24、其の罪の名は


 戦場の砂塵が遠くに見える。
 ソラは数日の記憶が曖昧なままそれをぼんやりと眺め、芋のスープを静かに啜っている。

 はっきりした最後の記憶は、砂漠で追って来る帝国兵の一団を殲滅した辺りだ。その後からの記憶が薄く、まるで波の上に漂っているようでもある。だけど、全く記憶が無い訳では無いのだ。
 言った事も、起こった事も覚えている。殲滅した村に生き残りがいて、彼女は自分を殺す為に追っていた事も。ソウジュが殴り飛ばした事も覚えている。なのに、それらは自分の記憶ではないただ流れている物語のように感じられた。
 自分の中にもう一人の自分がいるようで、気持ちが悪い。しかも、そいつは修羅だ。全てを滅ぼして呑み込み、そう遠くない未来取って代わるのかも知れない。
 自分の中の修羅を抑える事が出来ない。いつか、皆を殺してしまう。頭の中で『戦え』と叫んでいるのは、そいつではないだろうか。その叫びをふとした瞬間に受け入れてしまう。

「ソラ」

 スープを啜っていた手が止まっている。ソラは声の主であるリーフの方に一瞥くれてからすぐに手元に目を戻した。
 砂漠の昼間は暑い。冷たい筈のスープが僅かに熱を持ち始めていた。

「体調は?」
「普通だよ。良くもなければ、悪くもない」

 スプーンを口に運びながらソラはまた、戦塵を見つめている。イオ達は其処に身を投じているが、ソラは行く事を禁止されていた。
 また、壊れるから。
 でも、呼んでいる。修羅が戦えと叫んでいる。亡者が死ねと訴えている。ここにいてはいけないのだと理性が教えてくれる。
 ソラはスプーンを置いた。

「リーフ、お前神父だったよな?」
「そうだよ」
「悪魔払いは、出来ないのか?」

 真剣に見つめる隻眼にはリーフが映っている。もう、硝子玉なんかじゃない。其処にはちゃんとした感情が、意志がある。
 リーフは首を傾げた。

「どうして?」
「……俺の中には修羅がいる。いつかきっと、皆を殺してしまう」

 リーフは目を丸くした。
 ソラはそれまでの事を何も覚えていないと思って口に出さずにいたけども、本当はちゃんと意識があったのかと驚いた。そして、それを修羅だと言うのだ。

「誰でも心の中に修羅を持っているものだよ。それと共に仏が同居している」
「……俺は神も仏も信じてない」
「悪魔は信じるのに?」

 可笑しくなってリーフは少し笑った。ソラもつられて少し笑う。

「だって、悪魔は俺だから」

 ソラは明るく言ったけども、リーフは言葉を失った。
 目の前にいるのは、ずっとそう蔑まれて来た少年だ。それが当たり前の日常で生きている。二人の間に沈黙が流れ出した頃、サヤが訪れた。
 サヤはそっと後ろから近付いたのでソラは気付かなかった。

「神なんか信じてない」

 陰のある笑顔でソラは言った。少し淋しげでもあり、それも仕方が無い事なのだとリーフは目を伏せて苦笑する。
 本当はあの時のように壊れてしまった方が楽なんじゃないだろうか。修羅に身を任せて全てを滅ぼし、最後の時を迎えるのが一番楽な道だろう。でも、それは人をやめると言う事だ。
 話の流れが分からないままサヤはソラの隣に座った。

「神様?」

 ソラはサヤの方を見て頷いた。確かにもうあの狂った様子は無いけども、昔のままのソラではない。陰りのある明るさが周囲の空気を少しずつ侵食している。その侵食は、サヤがいると穏やかに止まる。

「神様を信じるか信じないかを話しているの?」
「はい」

 ソラはやはり、明るく言った。遠くの戦塵など知らぬ風で場違いな程に穏やかな昼下がりを過ごしている。その遠くももう目と鼻の先で、其処では多くの人が殺し合っているのに。
 その時だった。エルスが大声でソラを呼んだ。何事かと、三人は揃ってエルスを見る。
 焦った様子でエルスが伝えたのは、戦況だった。押されて今にも崩れそうな革命軍。少し前に聞いた時は押していたのに、一体何時引っ繰り返ったと言うのか。ソラは剣を掴んで立ち上がったが、それをリーフが制す。

「行っちゃいけない」
「どうして。俺がいなきゃ負けるんだろ」

 まだ、笑顔がある。その異質な笑顔の中、隻眼が僅かに色を失いかけている。修羅が内側から腹を食い破って外に出て来てしまう。

「死にはしない」
「修羅に呑まれるよ」
「そうかも知れないけどな」

 ソラは笑いながら背を向けたが、サヤが呼んだので振り返った。隻眼が硝子玉になっているのを見て、リーフは息を呑んだ。こんなにも簡単に入れ替わってしまうのか、と。
 無事を願うサヤの言葉は、戦況を告げるエルスの言葉に遮られた。

「紫目の女騎士が――」

 ソラは、走り出していた。もう誰の声も届かない。



 戦場、二つの勢力が拮抗する最前線でイオは踏ん張っていた。数刻前までは確かに押していた戦局が一人の騎士によって引っ繰り返ってしまった。その力の大きさにソラが連想され、ここに来てくれたらと都合のいい事を考えてしまう。でも、ここに引っ張り込んではいけないのだ。
 目の前の騎士の胴を払うと、丁度脇腹にある鎧の繋ぎ目に剣が食い込んだ。血が噴出し、騎士が膝を着く。そのすぐ向こうから飛び出す兵士。きりが無い。でも、ここは本陣を守っているのだ。負ければ革命軍は終わってしまう。
 飛び出して来た兵士の一撃を受け止め、次を屈んで避けてから腹を一気に切り上げた。迸る鮮血が砂に黒い跡を作って行く。その次へ行こうとして――、隣りの仲間が斬られるのを見た。

「シロヤ!」

 シロヤが口から赤黒い血液を吐き出す。咄嗟に駆け寄ろうとして、横から振り下ろされた剣をギリギリで受け止めた。細身の白銀の刀身だった。血に塗れても尚、美しさがある。
 その剣を持つ騎士を見た時、足元から寒気が上った。白い鎧は血に塗れて、兜の影から金糸の髪が覗く。顔はよく見えなかったが、美しい女性だった。いっそ不気味である。死の匂いを連れた死神のようだと思った。
 この異常な戦局の原因が、目の前にいる。

「セレス=スカーレット……」

 兜から、紫の双眸が見えた。闇の中で輝く宝石のような瞳は、何処か濁っている。
 シロヤの呼吸が浅くなるのが分かる。今すぐに運ばなければ、死んでしまう。そのシロヤに重症を与えた一撃、その次の斬撃はイオに振り下ろされていた。
 白い糸のような細い一撃だった。速過ぎて目では追えず、反射神経だけで受け止めた。軽いが、鋭い。セレスが薄く笑ったのが見えた。寒気がするような氷の微笑だった。

 セレスはレナードの恋人だった。美しく聡明な女性だったと聞く。少なくとも、こんな死神のように剣を振う女性ではなかった筈だ。これも戦争が病ませたのか、イオには分からない。

 シロヤを庇いながら、紙一重でセレスの攻撃を受け止めて行く。その間にもシロヤは弱って行くし、仲間は死んで行く。セレスをどうにかしなければならないのに、余りにも強過ぎる。病的な強さだ。
 背後で聞こえていた奇妙な呼吸の音が、途切れた。心臓を掴まれるような息苦しさが突然襲い、目の前のセレスも忘れて振り返ってしまった。シロヤが、動かない。

「シ……ロヤ……」

 半開きの眼に光は無い。奇妙な形で停止した体は二度と動かない。背後に気を取られ、イオはセレスを脳から忘れ去ってしまっていた。細身の刀身は容赦無く、横凪ぎに払われた。
 その一撃はイオの横腹を裂いた。受け止める事など出来ず、唯一踏ん張らなかった事が幸いして致命傷にはならなかった。その代わりに飛ばされて満足に戦う事も出来ない。
 イオに狙いを定めているセレスは、彼が革命軍のリーダーだとは思っていない。ただ、目の前の敵を殺そうとしている。寒気を覚えるような双眸は、硝子玉だ。この女性もまた、壊れている。

「セレスさん!」

 有る筈の無い声が響き渡った。でも、その方向を見たのはイオとセレス、それから僅かな人間だけ。
 片目を包帯で覆った隻眼の少年が剣をぶら下げて立っている。蒼い目が硬質な光を放っているのは、硝子玉になろうとしているからだろう。
 セレスの紫の瞳に異質な色が映った。ソラを視界に留めた瞬間、目を背けたくなるような禍禍しい色が兜の下に瞬く。ソラは今にも泣き出しそうな顔で、まだ、壊れずに立っていた。ぶら下げた剣から既に血が滴っているのは、ここに来るまでに人を斬り殺して来たからだろうか。

「ソラ、探したわよ」

 静かな、品のある口調だった。ソラを見る目は血溜まりのように濁っている。

「俺を探してたんですか」
「ええ。ずっと、ね」

 次の瞬間、戦塵を裂いた一撃をイオは見る事さえ出来なかった。白銀の糸が舞うように不規則な動きを見せたのに、ソラはそれを往なすように受け流した。それでも、斬り返さない。
 濁っているセレスの目を呆然と見つめていた。

「どうしたの?」

 平然とした声でセレスは問う。ソラの剣を握る手が微かに震えていた。

「俺は、貴方を殺せない……」
「そう。それなら、死になさい」

 ふ、と振り抜かれた刃もソラは受け流す。二人の戦いは常軌を逸している。数回斬り合うが、それがイオには見えない。セレスの正面から振り下ろされた刃をソラが受け止めた時、やっと二つの剣が交差して見えた。

「ソラ、死んで」

 ソラは黙って首を振る。目に薄く溜まった涙が光っていた。

「俺はまだ、死ねません」
「駄目よ。私は貴方を殺しに来たんだから」
「どうして……」
「どうして? それは私が訊きたいわね」

 交差していた剣が弾かれた。少しだけ距離が置かれる。
 周りにも戦いは起こっているのに、二人の戦いには誰も手を出せない。本能から関わってはいけないのだと分かっている。セレスの顔からは笑みが消え、代わりに凍り付くような憎しみが浮び上がった。

「どうして、レナードを殺したの?」

 ソラは言葉を失った。
 ソラが帝国を脱出した時、レナードとリューヒィが死んでいる。それを見た彼女が何を思ったかなんて想像するのは簡単な事だ。世間で流れる噂を信じて、今日までどうやって生きて来たのか。

「レナードさんは……」

 その先を、ソラは言う事が出来なかった。レナードは何か罪を犯した訳じゃない。彼は悪く無い。ただ、自分の信念を貫いただけだ。誰も悪く無い。それでも、死ななければならなかった。

 殺したくて殺した訳じゃない。
 そう叫びたかった。裏切ったのはレナードだと、言いたかった。

 なのに、声が出ない。喉の奥に張り付いた言葉が熱を持って内側の皮膚をじわじわと焼いて行く。声が出ない。その分だけ息が出来ない。

 声が出ない。

「私はレナードを愛していたのに……」

 セレスの瞳から涙が伝っている。憎しみだけじゃなく、哀しみだけじゃなく。
 セレスにとってソラは弟みたいなものだった。だけど、それ以上にレナードを愛していた。彼女から見ればソラも裏切ったものだと言う事になる。
 誰も悪く無いのに。

「俺が――」

 やっと回復した声帯を震わせる声が、また途切れる。セレスの涙が目に映り、言葉が繋げられない。硝子玉の瞳に色が帰って来る。それなのに、ソラ自身が修羅を望んでいた。

「俺が本当にレナードさんを――」

 隻眼に涙が一杯溜まっている。呼吸が荒く、手が震えていた。

「殺したかったと思うんですか――?」

 レナードの声も笑顔も鮮明に思い出せる。同時に、あの冷たい眼差しも、容赦の無い斬撃も思い出す。その肉を貫いた感触は掌に今も残って離れない。永遠に、離れない。
 殺したくなかった。でも、大切なものを守る為に殺さなければならなかった。

 セレスが踏み出す。黄色い砂が舞い、同じくソラも砂を蹴った。振り下ろされた白刃を受け流し、黒刀が擦れ違う。その白と黒の交差を、ソラは知っている。
 あの時とまるきり逆だ。ソラの今使っている剣はそのレナードのものである。
 ソラの白い剣、レナードの黒い剣。折れた白い剣は、レナードの鎧の継ぎ目に見事な程綺麗に突き刺さっていた。

 ソラの持つ黒刀が、白い鎧を裂く。衝撃で兜が後ろに落ち、膝を着いた時に金の髪が上に流れた。
 鮮血が噴出す。セレスは静かに倒れようとし、ソラが片膝を着いて受け止めた。隻眼から涙が流れている。

「セレスさん――」

 覗き込んだソラの目に、セレスが微笑んでいるのが見えた。それまで見たあの憎悪は無く、昔のままの彼女が一瞬とは言え其処にいたのだ。
 ソラは目を見開いた。硝子玉になりかけていた蒼い瞳が落ちそうな程に。

 呼吸が止まると、思った。

「セレスさん!」

 セレスは動かない。瞼は固く閉ざされて、呼吸は停止している。
 ソラは両膝を着いた。喉を裂くような悲鳴が戦場に響き渡る。次々に流れ出す涙、その背後からも容赦無く剣は振り下ろされた。黒刀は砂に投げ出され、それらの剣を止める力を持たない。それなのに、ソラは傷一つ負う事は無かった。
 その攻撃をソウジュが受け止めている――。

「ソラ!」

 どうにか立ち上がったイオがその敵を切り裂く。セレスを失った帝国軍は勢いを失っていたが、戦いはまだ終わっていない。

「セレスさん――!」

 セレスに縋り付こうとするソラをソウジュが抑え付けている。ソラは泣き叫んで必死に手を伸ばしていた。セレスは動かない。また、シロヤも動かない。その二人の遺体をソラは見た。

「何で」

 涙が頬を伝って行く。声が掠れ、指先は震えて足からは力が抜けている。

「何でだよ! どうして!」

 その死体に向かって手を伸ばし、暴れるソラの首の後ろにソウジュは手刀を落とした。それまで暴れていたソラは糸が切れた人形のように力を無くして項垂れた。

「ソラ」

 意識を失っているのは分かっていたが、イオは呼んだ。当然反応は無い。
 ここに来てはいけない人だった。また、壊れてしまう。ソウジュは意識の無いソラを肩に担いで走り出す。その後を仲間の肩を借りながらイオも後退して行った。



 戦いはその後すぐに終わった。
 帝国が失ったその女騎士の存在は大きかったが、その分だけソラの打撃も大きかった。

 救護テントに運ばれ、意識を取り戻した後も呼吸を上手くする事が出来なかった。酸素を吸い込み、其処から吐き出す事が出来ない。過呼吸に陥り、狂ったように泣き叫んだ。
 鎮静剤を打たれ、また意識を失った。其処から目を覚ますと、隻眼は硝子玉になっていた。そうやって狂いながらも以前のように壊れる事は無い。傍にサヤがいたから、修羅は外に出られずにじわじわと内部を溶かして行く。

 遠くに赤過ぎる火の玉が沈んで行った。風が冷たくなり、夜が訪れる。


 死者が多かったのだと聞かされた。ソラは怪我一つ負っていなく、戦場に足を運んで遺体の埋葬に出て行った。当然だが、セレスの遺体を弔う為だ。
 その途中で、シロヤの遺体を見た。殆ど話した事は無かったが、それでも他に比べれば多い。一度、ソラは彼が殺されそうになったところを助けた事がある。そうして助けたのは、こんな所で死なせる為じゃない。
 泣き腫らした目がシロヤを呆然と見つめている。その傍にイオが近付いた。松葉杖を突いた情けない姿で手伝える訳も無いが、リーダーとして何もしない訳にはいかないから。

「何で、死ぬんだ」

 ソラの声は夜風のように冷め切っている。砂漠の乾いた夜風は砂を遠くまで運び、何処までも流れる。何処までも。

「どうしてすぐに、俺を呼んでくれなかったんだ」

 冷めた声がイオに問う。一人、掠り傷も負っていない姿は異質だった。まだ治らない片目以外に目に付く傷は無い。
 辺りには死体が溢れ返り、血の臭いが充満していた。何処を見ても死体・死体・死体・死体!
 イオの脳裏に、滅ぼされた自分の村が蘇る。あれを繰り返したくなくて起こした革命だったのに。
 満身創痍と言えるイオは血塗れの剣を握り締めて立ち尽くして、言葉を繋ぐ事が出来ない。ただ、壊れていたソラの姿と嘗ての言葉が頭を掠める。

――俺は、好きで最強になった訳じゃない――

 出来る事なら、ソラに剣を抜かせたくなかった。
 自分の無力さを呪いながらイオは俯く。そんな姿をソラは硝子玉の目で見つめていた。

「どうせ、下らない事でも考えてたんだろ」

 分厚い雲の隙間から月の光が差し込み、血塗れの戦場を照らす。彼方此方から悲鳴や嗚咽が聞こえた。

「お前が救うのは世界なんだろ。俺がその為の犠牲になるから、捨てて行けよ。捨てて行ってくれよ!」

 その為になら、修羅になれる。
 ソラも、そうして狂ってしまった方が楽なのだと分かっている。そうして、狂える名義があるのならすぐにでも正気など手放してしまえるのに、誰もそうはさせてくれない。
 ソラはシロヤの傍に膝を着き、半分だけ開かれていた瞼を閉じさせた。傷だらけの体だった。恐らく歳も近いだろう。それが目の前でこうも簡単に死んでいる。

「嫌だ」

 ポツリとイオは呟くように言った。それをもう一度叫ぶように繰り返し、顔を上げてソラを睨み付ける。

「捨てられる訳ねェだろ! それが悪魔だろうが、修羅だろうが、仲間なら誰も捨てられない!」

 今度はソラが睨み付ける番だった。その硝子玉の中に何か蒼白い炎がチラチラと燃えているのが見える。寒気を感じさせる蒼白い炎――鬼火だ。

「甘ったれんな! 戦争なんだよ! 犠牲は必ず出るんだ!」
「何でお前が犠牲になるんだ!」
「じゃあ、誰が犠牲になるんだよ!」

 ソラはすぐに背中を向ける。シロヤを運ぼうと思ったのだが、体格の悪いソラの力では出来そうも無かったので口を結んだ。
 死んでしまった人を、弔う事も出来ない――。
 ソラは目を落とす。黄色い砂が夜色に染まっていた。

「……革命軍のリーダーともあろう者が、史上最悪の殺人者の俺と平和な世界を天秤にかけて迷ってやがる。それじゃあ、先の戦いで散って行った者達の魂も浮ばれまい」
「俺はお前がそんな奴だとは思ってない」
「思えよ……」
「お前は、何も悪く無い」

 ソラはふっと立ち上がり、少しだけ離れたところに横たわっていたセレスの横に跪いた。血色の無い白い面には微かに笑顔がある。最後に見たあの笑顔は、自分が都合よく作り出した幻かと思っていたが本当だったらしい。
 セレスの体を持ち上げると、考えていたよりも簡単に浮き上がった。鎧の重みはあるが、セレス自身は酷く軽い。帝国にいた頃の記憶よりもやつれていた。
 ソラはイオの方を見た。隻眼にはまだ、炎が灯って見える。

「俺は、存在する事が罪だった」

 それだけ言って、ソラは背中を向けた。背の高いセレスを闇の中に運んで行く後姿を呆然とイオは見つめる。そのまま消えてなくなってしまうんじゃないかと思う程に儚い姿だった。



 結局、シロヤの遺体を運んだのはソウジュだった。イオはその遺体の安置されているテントの中に立ち尽くし、思うように涙も流せずにいる。リーフが弔う横でサヤは顔を伏せて涙を流す。ソラの姿は何処にも無い。一人で、セレスを弔いに行っている。

 それから時間が経ち、リーフは泣いているサヤの横にいた。イオは憔悴し切った顔で何処かに消え、ソウジュはやけになったように酒を呑んでいる。ソラはまだ帰って来ない。
 リーフは子供にするようにサヤの頭を撫で、遠くを見つめながら口を開く。

「僕はね、この革命軍に来る前は各地の戦場を点々としていたんだ」

 明るい口調だったが、表情には陰がある。それをサヤが見る事は無かったけれど。

「ただひたすらに傷付け合う人々の手当てに走り回ってた。治しても治しても傷付け合い、切りが無いのに敵味方関係無くね。薬も包帯も人手も全然足りなかった」

 初めて戦場に訪れた時は死にたくなった。其処は、地獄だったからだ。
 血の臭いが溢れ、悲鳴が響き、誰かの憎悪や悲愴な思いが木霊している。其処にどんな理由があるのかその時のリーフはよく分かっていなかった。傷付け合う無意味さに怒りさえ感じた。
 その初めて関わった戦争は所謂、宗教戦争というものだ。信じるものの違いが齎す残酷な戦争。死ぬ瞬間に祈りながら死んで行くその様は異様だとさえ感じた。其処に、安らかさなんて欠片もあったようには思えない。

「どんなに助けても、何も救われない。特にその宗教戦争ってのは残酷でね、僕も何度も泣いた。目の前で人が死んで行く毎日で無力さはその度に突き付けられた。何を信じようと人は傷付き死んで行く。神の為の戦いなのに、神は何一つしてくれない。虚しかった……」

 遠い昔を懐かしむようにリーフは言った。その頃はソラがあの十字架を斬った後だったので、リーフはそういう類のものを持ち合わせていなかった。だから、敵味方無く走り回れたのだけど。
 サヤは涙を拭い、漸く顔を上げた。目が少しだけ腫れぼったい。

「神様は意地悪ね」

 サヤは呟いた。

「……ううん。神様なんて、ソラの言う通り本当はいないんだ」

 一瞬、何処か淋しげなソラの表情が脳裏に浮んだ。
 リーフは苦笑し、サヤの頭を優しく撫でる。

「神様はいますよ」

 きっぱりとリーフは言ったが、サヤは不思議そうに首を傾げる。

「それは、貴方が神父だから? それとも、子供扱いしてるの?」
「いいえ、宗教や歳は関係ありません」

 リーフは優しげに微笑んだ。地獄のような戦いを終えた後で、それだけが救いだとでも言うようにサヤはその笑顔をまじまじと見つめる。リーフはすぐに続けて言う。

「苦しい時や辛い時、死を目の前にした時や幸せを実感した時に祈りたいものがあるでしょう? それが神なんだと僕は思います。……だから、それは人それぞれ違うし、同じとも言える」

 『宗教戦争』と言うものは、宗教上の衝突に起因する戦争で、政治や経済とも絡み多くの被害を齎して来た。
 リーフは思う。そんな戦争は、本当に意味があったのだろうかと。
 確かに戦争は文明を発展させ、芸術を多く生み出して来た事を歴史は教えてくれる。だけど、多くの死者を出してまで神はそれを望んでいたのだろうか。
 その裏に何者かの薄汚れた意図があっただろう事は分かっている。でも、こんなにも苦しい思いをするのなら文明も芸術も無くていいからただ笑い合っている方がずっと素晴らしいと思ってしまうのは、戦争の裏側を知らない傍観者の綺麗事だろうか。

「僕は誰が何を信じ祈ろうと構わない。だけど、それは誰かを殺してまで貫くものじゃないと思う」

 こんな話をしても意味は無いと分かっていたが、リーフはそれだけを言って黙った。サヤもそれ以上何も言わず、ただ黙って雲間に見える星空を見上げていた。



 その同じ星空の下にソラはいる。砂漠を歩き続け、岩が多くなり、正面に大きな岩山が見えた。茶褐色のその山はまるで墓標のように天に向かって聳え、ソラはその足元にセレスを埋めた。
 思えば、レナードやリューヒィの遺体がどうなったのかソラは知らない。出来る事なら墓参りしたいと思う。セレスがいたのだからしっかりと墓にはいれられている筈だ。
 ソラはセレスを埋め、そこに岩を墓石のように立てた。その後、どうすればいいのか分からなかった。
 祈りの言葉をソラは知らない。死者に対して何をすればいいのかなんて分からない。ただ其処に立ち尽くして、墓石を見つめた。死者にはもう、言葉も通じない。それは分かっていた。
 其処に座り込み、地中のセレスと同じように横になる。雲間から星空が見えた。

 頭の中で修羅が叫んでいる。戦え、と。
 でも、戦って何になると問いかける自分がいる。自分が仏の訳が無いのだから、この体の中で修羅と同居しているのは鬼なのだと思った。
 戦えば人が死ぬ。誰にも死んで欲しくないと思いながら、殺さなければならないと分かっていた。


 暗い世界に一人で立っている。足元には水が浅く溜まり、遠くは闇に沈んで何も見えない。
 目の前で蹲って泣いている幼い自分がいる。肩に傷を負っているが、その怪我を負わせたのは他の誰でもない今の自分だ。泣き叫んでいる脇にサヤがいた。少し前にはイオがいたけども、もういない。
 遠くの闇の中に白い無数の手が踊っているのが見えた。気付けば、右手に血の滴る剣が握られている。

 背後に、自分がいた。隻眼ではない自分は、硝子玉の双眸で自分を見ている。

――戦え

 白い手の群れを指差し、剣を携えて言った。隻眼の今の自分は従って剣を構える。

――戦え

 頷いた。だって、其処にしか意味を見つけられない。其処でしか生きられない。其処にしかいられない。

――戦え

 ソラは走り出した。