30、血路


 酷い血の臭いだと、思った。
 全面戦争が勃発した中でイオは一区切りし、本陣を敷いた町の一角で帝国の方向を睨み付けている。空の端が朱を帯び、まるで火災でも起こっているかのように見えた。
 毎日死者が山のように溢れ、怪我人はそれを上回る。リーフやエルスはともかく、サヤさえも汗まみれになって走り回っていた。

 犇めき合う呻き声に絶え切れなくなってイオは立ち上がった。
 戦況は良いとは言えないが、決して悪い訳じゃない。ソラを欠いた革命軍の戦力は確かに低下したものの、革新的な戦略によって度々勝利している。イオのリーダーとしての素質はここに来て開花し始めたと言ってもいい。今まではまだ蕾でしかなかったのだから。

 ただ、そんなイオの脳裏にちらつくものがある。ソラの事だ。
 捕虜にした帝国兵の一人から、王宮の奥に存在する塔に閉じ込められていると聞いた。詳しい事は分からない。その塔が何処にあり、どんな塔で、何が行われているのか。想像しようとすれば出来なくも無いが、それは余りにも苦し過ぎる。

 苦しかった筈だ。辛かった筈だ。哀しかった筈だ。恐かった筈だ。それなのに、一言も言わなかった。
 ソラは戦争の被害者だ。こんな時代でなければ、日溜りの中で笑い合っていられた筈なのに。

 放って置けと人は言う。革命軍の中でソラは裏切り者と言うレッテルを貼られて忌み嫌われている。他の誰かそう称しても、イオだけはしない。そうなった時はリーダーとして終わりだと思っている。
 絶対に見捨てない。置いて行ってしまったら、あいつは本当に壊れてしまう。
 サヤもいない一人きりの状態で敵陣に飛び込んで、今何を考えてる。頼むから、馬鹿な真似だけはしないで欲しい。どんな傷付いても、血塗れでも、例え死んでしまってもここには居場所があるから、戻って来い。

 お前こそ、独りじゃないんだよ。


「イオ、探したよ」

 酷く疲れた顔をしているリーフの声が背中に刺さる。彼はいつも自分を探しているような気がした。

「東の状況が良くないみたいだ」
「――二番隊と三番隊を回そう。一番は隊長が負傷してるしな」

 背中を向けたイオは振り向かず、ずっと西の方角を睨んでいる。帝国をずっと憎んでいるのだろう。
 故郷を滅ぼし、家族や仲間を殺し、――友達を奪った帝国を恨んでいるのだろう。

 リーフは目を伏せた。

「……ソラは、きっと、もう帰っては来ないよ」
「黙れ」

 イオは振り返らない。

「俺が帰って来させる」
「どうして。もう、あいつは」
「独りきりなんだよ、あいつはずっと」

 漸く振り返ったイオは、燃えるような夕陽を背中にしていたので表情が影になっていた。それなのに、黒い影の中で炎の色をした紅い瞳が輝いて見える。

「ここはあいつの居場所だ」
「……捨てては、いかないんだな」
「当たり前だ」

 例え本人がそう望んだとしても、無理矢理でも連れ戻す。

「俺の仲間に捨て駒はいない」

 イオはそう言って歩き出している。その背中を呆然とリーフが見つめている事など、知らない。
 その姿に修羅を見た気がした。戦争の被害者は一体誰なのだろうか。



 翌日、イオは戦場に再び身を投じた。帝国に向かうには、途中で谷間の道を通過しなければならない。上の方は霞み掛かっている程に高く、頭上からの襲撃は無いだろう。ただ、相手は革命軍が来る事を知って既に軍が待ち受けている。ここを突破しなくては帝国まで行けないが、革命軍は不利であった。

 その谷間には一つの小さな村がある。その地が戦闘に巻き込まれると言う事で多くは避難したが、中には村に対する愛着や、病気や怪我の為に動けない村民も多かった。ただし、革命軍はそれを知らない。

 戦場と化した谷間は酷い有様だった。帝国による非道的な兵器の使用に始まり、奇襲等お手のもの。帝国は、そうして頑なに革命軍と戦うほどに人心を失って行く事に気付かない。革命軍はそんな帝国に怒りの炎を燃やし、必死に戦い続けていた。

 リーダーながらも前線に出て戦っているイオは、革命軍を率いて突破しようと奮闘していた。

 目の前で槍を構える兵士に貫かれる隣の仲間、イオはその槍を横から叩き割って首を裂く。仲間は崩れるように地に伏して動かない。その仲間に構う暇も無く振り翳される剣。
 押しては引きを繰り返すその白兵戦の最中、動きが見られた。

「どけぇーッ!」

 地面に突き刺さっていた槍を引き抜いて大きく振り翳し、思いきり投げた。槍は細い音を立てながら戦塵の舞い起こる中を進み、馬上の騎士を貫いた。
 槍は見事に眉間を貫いている。騎士はゆっくりと後ろに仰け反り、落馬した。

 右翼の指示を出していたその騎士を失った帝国軍は混乱を始め、革命軍はその隙を逃さずに大きく攻め込む。結果、帝国軍の右翼は総崩れとなった。
 右側から動き出した戦局、イオは其処を任せて苦しくなった左翼に移動する。

 右翼を崩した革命軍は自然と帝国軍を包み込む形で動き出す。戦闘に夢中になっている帝国軍がその動きに気付いた時にはもう遅かった。後ろに回り込んだイオは逃げようとする戦闘に騎士に向かって不敵に笑う。

 ただ、お互い其処が何処なのか分かっていなかった。

 駆けて来る馬、イオはグッと剣を構える。馬上の騎士が剣を振り上げ、イオまで数メートルとなったところで一つの小さな影が二人の間を過った。
 小さな、少女だった。咄嗟にイオは剣を持ったまま駆け出し、少女を庇おうとした。騎士の剣は少女を横凪ぎに振られていた。
 剣との間に割り込もうとした姿を、少し離れたところからリーフが見ていた。戦闘に参加していた訳では無いので遠目だったが、イオが何の為に何をしようとしているのかわ分かる。

 イオは、目の前の少女を襲う凶刃しか見えていない。届かない。また、この手は届かないのか。
 ソラが自分自身を殺そうとしていたあの瞬間と似ている。必死に走って、助けようとして、間に合わないのか。

 少女の目にその刃が映る。どうしてこんなところにいるのか、そんなものは簡単だ。ここは元々人の住んでいる村で、動く事の出来ない人々がいる。悪いのはこの戦闘の方だ。でも、今はそれどころじゃない。
 イオがその少女を抱えるよりも早く、剣が振られた。血液が飛び散った瞬間、イオは少女を抱いて跳んでいる。飛び散った血液は少女だけじゃなく、イオ自身のものでもあった。腹部を切り裂かれた少女はイオの腕の中で目を閉ざしている。悲鳴を上げたい衝動に駆られながら、イオは剣を杖にして立ち上がる。

 その騎士が、馬上から傾いている姿が目に映った。
 横首に何か線のようなものが伸びている。それが、『矢』だと気付くのに少し時間がかかった。

 革命軍側の遥か後方で弓を構えている姿が一つ。――アルスだった。

 頭を失った帝国軍は混乱し、革命軍はそれを完全に包囲する。

 戦闘は、終結した。革命軍は見事に帝国への道を切り開いたのだ。
 だが、イオはその勝利に酔い痴れる事も無く革命軍の陣地に向かって走り出す。腕の中の少女が目を開けない。腹部からの出血が激しく、確実に体温が下がっていた。

 小さくて軽い、十歳にも満たないような少女だった。イオはその子を抱えて馬に跨り、エルスのいる救護テントに駆け込む。中は戦闘の怪我人によって混乱にも近い状態だった。
 重症の仲間も多く、少女は次々後回しにされる。医者も物資も足らない中で、一人も仲間を犠牲に出来ない中でどちらが大事かと言われたら口を閉ざすしかない。でも、そんな犠牲を出したくないからイオはずっと戦って来た。綺麗事だろうけども、命には違いも優先順位も無いのだと思いたいのだ。
 だんだんと下がって行く体温、大量の血液。イオは医者じゃないからそれらを止める術を持たない。ただ、腕の中で確実に死へと向かう少女を救いたいと思う。

 ソラが頑なに守ろうとしていたのも、同じじゃないだろうか。
 掌から零れて行く砂を守りたくて抱えるけれど、どうしても守れない。失う恐怖を知っているから、自分の何を犠牲にしても守りたいと願うのだ。

――でも、それは犠牲にしていいものなんかじゃないのに。

 少女を抱えていると、リーフが素早く駆け寄って来てくれた。少女の状態を確認してすぐにテントに運び込み、空いているベッドに乗せる。イオは傍にいたが、何も出来ずに外に出た。
 外は血の臭いが溢れ、様々な負の感情が交差している。だけど、その世界がイオのいるべき場所だ。怪我人を治すテントの中に存在する意味はない。

(俺は、どうやっても傷付ける側の人間なんだな)

 守りたいと、救いたいと思ってもそれはテントの中にいるリーフやエルス達にしか出来ない。自分はその逆で、傷付け奪う一方だ。

 怪我人を運び、包囲した帝国兵に対する処置などの指令を出しながらイオは遠くの西の空を見つめる。帝国の存在する方角は、既に太陽は死に夜の色に染まっていた。
 戦場地が大体落ち着いたのは午後十時を迎えた頃だった。

 テントの前で膝を抱えて蹲っていると、漸く落ち着いた中からリーフが出て来た。

「あの子は……」

 詰め寄ったイオにリーフは小さく溜息を吐き、中を指差した。イオはすぐに中に飛び込んで少女のベッドに駆け付ける。中にいるのは怪我人ばかりで血や薬の臭いが溢れていて、今もまだ呻く声はある。その中から布を掛けられて運ばれて行く姿も、あった。
 そんなテントの奥に少女は一人だけで寝かされている。イオが馬鹿に寄ると、微かな寝息が聞こえた。

「生き、てる……」

 緊張の糸が切れたようにイオはその場にへたり込んだ。リーフはその姿を見つめ、傍に寄って少女に掛かっている毛布を正す。そうして、再びイオを見た。

「今日、この子を庇って死のうとしただろ」
「……」
「どうして、そんな無責任な事をする。お前が死んだら、この革命軍はどうなるんだ」

 目を伏せたイオはリーフの睨むような目を見ない。

「助けたかったんだ」

 独り言のような声だった。その呟きにも似た言葉は地面に落下し、拾い上げたリーフは込み上げて来る怒りを抑えられない。

「自惚れんなッ!」

 突然の、リーフの大声に周囲は水を打ったように静かになった。

「全ての人間を救えるとでも思っているのか?! 俺達は限界を持っている人間なんだよ! 神でも無ければ勇者でもない、ただの、ちっぽけな人間だ!」
「――でも、」

 イオは少女の頭を優しく撫でる。
 腹部の傷は思った以上に深かったのかも知れない。あんなところで戦闘が起こらなければ無かった筈の傷だ。それなのに、こうして傷付き眠っている。
 不幸だったとしか言えない。それでも、こうして呼吸をしている。

「でも、生きていてくれた……」

 イオは力無く笑った。
 ああ、とリーフは目を伏せる。革命軍は、このイオの元に集まったのだ。こんなにも無力で、それでもこんなに優しい彼の元に光を見たのだ。

「俺はソラ程に強くないし、リーフみたいに人を救える言葉も無いし、エルスみたいに医術も知らない。でも、こんな俺でも救えるものがあるなら救いたい」

 イオの脳裏に過る幾つもの思い出は、流れる時間の中で重みを増している。惨殺された仲間と燃え盛る村、仲間の沢山の遺体、――最後に、笑ったソラ。

「何も守れないなんて、嫌なんだ」

 リーフは、イオを見た。
 革命軍のリーダーだと言うのに我先にと前線に飛び出して命を危険に晒して、現に今だって無傷じゃないのに、守りたいと願っている。この戦場に生きるには、余りにも優し過ぎるのだ。
 だからこそ、人はイオを慕ってついて来る。この優しさを帝国は欠片だって持っていないのだから。



 やがて、イオは少女をリーフに任せてテントを出た。外は風が冷たく吹き付け、空には無数の星が瞬いている。夜風に凍えながら他のテントを回ろうとして歩き出したところで、アルスの姿を見た。
 少し離れた場所で焚き火を囲いながらぼうっとしている。傍にはシルフィが眠っているようで、その顔を橙の光が照らしていた。
 イオはその傍に寄り、焚き火を挟んだ正面に座る。アルスは一瞥くれただけで何も言わなかった。

「今日は、助けてくれてありがとう」

 アルスは焚き火をじっと見つめていたが、イオの顔に目を移した。

「……別に、お前を助けた訳じゃない」
「ああ、あの子を助けたんだろ?」

 イオは笑う。この無愛想で不器用な感じがソラに似ていると言ったら、きっと彼女は烈火の如く怒るだろう。
 だが、アルスは数日前にサヤと会話して以来何かが変わったとリーフが言っていた。イオは詳しく知らないし、踏み込んではいけない事情と言うものが誰にでもあるものだと分かっている。

「どうして、戦うんだ。この戦争の果てに何を望んでいる」

 アルスの睨むような黒い瞳が見たが、イオは苦笑した。
 どうして人はこんなにも理由を求めるのか、イオにはよく分からない。同時に、それが恵まれた事だとも気付いている。

「平和だよ」
「馬鹿だな」
「知ってる。俺は救世主なんかじゃない」
「……」

 アルスが黙ったので、イオは小さく笑った。

「戦争で利益を得るのなんか、一握りの権力者だけだ。俺はその中には入れないし、入りたくもない」
「お前は――」

 何の為に、と問おうとしてアルスは止めた。イオはもう、分かっているのだと思ったのだ。
 この戦争の行く末を、自分の最後の仕事を、そして、その先に残るものを既に見つめている。

「……ソラの話をすると、怒るかも知れないけれど」

 アルスの瞳に何か種火のような炎が灯ったように見えたけれど、イオは気にしない事にした。彼女がどんな目に遭い、ここまでどうして来たのかは大体分かる。アルスはソラによって深く傷付き、その中でソラを憎む事だけでここまで生き、そして、その理由を失ったのだろう。

「アイツはずっと理由を求めていた。自分の存在する理由、戦う理由、生きる理由。ああ、意味と言い換えた方がいいか」

 アルスは焚き火を睨むように見つめて反応を示さないが、イオは続けた。

「生きる事は認められず、死ぬ事は許されず、生まれた事を後悔しながらずっと生きてた。その中で見つけた意味を奪われ、自分を犠牲にしながらでも戦って来た。たった一人を、守る為に」
「馬鹿な」

 アルスは顔も上げずに言う。

「生きる事は死に向かうと言う事だ。何の意味がある」
「……そんな言葉で括れないって事くらい、お前も分かってるクセに」

 イオは笑った。
 戦争は人の心を病ませる。ソラもアルスも、イオ自身も含めて歪んでいる。それでも、生きたいと望むのだ。その先に何があったとしても。

「意味なんて探すよりも、作る方が遥かに楽だ。アイツもそんな事分かっていたクセに探し続けていたのは、心の何処かで自分は許されちゃいけないと思っていたからじゃないかと思うんだよ」
「随分と、庇うようだが」
「そりゃ、庇うさ。アイツは俺の友達だ」

 イオは立ち上がった。焚き火から離れた顔が闇の色を帯びている。

「ソラは必ず助ける。絶対に、独りで死なせたりしない」
「……私は、ソラ=アテナを殺すよ」
「それはアンタ達の事情だから俺の介入の余地はない。でもさ、とにかく助け出したいんだ」

 イオの向けた背中が橙を帯び、やがて闇の中に沈んで行った。
 アルスはそれを、呆然と見つめている。