19、掌の砂


 ソラはサヤを探して再び革命軍本部に戻り、元いたテントを覗いた。しかし、其処にはサヤの姿は無い。焦りを感じながらテントを出ると笑い声が聞こえた。少し離れた広場で、サヤは子供達と談笑しているのが見える。
 安堵の息を吐いてテントの中に戻ろうとした時、背後に気配を感じた。振り返ると、見覚えの在る男が立っている。
 名は何と言っただろうか。

「お前が一人になるのを待っていたよ」

 ソウジュはそう言ってソラをテントの中に押し込んだ。戦闘で疲弊した体はよろける様に中に入り、目の前の柱に危うくぶつかりそうになる。ソラは振り返って睨んだが、その背後にソウジュと同じ歳くらいの女が立っていたのに気付いた。

「……何の用だ?」

 不機嫌そうな低い声を出すと、後ろにいた黒髪と栗色の瞳をした女が進み出る。触れようとするので、手を払い除けたが無駄だった。

「医者よ、傷を見せなさい」
「いらねェ」
「必要かどうかは私が決める事。怪我人は黙って傷見せりゃいいのよ」

 女はソラを座らせて目に巻いた包帯を解く。白い筈の布が血と膿みの色に染まり、それは患部に近付く程に濃くなる。全て包帯が解けると、腐る寸前の傷が姿を現した。異臭が鼻を突き、ソウジュは眉を寄せる。

「まだ間に合うけど、もう少し遅れていたら目は失明していたし、下手すれば死んでいたよ」

 ソラは何も言わない。

「私の名はエルス=ターナー。革命軍の医者をやってる」

 エルスは傷を濡らした布で拭き、持参していた鞄の中から薬を取り出す。

「ずっと訊きたい事があった」

 エルスの後ろからソウジュはソラを見た。睨むような鋭い眼光だ。

「お前はどうして、仲間を殺した?」

 ソラは、ソウジュに一瞥くれて面倒臭そうに溜息を吐いた。その質問は既にイオにされている。答える気など端から無いので黙って手当てを受けている。ソウジュは苛立ちを隠そうとはせず、おい、と怒鳴った。ソラは何も答えないのでエルスがそれを制す。流れる沈黙、ソウジュはそれを再び破った。

「お前に心は無いのか」
「うるせェな」

 漸くソラが答え、睨む。

「随分と俺を悪者として責めたいみてェだな」
「自覚があったのか」

 ソウジュは口角を上げて意地悪そうに笑ったが、それに対してソラも皮肉そうに笑う。

「自覚の無いお前の方が、異常で最低なんだよ」
「何ッ?」
「俺とお前、何が違う? 量か? 殺した数なら、確かに俺の方が上だな。だけどな、簡単に言えば俺達は最低の殺人者なんだよ」

 険悪な空気が流れ出す中でエルスは手を止めないまま小さく溜息を吐く。幼さの残る顔立ちだとか、傷だらけの割に小さな手や細い腕だとか、少し高めの声だとか。

「……あのね、ソラ」

 エルスは目の手当てを終えて次の患部に移る。戦闘の後とは言え、怪我が多過ぎる、元々物資は不足していたが、鞄の中だけで足りるのか少し心配になった。
 ソラはエルスを見る。蒼い目が煌煌と揺れていた。

「感情の無い言葉なんて、痛くも痒くも無いんだよ」

 ソラは少し、怯えたように肩を震わせた。エルスは、目の前にいるのが自分よりも幼い一人の『子供』である事を分かっている。世界最強や裏切り者である以前に、まだ二十歳を迎えてもいない少年だ。
 僅かな恐怖と驚愕を含んだ隻眼の瞳がまじまじとエルスを見つめていた。

「アンタはガキなんだから、無理矢理偽悪者を演じたりしなくてもいいんだよ。ガキはガキらしく、黙って大人に守られてなさい」
「……大人、って」

 ソラの脳裏にはセルドやレナードが思い出される。共に二度と会う事の無い恩人で、殺してしまった人だ。
 その時、丁度フラフラとイオがテントに戻った。既に何処かで手当てをしてもらってきたらしく、彼方此方に包帯が痛々しく巻かれている。ソラは気付かない。

「いつだって、戦争を起こすのは大人達じゃねェか――」

 確かに、優しい人はいる。それでも、この世界には優しくない大人が圧倒的に多過ぎる。
 勝手にこんな世界にして、それでいて守るなんて身勝手過ぎる。ソラは侮蔑するようにエルスを睨んだが、やろうとした以上にその目に侮蔑を含む事は出来なかった。
 大人に対する諦めが、余りにも大き過ぎる。

「こんな世界で大人だ子供だって言っても、いざと言う時は関係無く殺すクセに」
「私達は違う」
「同じだ。皆、同じなんだよ」
「同じじゃない。信じて」
「信じれば、裏切られるだけだ」

 頑なに否定を続けるソラにエルスは言葉を探している。何を言っても通じないような気がしていた。
 まだ大人に成り切れていない不完全な心がカタカタと悲鳴を上げているのがぼんやりと分かる。イオは其処にソラの本当の姿を見た。ソラは、部屋の隅で蹲っている子供と同じなのだ。何かに怯えるように、それでも強がって涙を流すまいとしている。

「信じろと言ったお前は、俺の何を信じてくれるんだ?」

 エルスは咄嗟に言葉が出なかった。ソラは、薄く笑う。

「どうせ、その程度だ。誰も理解なんか出来ないし、して欲しくない」
「嘘だ」

 それまで黙っていたイオが口を挟む。

「そんなのは、嘘だ。お前は理解して欲しかった、分かって欲しかった、信じて欲しかった。そうだろう?」

 ソラは何も言わないで、隻眼を虚空に漂わせている。出口の無い迷路の奥、袋小路の中で行く手を阻む壁を呆然と見つめている。戻りが無いから進むしかないのに、道が無い。何処にも行けない心がボロボロと崩れ落ち、それを両手で掬うように抱えている。
 指の隙間から落ちて行くもの。足元に散らばったもの。

 落としてしまったのなら、拾い集めればいい。全部を取り戻す事が出来ないなら、新たに作ればいい。道が無いなら壁を壊せばいいし、上から差し伸べられる手に縋り付いてしまえばいい。

「本当は、助けて欲しかったんじゃないのか――?」

 イオの脳裏に、過去に故郷の村で起こった惨劇が蘇る。
 溢れる死体・死体・死体・死体・死体・死体・死体! 血塗れの家族・友達・仲間。燃え盛る炎が牙を向いて故郷を食らい尽くす。何処を見ても地獄で、心の中を焼かれているようだった。
 どろどろと憎しみの炎が胸の中に広がり、重みを増しては急くように背中を焼く。

 殺せと、誰かが命令した。だから、殺さなきゃいけない。
 その中で、首を振った少年がいた。

「……救いが欲しかったのも、理解して欲しかったのも、信じて欲しかったのも全部、お前だろう」

 ソラは、そう言った。イオは自分では気付いていなかったが、涙が頬を伝っている。
 それまではソラの心を覗いているような気がしていたけども、本当に見ていたのは自分の心の中だった。人の心の中を覗く事なんか出来る訳が無い。
 手当てを終えたエルスの手は既に止まり、呆然とイオを見ている。子供とは言え、それまで気丈に振舞って来た彼がこうも簡単に涙を流すものだとは思わなかった。やはり、子供なのだ。
 ソラはゆっくりと立ち上がり、腰の剣を掴んだ。柄には誰のものかも分からない血が染み込んでいる。

 戦争は、多くの人の心を病ませる。
 沢山の死が、血が、怒りや憎しみが混ざり合って世界に広がる。

 イオは堂々としているように見える片隅で、強迫観念に縛られている。それを救う術を恐らくソラはもう知っている。それなのに、黙ってテントを出ようとした。自分が人を救える器でない事くらい分かっているからだ。

「……おい」

 出て行こうとしたソラをソウジュが引き留める。

「何処に行くんだ?」
「さァ。……俺は、サヤ様を守るだけだ」
「ここに残ればいい」
「敵陣の中にいつまでも留まれねェ」
「俺達はお前の敵じゃない」
「敵じゃないなら、何なんだ」

 ソウジュは少し黙り、答える。少なくとも、ソウジュ達にとってソラは敵じゃない。でも、ソラにとってソウジュ達は味方ではない。

「……敵じゃない、それだけで十分じゃないのか?」

 ソラは答えなかった。そのまま黙ってテントを出ようとして――、目の前に少年が立っている事に気付いた。
 緑の髪と、黒々とした黒曜石のような瞳が目に映る。覚えの在る色彩、ソラは一寸言葉を失った。

「お久しぶりですね、ソラ」

 首から下がった十字架。穏やかな笑みを浮かべ、リーフ=ソフィアは其処に立っている。

「どうして、ここにいる」

 ソラがリーフと出会ったのは、帝国を脱出して間も無い頃だった。酷い雨が降っていて、脱出の際の傷口は化膿し手当てもろくに出来ず、死に掛けの体を引き摺って雨宿りに転がり込んだ教会の神父がこのリーフだ。
 リーフは嘗て、父親を殺している。金の為に、人を救うべき神父が人を裏切ったのだ。だから、それについて口論して殺してしまった。父親は帝国兵と繋がっていた為、死んでからも奴等は金を求めて教会を襲った。
 偶然其処にいたソラは帝国兵を殺し、リーフが贖罪に背負う十字架を斬った。その後、ソラは流れリーフの行方は知らないし興味も無かったが、まさかこんな場所にいるとは思わない。

「僕は、神父ですから」

 なるほど、とソラは思う。
 戦争は人の心に影を作り出す。病んだ心を連れた人は、何かに縋り付きたくなる。それが『神』なのかも知れない。

「サヤに会いましたよ」
「そうか」

 ソラは血に染まった服を翻し、そのサヤの元へ向かおうとした。だが、子供達と笑い合う姿を見て足を止めざるを得なかった。サヤは、帝国を脱出してからあんな風に笑っただろうか。
 サヤは笑わなかった。生きたいと望んだから、何を犠牲にしても守ろうとした。でも、呼吸していると言う事が果して本当に『生きている』と言えるのだろうか。

 このまま、またあの少女を地獄へ連れて行く気か。

 誰かが言った。心の声だったから、恐らくは自分の言葉だろう。でも、ソラは目を伏せる。
 幾ら剣を極めても、幾ら人を殺しても、大切なものは守れないじゃないか。一人の笑顔さえ守ってやれない。守りたいと願っていたのに、奪っていたんじゃないか。守りたいと願いながら、傍にいる事すら出来やしない。
 レナードが『護れる人になろう』と言って裏切った事をソラは今も憎悪を超えた絶望の目で見ている。守るなんて、そんな簡単な事じゃない。レナードは本当に守りたかったのだ。その為には切り捨てなければならないものがあり、それがソラであり、サヤであっただけの事。
 人間には限界がある。どんなに傷付いても、命を懸けても守れないものがある。ソラは神でもなければ勇者でもない、ただの一人の子供だ。
 そんな子供にも救えるものがあると信じていたから、今まで戦って来た。そうして奪って傷付けて、残ったものがこの血塗れの両手。もう、光の道は歩けない。闇の中に沈んで行く。
 その刹那、涙を見たのだ。それを救う術を知っているのに、今更自分の卑小さに言葉を発せない。地獄なら一人で行けばいい。誰も道連れになんてしない。

 ソラはテントの中を見た。泣いている事にすら気付いていないイオが紅い目を光らせながら、真っ直ぐ見据えている。それを救う方法を、ソラだけが知っている。
 でも、誰にも愛されず守られず、ただ一つの温もりさえ知らない自分が誰かを救いたいなど滑稽ではないだろうか。
 自分の中で二つの声が拮抗している。救えと、その資格は無いと。
 自分の汚れた命を見ると、居場所なんて何処にも無いんじゃないかと思う。傷付けるだけなのだから、誰の傍にもいてはいけない。でも、何処にも行けない。

 ソラは目を伏せたが、もう一度イオを見た。同じ歳くらいだろうか。彼は、自分とは違う。居場所が在る。あの手は自分とは違う。血塗れでも、大切なものを守れる手だ。零したものも拾い上げる事が出来る。
 彼は、自分とは違う。

「……戦え」

 ポツリとソラは呟いた。イオは、それが誰に対する言葉なのか分からないで眉を寄せる。

「逃げるな、戦え。お前はお前のやって来た事を真っ直ぐ見て目を背けるな。正解も不正解も分からなくていい。結果を知るのは未来、お前が歴史になる時だ」

 ソラは真っ直ぐイオを見ている。聊か鋭過ぎる眼光だ。

「お前が歩けば、道は出来る。振り返れ。……独りじゃない」

 本当は『俺と違って』と付け加えたかったが、止めた。
 きょとんとしてソラの言葉をイオは反芻し、理解しようとする。酷く単純な言葉が、水分のように染み込んで行く。静かな空間に風が緩やかに流れていた。

 その時だ。
 カーン、と鐘の音が乾いた空気に響き渡った。沈んで行きそうだった意識をイオは反射的に、一気に浮上させた。誰かの叫ぶ声が辺りに木霊し、人々がざわめく。


「敵襲ー!」

 ソラはすぐに、ついさっき殺した騎士の仲間だと気付いた。尖兵の帰りが遅くて探しに来た時に、この本部を見つけたのだろうか。それとも、来るべき総攻撃の日だろうか。
 慌しく動き出したソウジュやエルス。イオは少し遅れて動き出し、ソラはゆっくりと瞼を閉じた。すると、其処にある騒音が一気に遠退いてしまう。
 目を開くと、砂塵の中に集合する革命軍の隊長等が整列していた。イオはその前に立つ。

「迎え撃つ」

 そう言って、的確な作戦を必要最低限で分かり易く的確に伝える。その姿を見て、ソラは納得した。これが革命軍なのだと。
 準備を終え、戦場に向かおうとする革命軍の面々を心配そうな顔で生活している人々が見送る。イオは涙を零す少女を抱き締め、剣を腰に差した。慌しく動く中でソラは腕を組んで見ている。神父であるリーフや医者で女のエルスは戦闘には参加しないので心配そうに見送る。
 イオは振り返り、ソラを見た。数刻前に見たのと顔付きが違っているような気がした。それがさっきの言葉のせいなのか、それとも戦闘が始まるからなのかはソラには分からない。

「お前は、ここにいるといい」

 イオは子供っぽく笑った。

「お前が守りたいのは、サヤだろ。だから、ここで守ってろ。俺はサヤを守るお前を守ってやるから」

 その笑顔が余りにも失った親友とそっくりだったのでソラは泣き出したい気持ちになった。
 レナードとそっくりの紅い目で、リューヒィのように屈託無く笑う。向けた背中は決して大きいとは言えない。

「……その顔で、笑うな」

 小さくなった背中に、聞こえる筈無いと分かっていてソラは言う。隣にいるリーフにだけ届いた声だった。
 あの紅い瞳も、屈託の無い笑顔もソラは守れず失ってしまっている。守りたかったのに、壊してしまった。だから、懐かしいとかそんな生易しい感情は其処には持てなかった。
 喪失への苛烈な恐怖がジリジリと心臓を焦がす。戦場へ消える背中に、あの世へ消えて行った二人を見た気がした。

 遠くで、戦闘開始を告げる怒号や悲鳴が聞こえ始めた。粉塵の舞い起こる戦場が遠目に見え、風に乗って微かな血の臭いがする。
 ソラは、動けない。何かが足に纏わり付くようで、背中を引いているようで、体を押え付けているようで動く事が出来ない。


 握り締めた拳が震えていた。