29、喪失


 ソラは、外で全面戦争が勃発した事など知らない。


 数日前、革命軍は帝国を相手に最後の戦いを仕掛けた。この大きな戦いが終わった時にどちらが残るかなんてまだ分からない。少なくともソラがいた頃ならば、多少は革命軍に傾いたかも知れないが。
 激しさを増した争いは世界各地に広がり、それに乗じた紛争も起こり始める。戦乱の世は頂点にあった。

 革命軍は依然として帝国軍相手に戦い、厳しい攻防を展開している。本陣で全体の指揮を取るイオ自身厳しい戦闘に混ざって剣を振い、サヤやリーフは剣は握らないまでも救護として走り回っていた。

 ソラは、外で何が起こっているのか知らない。イオが助けようとしている事など微塵も分からない。自分はここから二度と出られないと思っている。



 遠くで水の落ちる音がしたと思った。
 暗闇の中でぼんやりと開かれた瞼、瞳は何を見ているのか焦点が合わない。遠くで聞こえた水音が、自分の腕から落ちる血液だと気付くのに随分と時間がかかった。
 この塔に閉じ込められてからどのくらいの時間が経過したのか分からない。時間の感覚は失せた。ここに来てからろくな食事も睡眠も与えられず、それも拷問の一環なのだと分かった。ごくたまに与えられる僅かな水分だけで気力を保っているが、意識を失おうとすれば殴られる。度々投与される薬品のせいで痛覚だけが異常に鋭くなり、微かな痛みにも跳ねるように反応してしまう。
 周りにいる男達が何を怒鳴っているのか分からない。耳が遠くなったようだ。

「さっさと言えってんだ!」

 頬に鈍い痛みが走る。何て事無い筈なのに、貫かれたような痛みが襲って来る。
 少し前、無意識にに舌を噛もうとしたが口に布を突っ込まれ失敗に終わった。そのままで何を言えと言うのか。帝国に忠誠を誓うとでも言えば納得するのか?
 でも、指が折られてしまったこの手では剣は握れない。杭で打たれたこの足じゃ戦場は走れない。何も出来ない、何も守れない。何の為に生きているのか分からない。

 水音、自分を囲む無数の足音、見下す視線。
 ここは、あのスラム街なのか? 俺はまだ、あの冷たい町を人形のようにさ迷っているのだろうか。誰もかもが通り過ぎて行く他人。その中で、道具のように扱われて捨てられた。
 どんなに叫んでも、誰も助けてはくれなかった。

 ミシリ、と軋む音で回帰していた思考が戻って来る。指先が何か車輪のような器具と石の冷たい床の間で悲鳴を上げていた。骨が折れる音がした。
 喉から零れるのは、空気の抜けるような掠れた音だけだ。色々な感情が抜け落ちて、暗闇の中で痛覚だけが全てになっている。
 背中は被せられた熱湯に皮膚が焼け爛れて目も当てられない状態になっていた。流れ続ける血液は意識を遠くさせ、視界に銀色の砂嵐を運んで来る。元々血なんか少ないのに、これ以上無くなったら死ぬんじゃないか。いや、死ねるんじゃないか。
 まだ死ねないと理解していながら、頭の何処かで死にたいと願っている。まだ、逃げない。俺には利用価値があるんだ。遠くで修羅が冷たく見下ろしている。それだけが理性を縛り付ける鎖だった。

――もう、いいだろう。お前はよく堪えたよ。俺に代わっちまえ

 囁くのは、止めて欲しい。精神は永い拷問と薬のせいで限界も近いから、簡単に頷いてしまいそうだ。

 ポッと炎が灯った。闇が逃げ出す蝋燭の明かりが近付くけども、瞳孔は開かれたままで光を調節する事も出来ない。焦点の合わない目は像を結ばず、近付いてくる男の顔が分からない。

「……ま……だ……」

 くぐもり、掠れた声が喉から漏れた。修羅に対して発した声だったが、小男は自分にぶつけられたものだと思ったらしく舌打ちする。

「しつけェ野郎だな」

 グサリとナイフが腕に突き刺さる。血管や筋の切れる音がした。薬で過敏になった体が跳ね、仰け反った喉が震える。声が、出ない。
 血に染まった頭を掴み上げ、炎に照らさせる。ミシリと頭蓋が軋む音がしたけれど、そんな事は誰も気にも留めない。

「こいつ、男にしちゃあ随分と綺麗な顔してるよなァ」
「でも、男だぜ」
「関係ねェよ」

 取り囲む男達、水音、逃げ場の無い場所。――ここはあのスラムなのか?

「……ぁ……」

 フラッシュバックする記憶が、霞んだ脳の中を駆け巡り始める。

「……っあ……ぁ……、や……」

 急に動揺し始めたソラを見て、男達が笑う。揶揄する声も、冷たい地面も全てが重なる。
 視界が突然揺らぎ出して、何が起こっているのか分からなくなる。痛みも何も分からない。何時飲まされたのか分からない水のせいで喉の奥が張り付いて息は上手く出来ず、掠れるような声しか出す事が出来ない。限界なのは精神力だけじゃない。体力も気力ももう限界だ。嫌だと首を振っても、精一杯抵抗しても離してもらえない。

 こわい。

 助けてと、叫びたかった。でも、どうせ誰も助けてくれない。誰もいない。何も無い。何も出来ない。

 こわいよ。

 男達が笑うと、空気が揺れる。目も当てられない状態になった肌を通り抜けて行く冷たい風。沢山の手、声、足音、視線。誰も助けてくれない。
 苛烈な恐怖が肌を伝って襲う。

 こわい。



 今度は、扉が軋んだ。外の光は血の色を帯び、その男の姿を浮び上がらせる。
 カルファーは闇の中で起こっている事態に眉を寄せた。何が起こっているのか分からなかったが、男達がカルファーを見て波が引くように離れて行った。
 ソラの瞳が虚ろになっている。あの炎は何処かに消え失せ、硝子玉のような無機質な光沢が見られる。あの炎を消したかったのは事実だが、それをやりたかったのはカルファー自身だ。すっと目を細めて嫌悪感を露にする。

「生きているのか?」
「……っ……さや……っ」

 血塗れの記憶の中で、微かな光がある。それにしがみ付くようにソラは意識を保っていると言っても過言じゃない。カルファーはまだ意識がある事に対して口角を上げ、口に突っ込まれていた襤褸布を引き抜く。

「サヤ様は」

 ソラの目を見て、カルファーはその単語を述べた。虚ろだった目に、微かな光が灯る。ただそれだけで蒼白い炎が揺らいだのだ。

「死んだよ」

 チリ、と炎が揺れる。
 ソラはそれがどんな意味なのか分からずに瞬きを数回繰り返し、その意味を拾おうとした。それは一体どういう意味なのだ。何の事を言ってる。

「お前がこんなところにいる間に全面戦争が起こって、敗走した革命軍は散り散りになって殲滅されている。リーダーのイオは城門前で晒し首になってるし」

 全面戦争が起こった? 革命軍が負けた? イオが晒し首?

「捕獲されたサヤ様は早朝、死んだ」

 サヤが、しんだ。
 しんだ? しんだとは、どういう意味だ。

――死んだ?

 瞬きを繰り返す蒼い瞳をカルファーは覗き込む。理解が追い付かずに蒼い瞳が焦点を失って何処か遠くを眺めているようだった。

「お前がさっさと帝国に寝返っていれば、死に目くらいあえたかもな」

 嘘だ。
 だって、イオが死ぬ訳無い。サヤを守ると言った。あの革命軍が負ける訳無い。リーフがいる、エルスがいる、ソウジュがいる。
 それに、カルファーが約束した筈だ。

 ぱちり、と瞬きするとカルファーは冷笑を浮かべた。

「あんな約束、守ると本当に思ったのか?」

 そんなの分かってた。でも、俺がここにいる間は大丈夫だと思ってた。
 あの革命軍が負ける訳無い。イオが殺される訳無い。サヤが死ぬ訳無い。そう信じてるのに、頭の中で紅い光がチカチカと瞬いて思考が追い付かない。



 みんな しんだ?



 ポツポツと、布に雨粒が染み込むように頭の中に紅い点が広がる。染められて行く頭の中、何が何だか分からない。悲鳴なのか、怒号なのか、笑い声なのか、泣き声なのか。何も分からない。分からないけれど。

 死んだ、のか?



 突然、頭の中にあの情景が浮ぶ。
 真っ暗の闇の中で亡者の血の気の失せた生白い手が踊るように揺れている。足元は血塗れで動く度に水音が鳴り、少し伸びた前髪から血液が滴る。
 目の前に蹲っている幼い頃の自分。肩口の傷を負わせたのは今の自分で、その凶器は今も手に握られている。その幼い自分の傍にいてくれていた筈の人が、いない。たった一人きりで血溜まりの中で座り込んでいる。

 遠い白い手の蠢く闇に歩いて行く無数の後姿。リーフ、エルス、イオ、そして、サヤ。振り返らない。叫んだ筈の声が出ない。置いて行かないで。

 なんで。



 頭の奥が焦げ付くような、焦燥感が込み上げる。どうすればいいのか分からず、目の端から生暖かいものが伝った。目の前のカルファーの表情が嬉しそうに歪むけど、何も分からない。
 焦燥感は一瞬で通り過ぎ、次に掻き毟りたくなるような恐怖が訪れた。

 こわい。
 こわいよ。

 誰か。

 でも、誰もいない。

 こわい。



「……ぁ……」

 誰もいない。誰もいない。誰もいない。こわい、こわい、こわいよ。誰か、でも、声が出ない。何処にも行けない。頭の中が真っ赤に染まって何か叫びたい衝動が訪れたけれど、何を叫べばいいのか分からない。
 呼吸が出来ないで窮屈な音が、一度鳴った。

「い……やだ……」
「お前が守ろうとしてた人は、呆気無く死んじまったんだよ。皆お前を許さない、ずっと恨み続ける。こんなところで何も出来ないでいるお前をずっと恨んでいるんだよ」

 頬を伝う一筋の涙が、顎から落ちる。血に塗れた床の上に涙が染み込んだ。
 次の瞬間、声にならない叫びを上げたソラはその体から想像出来ない力で暴れ出した。錯乱しているのが見て取れる子供の駄々のような暴れ方に、周りにいた男達は床に叩き付けるようにして抑える。
 引っ切り無しに零れ落ちる涙と、叩き付けられた際に出来た裂傷がポタポタと床に染みを作る。抑え付けられた掌は化膿した傷で滑っていた。

 この手は、守れなかったのか。
 また、守れなかったのか。それだけの為に生きて来た筈なのに、守れなかった。

 それなのに、俺は何で生きているんだ。

 ソラは口を大きく開き、舌を噛もうとした。それを予想していたカルファーは口の中に布を突っ込み、声もその行為も止めてしまう。涙が堰を切ったように流れ続けて止まらない。
 息が出来ない。声が出ない。目が見えない。耳が聞こえない。心臓が異常に大きな音を立て、暴れ狂ってる。破裂してしまうんじゃないか、破裂してくれたら。

 こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい

 恐いよ、誰か。

 人が、世界が、全てが恐い。何も信じられない。何もかもが恐い。


 崩壊を始めた精神の中で、修羅が少しだけ悲しそうな目で見つめていた。

――お前はよく、やったよ

 でも、守れなかった。守ると約束したのに、この血塗れの手は何も守る事が出来なかったんだ。壊すだけ壊して大切なものを失ってばかりいる。
 俺は何の為に生まれて来た。こんな事になるなら、生まれなければよかった。死にたい。頼む、死なせてくれ。

――もう、いいよ

 最後に、意識が何処かに転がり込んで行った。