23、帰れる場所


 砂漠を二頭の馬が走る。死体が無造作に転がって、血に染まった砂漠は見るに堪えない光景だった。戦いが終わった後もその戦場になった場所から怪我をしている訳でも無いのに動けずに蹲っている革命軍もいる。仲間の死を悼み、殺さなければならなくなった大勢の命に涙を落としている。
 その中を馬は緩やかな速度で走っていた。先を走るリーフはソラを抱えるように、続くイオは呆然としている。

「よく見ておきなよ」

 リーフは振り返りもせずに言った。蹄の音が砂の中に消えて行く。
 真っ赤に染まった戦場に転がる死体・死体・死体。それに打ちのめされて蹲る仲間。虫の息で最後の瞬間を仲間に囲まれて逝った者もいる。先刻の騒がしさなど微塵も見せない静寂な風景。死んだのは大人ばかりじゃない。リーフは剣を握ったまま死んでいる若者の横を通り過ぎ、静かに十字架を切っていた。

 人生これからと言う半ばで、一体何の為に生まれたのか。
 少なくとも、こんな場所でこんな風に死ぬ為じゃなかった筈だ。

「こんな時代でなければ、戦いが無ければ生きられた命が幾つあるんだ」
「ああ……」

 イオにソラを責める権利は無い。誰にもソラを責める権利なんて無い。ソラが来た事で皆は救われた。帝国軍を殺した事で終わり掛けた戦いは再発してしまったけれど、人間としての感情で考えたなら、やはりソラを責められる訳が無い。ただ、あの時のソラが壊れていなかったのならば。
 壊れてしまった。もう、戻れないかも知れない。イオはそれを分かっていた。もしかしたら間に合ったかも知れない。強引な考え方だけども、ソラが壊れる前に間に合っていたなら今日の事態は免れた可能性もあった。

 イオは俯き、仲間の涙を横目に見ながら進む。先を行くリーフの後姿、ソラの姿は見えない。

「イオ、よく覚えておきな。この地獄を、無力さを、絶望を。そして、二度と繰り返すな」

 壊れてしまったソラを抱えながらリーフは言った。
 ソラがあの帝国兵士を殺した時にいたのがイオではなくリーフだったなら、きっとこんな事にはならなかった。もっと多くの命が救われた。ソラも壊れたりしなかった。

 この時代に生きているからこそ、思う。もう二度と繰り返しちゃいけない。



 三人が本部に戻ると、多くの人が出迎えてくれた。やはり、誰もソラを責める事はしなかった。その代わりに見ないように目を背ける。既に正気を手放してしまったソラは何も感じていないのか、運ばれるままされるようにしている。
 これがあの最強と呼ばれた騎士なのかと言われれば怪しいものだけども、戦闘になればまずこの『狂人』には適わないだろう。
 リーフは救護として使われているテントにソラを運び込んだ。エルスがその姿を見て酷く驚いていたが、イオは説明する事も出来なかった。
 だって、もう壊れてしまったから。精神の崩壊と言った方が正しく伝わるのだろうか。

「もう、これ以上戦いに引き込んじゃいけない」

 眠っているソラを前にしてリーフは言った。イオはそれに賛成しながらも否定しなければならなかった。

「でも、こいつは……」

 戦う事でしか、自分を見つけられない。そうとしか生きられない。
 それを言おうとして、イオは口を噤んだ。全てはもう遅過ぎる。破綻した心をどうすればいいのかなんて、もう誰にも分からない。
 ソラの帰還を知ってサヤがすぐに駆け付けて来たが、眠っていると言ってエルスは一先ず帰させた。こんな状態のソラを見たらサヤも狂ってしまうんじゃないかと思ったからだ。

 リーフは穏やかな、それでいて静かな怒りを秘めた目をイオに向けた。

「ソラが壊れ始めている事を知っていたんじゃないのか?」
「……」
「それでも闇に落ちそうになってるお前に手を差し伸べたソラを、お前は同じ状況で突き放したんじゃないのか!?」

 終わってしまった事を責めたって、もう何も変わらない事はリーフも分かっている。でも、このまま終わらせたら人は同じ事を繰り返す。
 リーフは、サヤがソラから聞いた話を教えてもらった。ソラが帝国を脱出するに至る経緯、それからの出来事。リーフ自身がその中の登場人物でもある。だからなのか、単純に歳が近いからか、リーフがお節介なのかは分からないが既に色々な事を把握して理解しようとしていた。

「……レナード=ルサファは紅目の騎士だったと聞く」

 突然、リーフは言った。
 レナードはソラが殺した世界最強の騎士だ。イオもその名を知らない訳は無い。

「世間で流れる噂は、ソラが裏切り者だと言う。でも、裏切ったのはソラじゃない」
「じゃあ」
「裏切ったのは、レナードだよ」

 イオは口を結んだ。紅い双眸が微かに揺れている。
 ソラは二度、この紅い目に裏切られた事になる。信頼して裏切られて、誰も信じられなくなって、それでも立とうと、進もうとして突き落とされて。上っても上っても、落とされる。賽の川原で生きていた。

「誰もが理解しないまま噂に踊らされてソラを壊したんだ」

 イオは言い返さなかった。だけど、その責任はイオにある訳じゃない。一番悪いのは、隠し続けたソラ自身だ。壊れるべくして壊れたのだから、誰かを責めるのはお門違いだと言える。
 それでも、失われたものに対してもう責める事は出来ないから――と、誰もが諦めかけた時、ソラは目を開けた。
 パチリと開かれた瞼に、それまで張り詰めていた空気が氷解したようだった。二度と目を覚まさない心地さえしていたエルスは身を乗り出してソラを覗き込む。無機質な硝子玉が揺れていた。
 ゆっくりと体を起こす動作は自然で、それまであの狂気に沈んでいた姿は何だったのかと思う程だった。その、目を見るまでは。
 隻眼の蒼い目が、硬質な輝きを放っている。少し前のソラは狂ってしまったと思っていたが、越えてはならない一線は当時まだ越えていなかったらしい。それが、本当に越えたのかも知れない。
 穏やかな笑顔、その裏に感情が消失している。始めから存在しなかったように、取って付けられたような表情だけが死んだように張り付いていた。

「寝ちまった」

 悪さをした子供のようにソラは言った。側から見ればただ平和な出来事で、朝寝坊をしてしまったような光景だった。それが戦場に身を投じていた狂人の言葉だったなら状況は百八十度引っ繰り返る。
 その居心地の悪い静寂の中にソウジュが飛び込んで来た。それまであった静寂など知らぬ風で、ベッドに半分身を起こしているソラに足音を立てながら近付き、胸倉を掴んだ。

「どうしてあんな事をしたッ!」

 その叫び声のソラは眉を寄せる。一気に幼児退行してしまっている精神で、首を傾げた。

「何が?」
「……お前がッ、帝国兵を殺した事だ……!」

 ああ、とソラは笑った。やはり、感情が無い。皆は其処に精神の破綻を見つけていたが、激昂したソウジュだけは気付かない。ソラは子供っぽく、それまで見せた事が無いような無垢な笑顔を見せる。

「だって、敵だったろ?」
「だからって……!」
「殺さなきゃ」

 クスクスと笑うソラの胸倉を掴んでいた手が、怒りに震え出した。その次の瞬間にソウジュの右手が振り上げられたのが見えてイオはすぐに地面を蹴った。――が、また、間に合わない。
 肉を打つ鈍い音が響いた。ソラはその方向に投げ飛ばされ、高く詰まれた木箱に衝突する。ソウジュの拳には鈍い痛みが時間差で訪れ、ソラを睨んでいる。

「ソウジュ! ソラは今……!」
「うるせェ!」

 まだ殴り掛かろうとするソウジュをイオとリーフが二人掛りで抑えている。エルスはソラの傍に寄って投げ出された体を起こすのを手伝う。その硝子玉がソウジュをただ、見た。怒りを抑えられないソウジュの腕を掴みながらリーフは叫んだ。

「貴方達がコイツの何を責められるって言うんですか!」
「何をだとォ!?」

 ソラの頬が薄く腫れているが、本人は痛覚さえ狂ってしまっているのかきょとんとソウジュを見ている。

じゃあ、俺達大人はこいつに何を教えてやるんだよ!」

 『大人』だと、エルスが少し前にソラに言った言葉がある。それが、今回は無い。それはあの時のソラがもうここにはいないと言う証明だった。ソウジュの叫びが響いてもソラは表情を変えない。感情は表れない。静まり返った湖畔のようだったが、其処に呆気無い程簡単に波は立った。
 騒ぎにサヤが駆け付けたのだ。

「ソラっ!?」

 酷く心配そうな顔で、サヤはテントに飛び込んで来た。その翡翠の目を見た瞬間、無意味な笑顔も子供のような表情も消えた。少し拗ねたような、無愛想な顔が現れる。蒼い瞳が戻って来る。
 ソラが、帰って来る。

「サヤ、様――」

 ガタリと物音を立てて、大よそこの少年らしくも無く焦った様子でサヤの傍に駆け寄った。まるで数日前に生き別れて、ここで偶然再会したような。そんなシナリオが似合うような動きだった。

「ソラ、怪我は?」
「俺が怪我なんか」

 ついさっきまでの刺々しい空気は弾けて消えた。ついさっきまで狂って壊れてしまったソラは、こうも簡単に帰って来た。今まで自分達は夢を見ていたのだろうか、とイオはそんな気持ちで二人を見ている。
 ソラはサヤの為に簡単に正気を手放して壊れてしまう。そして、また、サヤの為に簡単に戻って来ては狂気の中に飛び込んで行く。それを繰り返していて、果して精神が持つのかと言われれば答えは恐らくNOだ。

 イオは、ソラが何故壊れようとしていたのかその時やっと理解した。それは、ソラが自分自身を殺してしまったからじゃない。いや、切欠は其処にあったのだろうけども、それだけならきっとここまでにはならなかった。
 ソラが殺したのは、『サヤを守る自分』だと思う。それを殺してしまったから、自分の意味が何も分からなくなった。其処までに至った経緯はまだ知る事は出来ないが。

 心の底から、言葉では表せないような安心感を抱きながらソラはサヤの両肩を掴んでいる。隻眼の瞳に涙が薄く溜まっているのを見て、サヤは困ったように微笑んだ。
 サヤは
あの修羅のようなソラを知らないし、ソラも見せようとはしないだろう。壊れかけていても本能で分かっているのかも知れない。
 その片目は、サヤを守る為に傷付いたのだ。サヤを守る為に剣を握り、ここにいる。

「ソラに何かあったら私――」

 サヤは目を伏せた。涙が地面に跡を作る。その口が、『死』と言う言葉を紡ごうとした。だが、その言葉は続ける事が出来ずに呼吸に消える。動揺の映るソラの蒼い目と合ったせいだ。

「死ぬなんて、簡単に言わないで下さい」

 声が震えていた。さっきまではあんなにも感情を殺し切っていた男が、たった一人の少女の前でこんなにも豊かに感情を表現する。

「貴方が生きている事が、俺の生きる意味なんです」

 懇願するような声でも、その目はしっかりしている。子供のような危うさは何処にも無いし、人を簡単に傷付けるような禍禍しい殺気も持たない。
 ソラはサヤの肩を強く握り締めた。

「その為なら、俺はずっと戦える」

 何度でも地獄に落ちて行けるし、何処までも行ける。どれだけ傷付いても走り出せるし、何度狂ってもここに帰って来られる。
 騎士とはこういうものなのか、とリーフは哀しそうに見ていた。こうも自分を切り捨てられる人種がいたとは知らなかった。人は誰でも自分の身が可愛いものなのに、騎士と言う人種は人の為に簡単に死んでしまえる。あの戦いの中でも、殺された仲間の為に皆が死んだ。それが、騎士なのだ。

 サヤは穏やかに微笑んだ。



 ソラの中で響く声は今も有る。それは憎悪を囁き、ある時は戦えと命じる。死ねと叫ぶ事もある。それは永遠に背負って行かなければならないものだけども、その苦痛を跳ね除けようとするソラはやはり、多少なりとも狂っているだろう。



 やがて、夜が来た。戦闘で疲弊した革命軍本部は僅かな見張りを立ててそれぞれ泥のように眠っている。月は雲に隠れ、明かりは所々にポツリポツリと配置されたかがり火のみになっていて、それが時々爆ぜる以外は酷く静かな夜だった。
 イオはリーフの割り当てられたテントにいる。割り当てられたと言っても教会の代わりになっている小さなテントなのだが、戦闘に区切りが付くと皆が挙って訪れるので人で溢れ返り、リーフが生活しているとは言い難い。
 明日になろうとしている深夜には流石に来訪者は少なく、中には二人だけ。リーフは紅茶を差し出し、イオの座っている場所の正面の椅子に腰掛けた。
 イオは紅茶を冷ましながら両手で掴む。カップ越しに伝わる熱がじわりと熱い。
 テントを訪ねたはいいが、イオは神や仏と言った類のものは一切信じていない。ここに来た理由も漠然としたものだったので話も見当たらず、ぼんやりと正面に置かれた木の十字架を見つめていた。

「……僕は一度、この十字架を裏切っているんです」

 イオが十字架を見つめている事に気付き、リーフは言った。

「父をね、殺したんです」
「――」

 意外過ぎる話にイオは言葉を失った。そんな予想通りの反応を返したイオを見て、リーフは苦笑する。

「父は立派な人でした。人々に信頼され、それに努力を惜しまない、僕の誇りだった」
「なら、どうして」
「それは、表の顔だった。裏では帝国兵に金を渡し、人を殺させて供養する為の金を人々から巻き上げていた」
「だから……、殺したのか?」

 リーフは少し沈黙を挟んだ。思えば、この話を自分からしたのは初めてではないだろうか。

「殺したくて殺したんじゃないと言ったら、それは言い訳になるのかな」
「……」
「僕も話し合おうとしたけど、気付いたら殺していた。それが正解だったなんてとても言えないけど、それ以外に道が存在しなかった」

 分かっていても間違いを選ばなければならない時はある。でも、それに対して正当性を訴える事なんて誰にも出来ないから永遠に間違いを背負い続けなければならない。
 リーフは小さく息を吐いた。

「その頃、ソラと出会いました。帝国を脱出して間も無い頃、酷い雨の夜だった。傍らにサヤを連れていて、大怪我を負っていて歩いているのが不思議な程だった。ソラは僕が『殺人者』である事を見抜いて、父の事に関与していた帝国兵を殺し、十字架を斬った」
「十字架を?」
「うん。僕の背負うべき十字架を斬ったんだ」

 イオは話を聞いて木造の十字架と、リーフの首に下げられているものを見た。リーフはそれに気付き、静かに胸の金色をした十字架に触れる。

「結局、ソラが斬ってくれたのに僕は今も背負っている。馬鹿だと思うかい?」
「――いや」
「人は、何かを背負わなければ生きられない。その何かが生きる意味なんだと、そう思わないか?」
「生きる意味は、必要なんだろうか?」

 イオは眉を寄せ、困ったような顔で訊き返す。リーフはまた、苦笑を浮かべた。

「意味を無くして人は生きられないんだよ。いや、生きる事は出来るかな。でもね、『活きる』事は出来ない」
「同じ事だろ」
「……似ているけどね、その二つは全く別の事なんだよ」

 リーフは十字架から手を離し、膝の上で手を組んだ。珍しい緑の髪は、炎を浴びて橙に侵食されている。

「例を上げようか。ソラにとって生きる意味は、サヤを守る事だ。でも、ふとした切欠で『サヤを守る自分』を殺してしまった。自分にとっての存在意義を失って、彼は壊れた。……『活きる』事が出来なくなったんだ」

 イオは静かに目を閉じた。感情を映さないあの硝子玉の無機質な目。人を殺す事に何の価値も意味も見出せない壊れた人形。それでも、立ち止まる事は許されない。
 その人形が人になる瞬間を、イオは見た。

「どうして、あんなにもサヤを守ろうとするんだろう」

 お互いに支え合って縋り付いて、そうしないと立っていられない。まるで、寄生し合って生きているようでは無いだろうか。
 リーフはイオの言葉を聞いて目を丸くする。

「だって、ソラにはあの子しかいないじゃないか」

 ソラには、サヤしかいない。他に信じられるものなんか何も無い。
 イオは目を伏せた。あの二人を守ると言ったのに、その言葉を簡単に裏切った。荷物を見るだけじゃその重みなんて分からないのに、簡単に背負えると言っていざ背負ってみたら駄目だったと言って捨ててしまったのだ。そんな人間を信頼出来る訳が無い。

「ソラは、俺を憎んでいるだろうか」

 ポツリとイオは言った。リーフは首を振ろうとして、止める。
 きっと、ソラは憎む程にイオの事を見てはいない。裏切られたら『やっぱりな』と納得する程度だろうし、実際、憎んでいたら殺しているだろう。
 でも、リーフはそれを口にしなかった。イオは自分のした事の責任を負わなければならないから。

「それは、本人に訊かなきゃ分からないよ」

 そう言って突き放してしまえば終わるのに、それが出来ない辺りリーフはお人好しだ。

「でもね、憎しみは永く続かないんだよ」

 その言葉は、イオの中で響いた。ソラの事だけじゃなく、色々なところで。
 イオがこの革命を決心したのは、憎しみからだ。それなら、この革命は長く続かない。そんな意味を込めてイオは見たのだけども、リーフは其処までは分からない。

 何処かで日が変わる音がした。古い時計の鈍い音。イオは紅茶を飲み乾して立ち上がった。
 テントの外は闇夜で、人の気配は無い。軽く礼を言ってそのテントを出ると、冷たい砂漠の風が吹き付けた。

 あの言葉は、今も響いている。