21、死を呼ぶ声
あの戦いが終わってから数日と経過していない。だが、それは合図のように戦乱を各地に広げ、彼方此方で血生臭い戦いが始まっていた。帝国軍と革命軍の戦争は、この時始まったとしていいだろう。
砂漠に本部を構えていた革命軍は、負傷者の多さから移動を余儀なくされた。近くの町に動いて怪我の回復を図り、武器を調達しなければならない。帝国軍と違って歓迎されているのは救いに他ならない。
馬車は大きなテントの骨組や人を何騎にも分かれて運ぶ。その殿とも言える最後尾の馬車にソラはいた。怪我の治りが遅く、目は変わらず隻眼。致命傷である筈の傷は幾分回復しているが、戦士として働くには十分ではない。
サヤを乗せた馬車は安全の為にイオなどの幹部と共に先頭集団に混ぜてもらった。それは多少なりとも彼等を信用していると言う事だ。
遠くの地平線に姿を隠そうとする太陽の断末魔を眺め、ソラは手入れをしていた剣を置いた。砂漠の夜と昼の温度差は大きく、昼の灼熱が去れば訪れるのは極寒。風は冷たくなり夜の匂いを乗せていた。
橙を帯びた砂の上を黒々とした蠍が這いずっている。砂漠は危険が多い。ソラはこの土地に詳しくは無かったが、既に慣れた周囲への過度な警戒から毒虫と呼ばれる類の生物からの被害は受けていない。だからか、その蠍や蛇や蜘蛛と言う生物に僅かではあるが愛着を覚える。彼等も好きで毒を持った訳ではない。必要であったからだ。
ソラは、自分と似ていると思っている。砂の影に消えた蠍を眺め、また手元に意識を戻す。
太陽が沈み、風が一層冷たくなった。馬車に揺られ、配られた毛布に身を固めながら遥か遠くを見つめている。太陽は既に消えた西の方角を見ていたのは、本能かも知れない。
其処に、遠過ぎて常人の肉眼では見えないような砂の動きが見られた。ソラは無意識に剣を掴んでいる。静かな夜を行く革命軍を追うように帝国軍が現れたのだ。ソラは疲弊した周囲の人間を見回し、一人静かに馬車を下りた。
背後で小さくなって行く音を聞きつつ、正面から来る敵を待つ。決して多くは無いが、少なくは無い。尖兵かも知れないとぼんやり頭の隅で思いながら柄を握る。剣が鞘から放たれる音が静かな夜に響いた。否、まだ夜と呼ぶには早い。空は黒ではなく濃紺で、西の空に淡い色を残している。ソラの持つ刀身だけが、闇夜のように黒い。
革命軍がソラから見えなくなった頃、近付く帝国軍は砂漠に一人立っている少年に気付いた。黒く染まって行く砂の中、冴えるように月色の銀髪が輝いている。髪が風に舞い起これば隻眼の蒼い瞳が煌煌としているのが見えた。闇の刀身は既に夜の中に溶けようとしている。帝国軍を先頭で率いていた兵士がそのある種幻想的な風景を見て叫んだ。
「ソ――」
名を叫ぼうとした声は、首を失い二酸化炭素へと変えられた。馬上の兵士の異常に他の兵士がざわめく。相手を怯えさせる筈だった帝国軍の追っ手は、その逆の道に追い遣られた。
太陽が沈み、月が昇っている。
首を失った体が砂漠へ沈むように倒れ、ソラはその馬の背に器用に立っている。月を背後にした姿には強烈な威圧感があった。光を背にすれば影は前に出来る。その影の中で、一つだけの蒼い目が光っているのだ。
彼方此方で鞘走りの音が聞こえた。その中でソラは圧倒的不利にも関わらず冷静に相手の数を数えている。およそ五十強――。それを相手にして笑ったのだから、既に気は狂っていたのかも知れない。
イオは、何処か病んでいる。その病に何か近しいものをソラは感じていた。憎悪や憤怒や悲愴を通り過ぎた感情は重く固まり心の中で多くを蝕みながら巣食っている。二人の違いは、その先だ。イオはまだ、其処で踏ん張っている。越えてはならない一線だと分かっているからだろう。だけど、ソラは既に越えていた。
元々危ういバランスの中で生きていて、狂人や死と言う世界に片足を突っ込みながらも倒れずにいた人間だが、沢山ものを抱えれば傾くのは当然の事だ。だから、一つの線を越えてしまった。
越えてしまった線は死ではない。気狂いと言えば僅かに語弊を生むかも知れない。だが、ソラはその種の線を簡単に越えてしまった。
頭の中で声がする。
戦え、殺せと。それに首を振って拒む自分がいる。泣き叫んでいる幼い自分の姿だった。
ソラは月光の元に剣を振り翳す。飛び道具と言えば弓矢の時代だ。多くは剣。だが、闇に沈めばその刀身は見えず間合いは計れない。
跳ぶように駆け抜けるソラに向けた刃が突然斬られる。姿さえ捉えられない者は微かな風を感じただけで、カマイタチのようでしかない。ソラは銀髪を返り血に染め、また、斬る。血で染まれば染まる程、その姿は闇に溶けて行く。
何処から来るか分からない斬撃に削がれるように減って行く仲間。いかに鍛えられた帝国兵と言えど、恐怖を隠す事は出来なかった。戦っている相手は本当に人間なのか。巷で言われるように鬼や悪魔の類ではないのか。
氷のような冷え切った瞳は、宝石のように澄んでいる訳ではない。感情を映さない蒼のくすんだ色は濁った溝のようでもあった。
恐怖と戦いながらソラに剣を向ける兵士をまるで相手にしないで切り裂いて行く。誰かが叫んだ。
鬼だと。
悪魔だと。
それでも、言葉はソラには響かない。元より、自分が聖人君子では無いと分かっている。鬼や悪魔と罵られ、忌み嫌われる存在だと知っている。人の傍に寄れば傷付けてしまう毒虫のような人間なのだと悟っている。
戦う事でしか自分を証明出来ない。其処にしか居場所を見つけられない。殺す事でしか自分を感じられない。
頭の中で聞こえる声はもう聞かない。興味も無い。ただ、その奥で睨むように泣き叫ぶ幼い自分を見ている沢山の目があった。今まで殺した人間がずっと見ている。
泣いて縋り付いて悲鳴を上げるいつかの自分は、今の歳を取った自分に助けを求めていた。でも、その向こうで睨んでいる目に怯えて手を伸ばす事すら出来ない。次第に多くの感覚が麻痺し、自分自身さえ分からなくなる。泣声が分からない。悲鳴が分からない。人と物の違いが分からない。
ソラは剣を振り下ろす。血が噴水のように吹き上げた。
目的地の町へと無事到着した革命軍は住民に歓迎されながらも駐屯の仕度を夜の内に整え始める。イオはそれを細かく、的確に指示しながら手伝う。闇の広がった夜はお互いの顔がよく見えない。
サヤはその闇夜の中で目立つ筈の姿が存在しない事に気付いた。まさか、手伝いをする訳は無いから隠れてしまったのかと暢気な事を考えていたが、それでも自分の傍に出現しない事を不審に感じた。まるで、忽然と消えてしまった少年の存在感の薄さに寒いものを覚える。突然死んだとしても、誰も気付かないのではないか。そんな物騒な考えを首を振って消し去る。
とにかく、ソラは何処にもいなかった。乗っていた筈の最後尾の馬車には毛布だけが残され、温もりなどは当然無い。サワサワと流れる冷えた夜風が攫って行ってしまったようだった。
サヤの心に不安が波紋のように広がる。その頃丁度、大まかな仕事を終えて休憩しようとしているイオがその様子に気付いた。呆然とサヤが見つめる先には空の馬車がある。
「ソラはどうした?」
「いない」
イオはその『いない』の意味を深く考えなかった。
「そうか、便所かな」
「ずっと、いない」
「ずっと?」
其処で漸く、イオはサヤの様子に気付いた。翡翠の瞳が不安そうに揺れながら、それでも月光に輝いている。イオは眉を寄せた。
「ここに乗ってただろ?」
「でも、いなかった」
何処かで落ちてしまったのかと思ったが、ソラはそんなに間抜けじゃない。それなら下りたと考えるのが通常だが、理由が分からない。ここにサヤがいるのだから去った筈は無いが。
「……探して来る」
イオは言いようの無い不安を感じながら一頭の早馬に跨った。言伝をサヤに頼み、走り出す。背後に跳ねた砂の中に蹄の音は吸収された。
夜風を頬に感じ、速度を増す程に触れる空気は冷えて体温を奪い去って行く。月の輝きも星の瞬きも全てが寒く感じられた。元来た道を辿っても広大な砂漠で人一人探すのは無謀だし、最悪イオも遭難する恐れがある。その中で冷たく輝く星を頼りに馬は駆ける。吐いた息は白かった。
どのくらい走ったのか、指先が寒さから感覚を失いつつある。諦めの声が頭の中でちらつくが、イオはそれでも手綱を離さない。元来た道を半分程戻り、元の駐屯地に近くなった頃に鉄のような血液の臭いが夜風に乗って鼻を突いた。
血の臭いに自然と体が強張り、片手が剣を掴む。嫌な予感は鼓動を大きくした。
それにしても多過ぎる血液の量。まさか一人分ではないだろう。イオが覚悟したところで、その地獄のような景色は見えた。
ソラは帝国兵を殲滅まで追い込んでいる。目の前の兵士を袈裟懸けに斬り殺すと、残っている命は自分を入れて三つになっていた。あと二人、真っ赤になった影がゆらりと動き出す。
残ったのは兵士が一人と、騎士が一人。逃げ出そうと背中を向けた騎士の鉄の鎧越しに後ろから胴を払うように斬った。鮮血が舞い、霧雨のように腰を抜かした兵士に降る。ガタガタと震える兵士は若かった。ソラと同年代か、それよりも下なのか。
透き通るような青い瞳をしていた。兜の隙間から覗く金糸の髪は隊長の血が付着し、握り締める剣は根元から見事に斬られている。
「助けてくれ……」
若い声だ。涙を落としながら命乞いする姿をソラは微動だにせず見つめている。
その姿は、頭の中で繰り広げられるものに重なる。
泣き叫び、助けを求める幼い自分。それをただ見下ろす今の自分。遠くから死者が憎しみに満ちた目で睨んでいる。
数秒としない間にソラは現実世界に戻った。
ソラも泣いて助けを叫んだ事はある。セルドに拾われる前のスラムで生きていた頃だ。多くの人が毎日死んで行く世界で、自分の番が何時来るかも分からないのに恐怖を覚える事も出来なかった時代。
どんなに泣き叫んでも、助けてと懇願しても誰も助けてはくれなかった。冷たい目を向けて通り過ぎて行く。あの頃の自分はどんな目をしていただろうか。無知故に澄んでいた? それとも、既に濁っていた?
ソラはたった一人、まだ生きている兵士に自分を重ね見ながら剣を振り上げた。
子供が散らかしたような、玩具箱を引っ繰り返したような世界。でも、そう表現するには禍禍し過ぎる。世界は闇の中でも赤く染まっているのが分かる。人間の部分が切り離され、散らばっている。武器や木片、馬と結合して全く違う物体になってしまっているんじゃないかと思った。全てがバラバラだ。
イオは、少し離れたところでそれを見た。ソラの黒刀が振り上げられ、心臓が凍り付くと思った。
「止めろ、ソラ――ッ!」
叫んでいた。馬が地面を蹴り、必死にその振り下ろされる剣を止めようとした。
届かない、届かない。声が、手が届かない。それでも馬は全身の筋肉を跳ねるように動かして砂を蹴り、イオは必死に手を伸ばした。
泣いて命乞いする若い兵士と剣を振り上げたソラ。その光景に言いようの無い寒気を覚えた。胸の中に広がっているのは帝国への憎しみだ。イオがソラの立場にいたって間違い無くその兵士は殺しただろう。だって、生かしておく意味が無い。それでも、ソラは殺しちゃいけない。人を殺す事に対して正義を唱えるには余りにも汚れてしまった両手だけども、その剣を振り下ろしちゃいけない事は分かる。
だって、その光景は鏡なのだ。ソラが今、剣を振り上げているのは一人の帝国の若い兵士じゃなくて、泣き叫んでいる自分自身なのだから。
助けて欲しかったのは、本当にイオだけだった?
今ならあの時のソラに訊けるのに。流れた時間は帰って来ないし、それを今どうのこうのと言っている余裕は無い。ただ、やはりソラは助けて欲しかった筈だ。それはイオとは全く違う場所と意味だろうけども。
悲鳴のような声を上げ、イオは剣を抜き放っていた。ソラの剣を受け止めようと思っていた。兵士を助けようとは思わない。それどころか、ソラの剣を阻んで自分の手で殺そうとさえ考えた。どちらにしても殺すんじゃないか、と問われればその通りだけども、問題は誰がやったかだ。
馬が駆ける。砂が舞い、あと僅かな距離となったところで馬は砂に埋もれた死体に躓いた。投げ出されたがイオはそのまま転がるように、黒刀と兵士の間に剣を割り込ませようとした。
割り込んだと思った。間に合ったと思った。でも、全ては偽物の風景だ。ソラの剣は一太刀で見事な程綺麗にその首を飛ばしてしまった。迸る鮮血を浴びながら、ソラは口元に笑みさえ浮かべて立っている。
首を無くした体が後ろに仰け反るように傾き、倒れる。ばさり、と砂が舞った。飛んで行った首も砂の中に沈んだ。
届かなかった。
ソラは笑っていた。隻眼の蒼い瞳は何も映していない。少なくともその剣が振り下ろされる前までは何か光が灯っていた。それが鬼火のような禍禍しいものでも、存在している何かがあったのに。
硝子玉のような瞳は、もう何も映さない。
生きているのは、ソラとイオと蹲る馬が二頭。用意周到に一頭だけソラは残しておいたのだろうか。それにすら、怒りを感じた。全く身勝手な怒りだとは思ったが、イオは抑える事が出来なかった。
「……イオ、こんなところで何してんだ」
驚いたように目は丸くなっている。あの叫びはソラに全く届いていなかったと言うのか。
平然とした口調だったのに、その瞳にはもう何も映っていないような気がした。ソラがあの剣を振り下ろして殺したのは、一体誰だったのだ。
困ったように笑う仕草など、初めて見た。サヤには見せていたのかも知れないが、少なくとも其処には異質さがあった。何かを繕うような緩慢な動作で剣の血を振り切り、鞘に収める。それでも、未だに殺気が漏れ出している事に本人は気付いているのか。
先日見せた困った顔は、煌煌と揺れるあの蒼い目は何処に行った。
「どうして……!」
「何が?」
イオがソラを責められる訳も無い。ソラがやった事は褒められるべき事だ。無謀だと責められたとしても、イオが言おうとしているのは全く違うものだった。
平然と苦笑するソラの背後に無数の白い手が見えた。手招きして、呼んでいる。其処で初めて、呼ばれているのは自分じゃなかったのだと理解した。
「帰ろうぜ」
ソラは並んでいる二頭の内の一頭の馬の首を撫でる。ブルブルと鳴く声が怯えているのだと、ソラは気付いていないのだろうか。
イオは行き場の無い怒りを抱えながら、体と切り離された首を見つめた。青い瞳には涙が光っている。助けてくれと泣き叫んで――死んだ。殺された。
数刻、他の事に何の神経も行かなくなる程集中してソラはあの少年を向き合っていた。そして、殺す道を当然のように選んだ。そうして、何時か自分も当たり前のように殺すのだろうか。
ソラの足元に、一匹の蠍がいた。毒を持つ尾を持ち上げて血に染まった靴に狙いを定めている。生地は薄いから、間違い無く貫通して皮膚に刺さるだろう。それに気付いてソラは何の感情を持たずに踏み潰した。蠍は靴の裏で砕かれ、バラバラになっている。
イオにもソラと同じように頭の中で響き続ける声はある。
憎め、恨め、殺せと叫ぶ死者の声。そうして、剣を握った手を押し留める細い手。止めろと制す声は、ソラだった。闇の中に落ちて行こうとしていたイオをいとも簡単に救い上げたのは、其処に似通うものを見たからだろう。それなのに、自分はこうも簡単に闇の中に落ちてしまうのか。
あの時、犠牲になると言った言葉の意味はこれだったのか。
「イオ?」
親しそうに呼ぶ声だったが、感情は無いように思えた。命の無い言葉が通り抜ける。それならば、初めて会った時の罵声の方がずっと人間らしかったし、温かかった。
あの首を飛ばした瞬間に、ソラの中で何かが壊れてしまった。それに間に合わなかった。
「……何で、戦う」
何度目か分からない質問を、イオは再び口にする。
繰り返される質問。ソラにとってそれが特別な意味を持っている事などイオは知らない。ソラの目に微かな動揺が映ったが、顔を伏せていたイオは気付かなかった。
「だって――」
子供のように、ソラは口を開いた。覚えの無い口調にイオは顔を上げる。もう、目に動揺は映っていない。何処までも広がる死の世界、無が広がっていた。
「そうとしか、生きられない――」
ソラの頭の中であの質問が響く。
『お前は今、死にたいか?』とセルドが、レナードが訊く。死にたいと、死にたくないと答えれば二人は死んだ。生きても死んでも、人は失われる。選ぶ事で失うなら、始めから選択肢なんて無くていい。果してそれが、生きていると言えるのかどうかは分からないけども。
ただ、生きると言う事の定義が分からない。
「どうして、生きてる」
子供に問い掛けるように、ゆっくりと酷く優しく言った。少し前のソラなら眉を寄せて罵声の一つでも浴びせて来ただろうか。
「分からない」
ばつが悪そうに答えた。
「そうか……」
イオは目を伏せた。白い手がソラを呼んでいる。そのまま遠くに連れて行かれないように、イオはソラの肩を掴む。その手にすら亡者の手は縋りつこうとしているように見えた。
隻眼の蒼い目。もしも、この目が二つ揃っていたならここまで壊れてはしまわなかっただろうか。
「ソラ、思い出せ」
その目は何の為に傷付いた。何の為に剣を握った。何がしたかった、何を守りたかった。
「お前は、分からないまま戦って来た訳じゃない筈だ。お前は人形じゃなくて、意志のある人間なんだよ」
ソラの頭の中には通り過ぎようとする記憶の欠片がある。
泣き叫ぶ幼い自分は、今の自分に助けを求めている。その向こうで死者は睨み付けていた。だけど、通り過ぎた記憶だ。終わった出来事はもう帰っては来ない。
ソラは、幼い自分を殺したのだ。泣き叫ぶ自分を当たり前のように殺して、今も立っている。何で殺したのかなんて分からない。殺さなければならないと思ったからだ。その強制は誰によるものなのか、分からない。
もう、多くの事が分からない。自分がいない。選択すれば人は死ぬ。でも、分からないままでも許されない。どうすればいい?
「お前は、誰の為に戦って来た。誰を守ろうとしたんだ」
「誰?」
微かに、目に違う色が映った。
意識の其処に押し込んだ記憶が風に舞いながら通り過ぎて行く。殺してしまった幼い自分の前に立ち尽くして、記憶の嵐を見た。その殆どが紅くて、僅かにある別の色は無色透明。
助けたかった人が闇の中に吸い込まれて行く。追うように足を踏み出す。セルドやレナード、リューヒィは遠くなる。
壊してしまった人がそれを許さない。セレスは今も汚れてしまった目で睨んでいる。
本当は、守りたかった。
その為に強くなりたかった。
血溜まりの中を歩けば水音。立ち止まって振り返ると、死んでしまった子供の自分の傍に膝を着いている人影があった。
イオが真っ直ぐ見ている。大勢の睨み付ける目を背景にした禍禍しい景色の中で、一人だけ真っ直ぐにただ見つめている。
その隣りで労わるように子供の自分の肩を撫でるサヤがいた。こちらを向いて、穏やかに微笑む。
守りたかったんだ。傷付けたかった訳じゃない。
幸せでいて欲しかった。
二人の真ん中で、ゆっくりと体を起こす自分がいる。死んだ筈の、子供の自分。揃った丸い蒼い目。咄嗟に触れた自分の包帯に巻かれた目。
涙が伝っているのは、子供の自分。それを包む二人が肩を抱く。
少し離れたところで、今の自分が立っている。手には血の滴る剣があり、目には包帯。失ってしまったものが余りにも多過ぎる。其処にはいられない。いちゃいけない。また、傷付ける。死なせる。失う。
何処に行けばいい。離れれば守れない。近付けば傷付ける。何処にも行けない。闇に向かって進む足を止められない。
「分からない……」
ソラは呟き、イオはその先に言葉を繋げられなかった。蒼い瞳から色が消えて行く。何も映さない硝子玉が一つ収まっているだけになった。
イオは数秒、固く目を閉じた。闇の中で血の臭いがする。ソラの生きている世界が其処にあるのだと思った。
そして、目を開ける。やはり広がっているのは地獄のような景色で。
イオは馬に跨った。
「帰ろう」
居た堪れなそうに立つソラに向かって言った。ソラは少し困ったように眉を寄せたが、頷いて同じく馬に跨る。もう、馬は怯えるようには鳴かなかった。
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