22、堕ちて行く


 戦争は激しくなる。死者の数は日々増加し、空に戦塵が舞わない日は少なくなった。本部の駐屯する町にも毎日のように帝国軍が攻めて来るから支部の応援まで手が回らない。
 拮抗する二つの勢力、時代は激しく動き出していた。

 戦闘の真っ只中にいるイオ達、凄まじい戦塵が視界を遮る。
 ソラはそれを遠く眺めながらサヤの隣りに座っていた。革命軍の面々はソラとサヤが自分達の敵ではないと理解して友好的になった。サヤは元々の受けのいい優しい少女だったから誰にでも愛されたが、ソラは違う。鋭過ぎる眼光は人を恐怖させ不信感を抱かせる。ソラが敵じゃないと分かっても不気味だと言って近付く者は殆どいない。

 サヤは、出来るだけ壊れ始めたソラの傍にいるようにしている。本部を移動させたあの日、ソラは姿を消し、血塗れで帰って来た。探しに行ったイオは俯き、黙って自分のテントに逃げるように消えてしまった。ソラはあの日以来、感情を見せない。
 笑うだとか、怒るだとか。そういう表情は多くなって人々からの印象も回復しているが、その代わりに感情が極端に無くなってしまった。人形のように命じられるまま笑い、怒り、泣く。恐らく、サヤが今『死ね』と言ったら頷いて死ぬだろう。

 どうしてこんな事になったのか、二人は話さない。イオもあの日以来ソラには近付かない。
 ソラは戦闘に参加しなくなった。必要になれば行くけども、その度に何処か壊れてしまう。それでも、戦おうとする。何の為なのかは誰も分からない。分からない事ばかりの冷めた世界でただ殺す為に生きている。呼吸をするように人を殺す。だから、壊れようとしている。だって、こんなのは不自然だ。人間じゃない。

 サヤがソラの手を握ると、怯えたように少し震える。同じように硝子玉になってしまった蒼い瞳が見つめた。
 何に怯えているのか。ひたすら逃げていた頃でさえソラはサヤにそんな姿は一度として見せなかった。それが今頃幼児退行現象のようになっている。
 どんなに穏やかに話しをしても硝子玉は周りの景色を歪めて映すだけで、感情は入り込む事が無い。
 サヤは真剣な目をしてソラの目を覗き込んだが、変わらなかった。

「ねぇ、ソラ」

 子供に話すようにゆっくりと言う。途端に、決められたように「何ですか」と声が返って来た。

「帝国を脱出した夜、何があったの?」

 今更な事とは思うが、訊いた。サヤは訳も分からないままソラに連れられて生国を出た。それでソラが裏切り者と呼ばれ追われるようになった事は最近知ったのだが、脱出する時にソラはレナードとリューヒィ、そして大勢の騎士や兵士を殺している。その理由をソラは今も話さない。
 話す事を頑なに拒んでいるその理由をサヤは知らないが、今だからこそ話してくれるんじゃないかと思った。
 ソラは呆然と沈黙している。真ん丸に目を開いているので、硝子玉がそのままコトリ、と音を立てて落ちてしまうんじゃないかとさえ思った。

「どうして、殺したの?」

 サヤは責めている訳じゃない。ただ、理由を求めていた。
 多くの騎士や兵士を殺したのは、恐らく脱出する為だろう。だけど、何故、二人を殺したのか。恩人であり、剣の師匠でもあったレナード。唯一無二の親友だったリューヒィ。少なくとも、ソラには殺す理由が無い。
 だから、それが嘘なんじゃないかと思っていた。
 ソラはゆっくりと口を開いた。

「殺さなきゃ、ならなかった」

 ポツリポツリと言葉を綴るソラの目に動揺が映っている。何も無い硝子玉のような瞳だけども、其処に何も無い訳が無い。
 遠くの戦場の音を聞きながら、ソラは語り出していた。



 ソラが其処からいなくなったのは、それから少し経ってからだった。戦局が良くないので駆り出された、と言うよりは自発的な面が大きいのだが戦いに混ざりに行った。
 残されたサヤはソラの消えた方向を見つめていた。翡翠の目に戦塵が映り、涙が頬を伝っている。
 ソラが伝えたのは、紛れも無い真実だ。父親である王がサヤを殺そうとしていた事、レナードがそれに従い、共にリューヒィを傷付けた事、逃げろと伝えに来たリューヒィが目の前でレナードに刺された事、そのレナードがソラを殺そうとし、逆に殺してしまった事、致命傷を負っていたリューヒィに止めを刺した事。
 彼等が何を思い、感じてその行動を起こし、結果何を齎したのか。普段のような余裕が無いがたの来ているソラは話を真綿に包む事が出来ず、主観も交えずに淡々と物語を話した。
 裏切り者など、まったくの嘘だった。殺さざるを得なかった状況と言うのは、こういう事だった。本当はもっと早くに正気を手放して、目に映るもの全てを滅ぼしてしまったのならずっと楽だった。それなのに、今も壊れ続けながら守ろうと頑なに戦っている。

 守るには余りにも子供過ぎたし、守られるには余りにも強過ぎた。どちらにも行けずに壊れながら生きている。

「ソラ……」

 拭う事もしない涙は頬を伝い、顎に達して砂の上に落ちて行く。呼んでも来ない少年の背中は酷く細かった。守ろうと剣を振う手は酷く細かった。
 静かに涙を落とすサヤを妙に思ったリーフは傍に寄って肩を叩いた。

「どうしました?」

 胸に下げた十字架。嘗て、ソラは彼が背負うべく十字架を斬った。それでもリーフは今も背負っている。
 穏やかな笑みを浮かべるリーフには安心感があった。サヤは涙を拭う。

「ソラが壊れる」
「壊れる?」

 リーフはまだ、ソラが壊れかけている事を知らない。あの硝子玉を見てはいない。だから、「ソラはそんなに柔じゃないでしょう?」と穏やかに笑う。

「もう、壊れ始めてる。ずっと壊れながら生きてる」

 それでも、最近急激に壊れ始めた。何があったのかはサヤさえも知らない。
 ソラはあの日殺したものを知っているのは、イオだけだ。そのイオも理解がついて行けていないで目を逸らしている。あの背中は孤独だ。イオの進んで行く道を切り開こうとしているのはソラなのに、独りで置いて行かれる。
 可哀相などと同情するには余りにも重過ぎるし、そんな傍観者でいてはいけない。

「ソラは――」

 ポタリ、と涙が落ちた。



 イオのいる戦場は激しさを増していた。戦局は革命軍から見て芳しいとは言えない。それまでは帝国軍を退けて来たけれども、今回は騎士団が投入され防戦を強いられていた。斬っても斬っても倒れない。空に舞い起こる戦塵の中で青空が微かに見えた。
 騎士は厄介だ。ソラやレナードが在籍するような剣を持たせたら右に出る者はいないとでも言えそうな豪傑エリートばかりを選りすぐった戦闘集団だ。
 こんな状況でもソラは来ない。来たい時には来ればいいと言ってあるが、イオは出来る限り戦場から遠ざけようとしていた。このまま戦争に嵌って行けば間違い無く壊れてしまう。既にがたが来ているのだから、これ以上は死に直結するような気がしていた。

 人には得手不得手がある。
 イオにしたって戦ったり人を率いたりするのは得意だが、政治や勉学的な事はからっきしだ。それと同じようにソラは戦う事は人一倍だけども、その分だけ生きる事が下手だ。しなくても済む苦労ばかり重ねて傷付いて行く。でも、それだけならまだ良かった。
 生きるのが難しいと傷付いてしまうなら、幾らでも手を差し伸べた。それなのに、ソラはいとも簡単に越えてはならない一線を越えて闇の中に落ちて行った。大切なものも分からないまま、たった一人で全てを拒絶するように自分自身を捨ててしまったのだ。

 イオは正面の騎士の一瞬の隙を突いて勢い良く剣を振り下ろす。鎧に阻まれたとは言え、その一撃は鉄の表面を伝って中に響き、動きを鈍らせた。そこから一気に切り倒す。
 戦局は良くならない。覆すには何か敵の意表を突き、味方に希望を与えるような大きな力が必要だった。皆、それが何か分かっている。でも、いない。ここに来たら壊れてしまう。

 来たら、壊れてしまう。


 その時、押されていた筈の革命軍に動きが現れた。特に劣勢だった右翼が突然前進を始めた。逃げ腰になった前線を誰かが切り開いたのだ。それに触発されたのか味方の目の色が変わり、敵はその瞳に恐怖さえ映す。
 遠く、イオの目に先頭を駆ける銀色の閃光が見えた。黒刀が振り切られ、血が噴出す。細身の何処にそんな力があるのか、たった一人でこれまで革命軍を苦しめて来た騎士を何人も退けてしまった。
 縦横無尽に駆ける銀色、何時何処から来るか分からない攻撃に今度は帝国軍が逃げ腰になっていた。
 右翼を助けようと白刃を潜り抜けながら走っていたイオは、その姿を見て小さく息を吐いた。

(ソラ……、来てくれたのか)

 それは安堵の息だけだったとは言い辛い。本当は来なければいいと思っていたのだから。
 でも、こんなにも頼もしい者は他にいない。たった一瞬の攻撃で戦局をこうも簡単に覆してしまった。押されていた右翼は力を取り戻し、左翼と共に帝国軍を包囲して行く。
 囲まれて逃げ場を無くした帝国軍は持っていた剣などの武器を次々に捨て、降伏を示した。イオは皆に待機の指示を出す。これ以上の戦いは無意味だ。このまま投降した帝国軍を捕虜として捕らえればこの戦いは終わる。予想以上の早さと被害の少なさにイオは無意識に微笑んでいた。そのせいで、頭の片隅にずっといた少年の存在が薄れてしまっている。
 壊れてしまう。

 その時だった。
 再び銀色の閃光が、視界に飛び込んだ。剣を捨てた無抵抗の帝国騎士の一人の首をストン、とまるで野菜をもぎ取るような穏やかな動きで落とした。その行動に皆が唖然となり、動きを止めた。
 剣を捨てた者を殺すなど、道理から外れている。その行為に帝国軍の消えた筈の瞳の炎は再び燃え出し、捨てた筈の剣を拾い上げて再び斬り掛かって来た。その展開に追いつけなかった革命軍はいとも簡単に切り倒される。
 瞳に憎悪や憤怒を映した帝国軍、イオは奥歯を噛み締めた。絶望を感じながら敵を殺し続けるソラを見ると、蒼白くすらある顔に大量の返り血を張り付けて、笑っていた。壊れているのだと、分かった。
 イオは苦しそうに『殲滅』の指示を出す。それ以外に道は無かった。和解と言う道は、一人の男によって絶たれてしまったからだ。
 壊れてしまった少年は笑いながら敵を殺す。その姿は正しく悪魔と呼ぶに相応しい。まるで、イオ達革命軍に『戦え』と囁いているようだった。

 見る見る内に減って行く帝国軍。より多く斬り殺しているのはやはりソラだった。同情にも近い思いを胸に抱いた革命軍の剣は思うように振り下ろせない。その中で笑いながら彼等を殲滅して行くソラの顔の横に矢が通り過ぎた。
 ビィンと揺れながら矢は砂の中に刺さり、やがて人々の足に消されて行く。ソラは周りの敵を手際良く殺しながらその射手を探した。
 閃光のように砂漠の大地を駆けるソラの姿を狙うその矢は休む事も無く射られる。その為にソラは思うように剣を触れずにいた。振り下ろそうとすると狙ったように矢が通り過ぎる。
 それにしても、随分と腕が良いなと思う。僅かに避け損なった矢が作り出した右頬の糸のような傷を軽く擦った。
 砂漠の中で相手を探すのは困難だが、それはお互い様だろう。そして、こんな白兵戦の戦塵の中で弓など使える訳が無い。何処か遠くから狙っている。
 ふっ、と目の端がその姿を捉えた。それは全くの偶然だったが、ソラはニヤリと不敵に笑った。数百メートル離れた岩山の切り立った黄土色の崖の上で弓を構える姿が一つ。ぱっと見は帝国軍に見えなかったが、見つけたからには逃がさない。ソラは少し離れたところにいるイオを見つけて駆け寄った。

 イオは泣き出しそうな顔で剣を握っていた。その腕は中々のものだが、目には涙が溜まっている。
 望まぬ戦いで、失わずに済んだ筈の命を自らの手で潰しているのだ。普通の神経の持ち主ならそれが当然の反応だろう。それが、たった一人の狂人の手によって壊されてしまった。
 ソラはそんなイオを無視して告げる。

「ここは任せた。俺は俺の敵を殺しに行く」

 イオは僅かにソラを見た。それは怒りと言うよりも身を裂くような悲愴の眼だったが、ソラの硝子玉の目を見れば言葉を繋げる事は出来なかった。ソラはそのまま駆け出した。
 戦場から離れる間にも擦れ違い様に帝国軍を斬り殺して行く。殺すと言う行為に何も感じていないようだった。イオは目に入りそうな汗を手の甲で涙と共に拭い去った。


 戦場の砂埃が遠くなった。ソラはその崖へと向かって砂を蹴る。次々に放たれる矢は確実にソラを狙っていた。戦場で戦っていた時から何千と言う人の溢れる中でソラ一人を狙っていたのだ。
 岩山の足元に立った時、その高さに少しだけ驚いた。頂上は霞み掛かってよく見えないし、上から放たれる矢はそれまで以上に速く射られると言うよりも落下して来るようなものだ。しかし、ソラはそんな事に興味など持たない。落ちて来る矢を軽く剣で弾いて壁のような岩山へ足を踏み出した。
 思った以上に表面は凹凸が多く、足がよく掛かる。タンッ、と警戒に踏み出した二歩目からはもう駆け出していた。
 岩山を駆け上って来るその姿に射手は相当驚いたに違いない。常人には不可能な芸当だ。その腕が僅かに鈍り、矢はソラから少し離れたところを通り抜けた。
 その間もソラは着々と山を駆け上って来る。まるで、少し急な坂道でしかないように進み、あっという間にソラは目の前に迫っていた。
 ソラはその黒刃を射手への突き付けた。負けじと向けられたナイフ。勝負あった、と合の手が入りそうな空気だったがソラはその射手の顔を見て眉を寄せた。

「女……?」

 硝子玉になっている蒼い瞳の中に映ったのは黒髪と黒目を持つ女性だ。イオと言い、この地方は黒髪が多いのかとぼんやり頭の何処かで考える。
 女性はソラの呟きを聞き、殺意を込めて強く睨み返した。感情を失った目でソラは幾つかの疑問を抱えながら一つだけ問う。

「何故、俺を狙った?」

 彼女は少しだけ間を置き、ナイフを握る手に力を込めた。

「同胞の仇だッ!」

 仇とは、誰の事だろうか。
 ソラは小さく首を傾げる。身に覚えが無いからでは無く、有り過ぎて見当が付かなかったからだ。

「仇って、どれの事だ? 覚えがあり過ぎて分からないな」
「……この悪魔め……ッ!」

 極めて冷静に訊いたソラに感情の動きは無い。今まで鬼や悪魔と蛇蝎の如く忌み嫌われて生きて来たのだから、今更何を思えば良いのか分からない。だから、口角を吊り上げながら鼻で笑った。

「戦いも直に終わる。面倒だから、その前に死んでくれ」

 彼女は黒曜石のような瞳に憎悪を映して睨み付け、叫んだ。

「そうして私の村も滅ぼしたのか!」

 微かに、硝子玉に色が映った。遠くの戦塵にも掻き消されないはっきりとした口調は一言一句違わずにソラの耳に届いた。その単語に引っ掛かった。
 滅ぼした村なんて、少なくない。反乱分子だとか、今で思えば大した理由も無く多くを殺して来た。だから、その言葉も聞き流してしまえば良かったのに、雪のような白い肌を見てソラは目を丸くした。

「お前……あの生き残りか……?」

 多く殲滅した村の中で、忘れられないものがある。それは初めて下された命令で実行したものだ。雪深い山奥のあの小さな村。
 雪を染めたあの鮮血を忘れる筈が無い。忘れちゃいけない。自分は『殺人者』であると言う事実を突き付けられた出来事だった。

「私は見た。血に染まりながら表情一つ変えないで私の両親を、兄弟を、友を殺して行く姿を!」

 銀色のナイフを突き付けながら叫ぶ彼女を、ソラは呆然と見つめていた。指先が微かに震えているのを、白くなる程強く握り締める事で消す。
 表情が無かったのは、それが作れなかったからだと言ったら彼女は信じるだろうか。本当は殺したくなんて無かったと言ったら、それはただの言い訳だろうか。
 純粋な憎しみの目を向ける彼女をソラは知らない。殲滅され、雪崩に消えた村に生き残りがいた事も知らない。彼女、アルス=アルテミスの黒い瞳にはソラの姿がはっきりと映っていた。それは一人の子供ではなく、一匹の悪魔としてだ。殺さなければならない。

 ソラの持つ剣の切っ先が震えている事にアルスは気付かなかった。ただ、感情の失せた隻眼の瞳を見てやはり悪魔なのだと思っただけ。ソラは黒い瞳に映る自分の姿を見た。
 黒刀を向ける自分の姿が映る。それは、自分自身に向けているような錯覚を与えた。

 細い糸で繋ぎ止めていた色々なものが、一つずつ音を立てて千切れ、離れて行く。頭の中で大勢の声が、沢山の眼が、白い手が違う動きをしながら同じ事を叫んでいる。

 その時、ソラの喉元をナイフが通り過ぎた。アルスとは別のものだ。ソラは後ろに傾く事で軽く避け、その方向を見る。青い髪をした一人の少女がいた。やはり、眼は黒い。自分の姿が映る。

 もしもここに、イオやサヤがいたなら間に合ったのかも知れない。

 ソラはゆっくりと、確実に正気を手放そうとしていた。
 自分の姿が映る黒い双眸を持つ二人を殺そうと剣を持ち上げる。だって、頭の中で今まで殺した人が叫ぶから。殺せと、戦えと叫ぶから。

 ソラの口が弧を描く。其処に二人は言いようの無い寒気を感じた。真っ直ぐ振り上げられた剣は俄に顔を出した太陽を半分にしている。血の姿を隠してしまう黒い刀身。表情はゲームでもしているような笑顔なのに瞳には感情は無く、血の気の無い面は紙のような色をしている。
 天に向かっていた筈の剣は目にも留まらぬ速度で横凪ぎに払われ、少女の持つナイフを打った。

「シルフィ!」

 シルフィは衝撃を受け切れずに飛ばされ、ソラは止めを刺す為に踏み出している。アルスはそれを阻もうと弓を掴み、引いた。途端に弓は真っ二つになった。何時剣は振られたのかと考える間も無く、アルスは手放しかけたナイフを再び掴んで構える。
 ソラはアルスの瞳を見ている。感情の死んだ目。アルスは不倶戴天の敵に恐怖を抱いた。ずっと殺したいと思い続けた男の正体はこれだったのかと、ソラを見る目はもう人を見る目ではなかった。

「お前のその手が幾つの命や希望を奪ったんだ!」

 その叫びもソラには届かない。ソラが見ているのはアルスじゃなく、その目に映った自分なのだから。ソラが殺そうとしているのは、自分自身なのだから!
 シルフィは打ち所が悪かったのか起き上がらない。絶体絶命の中、その状況を救うような声が響いた。

「ソラッ!」

 岩場の影から、リーフの姿が見えた。アルスは反射的に其方を見たが、ソラは呼ばれたと言うのに分からないでいる。もう、多くの事が分からない。何をすればいいのか、何処に行けばいいのか。
 元々自分と言う存在に対する認識は人一倍薄かった。それを教えてくれる人がいなかったからだ。それが、帝国を脱出してから更に薄くなった。そして、ついに殺してしまった。

「ソラ、殺すな!」

 リーフは岩を乗り越えソラを呼ぶ。鼓膜が麻痺しているのか、脳がおかしくなったのかソラは反応しない。ただ、アルスの瞳に映る自分を見ている。
 その肩をリーフが掴み、ソラが振り向く。

 黒い、瞳。

 ソラは肩を震わせた。また、自分が映っている。
 声がする。戦えと、殺せと叫んでいる。大勢の目、沢山の手。

 それは暗に、死ねと言っているんじゃないのか?

「……あ、ああ……」

 急に震え出したソラは膝を折った。血塗れの手を見つめている。硝子玉の目からどんどん色が失われて行くのが分かった。酷く細い肩、小さい手。
 命拾いしたアルスはゆっくりと立ち上がった。殺すチャンスは今しかない。なのに、動けずにいた。

「今は、退いて下さい」

 リーフの鋭い眼光がアルスを槍のように射抜いている。神父と言うには余りにも鋭過ぎる眼差しとドスの利いた声だった。ソラを兄のように守りながらアルスを睨み付けている。其処に一歩を踏み出せない。ここで殺さなければもうチャンスは訪れないかも知れない。殺さなければ、失った仲間は救われない。
 動き出せない。

「退け!」

 一際大きな声が響いた。それを目の前の優男が叫んだのかとはすぐに理解出来なかった。リーフはその一声でアルスを引き下がらせ、ソラを抱えるように岩場を下って行った。アルスは動けない。
 二人の姿が消え、漸く呪縛の解けたアルスは遠くに投げ出されているシルフィの傍に寄った。シルフィは頭を強く打ったようだったが、腕の擦り傷以外に外傷は殆ど見られなかった。


 岩山を下ると、全てを理解しているようにイオがばつの悪そうな表情で待っていた。ソラは既に意識が殆ど無く、寒さに震えるように身を小さくしている。

「ソラ……」

 イオは頬に血を付けたまま呼んだが、反応は無い。

「また、殺したのか……?」

 リーフには理解出来ない質問だった。誰を殺したのか、その意味どころか言葉さえソラに届かないでいる。
 声が届かない、顔が分からない。イオを見た瞳には何も映ってはいなかった。