17、亡者の手


 夜中、ソラを革命軍の本部に運び込んだ。僅かな見張りを立てているだけの静かな夜だったので、なるべく足音を立てないようにテントに入れた。
 薄暗い中に蝋燭を一つ灯すと、闇は四隅に溜まって行った。部屋の端に置かれたシンプルなベッドに血塗れのソラを横たえる。起き上がらず荒い呼吸をずっと繰り返していた。

「熱があるな」

 そう言って血塗れになった服をナイフで刻む。すると、目を逸らしたくなるような傷だらけの腹部が現れた。

「……医者を呼ぼう。傷が化膿してる」

 水で濡らした布を額に置き、イオはテントを出ようとした。出入り口を潜ろうとして、目の前に月光を遮る巨大な影がある事に気付いた。
 ソウジュが、真っ直ぐ見下ろしている。

「遅かったな、イオ」

 口調に、微かな怒りが感ぜられた。普段は感情を押し殺して大義の為と枷を嵌め、剣を振るい続けた彼に微かな憎悪が見える。瞳の中で憎しみの炎が牙を剥いて荒れ狂っているようだ。

「ソラ=アテナを捕獲したんだな」
「捕獲じゃない。保護、と言ってくれ」
「妙だな、お前はアイツを生け捕るつもりだったんだろ?」
「それは仮定の話だ。抵抗するようなら生け捕り、最悪の場合は殺害」
「なら――」

 ソウジュは剣の柄を握り、中に入ろうとした。が、イオが両手を広げて遮ったので眉を寄せる。

「止めてくれ」

 イオの紅い目に月光が映り込んでいる。決して譲らないと言う、強い意思が見え隠れしていた。

「アイツは怪我をしているんだ」
「それが、どうした」
「……俺達は帝国軍じゃない。誰かの手を必要としている人がいるなら、黙って手を差し伸べる」
「それが、例え世界的な凶悪犯だとしてもか?」

 イオの目が鋭くなるが、ソウジュは小馬鹿にするように鼻で笑う。

「ヤツは大量殺人者だ。生かしておく訳にはいかない」
「止めろ」
「どうして? アイツは最悪の加害者じゃないか」
「違う、アイツも戦争の被害者だ」

 雲が月を隠し、朧げな輪郭を空に浮かばせる。月夜が暗くなり、彼方此方に深い影を落とさせた。

「イオ、時間の無駄だよ。お前の理想は高過ぎる。……皆に訊いてみれは分かる事さ。ソラ=アテナは生かすべきか、殺すべきか」
「……人の生き死にを多数決で決めるなんて、俺が許さない」

 イオの目がギラリと光った。流石にソウジュもしまった、とは思ったが言った事は消せない。
 居心地の悪い沈黙が流れた。微かな風音がピリピリと肌を刺すように通る。その時、イオは背後に気配を感じて振り返った。
 テントの薄闇の中に、蒼い片目がギラリと光っている。刃の切っ先のような、触れれば切れてしまう危なげな光だ。

「同情なんざ、いらねェ」

 息が、荒い。

「被害者とか、加害者とか……。そんなモノ話し合ってるのはお門違いなんだよ」

 血塗れの世界を歩き続けて、見えたものがある。それは、誰よりも沢山の本を読んだ偉い学者なんかには永遠に分からない事だ。テーブルを囲って平和を話し合う人間には気付けない事だ。
 綺麗事を振り翳す人間には、見えない真実だ。

「誰もが被害者で、加害者なんだよ」

 飢餓に苦しむ農民も、重税に倒れる商人も、奪い殺す盗賊も、剣を振い続ける戦士も、身を刻みながら佇む騎士も、自身傷付きながらも未来を切り開こうとする革命軍も、貪り豪遊する貴族も皆。
 誰もがこの世界の生み出した被害者で、加害者だ。だから、自分が正義だと名乗るのは愚かだ。

「帝国軍も革命軍も同じだ。やってる事は、ただの人殺しじゃねェか。俺と何も変わらねェ」
「違う」
「何処が違うんだ」
「根底にある信念が違う。信念無き力はただの暴力だろう?」

 ソウジュが言ったと同時に、ソラは鼻で笑った。

「同じさ。結局、傷付けた事には変わらない」

 ソラの瞳がどんどん光を失って行く。紙のように真っ白な顔を、微かな月明かりが照らす。銀糸の髪は風に揺れ、神秘的な風貌を持っているのにも関わらず二人は其処に恐怖を覚えた。

「お前は俺に戦う理由を求めたな」

 イオは振り返り、ソラを見た。瞳の中に光が無い。

「戦う理由なんかねェよ。……ただ、戦わなければならない環境があっただけだ」

 雲が流れ出す。月が雲間から顔を出し、地上を照らし始めた。

「同情なんていらないと言った割には、随分と同情を誘うような言い方をするじゃないか。自分を正当化するつもりか?」
「正当化もクソもねェよ」
「この世に正義は無いとでも?」

 まるで、革命軍そのものを否定するような事をソウジュは青筋を立てながら言った。だが、ソラはそれに頷かなかった。

「この世界に悪は無い。ただ、何通りもの正義があるだけだ」

 それは、亡き友リューヒィの言葉だった。
 ふつり、とソウジュの双眸にそれまで隠していた炎が灯った。それは憎しみであり、怒りであり、恨みであり、或いは哀しみでもある。その感情の豊かさをソラは遠くから見ている。

「なら、帝国さえも正義だと言うのか!」

 ソウジュはソラの胸倉を掴んだ。襤褸布が悲鳴を上げ、僅かに千切れる。それでも、ソラは眉一つ動かさないで疲れ果てた口調で静かに肯定する。

「そうだよ。だから……」

 ソラはソウジュの指を掴んだ。酷く細い手だ。その手が、ソウジュの指を逆関節に反らせる。当然、ソウジュは悲鳴を上げて手を離した。

「俺は、全てを滅ぼすだけだ」

 守れないなら、壊すだけだ。全部壊して、最後に生き残って、死体の山の前で死ぬ。
 戻りの道は何処にも無いから、進み続けるしかない。

 ソラはふと目を閉じた。その瞬間、膝が折れる。力を無くした体は後ろに崩れ落ちそうになり、イオが咄嗟に抱え込んだ。
 固く閉ざされた目の下に、深い隈が見える。抱えた手には血が染みていた。

「……イオ、コイツは諸刃の剣だぜ」
「ああ。片刃よりは、バランスが取れるよ……」

 負け惜しみのような言葉を吐いて、イオはソラをテントの中に引き摺り込む。傍の椅子に腰掛けたサヤが眠りついているのが見えた。
 高熱に魘され重症に喘ぎながら、ソラは頑なに眠りの底に落ちる事を拒否している。薄く開けた目は既に像を結んではいない筈なのに、眠らないように両手を握り締めている。眠りが死に繋がると、悟っているのだ。
 イオはソラの味方じゃない。敵にも転がりうる存在だ。だから、その言うなれば敵陣の真っ只中で眠れる訳が無い。サヤの神経が太過ぎるのだろう。

「お前を殺すつもりはない。少なくとも、今は」

 だから、寝ろ。
 イオはそう言って質素なベッドに戻した。虚ろだった目は暫く睨み付けるように正面を睨んではいたけども、やがてはふっと閉ざされた。眠りの中に、落ちた。
 それを確認して、イオはサヤの肩に毛布を掛け傍の椅子に座った。本当はこのまま外に出ようとしたが、そうすれば誰かがここに来てしまうかも知れない。考えたくは無いが、ソウジュがこっそりと戻って殺す可能性もある。
 死なせたくない。守れるものなら、全て救いたい。誰も傷付けたくない。
 幼い心が今も悲鳴を上げているのを知りながら、イオは剣を握り続ける。平和な世界を創りたいと願いながらも正反対の事をしているのは何故だろうか。戦いを無くす為の戦いなど、愚かではないか。
 全てを守れるくらい強くなりたかった。それが出来ないなら、何も分からない子供でいたかった。結局、どちらにもつけなかったからこうして人を殺し、色々なものを奪い続けている。
 血塗れの世界を創りながら、何を切り開こうと言うのだろう。傲慢で、夢見がちなエゴイストだ。
 微風に揺れる蝋燭の炎を見つめながら、イオは腰の剣に手を伸ばす。目の前で眠る二人を殺したら、世界はどうなる。

 大地の姫君と呼ばれるサヤを殺せば、どんな願いも叶う。
 御伽噺のような伝承を今も語り継ぐこの世界で、ソラは何故彼女を守るのか。楽になる方法など幾らでもあった筈だ。こんな傷だらけにならなくても済んだ筈なのに、どうして。
 どうして、それでも生きられる。人は希望無しに生きる事は出来ない。なら、彼は闇の中で何を見た。

 血に塗れた世界で、何に希望を見出し生きている。

 そうして思考の中に囚われている間に、イオは舟を漕ぎ始めた。対岸に行けば眠りに落ちる。今すぐ行きたいとは思うが、理性がそれを許さずに川の中央で漂っていた。
 どうしようかと悩んでいると、水の色が変わって行く事に気付いた。透明を湛えていた水が、朱を帯び、やがて黒染みた赤に変わる。やがて、風が出て来て波が立つ。舟は大きく揺れて今にも転覆しようとしていた。
 吐き気を伴う揺れの中で波立つ水面を見た。水底から無数の白い手が伸び、舟を掴んでは左右に揺する。助けを叫ぼうとするが、喉から出ようとする声が掠れて言葉にならない。対岸は消え、気付くと大海原の中にいた。

――助けて

 声が出ない。助けが無い。無数の手だけが水底に誘うように揺れ、血の海が水音を立てる。

――助けて

 喉から出る筈の言葉が二酸化炭素に変わった。必死に舟にしがみ付きながら、遠くを見る。
 白い手――。
 何処までも、赤い海を白い手が埋め尽くす。叫びは言葉にならず、助けは来ない。いや、助けなど始めから無い。だって、それだけの罪を背負って来た。鉛色の雲が天を覆い尽し、今にも雨が降りそうだ。雨粒は何色をしている。
 予想した通り、雨は降って来た。紅い、紅い雫。鉄の臭いが鼻を突く。酷い吐き気と眩暈、舟を揺する手は増える一方で何処を見回してもそれ以外は存在しない。

 ここは、地獄だろうか。

 天国には元より行けないと分かっている。でも、まだ、堕ちる訳にはいかないのに。まだ、やる事がある。やらなければならない事がある。
 この血塗れの手で掴まなければならないものがある。この血塗れの足で行かなければならないところがある。
 まだ、行けない――。



「なら、泳いでくればいい」



 その時、覚えの在る声を聞いた。犇めき合う手が道を開け、その先に人影が見える。雲間から差した赤過ぎる夕陽の光が、銀髪を照らしていた。その下に蒼い双眸が睨むように存在している。
 その人物の腰には剣が差してあって、血の雫が落ちる。水面に佇む少年。――そうだ、俺達はまだ、子供だ。

 『憎め』と誰かが囁く。それに頷くと、遠くの人影が首を振る。
 『殺せ』と誰かが命令する。それに従って剣を掴むと、遠くの少年がまた、首を振る。
 でも、それ以外の方法を知らない。それしか、出来ない。だから、剣を引き抜く。少年は悲しそうな色を瞳に映し、背中を向けた。

――置いて行かないで

 泣き叫ぶように、縋り付くように、舟から身を乗り出した。危ういバランスで漂っていた舟はいとも簡単に転覆し、体は血の海に投げ出された。無数の手が伸び、体を掴む。水底に引き摺り込もうと足を引く。必死に泳いだけども、人影は既に消えていて、絶望して体は水中に落ちた。
 血の中は酷く視界が悪いのに、無数の白い顔が並んでいるのが鮮明に分かった。死んだ仲間、殺した敵、守れなかった家族や友達が見つめている。
 皆、地獄に堕ちていたのか。



「イオ?」

 まるで不釣合いな優しい声が聞こえた。急に意識は浮上し、見慣れたテント内部が見える。正面にはサヤが心配そうな顔で覗き込んでいた。

「大丈夫?」
「……俺は、寝ていたのか」

 今も思い出せるあの鮮烈な地獄は、ただの夢だったのだろうか。それとも、やがて行き着く場所の予知だろうか。
 じゃあ、あの少年は。背中を向けて消えたのは――。

 ベッドに目を向けると、ソラが膝と一緒に剣を抱え込み、虚ろな目で神経を張り巡らせていた。何時の間に目を覚ましたのか、ずっと起きていたのか。
 ちら、と遣った目に居心地の悪さを感じてイオは目を伏せた。

「悪ィ、寝ちまった……」
「知るかよ、俺は始めからお前なんか信用していない」

 すぐに帰って来た返事に、イオは肩を落とす。夢の中で聞こえた声は、まさにこれだった。
 医者を呼ぼうと思っていたのに、ソラは既に自分で手当てを終えている。その辺りにあった包帯を適当に必要な部位にのみ巻いて、寒いのか体を震わせていた。
 ソラはそっぽを向いて、それでも周囲に警戒しながら見を固めている。その姿は酷く滑稽だった。世界最強と名高い騎士がこんな子供だったからではなく、まるで、怯えているように見えたからだ。

「悪い夢を見た」

 イオは呟いた。少なくとも二人に向かって話しているつもりだったが、俯いていたので独白のようにも取れる。

「血の海の真ん中で、亡霊に引き摺り込まれる夢だ。海に落とされたら、その生温い血の中で死人に会った」

 まだ、頭の中は眠りから覚めていないのか波に揺れているようだった。あんなに現実味を帯びた夢を見たのは久しぶりだ。
 ソラはふい、とイオの方に包帯で巻かれた為になってしまった片目を戻す。

「悪夢は、俺も見る」

 想像していなかった言葉に、イオは咄嗟に反応出来なかった。サヤは哀しそうに目を伏せ、少しでも意識を遠くに飛ばそうとしているようだ。

「どんな夢だ?」
「――血溜まりの中で、殺し続ける夢だ」

 セルドを、リューヒィを、レナードを殺す。何度も目の前で失い、傷付け、泣き叫ぶ。弱くて愚かな自分を遠くから見下ろしながら、それを何度も繰り返す。
 だが、ソラは詳細までは説明しなかった。

「世界を救うなんて、馬鹿げてる」

 ソラは呟く。

「壊す方が遥かに楽だ。――何度も、怒りに身を任せて全てを滅ぼしてしまえたならどんなにいいだろうと考える」
「それでも」

 イオがソラを見た、対極を成す二色の瞳が交差し、打ち消し合う。

「それでも、滅ぼせなかったんだろ?」

 世界が考える以上に、ソラは『人間』だ。
 神と呼ぶには余りに脆く、悪魔と呼ぶには余りに優しく、人と呼ぶには余りに強過ぎた。大人にもなれず、子供ではいられない世界だったから傷付きながら、何度も叫びながら剣を振っている。
 イオは、自分の見た夢とソラの悪夢が何処かでリンクしているのではないかと空想染みた事を考えていた。

「この血塗れの世界に、明日は必要か?」

 ソラは表情を映さずに、訊いた。
 太陽が昇る意義は、月が巡り意味は、生きる理由は何処にある。
 明日世界が滅ぶとしても、誰もが変わらない生活を続けるだろう。急に慌てる程、人はこの世界にも命にも執着していない。死を目の前にしても肩を組む事は無く、最後の最後まで奪い合う筈だ。
 その世界に、明日が来るのはどうしてだろう。

「――さァ」

 イオは言った。

「でも、放っておいても明日は来る」
「下らない世界だ」

 ソラは剣を離し、腰に戻した。イオは応えるようにゆっくりと口を開く。

「……世界は滅ぶべきかも知れない。でも、其処に生きたいと願っている者がいる事を忘れるな」
「皆が生きたいと願える世界だったら良かったのにね」

 それまで黙っていたサヤがポツリと囁いた。春の日溜りのような暖かい声だった。

「ねぇ、イオ」

 白磁のような滑らかな肌をした小さな顔に、微かな不安が見える。サヤは翡翠の瞳を瞬かせながら、真剣な表情をした。

「貴方には、『生まれて良かった』と思えるような世界を創れる?」

 イオは、すぐには頷けなかった。心を芯から揺さ振るような真剣な質問が頭の中で反響する。

「ここを、昇る朝日を恐れずに済む世界にしてくれる?」

 数秒の沈黙が流れ、その間にソラはまたそっぽを向いた。
 そうして、イオは漸く口を開く。

「それに答える前に、ソラに訊きたい事がある」

 遠くを眺めたままのソラの方を向いた。

「戦いを無くす為の戦いは愚かか?」

 ソラはイオの方を見た。包帯が顔を覆い、残された片目が強く光っている。

「ああ、愚かだな。馬鹿げてる。酷く、滑稽だ」
「……」
「でも、始めたものは終わらせなければならない。人の業は人にしか償えないし、許せない」
「戦いは仕方が無いと?」
「そんな簡単に括れる程、――俺は傍観者じゃないつもりだ」

 その言葉を聞いて、イオは笑った。歳相応の明るい笑顔だった。

「サヤ、質問の答えだ」

 サヤは小首を傾げる。

「俺は、その為に命を懸けて戦う。絶対なんて言える程俺は強くないから約束は出来ないけども、出来る事は全てやる」

 サヤの表情が少しだけ和らいだ。つられてイオは穏やかな表情をしたが、ソラだけは仏頂面でそれを睨み付けている。

「俺は、お前等を守りたい」

 イオははっきりと、聞き間違えないように言った。


 『全てを守りたい。全てを救いたい』
 その傲慢な願いは今も口に出せずにいる。だから、せめて、目の前でボロボロに傷付いている二人を救いたい。仲間を守りたい。

 強い炎を宿したような瞳が其処にあり、サヤは大きな瞳を歪めて微笑んだ。
 ソラだけが、愕然とした表情でいる。イオもそれに気付いてはいたが、理解は及ばなかった。


――何があっても、俺はお前の事を見損なったりしない。裏切ったりしない。


 リューヒィの笑顔が脳裏を掠めた。思い出にしまい込むには、まだ、余りにも早過ぎる。肉を裂くあの感覚は今も掌に残っているし、頬に飛んだ血の温かさも覚えている。

 また、失う。

 得る事の恐怖ばかりが、胸の中にある。
 ソラは笑い合う二人を遠くに眺めていた。


 血溜まりの中に今も立っている。振り返ると、血に塗れた大勢の人が立ち、手招きしている。無数の白い手が呼んでいる。



 呼んでいる。