18、強者の背中
光が無い。希望は潰え、闇の広がる混沌とした世界が何処までも広がっている。
誰か助けて、と叫びを上げた。誰もが遠ざかり、亡者ばかりが手招きする。悲鳴を上げた、嗚咽が漏れた、縋り付こうと伸ばした手が湿った空気ばかりを掴む。
誰か、助けて。
イオは目を開けた。
体が鈍りのように重く、思考回路が錆び付いたように鈍い。額には汗の雫に黒髪が張り付いていた。心臓は未だに大きな音で暴れ、大きく深呼吸して漸く落ち着けた。
毎日のように見る悪夢。血の海にさ迷い、亡者の群れに呑まれ、砂塵の中で大勢の死体を眺めている。助けを叫んでも誰もが見向きもしないで通り過ぎてしまう。
夢の中で泣いていたのは、あの日の自分ではないか。
イオは体を起こし、ベッドから下りた。簡単に着替えを済ましてテントを出ると灼熱の太陽が見える。人の往来は少なく、まだ早朝である事を知った。
今日は会議がある。ソラの裏切りとレナードの死が事実だったからだ。総攻撃を仕掛けるなら今だろう。
大きめのテントの前に行くとソウジュが出入り口のところで馬の毛並みを整えていた。
「ソウジュ、おはよう」
「ああ」
ソラの一件が影響しているのか、ソウジュは素っ気無い。
「……ソラ=アテナはどうしている」
「ああ、医者に看てもらった。寝て……無いな」
イオは苦笑した。
ソラは、眠らない。仮眠はしても熟睡は頑なに拒否する。自分以外に信じられるものが何も無いから、今もイオ達革命軍に警戒しているのだろう。
そうしている間にテントの前には革命軍の幹部とする男達が集まって来たので、イオはテントの中に入った。
その時、ソラは革命軍本部の敷地にはいなかった。つい、うつらと舟を漕ぎ始めてしまった頃にサヤがテントの中から消えてしまったから探しに出ている。
人間には食事や呼吸と同じく睡眠が必要だが、ソラは不眠症だ。健康かどうかを問われれば限り無く怪しいし、不眠症だからと言っても睡眠に対する欲求は零ではない。だから、それにしては十分耐えた。だけども、その十分では許されない。
ソラは声も出さずに砂漠をさ迷い歩く。何処かにサヤの小さな姿があるのだろう。少なくとも革命軍の敷地内に一人でいる筈は無いのだから。
片目の為に何度も砂に足を取られて転びそうになった。しっかりしていない足場の為に疲れは確実に蓄積されていて、降り注ぐ灼熱が水分まで奪ってしまっている。
思えば、最後の食事は何時だ? 十分な睡眠を摂ったのは?
貧血から来る眩暈は、銀色の砂嵐を視界に運んで来る。砂の山が傾いたのが見え、ソラは砂の中に倒れた。
サヤは革命軍本部から少し離れた墓場にいた。偶然辿り着いた場所だったが、数刻其処に立ち尽くして淋しげな風を受けながら眺めている。表情は一切無い。
その背後から馬の蹄の音が迫っている。そっと降り立つ音が聞こえたが、サヤは振り返らなかった。
「……こんなところで何をしているんだ」
イオは呆れと驚きを含んだ口調で言った。そこで漸くサヤは振り返り、微笑む。
この墓場は本部から馬で来れば遠くないが、歩けば随分と時間が掛かる。砂漠の中に位置するのだから、何も知らずにサヤがここまで出向いたのなら運が良かったとしか言えない。
イオはサヤの隣りに立ち、墓場を見渡した。
「沢山の人が亡くなったのね」
「ああ。殺し、殺され、死んで行く。戦争の犠牲者だ」
一体、何人死んだのだろうか。
イオは意識を遠くに手放しながら、ただデータとして墓石の数を数える。其処に感情を交えると、もう立っている事すら億劫になってしまうからだ。
半数程大まかに数え、イオはその行為を止めた。無駄とは言わないが、意欲を失ってしまった。その代わりにイオは呆然と遠くを見るサヤの方に目を移す。
「なあ、アンタはどうしてソラの傍にいるんだ?」
「……逆。ソラが、私の傍にいてくれるの」
少しだけ淋しげにサヤは微笑む。
サヤを含め、ソラ以外の人間は帝国を裏切ったその全貌を知らない。どうしてレナードとリューヒィが殺されたのか、裏切らなければならなかったのか。ただ、サヤは自分の命に危険が迫っていると言う事だけを理解していた。
だから、あの時『死にたくない』と言った。その言葉に嘘は無いし、今だって死にたくない。だけど、それが正解だったのかが分からない。
「多分、ソラは優し過ぎたの」
世界に流れる噂の通りの残酷な人間だったなら、ずっと楽だった。誰を殺しても何も思わず平然としていられる人間だったなら、ずっと幸せだった。
ソラは戦いに巻き込まれるには余りにも子供だったし、守られるには余りにも強過ぎた。どちらにも行けない未熟な心のままで地獄を歩き続けている。その体で何処まで行けるのか、何時まで行けるのか。
「優しいだけで、どうして傷付かなければならないの? 優し過ぎる事は、悪い事なの?」
「……優しさは、諸刃の剣なんだよ。誰かを救う為には優しくなければならないけども、その為には傷付かなければならない」
イオは、二人の違和感に気付いた。この二人は、生きると言う事が『義務』になってしまっているのだと。
お互いの為に死ぬ事は許されない。そうやって傷付きながら、お互いに縋り付きながら立っている。そうやってボロボロになって、誰にも理解されないままに生きる事を命令されて、それが意志だったのかどうかも今では分からない。
暫く沈黙が流れた。風が虚しく鳴り、砂を遠くに運んで行く。
イオはぼんやりと先程の会議を思い返している。内容はソラとサヤ、そして、総攻撃についての事だった。
総攻撃を仕掛けるには革命軍はまだ準備は整っていないので先延ばしになったのだが、ソラとサヤの事はイオ以外の満場一致だった。
二人を、殺そうと。ソラが弱っている今がチャンスだと。
危険人物であるソラを殺し、サヤを殺して帝国を滅ぼす。人の命をそんな簡単に言えてしまう事にイオは絶望した。どうして二人が死ななければならないのかが分からない。
少なくとも、二人は死にたいとは願っていない。この汚れた世界のせいで傷付いて、傷付けなければならなくて。それなのに、二人が全部責任を背負って殺されるなんて間違っている。だから、猛反対した。
そのまま会議は纏まらず、一先ず終了した。
意識を遠くに飛ばしていた時、背後に気配を感じた。
咄嗟に腰の剣を抜いてサヤを抱え、飛び退いた場所に大剣が突き刺さる。砂漠に埋もれかけながら其処にズラリと並ぶ人間達を見た。
(――帝国軍)
帝国軍の小隊が、其処にはいた。皆剣を携え、鎧に身を包んでいる。数が多く、イオは退却の為に馬の方に目を遣った。静かに動きながら手綱を握る。
「……帝国軍が、何の用だ?」
「革命軍のリーダー、イオ=フレイマーだな」
イオは舌打ちした。
数が多く、二人を取り囲むように並んでいる。逃げ道と言うと墓場を突っ切る他無いが、相手は馬を連れているので二人乗りで逃げ切るのはまず不可能だろう。
(どうする)
幸い、サヤの正体には気付いていないようだった。
一瞬、脳裏にあの会議の内容がちらついた。誰かが頭の中で命令している。『殺せ』と誰かが叫んでいる。
――駄目だと、首を振る少年の姿が頭を掠めた。
イオは小さく笑い、サヤに耳打ちした。
自分が囮になって引き付けるから、その隙に逃げろと。サヤが拒否するのは目に見えていたので、助けを呼んで欲しいと付け加えた。サヤは涙目で頷く。
一瞬、サヤを乗せた馬が地面を蹴った。ほんの一瞬だった。
咄嗟に追おうとした兵士をイオは馬ごと斬り捨てる。鮮血が砂漠に染みた。
(殺せる訳無いさ)
イオは頭の中で、誰にとも無く言う。
守ると約束したのだ。それなのに、その対象を犠牲にしてまで見っとも無く生き縋ろうとは思わない。そう思ってしまったら革命軍のリーダーなどやってはならないと思っている。
ふっ、と目の前を通り過ぎようとする男を斬り、馬の四足を斬り飛ばして崩れたところで首を飛ばした。鮮血の中に砂塵が舞い、イオはその中でひたすらに剣を振り回す。
だが、サヤを追った兵士を数人逃してしまった。舌打ちして追おうとしたところで、背中に焼かれるような熱さを感じた。
視界が急に揺れて砂漠が目の前に迫った。それを何とか支えたが、その背後から剣は迫って来る。
転がりながら、転びながら、それでも剣を離さない。遠くに消えたサヤの無事を願っている。死なないでくれと祈りにも近い思いで剣を振った。
ソラは目を開いた。
随分長い間眠ってしまっていたらしく、体が砂漠の中に沈んでいた。自殺行為に他ならない。
砂を払いながら体を起こし、極端に狭くなってしまった視界でサヤの姿を再び探す。遠くに砂嵐が見え、踵を返そうとするが風に嗅ぎ慣れた鉄の臭いが混ざっていた。
(面倒だな)
大方、盗賊が小競り合いでもしているのだろうと目を戻す。別の場所を当たろうとして、ソラは血の臭いが流れて来る方を見た。嫌な予感が心臓を大きく揺らした。
遠くの砂山、一頭の馬が走っている。その背中には探していた人物がいて、追うように見覚えのある帝国の兵士がいた。手は無意識に腰の剣の柄を握っている。
ソラは地面を蹴った。
サヤは振り落とされないように手綱を握り締め、ひたすらに走った。何処に向かっているのかも分からなかったが、この時はその馬の運に救われた。正面からソラが走って来るのが見える。
思わず叫びたくなった。でも、口を開けば舌を噛んでしまうような速度で馬は走っている。ソラはサヤの乗っている馬を通り過ぎた。
突然の敵襲に兵士は反応出来ない。ソラは緩やかな動きで追っ手である三人の兵士の首を、一瞬で飛ばした。
首を失った体はグラリと倒れこみ、主のいなくなった馬が動きを止める。ソラは剣の血を払ってサヤに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「――」
サヤは言葉を発せず、咽返った。ソラは馬を宥めながら下りる為に手を伸ばそうとしたが、サヤは首を振る。
「ソラ、お願い、助けて……!」
「?」
「イオが――」
咄嗟に、イオと言う名前から人物が分からなかった。だが、すぐにあの黒い短髪に紅い目をした少年を思い出す。
そう、あの紅い目はレナードとそっくりだ。だから、嫌いだった。
何で、俺が――。そう言おうとしてソラは動きを止める。サヤの瞳から涙が溢れて来たからだ。
「お願い――」
ソラは少し黙り、兵士の乗っていた馬の手綱を掴んだ。そのままサヤに背中を向け、地面を蹴る。後ろに黄色の砂が飛んだ。
手傷を負いながら、イオは剣を振う。サヤの呼んで来る助けには期待していなかったから、もう死ぬ気でいた。死にたくはないが、サヤを逃がした事を後悔なんてしていない。
大人数相手に良くやっているが、相手が悪過ぎた。兵士だったなら、まだ、良かっただろう。だが、騎士がいた。イオが兵士を袈裟懸けに斬り捨てた時、腹部にまた、あの熱さを感じた。
剣が、深く刺さっている。イオは呻きながらも転がるようにしてそれを引き抜いた。
出血が多過ぎる。一つ一つの器官が機能を失おうとしている。膝を着きそうになった時、体が大きく持ち上がった。
目の前に、先程まで戦いをただ眺めていた騎士の顔がある。首に食い込む太い指先、鉄兜の下に見える金髪と漆黒の瞳。表情は無い。
「か……ァ……ッ」
嗚咽が漏れる。息が出来ずに喉がヒュウと奇妙な音を立てた。苦しい。右手に握った剣を振り上げようとしたが力が入らず、抵抗して左手で爪を立てたが、だんだんと力は抜けて行き殆ど効果は消えた。
死ぬんだと理解した頭の中、心の中で、死にたくないと叫んだ。
死にたくない。遠退こうとする意識の中で叫びながら上がらない腕に力を込める。男がにや、と笑うのが見えた。
(死にたくない。こんなところで、こんなヤツに)
こんなにも無力で、悔しい。死にたくない、まだ、死ねない。
何度も叫んだが、声にならない。二酸化炭素になって消える声。夢が予知夢であった事を今頃悟った。血の海で助けを叫びながら、誰も助けてはくれない。
(誰か――)
助けの来なかった夢。遠くに去って行った少年の後姿。
死ぬのだと、悟った。
「その辺に、しておいてくれないか」
突然、背後から聞こえた声に男が振り返った。其処にある姿を視界に映すよりも速く、遥かに速く鋭い蹴りが男の腹部を襲った。二メートルはあるだろう巨体が、無重力のように軽々と吹き飛ぶ。誰も動けない。イオは投げ出され、其処に倒れ込んだ。
息が出来る。何度も何度も、肺に酸素を送り込んだ。そして、鮮明になって行く視界の中にあの少年の姿を映した。夢の中では背中を向けた筈の少年が、こちらを向いて立っている。
「ソラ……、何で……」
「サヤ様に感謝しろ。あの方が頼まなければ、俺は動かなかった」
イオは小さく咽た。内臓をやられたのか、喉の奥から血が滲む。その様子をソラは見下ろしていた。
「……弱いな、お前は」
隻眼に呆れが映り込んだ。そのままイオから目を外し、囲むように距離を取る敵を方を見た。圧倒的に不利なこの状況で平然としているのは、やはり踏んで来た場数が違うからだろうか。
イオも帝国軍相手に何度も戦ったが、それはこんな大差だった訳じゃない。事前に作戦を練り、準備万端となって挑んで来た。それなのに、ここに突然飛び込んで来たソラは眉一つ動かさない。
砂が微かに跳ねた。イオはそれまで見ていた姿は一瞬の内に視界から消え去り、敵の群れの中から悲鳴が上がる。やっと目で捉えた姿は後姿だった。
子供と大人の戦いだと思った。あれだけの敵兵が見る見る内に減って行く。辺りに舞う鮮血が黄色い砂に染みを作り、乾いた風に鉄の臭いが混ざった。イオは、それをただ見ている。ろくに動く事が出来ないから参戦する事は出来なかったが、どのみち加わったところで殆ど意味は無かっただろう。
やがて、最後の一人が残った。隊長らしき騎士だった。
ソラはゆっくりと傍に立った。騎士の目には微かに怯えが映り、躍起になってしまったように剣を振り回す。でも、流石に騎士でその力は確かなものだった。ソラはそれを何でも無いように潜り抜け、剣を持つ腕を肩から切り落とした。砂の上に落ちた腕、剣を握っていた手がゆっくりと開かれる。
片腕になった騎士は、死体になった兵の中でゆっくりと後退さる。ソラはやはり、表情を映さないで距離を埋める。命乞いする騎士の片足を飛ばし、尻餅を着かせる。悲鳴を上げるのも無視して首に剣を向けた。
「この周辺に、他の帝国兵はいるのか?」
「いっ、いない!」
「……嘘は嫌いだな。お前は尖兵だろうが」
ソラはそのまま、騎士の首を飛ばした。鮮血が迸り、首を無くした体がゆっくりと倒れ込む。暴れ続けた黒刀の血を払って鞘に収め、ゆっくりとイオの方に向き直る。
イオはソラを、絶望にも近い気持ちで見つめていた。
(これが、最強か――)
世界最強と言う称号を背負う少年には、とても見えなかった。でも、この力を見ればそんな事はもう言えない。
全てを傷付け、奪い、滅ぼす。
「酷い顔だな」
ソラは血を拭いながら自嘲するように言う。
「俺が、恐ろしいか」
「――ああ。まるで、鬼のようだ」
いつの日か童話で読んだ、人食い鬼のようだった。人を殺し、遊ぶように切り刻み、食らう。其処には何の罪悪感も無くて、ただ只管に強さだけがあって。
ソラは笑った。
「悪魔のようでもあるだろ」
「どうして?」
イオはソラを見た。紅く染まった中で、隻眼の蒼い瞳だけが浮んで見える。
「どうして、こんな簡単に人を殺せる。嘗ては仲間だった筈だろ……」
「今はもう敵だ」
「お前は、自分の力が恐ろしいとは思わないのか?」
ソラは首を傾げる。
「どうして、自分が恐ろしいんだ?」
「最強ってのは、一瞬でこの死体の山を作っちまう程の力がある。いつか、自分が大切な人を傷付けるかも知れないとは思わないのか!」
「俺は、自分の力に溺れたりしねェ」
サラサラと砂の流れる音がする。静かな世界にイオの強い感情だけが吹き付けているようだった。
「これが最強だって事なら、俺はいらない!」
そう叫んだ時、イオは見た。
一瞬、ほんの一瞬だけソラが淋しそうな顔をした。すぐに砂塵の中に消え、次に現れた時はやはり表情の無い血塗れの顔だった。
「……別に、理解して欲しいとは思わない。理解出来るとも思っていない。でも、俺は……」
風の音が大きくなる。その中で、呟くような声量でソラは続けた。
「俺は、好きで最強になった訳じゃない――」
其処に、ソラの本質を見た気がした。風の中に佇む姿はただの子供だ。そう、子供なのだ。
強くなりたくてなった訳じゃなく、そうでなければならなかった。最強にならなければ生きられなかった。
「お前に理解出来るなんて思わないし、理解して欲しくもない」
ソラは背中を向けた。酷く頼り無い背中だ。イオは離れて行く背中を見つめた。
夢の中で見たのは、きっとこの事だった。突き放したのは、置いて行ったのは、ソラじゃない。
(俺だ――)
イオは目を伏せ、ただ流れて行く砂と風の音を聞いていた。
|