20、犠牲と救い


 遠くで始まった戦闘。人々の祈りをソラは呆然と聞いている。
 死なないで、無事でいて、負けないで。押しつけがましい祈りが耳障りで、神父だからとリーフの周りに集まる人込みを避けるように其処を離れた。
 足が何処へ行こうとしているのか、ソラには分からない。頭の中で聞こえる声が一体誰のものなのか分からない。遠くで聞こえる怒号が、悲鳴が足を速くさせる。
 急げ急げ急げ。早くしないと、また、失う。早く行け。
 頭の中ではそう言っている声。でも、何処に行けばいいのか分からない。足は戦場から逃げるように進み、本部とを仕切る垣に辿り着くと方向を変える。何処に行けばいい、どうすればいい。随分前に自分の意思は無くしてしまったから、どうすればいいのか分からない。
 遠くの戦塵、血の臭い、剣のぶつかり合う高音。体中の血がざわめく。泣き出したくなるような激情が体中を走り回っている。二つの感情が拮抗して、それにすら酷い嫌悪を覚えた。

「嫌だ……」

 ソラは立ち止まり、空を仰ぐ。戦塵のせいで曇り、太陽は何処にあるのか分からない。
 どうすればいい。

 何も失いたくない。守りたい。でも、傍にいると傷付ける。離れていたら守れない。

「嫌だ……っ」

 両手を強く握り締める。暫くそうしていると、誰かがその手を包んだ。小さいが、温かい掌だ。
 目を落とすと、サヤがいた。とっさにソラは手を振り払いそうになり、堪える。結果、腕は怯えたように震えた。

「ソラ、大丈夫?」

 ソラは頷く。そこでサヤの手が離れたので、少しだけ落ち着いた。

「どうしたの?」
「何も」

 守るべき存在が分からない。サヤさえ守っていればいいのだろうか。呼吸をする事と生きる事は違う。周りで何人死んでも生きてさえいればいいと言える程にサヤは冷たくも無ければ強くも無い。
 でも、近付けば傷付けてしまう。

 近付けば、傷付けてしまう。でも、本当は……守りたかった。その為の力だと思いたかった。失うのはもう、嫌だ。

「俺には、何処までの権利がありますか?」

 サヤは、その質問の意味が分からない。それでも、ソラは同じ質問を真剣に繰り返す。
 『何処までの権利』なんて、そんな質問をされて世界の誰がどう答えればいいのか。それなのに、ソラは泣きそうな目でサヤに訴える。だから、何となく分かった。
 ソラはやはり、自分と言うものを何処かに落として来てしまった人間だ。どうやっても自分勝手には生きられない。欠片しか残っていない心で自分の意思を見つけても、それを実行する事は出来ない。
 サヤは柔らかく微笑んだ。

「ソラ、何をしたいの?」

 サヤがそう訊いたのは、ここで『何でも』と言うような事を答えればソラは困ってしまうだろうと思ったからだ。
 やっぱり、ソラは人が思うよりも何処か不完全な子供だ。成長する為に必要な思春期や反抗期のような段階を一気に越えて大人にならざるを得なかったから、色々なものが欠落している。それなのに、感受性は人一倍だから驚くほど簡単に傷付くし壊れてしまう。でも、少なくとも表面上はもう子供じゃない。
 大人と子供の間を歩く彼は、いつも死の匂いを連れている。狂気の渦に落ちそうになりながらも、危ういバランスで今も生きている。

 ソラは少し黙り、剣を握った。サヤも何となくそうだろうと思っていたし、それは間違っている事ではない。ソラは狂気の中に落ちようとしている訳じゃない。守りたいと、純粋にそう思っている。
 そんな簡単な感情さえ失いかけているのは、自分のせいだとサヤは思った。もちろん、そんな事は無い。ソラもそれがサヤのせいではなく、自分の血塗れの生い立ちにあると分かっている。
 擦れ違っている事に、お互い気付かない。それぞれ手一杯だったからだ。サヤは少し哀しそうな顔をしたけれど、すぐにまた微笑んだ。

「一つ、約束して」
「はい」
「絶対に、死なないで」
「――はい」

 今度は、ソラが微笑んだ。久々に見る明るい表情に、サヤはそれまで胸の奥で突っ掛かっていたものが外れるような気がした。
 ソラはすぐに戦塵の舞う方向へと一目散に走り出した。



 戦場は、苛烈を極めている。
 兵力には大きな差があった。革命軍側の兵の多くは各地に分かれ、来るべき総攻撃の日の為に着々と準備をし、帝国兵の乱暴に戦っている。本部は支部に比べれば人は多いものの、帝国と比べると規模は各段に違う。出来てからの時間が違うのだから当然だろう。
 その中でもイオは懸命に戦っている。元々剣の才能はあったし、人一倍努力し戦って来た。帝国の騎士と言えど、イオを容易く斬る事は出来ないだろう。
 だが、兵力に差が有り過ぎる。革命軍の兵も日々鍛錬を積んでいるとは言え、帝国とは違って元々が民間人だ。自然とイオやソウジュなどが周りを庇いながら戦うようになるのだけども、今回は騎士が多く参入しているから自分だけで手一杯になる。目の端で倒れて行く仲間が見え、どうにもならない戦局に泣きたくなった。
 力が欲しいと、どれだけ望んだのか分からない。仲間を守れるくらいに強くなりたいと、どれだけ剣を振って来ただろう。恐らくこの先、どんなに努力したところでイオはソラには適わない。だから、世界最強と呼ばれる程の実力を持ちながらも戦おうとしなかった裏切り者と呼ばれ信じられて来た頃のソラを心の何処かで憎んですらいた。
 だが、会ってみれば誤りだらけの情報だった。ソラは、鬼や悪魔と呼ばれるような冷たい人間では無い。
 だから、守りたいと思ったのだ。傷付いている人間がいたなら、迷わず手を差し伸べたい。

 防戦一方で押されている革命軍。だが、ここで押し切られれば背後にある本部で生活している人は皆殺されるだろう。ジリジリと焦がすような焦りから剣を持つ手が上手く動かなくなる。
 今も戦場の中では仲間が傷付き、死んでいる。近くにいても守れない。逃げたいと思う心を、あの言葉が繋ぎ止める。

――……戦え

 ここで負ける訳には行かない。イオは競り合っていた剣を弾き飛ばし、その勢いを殺さないままカマイタチのように斬り付けた。
 戦うしかない。剣でしか主張出来ない世界だから、戦わなければならない。

――逃げるな、戦え。お前はお前のやって来た事を真っ直ぐ見て目を背けるな。正解も不正解も分からなくていい。結果を知るのは未来、お前が歴史になる時だ

 迷えば死ぬ。死ねば救えない。
 沢山の悲鳴を聞きながら、怒号を聞きながら、それでも戦わなければならない。ここで倒れたら、全てが終わってしまう。

――お前が歩けば、道は出来る

 声が蘇る。その時丁度、戦塵と雲が切れて太陽が僅かに顔を出した。戦場を照らす金の太陽が、血に塗れた砂漠を明るくする。砂の上に突っ伏す仲間の死体。ついさっき、死ぬなと言った仲間が死んでいる。
 太陽が再び隠れる、その刹那。イオは影を感じた。太陽光を遮る影、上から振り下ろされるもの。ふっ、と顔を上げると銀色の剣が血を纏いながら鈍い光を放っている。

――振り返れ

 声がする。
 上から振り下ろされる剣を受けようとして、背後に気配を感じた。そっちにも意識を向けようとして、上に構えた剣から衝撃が走る。掌に疼くような痺れが広がった。
 背後からの殺気、気配。振り向こうとして、目の前に剣の切っ先が迫っているのを見た。
 しまった、と思う間も無い。瞬きすら出来ない。首が跳ぶ、全てが終わる。そんな事を一瞬にも満たない僅かな時間に考え、最後に声が過った。

――……独りじゃない



 高音が戦塵を裂くように響き渡った。それまで聞かなかった鋭く澄んだ音、剣とはこんな音を鳴らす事が出来るのかと見当違いのところで驚いていた。
 黄色い砂の舞う中で、闇から抜け出したような黒刀がスッと伸びている。数瞬前まで迫っていた剣は割られた訳でも折られた訳でも無く真っ二つに斬られていた。
 銀髪が風に舞っている。隻眼の蒼い瞳は真っ直ぐ敵を見据え、捉えて離さない。誰かが引き攣った声で叫んだ。


「ソラ=アテナだ――ッ」


 ソラはその声を掻き消すように横凪ぎに剣を払った。一瞬にして胴から上下に分かれた死体が三体も出現する。イオは思い掛けない出現に、喉のから空気の抜けるような音を一つ発しただけだった。
 否、心の何処かで来るんじゃないかと思っていた。それを期待した反面で、来ないで済めばいいと願っていた。

「何で来やがった」

 イオは素早く背中を向け、ソラも同じく背中を向けた。背中合わせと言うには聊か距離がある。

「俺の敵は帝国だからだ」
「ああ、俺もさ」

 イオが騎士と競り合っている間に、ソラは自分に向かって来る騎士の首を四つ飛ばしている。
 風のように縦横無尽に駆け抜けるその戦いぶりはやはり、世界最強の称号を持つに相応しい。まるで、踊るように斬る。まるでソラにしか立てない無色の床があるようにソラは空中さえも駆け抜けて見えた。
 少し離れた場所で、同じく一人の兵士と剣の根元でギリギリと競り合っているシロヤがいる。その背後から騎士が剣を振り下ろし、間一髪でシロヤは避けたが傷が深い。ボタボタと肩口から流れ出す血液、傷を抑えながらも戦おうと剣を構えるがただの強がりでしかない。
 終わりだ、と両側から振り下ろされた剣にシロヤは全てを諦めた。――が、痛みは無い。死んだのかと思い、目を開けてみると剣を振り下ろした筈の男が二人、胴から払われた見事な切り口で倒れている。そのシロヤは目の端で駆け抜けるソラの姿を捉えた。その銀髪は思わぬ場所から出現するのだ。
 妙な戦い方だった。攻撃的な動きかと思えば、革命軍を庇うように駆け回る。慣れない隻眼で疲労は酷い筈なのに疲れを見せない。転がるように剣を避け、踊るように振り下ろす。
 見事ではあったが、少し、無謀なようにも思えた。死に急ぐような。

 それまで防戦一方だった戦局が、たった一人の少年の参加で覆る。そんな事が現実に起こり得るのか、と誰もが思ったが、それは目の前で起こった。
 最も安全な場所で指揮を取っていた筈の馬上の騎士の頭が、突然消えた。首をなくした体はグラリと傾いて馬から落ちる。始めは誰も、何が起こったのか理解出来なかった。其処にソラが立っていた事が分かると、帝国兵は一気に敗走を始めた。大和魂では無いが、最後の一兵まで死力を尽くして戦う訳は無い。負けを悟ったなら逃げるのが賢いやり方だ。

 戦いはあっという間に終わった。と言っても、それはソラが来てからだ。
 戦塵が晴れて行く中で革命軍の兵は、肩で息をする隻眼の少年を遠巻きに見ている。確かに、ソラのお陰で戦いには勝った。でも、その内容は凄まじく、同じ人間とは思えない。間違い無く味方であったのに、恐怖を覚えさせる。
 ソウジュは怪我をしているシロヤに肩を貸しながら全体を見ていた。誰も近付けない。

「ソラ」

 満身創痍のイオが、そっと近付く。ソラは何の反応も見せない。
 この戦場で手傷一つ負っていないのは、ソラだけだ。最も激しく戦い、最も多く殺した筈の少年は返り血一つ浴びずに無傷。――人を恐怖に陥れるには十分だろう。
 だから、誰も近付けなかった。なのに、イオは平然と近付いてその肩を掴んだ。

「来てくれて、有難う」

 本当は来なければいいと思っていたが、素直に感謝を口にする。だが、ソラは戦いの終わった戦場を呆然と見渡していた。
 死体が彼方此方に転がり、血が砂に染み込んでいる。もう少し早く来れば、救えた命ではなかったのか。
 そう考えると、どの死体もそう言っている気がした。

「……ふっ」

 ソラは、顔を伏せた。肩が震えている。泣いているのかとイオは覗き込もうとするが、ソラは泣いてなどいない。笑っている。喉を鳴らし、自嘲するように。

「どうした?」

 イオの心配する声も無視して、覚束ない足取りで本部への道を辿って行く。誰もが、気が触れたと思っただろう。イオは呆然としていたが、ソウジュだけが睨むように小さくなる背中を見ている。
 ソラの乾いた笑いが響いていた。



 イオ達が戦死した仲間を弔って本部に戻った頃、ソラは既に体を洗い着替えていた。元々、神話から抜け出したような風貌をしているし、顔もそれなりに端整であるから格好を整えれば別人に見える。瀟洒な服装で包帯を巻き直しているが、隻眼はやはり変わらない。
 血の臭いを連れているイオ達は帰還と勝利を喜びながら、戦死した仲間に涙を落とした。ソラは、変わらない。もう、笑ってもいない。あの戦場で、何か大切なものを落として来てしまったんじゃないかとイオは思った。

 ソラは、あの大量の死(と言っても、ソラが参戦する前の状態から考えると遥かに少ない)を見て悟った事がある。人は死ぬと言う事だ。
 誰がどんなに頑張っても、必死になっても人は死ぬ。それでしか変えられない世界があり、それでは動かせない感情がある。
 また、自分が参戦してもしなくても人は死んだ。量など関係無いと言うのなら、ソラが戦って多くを殺した事は全くの無意味と言う事だ。ソラは厭世家の節があるから、この戦はそれを加速させた。
 世界に対する諦観、絶望。胸の内に広がる黒々とした獰猛な感情を押え切れなくなる日がいつか来る。その時はどうなるのか。全てを滅ぼしてしまうのだろうか。

 ならせめて、自分が全てを滅ぼしてしまう前に、誰かが滅ぼしてくれればいい。幕を引くように、喉に鉤爪を掛けて掻き切ってくれればいい。それなら、もう十分に狂ってしまえる。



 夜には勝利の祝いと死者の追悼を兼ねて宴会が行われた。大量の星の瞬く夜空、淡い色をした月が丸よりも少し歪んで存在している。
 大きな焚き火を中心に唄い、踊る。其処には幹部の人間はもちろん、エルスなど参戦していなかった人も多く集まって笑い合っている。サヤもあっという間に溶け込んでいるのに、ソラだけは光の届かないようなテントの影で剣の手入れをしていた。イオがそれを見つけたのは全く偶然だった。

「ソラ、呑まないのか?」

 イオは持っていた酒を見せるが、ソラは無言で首を振った。
 どうにも様子がおかしい事は分かっている。ゆっくりと隣りに腰を下ろした。

「……星が綺麗だなァ」

 ソラが反応しないので、イオの声は独り言として消えた。ソラは手入れをしている手を止めた。

「何で、戦う?」
「えっ」

 思わず、イオは声を上げた。質問がいつも唐突過ぎる。それにこの質問は既に受け、答えた事があった筈だった。だが、よくよく聞けばその意味は違っていた。

「どうして、戦おうと思えるんだ」
「……平和な世界の為に」

 ソラはイオを睨み付けたが、丁度夜空を見上げていたので気付かなかった。
 イオはレナードとリューヒィと似ている。丁度、二人を足してニで割ったような人間だ。

「俺には、平和な世界なんて訪れるとは思えないな」
「――どうして?」
「あの戦場を見て、どうしてそう思える? 大勢殺した。大勢殺された。その犠牲の上に出来る世界の何処が平和だと言うんだ……」

 イオは黙った。言葉が見つけられなかった訳ではなく、ソラが言った事が少し意外だったからだ。もっと冷めたリアリストだと思っていたが、実はそうでもなかったらしい。

「戦争に犠牲は付き物だよ」

 やっぱり、とソラは思う。イオはレナードの考え方に似ている。生真面目で何処か歪んでいるのだ。
 どうしてそんなに軽々しく『犠牲』なんて言葉を使えるのか分からない。理解出来ないし、絶対にしたくない。同じ世界には嵌りたくないと心の底から思う。

「犠牲なんて考え方する人間に、平和なんて掴める訳が無い」

 その言葉にイオは口を真っ直ぐ結んだ。
 嘗て、ソラは同じ事をレナードに言った。あの時彼の言う犠牲と言うのは、ソラとサヤだった。

「……でもな、犠牲が無ければ救いは無いんだよ」
「それでも」

 ソラの蒼い目が闇に光る。

「お前は、その考え方をしちゃならねェんじゃないか?」
「――俺は?」

 ソラは頷いた。
 人が死んだ時に、『犠牲だから仕方が無い』なんて考え方をして欲しくない。他の誰がそう言っても、リーダーであるイオは一人でも涙を流して哀しんで欲しい。そういう人間に人は従うのだから。

「犠牲なら俺がなってやるから、お前は仲間が死んだ時は哀しめる人間でいろ」

 ソラは剣を鞘に収め、立ち上がった。そのまま移動しようとして目の前に立つ影に気付く。痛々しく包帯を巻かれてシロヤが立っていた。

「探したよ、ソラ」

 穏やかにシロヤは言う。

「助けてくれてありがとう。俺はお前を少し誤解してたな」

 シロヤの背はソラより高い。その身長差でソラの頭をくしゃくしゃに撫でた。

「ありがとう」
「――」

 ソラは何も言えなかった。真っ直ぐ正面から与えられる罵声には慣れて来たが、感謝に対してどんな反応を取っていいか分からない。困ったようにたじろぎイオの方を向く蒼い瞳。それが少し可笑しくて、イオは笑った。