴海一同を旅館へ引き入れ、笹森が先導して案内をする。内部は瀟洒なデザインで、調度品の数々も美しい。埃一つ落ちていない廊下は磨き込まれ顔が映るようだ。こんなところに埃まみれの自分達が来ていいのだろうかと晴海一同は恐縮するばかりだ。


「俺の別荘やねん。気にせんと、どんどん汚したってな?」


 何者なんだ、この男。
 和輝はなるべく平静を繕いながら頷いた。汚そうものなら、表にいる強面の男達に海へ沈められそうだ。
 そんな中、玄関からどかどかと靴を乱雑に脱ぎ捨てる音がした。騒がしい気配に笹森の眉が僅かに跳ねる。けれど、侵入者は止まらず、現れた。


「ちーす、お世話になります」
「お世話すんのは、俺等だけどな」


 匠は目を丸めた。
 猫のような丸い目、大きな身体。此処にいる筈のない男――兄の浩太だった。
 隣りには飄々として感情を読ませない涼也がいる。北城奈々の兄だ。
 どうして彼等がこんなところにいるのか問う前に、涼也が相変わらずの軽薄な笑みを浮かべながら言った。


「お前らのお世話係として参上仕る。素泊まり風呂付き零円だからな。どうせ試合でへろへろになるだろうお前らの為に、兄として美味い飯で出迎えてやろうと思ったんだよ」


 匠が見遣るが、和輝も首を振った。そんなことは聞いていない。
 笹森が言った。


「俺は別に、飯付き零円でも良かったんやけどな。タダより高いもんはないっちゅうて、こいつ等が来ることになったんや。全部、お前の親父の差金やで」


 和輝は息を零した。
 有難いような、騒がしいような。
 浩太は困惑を隠せない晴海一同を順に見遣り、言った。


「俺は匠の兄貴で白崎浩太。二十歳だ。和輝とは年違いの幼馴染だ。浩太君と呼びたまえ」
「俺は北城涼也。まあ、似たようなもんだ。涼也君と呼びたまえ」


 一同瞠目するが、二人は気にしない。
 涼也が指を突き付けて言った。


「一応、調理師と栄養管理士の免許資格も持っているから、食事は安心してくれ。美味い飯食わしてやっから、一日でも長く俺の料理を味わえるように、勝ち進めよ!」


 彼の料理の腕はよく解らないが、勝ち進めと言われれば返事は一つしかなかった。


「はい!」


 元気よく返って来た声を満足そうに聞き入れ涼也が笑う。
 奇妙な状況に緊張感は吹き飛んでしまった。ともすれば脱力してしまいそうだ。


「じゃあ、飯にするから、荷物片付けたら食堂に集合な」


 そう言って涼也と浩太は慌ただしく台所へ駆けて言った。その後ろをけたけたと笑いながら笹森が付いて行く。取り残された一同を促し、和輝は畳に胡座を掻いて、盛大な溜息を零した。


「何なんだよ、この状況……」
「全くだ……」


 隣りで匠が言った。エトワス学院とすれ違ってから幾らか表情の硬かった匠が、いつもの仏頂面に戻っていた。


「なあ、匠?」
「んだよ」


 改まって、気色悪ぃ。
 散々な言われように和輝は苦笑する。


「明日も勝つぞ」
「当たり前だろ」


 吐き捨てるように言って、匠は立ち上がった。台所が騒がしい。まともな食事にありつけるのかと心配になる。何か手伝うべきかと和輝も腰を上げた。
 数十分後、食堂には大量の料理が提供される。栄養バランスの考えられた彩り鮮やかな食事は、確かに美味しかった。

2013.8.29