27、死に至る病
光が無い。希望が無い。救いが無い。誰もいない。
こんな世界でどうやって生きればいい?
目を覚ました時、暗闇にいた。起き上がろうとすると腹部に鈍い痛みと手首の重さを感じる。両手首は前で一括りにされ、其処から伸びた鎖は何処かに繋がっているようだ。床は冷たくて固い石の地面、少なくとも砂漠ではない事は確かだろう。乾いた風は無く、湿った空気が渦を巻いている。ここは風の吹き溜まりか。
カツン、と硬質な音が静かに床を這うようにして響く。次第に闇に慣れて来た隻眼はその姿を捉えた。いや、隻眼じゃない。包帯が巻かれている筈の目にも同じものが映っている。
「どうして殺さない」
目の前にいるカルファーに向かって言った。闇の中で佇んでいる白装束は浮んで見える。
乾いた笑いが彼方此方に反響しては返って来る。そんなに広くないようだ。
「これから、お前が最も憎んでいる男に会わせてやるよ」
ソラは目を瞬かせる。その度に蒼い双眸がチラチラと輝いた。
一瞬、連想出来なかった。誰の事なのだ、と訊こうとして止めた。そうか、ここは――。
ここは、帝国なのか。
寒気が足元から上って来る。身震いし、無意識に握り締めた手は震えていた。精神的外傷による強烈なフラッシュバック。紅い飛沫が記憶を埋め尽くして行く。
息が出来ない。ひゅぅ、と喉から空気の抜ける妙な音がした。喉に伸ばした手によって鎖が床と擦れて鳴る。頭の中で聞こえる声が無い。その代わり、無数の足音が聞こえる。
カルファーはそんなソラを無視して鎖を引いた。過呼吸を引き起こしかけている為に満足に動けず、そのまま引き摺られるようにその暗い空間から出される。眩し過ぎる光が眼球を焼いた。
白い空間、青々とした木々、生え揃った芝生、張り付けた仮面の笑顔。
帝国――。鳥肌が立った。
寒い。
足が震える。視界が滲む。頭が動かない。それなのに、行き先は既に決められて引き摺られる。
寒い。
「早くしやがれ」
カルファーは乱暴に鎖を引く。その度にソラは転んだ。映り込む景色が全て歪み、混ざり合って揺れている。酔いそうだと思った。
紅い絨毯はあの頃のままなのか。汚れ一つ無い壁も同じか。この国は何も変わらずに、全てを呑み込んで行くのか。
ずっと引き摺られ、呼吸が上手く出来ずに何度も咽返った。鼻腔の奥に張り付いた血の臭いがあの頃の記憶を鮮明に思い起こさせる。
王宮の最奥、王の間。全てを壊した張本人。憎悪よりも、憤怒よりも、悲愴よりも、ずっとずっと深い恐怖。歯の根が合わずにカチカチと音を立てた。
「ソラ=アテナを連れて参りました」
扉が、開かれる。
咽返るような花の香り、――臭い。
赤絨毯の敷かれた正面の段の上に雅やかな玉座がある。其処にずしりと座っている男、肥え太った老人。白い髭に覆われた顔には深い皺が刻み込まれ、老木のようだった。
だが、其処に感じるこの『恐怖』は何だろうか。酷く、恐い。
王の前に引き摺り出されて転がされる。鉄の手錠がカシャンと鳴った。
視線を感じて顔を上げると、あの顔があった。腐った沼のような緑。ヘドロのようで吐き気がする。気持ち悪い。
「よく戻ったな、ソラ=アテナ」
腹の底に響くような重い声は、流石に王と言っておこうか。ソラは睨み付けた。
「何で、殺さない」
「死にたいのか」
「こんな場所で生かされるなんざ真っ平御免だ!」
立ち上がった足が震えていた。それまで闇の中にあった片目が光に焼かれ、疼くように痛む。
王は、低く笑った。
「帝国に戻る気は無いのか」
「ふざけんな! お前が俺に何をした! レナードさんに、リューヒィに、セレスさんに何をした!」
其処まで言ったところで、カルファーに地面に叩き付けられた。床に衝突した頬骨が鈍く痛んだ。だが、地面に突っ伏しながらでもソラは王を睨んでいる。
「許さねェ!」
「――殺したのは、お前だろう?」
ソラは、静止した。ストンと心の中にあった何かが、何処かへ転がり落ちて行く。込み上げて来る吐き気、寒気、そして、苛烈な怒り。
「そうさせたのは、お前じゃねェか」
本当は、守りたかった。傷付けたくなんか無かった。
日溜りの中で笑い合っていたあの頃のように、皆が生きていたあの頃のように生きていたかった。血塗れでも帰れる場所があると信じていたあの頃のまま、時間が止まればいい。でも、もう戻れない。
昨日の事のように思い出せる笑顔も、声も、もう帰って来ない。誰が奪った。誰が壊した。誰が望んだ結果だ。
こんな世界に誰がした。
王は低く、くぐもった声で笑う。
「帝国に忠誠を誓えば、サヤは助けてやろう」
「――どう、して」
ソラの言葉は床に零れ落ちた。
そんな選択いらない。選ぶ事で大切なものを失うのなら、選択肢なんかなくていい。選べないのに、どうして選ばせる。
「お前は危険過ぎるのだ。首輪を付けていないと、何をするか分からない」
「――俺は犬じゃない」
蒼い目が王を睨んだ。
「だから、犬になれと言っている」
「どうして……、どうして、俺はそんな選択肢しか無いんだ」
大きな目に涙が一杯溜まっている。零れ落ちそうな雫は、開き切って乾いた瞳を潤してもまだ余る。
守りたかっただけだ。自分を包む環境を、傷付ける何者からも守りたかった。その為に強くなろうと思ったのに、どうしてこの手は血に塗れている。
「お前を見ていると、地獄の底に突き落としてやりたくなる」
王は目を細めて言う。
「お前が守ろうとするものを全て壊してやりたくなるのだ。必死に抱え込んでいる全てのものを――」
「黙れ」
ソラはカルファーに動きを封じられたまま、睨み付けている。
頭の中では相変わらず声はして、足音さえ聞こえ出した。遠くから見つめている自分はどんな目をしている、あの、自分の姿をした修羅はどんな顔でこれを見ている。
惨めだと、馬鹿だと思っただろうか。それでも、笑ってくれているだろうか。
もう、何回狂ってしまえたら楽だろうかと考えている。でも、それを許してくれない人達がいるから。
「生憎、そんな簡単に壊されるようなもんを背負った覚えはねェよ」
ふつりと王に違う表情が映った。否、表情が消えたのだ。それに思わずソラは笑ってしまった。
「カルファー」
呼ばれたカルファーが顔を上げる。
「連れて行け」
「は――?」
「地下で、ゆっくり可愛がってやるといい」
カルファーは、薄く笑って礼をした。
「仰せのままに――」
王はもう、ソラを見ない。カルファーはまだ睨み付けているソラをまた引き摺って王の間から出した。扉は音を立てて閉まり、王の姿を消し去る。ソラはカルファーを睨み付けた。
何処に連れて行かれるのかも、何が起こるのかももう理解している。それに対して恐怖が無いとは言えないが、後悔はしていない。誰かが傷付くくらいなら、自分が苦しい方がずっとマシだ。
中庭に引き摺り出され、更に奥に位置する塔に連れて行かれる。ソラは其処に入った事は無かったが、流石に元王宮の騎士なのだから知っている。
塔の入口が開き、途端に咽返るような濃厚な血の臭いがした。込み上げて来る吐き気とは裏腹に頭から血は下がって視界が鮮明になる。闇の世界だ。その中、正面に子供のように小さな男が手を揉みながら薄く笑っている。
血の臭いに眉を寄せるといきなり首を掴まれ、壁に押し付けられた。背中が衝突し、鈍く痛みながら骨が軋む。そのまま頬を片手で握られ、口を開けさせられた。カルファーは何かの小瓶を取り出し、中の液体を口の中に流し込んだ。
突然、口内に侵入した苦味に咽返ろうとしたが、カルファーはそれを許さずに口の開閉さえさせない。液体は口内に染み込み、喉の奥に流されて胃に落ちて行った。
グラリと視界が揺れた。闇が生物のように蠢いている。体中から力が抜けて行くのに、重力に従って落下すらさせてくれない。首を抑えたままカルファーは片手で手錠で括られたソラの両手を持ち上げ、壁に押し付ける。其処で漸く首は開放された。
熱い。喉の奥が、胃の底にこびり付いた薬品が熱を発しているのか、焼けるように熱い。
次第に呼吸が荒くなった。喉に穴が開いたような奇妙な音が闇に溶けて行く。
ズルリと下がる瞼、蒼い目が朦朧と虚空を睨んでいる。酷く眠い。瞼が閉じられる――その瞬間に、両手をナイフが貫いた。瞼は反射的に開かれ、痛みに眠気が飛ぶ。
上げさせられた掌から流れる血液は腕を伝い、服に染み込んで黒い染みに残る。
「悪いのは、お前だぜ」
カルファーの呟きが遠くに聞こえる。喉の奥から漏れる呼吸に精一杯で、悲鳴を上げて痛みを誤魔化す事が出来ない。
「言った事を後悔しても遅過ぎるんだよ」
「……ッ……後悔、なんか、しない」
単語を吐き出すのにどれ程の力を使ったのだろうか。浅い呼吸を繰り返し、十分に酸素が回らずに頭の中がぼんやりする。その分、痛覚は酷く鋭敏でナイフが動かされる度に悲鳴を上げたくなる。でも、出せない。
痛みは体の中でループする。闇の中で蠢く何かが見える。封鎖された空間に響く何かが聞こえる。
虫の標本のように手をナイフで刺され、吊り下げられる。薄い掌がプツプツと鳴り傷口を広げて行く。このままでは手が裂けると言う焦り、震える足で立とうとしたが、それも許されない。カルファーは足払いを掛けた。
浮き上がって落下した重みで裂傷は加速する。悲鳴が二酸化炭素に消え、目が、瞳孔が開かれる。カルファーはナイフの柄を握り、掻き混ぜるように捻り回した。
「――ッ」
声にならない声が漏れた。血が頭上から降り、生暖かい液体が頬を伝う。
カルファーはナイフを壁に突刺したまま、腰の剣を抜いた。銀色は闇の中で酷く重く、鈍く光る。それを、左の大腿に突刺した。痛みが、思考がループする。戻って来るのだ。
悲鳴が、呻き声が漏らせない。一体何の薬だったんだ。
「何故、後悔しない?」
カルファーが耳元で囁いた。
「お前は、ここから出られないのに――」
皮膚の裂ける音、血管の千切れる音。掌から零れた血液が冷たい石の地面に落下して水音を立てる。大腿に突刺された剣もまた、掻き混ぜられる。筋が切れる音が鮮明に耳に届いた。
ここから、出られない。
窓も無い。光りも無い。血の臭いが充満し、絶望と憎しみで溢れ返ったこの闇からもう出られない。
それでも。
「大切な人が、生きていてくれるから」
過った笑顔。あの子が生きていてくれるなら、それだけでいい。自分はこの中で死んでも、二度と会えなくてもいい。彼女が生きているなら。
其処に居場所が、生きる意味があるから。
「……カルファー、約束、守れよ」
「約束?」
「手を、出すな」
そうでなければ、自分は何の為にここに来たのか。
カルファーは舌打ちした。目の前にいる子供はもっと別の反応を示す筈だった。絶望し、恐怖し、泣き叫んで縋り付いて懇願して、許しを請う。なのに、目の前で笑って見せた。
この子供は、何だ?
最早、常軌を逸している。未だ発見されていない何かの病魔に侵されているのではあるまいか。
病気だ、この子供は。
「カルファー様」
ひょこひょこと小男が揉み手で近付いてくる。頭部は剥げ、顔面は酷く歪んでいる。
「後は任せて下さい」
拷問が趣味のような男なのだと、カルファーは聞いている。
この塔の番人は、それだけを生き甲斐と言うようにここでずっと暮らしている。時たま連れて来られる人間を玩具のように扱い、――壊して行く。
滴る血液を見て、我慢する事が出来なくなったのだろうか。
カルファーは侮蔑するように一瞥くれ、ソラから離れた。両手と大腿から落ちる血液が床に広がり、ソラは奇妙な体勢のまま動きを封じられている。
先刻までは凛とした輝きを秘めていたのに、目はもう虚ろで何を見ているのか分からない。元々蒼白い顔が失血して唇が紫に変わる。
病気だ。
カルファーは大腿に突き刺さった剣を引き抜き、血を払った。ダラリと下ろされた足は弛緩している。
この子供は本当に、カルファーが革命軍に手を出さないと信じたのだろうか。そんな馬鹿な話を信じたのか? 手を出さぬ筈がない。
虚ろな目は、何を見ている。
何を信じた。
何を守ろうとした。
何の為に生きた。
喉の奥から漏れる小さな呼吸。カルファーが背中を向けようとしたその刹那、蒼い目は凛と輝いて見せたのだ。それは振り返る為に十分な、十分過ぎる程な魅力を持っていた。
透き通ってすらいないくすんだ色の何処に惹かれると言うのか。煌煌と揺らめく炎を其処に見た。青白く、寒気と恐怖を引き連れてくる炎――鬼火のような。
「カルファー様」
小男がまた呼んだ。
ここから先は、目を汚す事になりますので。
そう言って小男は薄く笑った。カルファーには、この小男であの炎を消す事が出来るのかと恐怖にも近い思いを感じた。闇の中で炎が燃えている。
其処に強がりが無かったとは、言えないのだ。
ソラは奥歯を噛み締め、背中を向けようとしたカルファーを睨んだ。その男を信用などしていないのだ。手を出さない訳は無いと分かっていたが、あの時の状況を考えればそうするしかなかった。
これで、全面戦争は恐らく始まる。イオはサヤを守ってくれるだろうし、帝国は滅ぶ。それだけで、十分だ。例え二度とここから出られず、あの笑顔を見る事が無くても。
選択する事で大切なものを失うなら、選択肢など無い方がいい。
朦朧とした意識、ぼやけた視界はカルファーの姿をはっきりとは捉えてくれない。その男がどんな顔でこちらを振り返っているのかなんて知らない。
まさか、恐怖を感じて動けないでいるとは思わない。
カルファーは数秒その目に囚われ、瞬きと同時に開放された。途端にどっと冷や汗が流れた。鼓動が早く大きくなり、疲労感が圧し掛かる。
――約束、守れよ
声が、ループする。
カルファーは振り返らず、塔を出た。柔らかな月明かりさえも眩しく感じた。後ろ手に扉を閉めると、背後からあの小男の卑下た笑いと何か重いものを運ぶ地響きのような音を聞いた。
あの目は、何を見ている。
闇の中に閉じ込められ、ソラは瞼を下ろしている。
このまま死んでしまえば楽だろうけども、それではカルファーに牽制した意味が無い。生きている事であの男を鈍らせる事が出来るならまだ、十分だろう。
生きる意味が一つずつ消えて行く。
声がした。
――だから、馬鹿なんだよ、お前は
レナードの声を聞いた気がした。でも、瞼は開けない。まだ亡者の元には行けないから。
修羅は、何処にいる。どんな目で見てる。笑ってくれるだろうか。じわじわと内側を侵食し、腹を食い破って出て来ようとする幻覚はやがて実体を持つだろうか。
そんな事を考えていると、実際に腹部に痛みを感じるから笑ってしまう。これはあの薬のせいか、それとも、何かの病なのか。
外で、カルファーは最後に離れたところから振り返っている。
病気なのだ。
あの目が頭から離れない。
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