26、天秤
風が吹いている。何処か物淋しげで、それから逃れるようにソラはテントの中に入った。
中は暗く、蝋燭の明かりがゆらゆらと闇を照らしている。有り合わせで作った質素で固いベッドの傍の机には白い布に包まれたリューヒィの遺品が置いてあり、その形を映し出した影が蝋燭の明かりに揺れた。
約束の日は、明日だ。ソラはその遺品についても、カルファーについても誰にも何も言わずにいる。
早朝にイオはソウジュ等を連れて本部を後にした。全面戦争が近いと知って、皆ピリピリと神経がささくれ立っている。通り過ぎる際に一瞥寄越す目がやけに鋭く、苛立っているようだった。
ソラはイオとの約束通りここにいるが、特に何も起こらないだろうと考えている。それは願望程無責任ではないが、予想と言う程考えているものでもない。単なる野生の勘だ。
固いベッドに座って剣の手入れをする。鍔のところに血液がこびり付いて取れないのだ。全体が黒い剣だから目立たないが、返り血の取れない剣を使って何も感じない程無神経ではない。襤褸布で擦ってみても取れないので、小さく溜息を吐いて布を投げた。
何もする事が無く、時間を持て余して退屈凌ぎに外に出る。灼熱の太陽の元、乾いた風が熱と砂を孕んで吹きつけた。この風は何処から来て何処まで行くのだろうか。あの戦場で吹き付けた風は、血液の臭いを何処まで運んで行く。
ぼんやりと見上げた空は酷く澄んでいた。雲一つ無く、立っているだけで汗が滲む。元々の生まれが北の方なので暑さには強くない。肌も決して強いとは言えないから長く外にいると朱に染まって疼くような痛みを連れて来る。そればかりは生まれ持った体質だからどうしようもない。
疼くと言えば、イオは頭が痛いと言いながら馬に乗って本陣を出て行った。ソラがいなくなった後も呑んでいたらしいから完全な二日酔いだろう。
白い火の玉は天高く上がり、溜息が出るくらいに働いている。何もそんなに気合を入れなくてもいいのに、と童話染みた事を考えて苦笑した。何処までも広がっている青空を名も知らぬ鳥が風に乗って群れを成して横切って行く。太陽の光を反射する白い鳥。
何処へ行く。
一陣の風が砂を巻き上げて通り抜ける。銀髪を巻き起こし、衣服やテントの布をはためかせた風が烈風となって大空にも壁のように吹き付け、鳥達の行方を阻む。それを器用に避け、また進む。その中の一羽だけが違う方向に向きを変え、遅れた。尚も吹き付ける風は遅れた一羽の行方を塞ぎ――、群れをソラの視界から失わせた。
置いて行かれたのだと分かった。気付いてくれなかった。
いや、気付かないふりをしたのだ。
自分が、置いて行かれるから。
足は無意識に動き出し、風は再び吹き荒れてその一羽を天空から叩き落した――。
眩暈がするような陽炎の昇る砂の海を一人で歩いている。ポツポツと仙人掌やカラカラに乾いた砂が見られるけれど、其処は死の世界であるような気がした。風が強く砂嵐のように飛んで来る小さな粒一つ一つが痛い。目に入らないように片手で風を遮りながら進むと、少し先に余り見かけない茶の岩場が見えた。蜃気楼ではないかと、ぼんやり考える。
岩場にも陽炎は見られたけれど、それまで歩いて来た場所に比べれば遥かに涼しい。踏み付けた暑い砂が悲鳴のような音を立てる。
一人になると、いつも頭の中で聞こえる声が酷く大きく感じられる。雑音で誤魔化せなくなった大勢の悲鳴と怒号、耳元で囁く甘美な誘い。眩暈がする。それらの声を遮るものが無い。微かな砂の悲鳴、そして――。
ちぃ ちぃ
誰かに助けを求めるような、微かな鳴声。誘われるように足を進める後ろでも足音。ああ、こんなところまでついて来るなんて、振り返れない。
逃げるように微かな鳴声の元に行くと、日陰になった岩場の影に一羽の白い鳥が蹲っていた。日陰と言っても、岩盤は燃えるように熱い。焼き鳥になるのは時間の問題に思えた。
ちぃ ちぃ
鳥の言葉なんて分からないけれど、助けを求めているように思えた。警戒している可能性は否定し切れないけれども、そっと手を伸ばすとビクリと震えて体を強張らせる。掬い上げた体は片掌に納まる程に小さく、指先で首を捻るだけで殺せてしまいそうに華奢だった。
「置いて行かれたな」
ポツリと独り言を落とすと、鳥は青空を見上げて小さく鳴いた。探している仲間はもう何処にもいない。戻って来るとでも思っているのだろうか。
「もう帰って来ないよ。お前は独りぼっちだ」
小さな橙の嘴が空に向かって呼び掛ける。雲一つ無い青空は残酷な程の透き通り、乾いた風が通り抜ける。
鳥の右の翼、綺麗に流れるように生え揃った羽根が一部掻き混ぜたように引っ繰り返っている。微かに滲む紅、歪んだ骨格、壊れた翼、何処にも行けない。鳥は、また鳴いた。
「俺も独りなんだ」
踵を返そうとして、動けなくなる。背後からの足音は着実に近付き、頭の中だけに住んでいた修羅は実体を手に入れたように其所此所に現れる。――否、まだ、実体は持っていないのだ。だから、欲しがってる。
こんな汚れた体が欲しいと言うのか。もう壊れかけて、何処にも行けない血塗れの体を。こんなものをどうする。
背中にぴったりと寄り添い、微かな息遣いが聞こえた。鳥を抱えた手が強張り、上手く呼吸が出来なくなる。肩を撫でる手、衣擦れの音。このまま明渡してしまえば、楽だろうか――。
ちぃ ちぃ
背後の気配が震えたのが分かった。途端に自由になった体、転がるように振り返った。
蒼い双眸が睨み付けている。本当に、嫌な幻覚だ。
「この体はやれない。まだ、やる事があるから」
自分の姿をした修羅に向かって言うと、修羅はふわりと風のように傍に寄って耳元に囁いた。待ってる、と。
そのまま空気のように霧散した修羅、心臓は大きく鳴っている。幻覚と会話が出来るなんて末期症状だろう――!
ちぃ ちぃ
掌の中で、鳴いた。焦燥感から頭を掻き毟りたい衝動に駆られたが、それは実行される事はなかった。掌に納まった鳥の真っ黒な目が此方を見ている。そして、呼ぶように鳴いていた。仲間はもう、来ないのに。
リーフは本陣の中を練り歩いている。ソラを探してテントを覗いたが其処に姿は無く、仕方無く炎天下の中歩き回っているが何処にもいない。聞き込むと、ふらふらと砂漠に消える背中を見たと言う者がいた。蜃気楼のようだったので止めなかったらしい。
確かに、ソラは時々消えそうな程儚く見える。そのまま空気に溶けて行ってしまいそうな、まるで今まで見ていたものが幻覚だったような、そんな有り得ない想像を抱かせてしまうような少年なのだ。
砂漠を探そうかと遠くを目を細めて見つめてみるが、陽炎で歪む景色は砂しか見えない。嫌な予感に焦りが背中をじりじりと焼く。どうする――。
「何してるの?」
ずっと遠くを見つめているリーフの背中にサヤは言った。振り返る黒い双眸、緑の髪が風に舞う。
「ソラを探しているんだけど、どうやら砂漠に行ったみたいで――」
「ソラなら」
すっ、と指差す方向をリーフは見た。テントの影に子供達が集まっている。
「さっきふらっと帰って来たよ。すごく、可愛いの」
「えっ?」
ソラが? と聞きそうになったリーフの手をサヤが小走りに引いて走る。まさか、そんな訳無い。お世辞にも可愛いと呼べる姿はしていない。鋭過ぎる眼光は恐怖さえ与えるのに、流石のサヤであってもそんな事は言わないだろう。
サヤに引かれて連れて行かれたテントの影、子供達に囲まれてソラが俯いている。子供の頭の上から覗き込むと、ソラの膝元に一羽の白い鳥がいる事に気付いた。
珍しい。そんな事を思っているとソラが顔を上げる。虚ろな蒼い隻眼に、何かちらちらと色が見える。最近はそれが何か寒気のする炎に見えて仕方が無いのだが。
隻眼は一瞥くれただけでまた手元に視線を落とした。餌をやっているらしい。鋭い眼光からは想像出来ない程、酷く優しい手付きだった。意外な一面を見たと言うリーフは微笑んでいる。
「どうしたんだ、その鳥」
「……拾った」
ソラの手元で小鳥は小さく鳴いた。怪我をしているらしく、少し草臥れた包帯が添え木を支えている。全体的に白い姿だが、小さな嘴が沈む夕陽のように紅い。
子供が一人手を伸ばす。小鳥はビクリと震え、ソラの掌の中に逃げ込んで行く。ソラは何の反応も見せなかったが、子供はばつが悪そうに伸ばした手を引っ込めた。
「随分汚い布だな」
リーフが言うと、ソラはチラリと蒼い瞳を向けた。
「包帯は足りないから、」
先の言葉が途切れた。昨日と今日のソラの顔に何か違和感を覚えてまじまじと見つめると、包帯に包まれている片目の形がくっきりしている。
小鳥に使っている包帯は、ソラの分を切ったのだろう。前面戦争に備えて物資は少しでも節約したいのだから、小鳥一匹にでも与える余裕は無いのだ。
ソラは小鳥を手の中に仕舞い込み、自分のテントへ引き返して行った。後姿から微かな鳴声が聞こえている。
ちぃ ちぃ
背中が、消えそうに儚いのはどうしてだろうか。
大して歳も変わらない筈の少年の後姿をリーフは見つめていた。
日は巡り、新しい朝が来る。イオ達の帰って来る、全面戦争について決定の下る重要な一日。彼等の到着時刻はまだ分からないが、本陣では皆がピリピリと殺気立っていた。
ソラはテントの中、ベッドに腰掛けて小鳥に自分の分のパンを千切って餌をやっていた。それを終えるとサイドテーブルに見立てた空き箱の上、リューヒィの遺品の傍の小箱を巣にして入れてやった。甘えるように小さく鳴き、黒目が見上げている。
その小鳥がどうして懐いてくるのか、ソラには分からない。
ベッドに立て掛けた黒刀を持って出口の前に立つと、背中に小さな鳴声が当たった。呼んでいるのだろうか、それとも、警戒しろと言っているのだろうか。
小鳥の黒い目に、ソラが出て行く後姿が映る。その後を追うように修羅が――いた。
テントから出ると、途端に灼熱が降り注ぐ。軽く眩暈を覚えたのは睡眠不足か栄養失調か貧血か、単純な疲弊だろうか。
ぼんやりと外に向かって歩いていると、忙しそうに走り回るエルスと目が合った。物資を整理しているのか、救護テントから大量の木箱を運び出している。
「ソラ、手が空いてるの?」
「――いや」
背中を向けて軽く手を上げ、ソラはさっさと歩き出す。その行き先は、誰も知らない。
カルファーとの約束は今日だ。嫌な予感はするし、相手の心中は読めないからろくな事にならないとは分かっている。でも、彼は現にリューヒィの遺品を渡して来たのだ。甘い考えかも知れないが、もしもカルファーがレナードの遺品でも何か渡してくれるのならセレスの墓の傍に埋めてやりたい。
こんなのはただの自己満足の贖罪行為だけども、死者にしてやれる事なんてこれっぽっちしかない。恩も何も返せていないのだ。これくらいは許されてもいいんじゃないかと、甘い事を考える。どうせ、傷付くのは自分だけなのだから。
砂漠に出ると、砂の深さに足を取られそうになった。どうも体調が良くない。何故だろうと思いながら歩き出すと、足元で砂が微かな音を立てて鳴いた。
一歩一歩を砂の中に埋めながら進むと、それだけで汗が滲む。頬を伝った涙が顎に到達して砂に落下する。黄色い砂に丸い跡が黒く残った。
無言で進み、体力は確実に失われる。銀髪はイオなんかに比べたら随分と涼しいのだろうけど、その分肌が強くないので砂漠は十分に地獄だ。薄く血管が透ける肌がジリジリと痛む。だけど、それ以上に。
――本当に行くのか?
後ろから修羅が追って来ている。もう、幻覚の域ではない。実体を持っているんじゃないかと、まるでドッペルゲンガーのようなホラーを考え苦笑した。その後すぐに『何笑ってんだよ』とぶっきらぼうな声が返って来た。
――嫌な予感がするだろう
何で、同じ自分に説明しなきゃいけない。
陽炎の揺らぐ砂の海は地獄のようだった。熱い、熱い、このまま溶けてしまいそうだ。
――甘過ぎるとは思わねェのか
思うよ。でも、俺に他に何が出来るんだ。これしかしてやれないじゃないか。
――じゃあ、待っててやるよ
その声を最後に修羅は熱気に溶けて消えた。嫌な予感は彼の言う通りずっと消えずに固形のまま体の奥底にあり、灼熱の太陽に熱されて内側からジワジワと蝕んで行くような気がする。
ぼんやりしながら進むと、正面にあの岩山が見えた。体は暑いのに、心の温度ばかりがどんどん低下していく。熱で感覚が狂っているのだろうか、気配が多過ぎる。何故だろうか。頭が動かないのに、心臓が妙に騒ぎ立てる。覚えのある感覚。何時何処で何故。
覚えのある気配が一つ、傍に近付く。しつこい。眩暈が激しいから本当はもう勘弁して欲しい。
そんな事を考えていると、その思考を読み取ったのか気配は距離を置いて停止した。
「どうしたの?」
高い声は遠くから刺さるように響く。
「また、お墓参り?」
「いや、今日は別件」
思った以上に低い声は不機嫌そうに聞こえただろうか。シルフィは眉を寄せた。
目の前の斜面の突出した岩に足を掛け、一気に登ろうとしたところで視界が霞んだ。貧血のせいだろうか、酷い眩暈に引っ掻けた足が空を切った。前のめりに倒れる体をどうにか支える。
「何やってるの?」
「うるさい」
片手を振って放逐しようとするが、シルフィは動かなかった。
「どうして、戦うの」
「守りたいものがあるから」
ソラは駆け上った。背中にシルフィの視線が刺さっているのは分かっていたが、姿が見えなくなると消えた。
約束通り、一昨日の場所に到着した。
感覚が鈍っているのか、通常では考えられない数の気配がある。これも夢から抜け出した亡者が修羅のように実体化してしまったのだろうか。そんな事を考えながら、地平線を見渡しているカルファーの背中を見た。
「よく来たな」
振り返った顔は、狐のようだと思った。嫌な感じがする、生理的に受け付けない人間だ。ソラは眉を寄せる。
「目的は何だ?」
頭の中でサイレンが鳴り響いている。如何して気付かなかったのか、数分前の自分を責めた。この男は始めから信用してはいけない類の人間じゃないか。
「察しがいいな」
カルファーが笑う。嫌な笑いだ。
「今、帝国は窮地に立たされている。革命軍が想像以上に活躍してくれているからなぁ」
「いい気味じゃねェか」
「どうして革命軍がそんなにのさばり返ってるか分かるか?」
ソラは答えない。
「お前のせいだよ」
「――俺?」
眉を寄せるソラに対して、カルファーは何処か苛立っているようだった。
「お前が革命軍に参加したせいで均衡が崩れちまったんだよ」
「……帝国は滅びるべき過去の遺物だ」
「まだ、終わらない。終わっちゃ困るんだよ」
ソラはゆっくりと剣を抜いた。黒刃がスラリと静かな輝きを放つ。
硬質な輝きを持つ硝子玉、表情も感情も無い人形が殺気を漂わせる。カルファーは舌打ちした。気に入らない。この子供の持っている異様な威圧感、それに気圧されそうになっている自分。気に入らない。
「俺を斬るか?」
「ああ。アンタは未来には必要無い人間だ」
「俺を斬ると言う事は、お前の仲間が死ぬと言う事だぞ?」
「――?」
カルファーが、少し離れた岩山の平地を指差す。目を疑った。ズラリと並んだ帝国兵が、皆一様に飛び道具を構えて同じ方向を狙っている。ソラはその方向を振り返った。
革命軍本部が、ある。
冷や汗が頬を伝った。
「俺の合図、俺の死で攻撃は開始される」
「――何で」
感情の無かった瞳に、チラリと色が映り込んだ。カルファーはそれを見て満足そうに笑う。そうだ、これが見たかったんだ。
「簡潔に言おう。――帝国軍に下れ」
「――――」
ソラは言葉を失っていた。
自分を、サヤを殺そうとした帝国。レナードとリューヒィ、セレスを殺させた帝国。あの国はもう滅びなければならない。もう、あってはならないものだ。
でも、下らなければ皆が死ぬ。
「答えは?」
カルファーは、既に先の答えを見抜いている。
呆然と革命軍本陣を見つめるソラの目に、イオの乗った馬が到着するのが見えた。それに集まって行くリーフ、エルス、――サヤ。
指先が震えている。自分でも、血の気が引いて行くのが分かった。
死ぬ程に憎んでいる帝国、死んでも守りたい人。天秤が揺らいでいる。
答えを発せないソラに苛立ちを感じたカルファーは舌打ちし、片手を上げた。ソラの目の端にその合図が映り込む。
「止めろォ――ッ!」
悲鳴のような声が、乾いた空気を裂いた。
本当に聞こえたのか、偶然か、イオはその方向を見た。自分達を狙う帝国軍が、ずらりと並んでいる。号令を発し、放たれる矢の雨。
「逃げろォー!」
イオは傍にいたサヤを庇って矢の降り注ぐ方向に背中を向けた。リーフの、エルスの、ソウジュの目に矢の雨が残酷な程鮮明に映り込む。イオの声から降り注ぐまでの数秒――。
血の雨が降った。
イオはサヤを庇い、砂の上に倒れている。右の大腿に痛みがあるが、奇跡的に助かったらしい。小さく息を吐いて、その方向を見つめた。
「ソウジュ――」
ソウジュが、二人を庇って仁王立ちしている。背中には所狭しと矢が突き刺さり、足元には血が川のように流れている。悲鳴が、出ない。
ソラはそれを遠くから見た。イオがサヤを庇い、その二人をソウジュが庇った。そのソウジュは背中に大量の矢を受け――倒れる。
全ての流れをこんなところで見下ろしている。どうして。
「答えは?」
カルファーは笑った。目の前に、絶望の表情を張り付けたソラが立っていた。
二度目の攻撃は無かった。怪我人、死者全てを物陰に隠してイオは様子を伺う。帝国軍がこの攻撃だけで去って行くなんておかし過ぎるが、幸運だ。
仁王立ちで二人を庇ったソウジュの手当てをエルスが泣きながら行っている。血が止まらない。イオは傍に駆け寄って、痙攣する手を握った。
「ソウジュ、どうして庇った……!」
「……おめェは、リーダー……だろォがよ!」
掴み返して来る力が酷く弱い。手当てが間に合わない事などエルスだって分かってる。リーフは他の怪我人の手当てに走り回っていた。血の臭いが、溢れている。
サヤがそっとソウジュの手を握る。
「お願い、死なないで……」
碧の瞳から大粒の涙が落ちた。ソウジュは苦しそうに息をしながら、苦笑する。
「お嬢ちゃん、あのガキを救ってやってくれよ……」
ソラの事だと分かり、サヤは何度も頷く。弱って行く呼吸、脈拍。全てを理解したエルスは手を止め、涙を拭って他の患者の元に向かった。
「イオ、頼んだぜ……」
「ソウジュ!」
「平和な世界、見たかったなァ……」
ソウジュから、全ての力が消えた。心臓は動きを停止し、呼吸も終わる。
死んだ。呆気無い。イオはそれを呆然と見つめている。頭の中で響く声、憎悪、憤怒、悲愴。憎めと、殺せと叫ぶ声がある。頷いて、首を振る少年がここにいない――。
「サヤ、ソラは?」
サヤは首を振り、いなくなったと言った。
ソラがサヤを置いて消える訳が無い。何か起こっていると言いようの無い不安と焦りを感じてイオはついさっきの岩場の方を見た。其処から、ソラの声を聞いた気がしたのだ。
「――行って来る」
何かが起こっている。
イオは涙を拭い、怪我の無い馬に跨った。彼方此方で漏れる悲鳴、嗚咽、叫声。涙が止まらない。帝国はどうしてこんなに簡単に人を殺せるんだ。目の前にいるのが、同じ人間だとどうして分からないんだ。
馬が走る。
セレスの墓のある、岩場に到着した。帝国軍が規則正しく列を成して帰って行くところで、その状況でもイオは酷く冷静だった。最後尾に白馬が一頭、隊長らしい騎士がいる。この一連の出来事の犯人だろう。
すっと腰の剣に手が伸びた。それに気付かないカルファーではない。
「止めておけ」
片手で軽く制し、笑う。イオの憎しみで濁った目を見て笑ったのだから、ある種この男は大器なのかも知れない。
「せっかく助けてもらった命、無駄にする気か?」
「――誰のせいだと――」
ソウジュの事だと思った。だが、その白馬の影から現れた俯く少年を見て動けなくなった。
ジャラリと黒々とした鎖が重厚な音を立てる。手首にはその細さに見合わない手錠、其処から伸びた鎖を、囚人を管理する看守のようにカルファーが掴んでいる。
ソラは、顔を上げた。
「どう、して」
「イオ」
隻眼が、凛と輝いた。今まで見た事の無かった透き通るような輝きに、不覚ながら囚われた。目が離せない。吸い込まれてしまうような輝きを煌煌と放っている。
真一文字に結ばれた口は、微かに歪んだ。――笑ったのだ、この異常な状況で。
カルファーはそれをつまらなそうに眺め、苛立って鎖を引っ張った。連動してソラが前のめりに倒れそうになり、睨み付けた。鋭い瞳に血が通っている。目が憎いと言っている。殺すと叫んでいる。カルファーは満足そうに笑った。
「別れの時間をやるよ」
ソラは数秒沈黙したが、両手で腰の剣を引き抜き、投げて渡した。両手が一括りにされているせいだ。イオは危うく落としそうになったがその黒刀をしっかりと掴む。
「大切なものなんだ」
「――ソラ」
蒼い瞳が瞬いている。鬼火は見えない。これが本当のソラなのか? ただの強がりか? イオには分からない。
ただ、ソラは最後にもう一度微笑んだ。
「サヤ様を頼む」
それだけ、言った。
カルファーはソラに繋がった手錠を引き、体が寄ったところで鳩尾に重い一撃を埋めた。呻き声が漏れ、瞼が閉じられる。弛緩した体が宙ぶらりんになった。
「ソラ!」
「こいつが助けた命、しっかり噛み締めるといい」
カルファーが、笑った。イオは動けない。
その乾いた笑い声が砂漠に、行軍が消えるまでずっと響いているようだった。
|