2、殺人者


 雨が降っていた。体を芯から凍らせるような激しく冷たい雨が。そんな雨に打ち付けられ身体はだんだん冷えて行く。次第に温度自体も感じられなくなって行った。
 そんな街の冷たく古い石畳の上に横たわって屋根の下へと逃げて行く沢山の足だけを見ていた。濡れる事を嫌って急ぐのは綺麗な靴を履いた人々。雨など気にせずさ迷うのは裸足の浮浪者、子供達。

 どうして、この世界はこんなにも不平等で、残酷で、冷たいんだろう。
 問いかけたところで答えなんて返ってきやしない。全ては無駄なのだから。

 街の隅で一人の子供が死んだところで誰が気に掛けるだろうか。この世界の人間は冷酷なのだ。例え自分のせいで死のうとしている子供がいたって気にも留めないだろう。そう、虫と同じなのだ。蚊を潰したのと同じ。


 早く、早く。
 早く殺してくれよ。
 早く終わってしまえ。


 死を、感じた。酷く柔らかで、心地いい。今までで初めて感じた温もりだった。
 知らぬ間に涙が零れ落ちて行く。終わる事が、こんなにもいとおしい。ただ生きて来た人生。誰の為にも生きずに、誰かを不幸にする事もなかった。
 何の為に生きて来たのか。何の為に存在していたのか。無に生まれ無に帰る。いらない子供だったなら生んでくれなければよかったのに。捨てるくらいならば殺してくれればよかったのに。


 結局、何も解らないまま。
 ただ死んでいく。




「……おい」

 歪んで霞んだ視界に映り込んだのは、確かに人影だった。
 革の靴を履いているから、少なくともこのスラムの人間でない事は解った。戯れに金持ちがここへ暇つぶしに来るのは少なくない。金持ちの連中は、ここに“害虫駆除”と称して人を殺しに来る。剣の切れ味を試したいとかそんな理由で。たまに子供を拾って行く人もいる。彼等が何処に連れて行かれ、やがてどうなるのかは大体予想が着くけれど。
 革靴もその一人だと思った。そして、心の何処かで安心した。やっと、終わるんだと。

「何泣いていやがる」

 泣いてなんていない。きっとそれは雨だ。例え涙だったとしてもその理由なんて答えられる筈が無い。
 だが、革靴は答えを待つように暫く間を置く。ソラは当然の無言を通した。

「自分が世界で一番不幸みたいな顔しやがって。死にてぇのか?」

 ただ、頷いた。

「……そうか。じゃ、お前は殺さねぇ」

 その革靴は俺を肩に担ぐと歩き出した。何故か笑っているような気がした。
 俺は何も解らないまま、何も知らぬまま、運ばれて行った。




 ……俺は、死んだのか?

 普段と違う環境。温かい。甘い匂いもする。
 ここが天国なのか。

「お目覚めか?」

 聞き覚えのある声に身体を起こすと、全身に鈍い痛みが走った。それが生きていると言う実感に繋がる。自分の望みとは違う状況なのに、落胆は不思議と無い。

「もう三日も寝てるからよ。死んだかと思ったぜ」

 見回すと、そこは外ではなかった。屋根があって、ベッドがあって。
 温かさがあって。

「……あんた、何でわざわざ俺を拾って来たんだ?」
「は?」
「やるだけなら、外でやりゃいいじゃんか」

 全身の鈍い痛み。派手にやりやがったな、と心の中で舌打ちする。
 殴られ、蹴られ。人は、俺が身寄りの無い子供だと解ると男も女も関係無かった。

「馬鹿言うな。興味ねぇよ、お前みてぇなガキになんか」

 そう言うと男はいなくなってしまった。その姿の消えた扉を暫く見つめた後、ゆっくりと目を閉じた。そこには見慣れた闇があった。この闇だけが自分の居場所なのだと信じていた。
 あの時、俺は本当に死にたかったのか。ただ、終わる事を望んでいたのか。それを止めさせられて、あの男が憎いだろうか。結局、答えなんて出ないのだけども。


 暫くすると男は食事を持って帰って来た。それを手渡し、ベッドの横の椅子に座った。

「お前、名前は?」
「ソラ……アテナ」

 スラムの子供に名前があるなんて期待してはいなかったのだろうが、ソラははっきりと答えた。
 セルドは小さく笑う。

「ソラ、アテナか。珍しい名だな。どこの生まれだ?」
「知らない。…物心ついた頃から、あそこにいた」
「ふうん。その姿も珍しいな。銀色の髪に蒼い瞳…。どこかで聞いたような」

 セルドは腕を組んで暫く黙って考えたが、結局思い出す事はなかった。

「まぁいい。……ところで、ソラ。お前はあの時死にたかったのか?」

 ソラは何の反応も示さない。
 死にたくて、早く終わる事を求めていたのに今はどうだろうか。死にたいのだろうか。

「どっちでも……いい」

 ソラがそう言うと、セルドは皮肉そうに小さく笑った。

「だろうな。今まで、そうとしか生きられなかったもんな」

 ソラのような子供がこの世界には何百、いや、何千人いるんだろう。
 人として見られず、道具として使われ、ゴミのように捨てられる。生きていく事を決定した事なんてない。親はただ生んだだけで、それ以上でも以下でもない。他人にも等しく助けてくれる人など皆無。愛された事も、温もりも知らない。本当にただ呼吸をしているだけに過ぎない。そうしていく先にあるものなんて何も無い。彼等には死さえも平等ではない。ソラもそうした一人。

「なあ、ソラ。この世界は冷たいんだよ。美しいのなんて見掛けだけだ。ある意味、お前達は偉そうな顔した学者なんかよりずっと博識で、綺麗事並べた哲学者よりもずっと真理に近い」

 セルドは言った。

「でもな、お前はまだ無知なんだ。まだ狭い世界の事しか知らない。だから、お前は生き続けろ。そして、多くの事を知れ」
「知った後で……どうするんだ?」
「そんなの知ったこっちゃねぇよ。お前の道はお前が決めろ」

 酷く口が悪く、身勝手なセルドの言葉はよく響いた。頭の中で何度も、何度も繰り返される。

「……俺に、決める権利なんてあんの?」
「ねぇ訳ねぇさ。お前の人生だ。流されるな、命令されるな、ただ前を見据えろ。それが強ぇヤツの生き方だ。今までお前が不幸でしかなかったのは、お前が自分で決めなかったからだ」
「不幸?」

 ソラは怪訝そうにセルドを見る。

「俺は不幸だったんだ」
「は?」

 見当違いに質問に今度はセルドがソラを見返す。だが、ソラは呆然と天井を見上げた。つられてセルドも天井を見てみるが、そこには灰色の冷たそうな色が広がっているだけ。

「俺は自分の事を不幸だなんて思った事は無いよ。それに比べられるだけの幸せなんて知らなかったから。世界が冷酷だなんて感じた事もない。それに見合うだけの温もりを知らないから。知らないってのは、幸せなんだろうね」

 ソラの言葉にセルドはぐっと息を呑んだ。それはきっとソラが何気無く、適当に流されるような気持ちで言ったのだろうが、それは死の宣告よりも残酷な言葉に思えた。
 ソラを力一杯抱きしめてやりたいとさえ思う。可哀相な子供だと同情するのもいい。でも、セルドにそれは出来ない。ソラが今までどんな生き方をして来たかなんて知らない。きっとあのスラムの子供達は皆そうなのだろうけども、それは何も知らないセルドが触れていいような浅い悲しみじゃない。

「……知るってのは、不幸な事でもある。だが、同時に幸せでもある。お前はこれから生きていく中で沢山の哀しみを知るだろう。だけど、喜びも知る。こんな世界だ。どっちが多いかなんて言うまでもねぇけどな」

 セルドは続けた。

「哀しみや不幸なんて数えればきりがねぇよ。だから、お前はそういったもんには目をくれるな。ただ、出会った喜びや温もりを大切にしろ」

 初めてだった。
 人の優しさに触れたのは。乱暴な口調だけど、自分の為に道を示してくれる。正しさを教えてくれる。それは決して紛い物なんかじゃなくって。

 セルドは、優しい人間なんだと気づいた。
 口調は乱暴で、目付きは犯罪者並に悪くて、下手に強いものだから皆から恐れられているけれど。彼は誰よりも優しい人間なんだと知った。




 それから数ヶ月、セルドと暮らした。その間路上で眠る事もなく、空腹でゴミを漁る事もなく。世界の冷たさに直面する事も、死を目の前にする事もなかった。
 セルドは俺に多くの事を教えてくれたし、食事も寝る場所も、居場所もくれた。剣も教えてくれた。
 それは、多くの人から見れば普通の事なんだろうけども。俺にとっては幸せだった。酷く小さな幸せだった。

 だけど、それも長くは続かなかった。


 街を大きな盗賊団が襲った。元々そんなに大きな街でもなかったから、防衛手段も何も無くて人々は殺されていくだけだった。街には火がつき、家も人も全てを焼き尽くした。
 その盗賊の多さに仕方なく、セルドと俺は森を抜けてそこを離れようとした。けれど、見つかってしまった。そこでセルドは剣を抜いた。
 セルドは圧倒的な強さで盗賊達を切り倒して行く。一人、二人、三人、四人…。辺りには死体の山が出来ていった。

「……た、助けてくれぇ……!」

 足元で蹲る一人の盗賊が言った。まだ若い男だった。
 セルドは一撃で仕留められなかった事に小さく舌打ちをしながら、剣を持ち上げる。その剣を振り下ろそうとした瞬間。

「セルド!」

 俺は叫んだ。

「殺すのかよ……?無抵抗なんだぞ!?」
「甘ったれんな。殺すか、殺されるかの世界なんだよ。」
「でも……。それは必ず巡り来る、セルド自身に……!」

 セルドは呆れたように剣を下ろした。辺りは火に包まれていた。街の方角からは相変わらず悲鳴が聞こえているし、追って来る盗賊の声や足音もした。

 俺は、気付かなかったんだ。

「……ッ!」

 セルドに突き刺さる剣。炎に浮かび上がる残酷な影。時間がやけにゆっくりと流れているように錯覚する。
 血を口から吐いて、セルドは膝を付いた。

「セルド!!」

 命を助けてやった盗賊は、笑っていた。

「お前!!」

 俺は剣を取った。まだ未熟で、躊躇のある剣。

「やめろ……ソラ、やめろ……ッ!」

 セルドの声は届かなかった。
 目の前が怒りで真っ赤に染まって、思考が止まった。頭の中には、憎しみしかなかった。

「殺すな……ッ!」



 俺は、その盗賊の息の根を止めた。呆気なかった。断末魔さえも風の音のように自然。人の命なんて、こんなちっぽけなものなのかと思った。
 ただ、息だけが妙に切れていて。



「……ソラ、剣をしまえ……!憎しみで、剣を握るんじゃねぇ……!」

 セルドの声が遠い。握り締めていた剣が血に塗れているのを何の感覚も無く見つめた。少しずつではあったが、頭から血が下がって行くのが解る。だが、追って来る盗賊達が視界に入った瞬間、全てが紅く染まった。



 その戦い方は、剣を教えたセルドさえも恐怖した。鬼のような、悪魔のような。
 銀の髪と蒼い瞳を持った、まるで神話の世界のような容姿を持つ小さな少年の戦い方ではなかった。

 三人を一撃で切り捨てる、およそ子供とは思えないソラを見てセルドは思う。



――ソラ=アテナ。
 神の名を持つ少年。それは、天界より堕とされ悪魔となった神の成れ果てではないのか。


 でも、それは神と呼ぶには余りに脆く。悪魔と呼ぶには余りに優しく。
 人と呼ぶには余りに強過ぎた。



 斬られ悲鳴を上げ、泣き叫ぶ盗賊よりもソラは遥かに哀しい顔をしていた。
 苦しくて、辛い。痛くて、恐い。

 森の火が消え、盗賊が皆死に絶えたところでようやくソラは我に返った。
 血塗れになった体。剣は赤く染まっていた。
 そして、セルドに近付いた時には、彼はもう息絶えていた。

「……嘘だよな、セルド? ……嘘って言えよ!!」

 セルドは動かなかった。でも、またひょっこり動き出す気がして。むくりと起き上がって、何でも無い顔で笑って。そう願い何度も何度も揺り動かすが、セルドは動く事は無かった。
 一生、いや、永遠にセルドの声を聞く事は無くなってしまったのだ。

 沢山の恩を受けながら、セルドの小さな頼みさえも聞く事が出来なかった。
 最後まで迷惑を掛けてしまった。セルドを殺したのは、盗賊じゃない。

(俺だ)

 俺が、あの時偽善者ぶってセルドを止めたりしなければ彼は死ななかった。
 知ったかぶりなんてしなければ。セルドは今も生きてここにいた!!

「うわあぁあぁぁああッ!!」



 涙が、止まらなかった。
 きっと、ソラが初めて殺してしまった人間は他ならぬセルドだった。


 それが、ソラにとって最も古い忌まわしい記憶だった。