31、生きる意味
苦しかった?
イオは、戦場にいる時いつもソラに訊きたかった。泣き出しそうな顔で笑っていると気付いていなかっただろうか。壊れながらもただ一つを守ろうとしている時に、その背中を見守っている人がちゃんといた事が分からなかっただろうか。
その二度と訪れない数日前が、今では酷く悔しい。
全面戦争は激しくなった。帝国へと続く谷間での戦いを勝利し、勢い付いた革命軍は次々に攻撃しては勝利して行く。それまで帝国に属していた筈の国も寝返ってしまっているのだから、時代の節目は今なのだと誰もが理解した。
時代の節目には色々な事が起こり、様々な人間が登場する。未来語り継がれる物語であっても、その時代を生きる人々がどんな思いで戦っているのかは伝わらない。
イオは、崖の上から目と鼻の先にある帝国を見つめた。中央に位置する王宮は、まるで民衆の壁に守られているようだった。――否、民衆を人質に取っていると考えた方がいいだろう。
帝国はその思想を宗教のように教え、狂信的に王を崇めさせている。そうする事でしか人を支配出来なかったと言う事に同情を覚えた。人を支配したいのなら、尊敬されるべきだったのに。
「イオ」
強い風の吹き付ける崖の上で服は音を立てて揺れる。その中で、揺らぐ事無くイオは真っ直ぐに立っていた。リーフがその後姿に向かって呼ぶと、イオはゆっくりと振り返って笑った。沈んで行く夕陽を背景に、表情には影があるように思える。
「もう、終わりにしようか」
イオは言った。やはり、表情には影が出来ていてよく分からない。その笑いにどんな意味が含まれているのか。
歩き出すと、強風は向かい風に変わった。砂を含む風が正面から吹き付け、リーフはそれを避けて顔を覆うがイオは真っ直ぐに歩いて行く。
「なあ、知ってるか?」
背中を向けたまま、イオは言う。
「嘗て東方に在った国にはサムライと言う種類の人がいてさ、彼等は肩で風を切って歩くんだそうだ」
「肩で風を切る?」
「堂々と、威勢良く歩いて行く事だよ」
ふうん、とリーフは頷く。それ以上にどんな反応をすればいいのか分からなかったからだ。イオは背中を向けたまま少しだけ笑ったようだった。
「肩で風を切るには向かい風でなければならない。だから、俺はこうして歩いて行く」
イオは、それ以上は何も言わなかった。
今朝、帝国までの道を守る最後の砦を攻略した。帝国思想が根強く残る地だったので、砦が落ちると分かった時に全ての帝国兵は自害した。残ったのは炎が放たれ廃墟と化した砦と死体の山だけだった。
毎日、多くの人が死ぬ。多くが傷付き、いなくなる。
その中でイオの神経は研ぎ澄まされて真っ直ぐ前を見つめていた。その先が何を見ているのか、リーフは僅かに寒気を覚えている。
戦争の中では色々な感覚が麻痺して行くのに、イオだけは仲間の死を哀しみ、帝国の理不尽に憤りを覚えている。何処までも、何時までも人間らしくいられるイオの一種の強さに恐怖している。彼がソラのように壊れてしまったらそれはとんでもない事だけども、それはそれで人間らしい一面だと思うのだ。だから、リーフは何故イオが今もこうして『肩で風を切って』いられるのか分からない。
イオとソラの最大の違いは、背負っているものの違いだ。イオが背負う革命軍とは責任の事だ。自分の意志の元に集まった人間の命を受け取った責任を負っているから、倒れずに歩き続けられる。同時に、その背負ったものが重過ぎれば誰かを頼ればいいと言う事も知っている。
ソラは反対だ。戦う理由はサヤを守る為で、それは責任でもなければ意志でもない。一つの歪んだ義務だ。守ると約束したから守らなければならない。其処に『意思』が無いとは言えないのだけども。また、それを誰かに頼る術を知らない。
お互いに反対の生き方をしているから、イオはソラを絶対に救ってやりたいと思うし、ソラはイオを信じている反面で近付いてはならないと思っている。
リーフは小さく溜息を吐く。ある大きなテントの下に、イオも含めて集まっていた。
各地区の革命軍トップとの会議は頻繁に行われる。皆若いが、その中でもダントツに若いのはリーダーであるイオだ。それなのに、イオには頼りにしたくなる何かがあった。
それぞれの報告を聞き終わり、イオは席を立った。
「明日、帝国を攻める」
ざわり、と空気が揺れた。無茶だと言う声はもう飛ばない。その時が来たのだと皆が表情を固くして言葉を待っている。
「全てを終わりにしよう」
少し影のある笑顔で、イオは言った。
その後作戦を告げ、会議は興奮の中終了した。この全面戦争の最後を迎える前の会議にしては随分と短かったけれども、イオの意志は確かに各地区に広がって行った。
テントを出たイオの後を追ったリーフは、その会議中にも感じられたイオの『焦り』を問おうとして走ったが止めた。イオが何故焦っているのかくらい、分かる。リーフとて、心配ではない訳じゃないのだ。
帝国に連れて行かれたソラの情報は殆ど入って来ない。捕虜にした帝国兵の一人から、王宮の中庭にある『塔』の中に連れて行かれたと言う情報以外は無いのだ。その塔が何なのかは、近付く事が許されていなかったので分からないと言う。
酷い目に遭っていない訳が無い。ただ、殺されたと言う情報だけはまだ来ないのが救いだ。それも時間の問題である事をイオは分かっている。
イオは最後の戦いを前にした仲間一人一人に声を掛けて回った後で、本陣の端で月を見上げるサヤの傍に歩み寄った。月は雲に隠れて朧げな輪郭を薄く浮び上がらせ、星はちらほらと微かな光を放つ程度。感想を述べろと言われても言葉が出せないような空を、サヤはたった独りで見上げている。
「サヤ」
掛ける言葉が見つからなかったので、とりあえず名前を呼ぶと、振り返って力無く微笑んだ。ソラがいなくなってからはずっとこの調子だった。
ソラは何も言わずにここを出て行った。シルフィの話が無かったら裏切り者として処理されていたかも知れないのに。いや、それも覚悟して(と言うよりどうでもいいと思って)いなくなったのだ。
ソラは他者中心主義と言うよりも、過度な自暴自棄だ。だからこそ、救ってやりたいと思うのだけども。
「明日、攻撃を仕掛ける。俺はソラの救出を第一に考えるつもりだ」
「……」
サヤは何も言わなかった。ここにもしもソラがいたなら、その心中を察する事が出来たのかも知れない。
帝国が滅ぶと言う事は、サヤの故郷が滅ぶと言う事だ。そして、この世界でたった一人の肉親が死ぬ。どんな仕打ちを受けても、帝国の王はサヤにとっては唯一無二の父親なのだ。イオはそれが分からない。どちらにしても、分かったところで如何しようと言う事は無い。王は罪を重ね過ぎたし、もう終わるべき過去の人間だ。それはサヤも承知しているけれど、やはり、もしもソラがいたなら何かが変わったかも知れない。
「帝国は滅ぶ。その先に残るのは爪痕の深い世界で、恐らく平和とは程遠いだろう」
イオはサヤの隣りに腰を下ろす。其処で漸く、サヤが独りきりでいた訳じゃない事に気付いた。
膝の上に置いた手の中に、一羽の白い小鳥が蹲っている。イオの存在を知ってからずっとこちらを見ていた。
「これは?」
「ソラが拾って来たの。いなくなってからは私が世話してるんだけど、余り懐かない」
サヤは苦笑した。鳥の黒々とした瞳には恐怖が映り、イオを見て怯えているようだった。
「ソラがいなくなってからは、一声も発さない」
「懐いてたんだな」
イオは笑った。
鳴かない鳥は今もサヤの手の中に納まって、彼の帰りを待っている。それだけでも、ソラはただ冷酷な人間じゃないと分かるのに。閉ざされたままの橙の嘴を見つめ、イオは小さく息を吸い込む。
「……俺の最後の仕事は、その世界に禍根を残さず全てを持って行く事だ」
「どういう事?」
サヤの目に不安が映った。
「それは、いなくなってしまうと言う事?」
「俺は、もう俺の役割を理解してる。きっと、ソラもな」
「そんなの、嫌よ……」
「甘ったれんな」
イオの紅い瞳がサヤを射抜いた。ここのところ戦いっぱなしで神経がすぐにささくれ立ち、殺気が漏れ出している。サヤはたじろいだ。
「まだ、分からないのか?」
サヤの優しさや純粋過ぎる心に苛立ちを覚えた。どうして、守っていたソラはあんなに傷付いていたのに彼女はこうして無傷でいられるのだろうか。何処まで綺麗な人間でいるつもりなのだろうか。
どうして、気付かない。この戦争じゃ誰もが加害者で、誰もが被害者。皆が同じ罪を背負わなければならない。
「これは、お前の為の戦争なんだよ!」
「――私?」
サヤの翡翠の目が瞬く。予想もしなかった言葉に目を丸くし、息を呑んだ。
「お前の役目は、戦争が終わった後の爪痕深いこの世界を導く事だ」
「どうして――」
「帝国思想は根強く残り、革命軍を良く思わない者も多い。双方に属したお前にしか出来ない事だ」
「そんなの、」
「無理とは言わせない」
イオは自分の役目を理解している。これだけ戦い傷付いても、後の世界に自分の居場所等は無い。
「ソラは自分の居場所を壊してまでお前を守ったんだ。なら、今度こそお前がソラを守れ」
「私には、重過ぎるよ……っ!」
「何時まで守られてるつもりだ!」
イオは叫ぶ。
嘗てソラが言った通り、この戦争の大元の原因は『大人』だ。それが『子供』を巻き込み混沌とした戦乱を引き起こした。なのに、ここに助けてくれる大人はいない。
サヤは手も足も肩も細い。ソラのように剣を振って来た訳では無いし、戦いになれば真っ先に死ぬだろう。でも、非力と無力はイコールじゃない。この少女は、世界を背負わなければならない。
――代わりに、この戦争の傷痕、犠牲はイオが背負って行く。
人は皆、意味を持って生まれて来た筈だ。ソラはきっと、未だにそれを探し見つけられないでいる。だから、意味なんか探すよりも作る方がずっと楽なんだ。
「お前は何の為にここにいるんだ。何の為に生きてる」
サヤは俯き、唇を噛み締めた。普段のイオならこんな物言いはしないが、今は戦争の真っ只中。言葉を選ぶ余裕などある筈も無い。
「生きるって、何?」
サヤは、漸くソラの追い続けた疑問に辿り着いた。イオは立ち上がり、背中を向ける。
「それを俺に求めるなよ。答えは与えられるもんじゃない」
そして、ゆっくりと歩き出した。
革命軍のテントが立ち並ぶ本陣の中を歩き、少し先でアルスとシルフィが座っているのに気付いてイオは立ち止まった。二人ともイオには気付いていなかったが、乾いた足音を響かせて近付くとアルスが顔を上げる。
砂漠と違う乾いた固い土の地面にはちらほらと草花が生えている。
「怪我でも?」
問うが、アルスは首を振って否定するだけで言葉は発さなかった。隣りにいるシルフィはアルスに凭れ掛かって眠っている。サヤと同い年かそれ以下か、いずれにしても戦場には見合わない。それでも、シルフィは戦場で恐ろしく腕の立つナイフ使いだ。不釣合いな力が滑稽で、酷く哀しかった。
「……無理に戦えとは言わない。この戦争の傷をシルフィには負わせたくない」
イオは眠っているシルフィを見た。自分と大して歳は変わらないのだろうけど、どっぷりとこの戦場に嵌ってしまっている自分と比べれば彼女はまだ引き返せる。
アルスはそんなイオを見て、苦笑した。
「それは、私も言っている。でも、この子は自分に出来る事をやろうとしているだけ」
シルフィの村は流行り病に消え、彼女たった独りが生き残った。親兄弟、仲間が次々に倒れ行く中で自分だけが助かり、その後の世界に何を思っただろうか。それが希望でない事は言うまでもない。
絶望した筈だ。助けてくれなかった大人達に。だけど、それ以上に彼女は自分の無力さに絶望した。何も、出来なかったのだから。
例え、その場にいたのがイオやアルスでも何も出来なかっただろう。だけど、シルフィはその時何も出来なかった無力な自分を悔いている。だから、今自分に出来る事をやりたいのだ。
「この子が戦ってるのは帝国じゃない。ただ、自分自身の為に戦っているんだ」
アルスは自分に寄り掛かって眠るシルフィの頭を愛しそうに撫でた。
アルスはイオの事が別に嫌いではない。だが、自分よりも幼い少年が革命軍のリーダーとして戦場で戦い傷付いて、自らの役割を理解していると言う事が余りにも哀しいのだ。守られるべき存在なのに戦わざるを得なかった。まるで、不完全なまま羽化した蛹のように。その羽根は大空に広げる事は出来ない。
沈黙が流れた。物寂しい風が二人の間を吹き抜け、イオは口元に微かな笑みを浮かべて歩き出す。
アルス達の姿が見えなくなり、イオは歩調を緩めて目を閉じた。広がる闇の中、血の臭いが何処からともなく漂って来る。これが、戦争だ。そして、二度と繰り返してはならない。
帝国の王宮に火が放たれたのは、それから僅か数時間、朝陽も昇り切らない翌日の事だった。
帝国に潜入していた密偵より報告がイオの元に届く。話によると内部で反乱が起こり、寝返った兵士数十名を帝国軍密偵が率いて火を放ったのだと言う。
急展開を見せた事態に戸惑いは隠せないが、イオは素早く出撃命令を発した。自身も馬に乗って帝国の王宮まで向かう為に準備を始める。混乱に包まれた城下町からは悲鳴が木霊し、逃げ惑う人々でごった返していた。
イオが馬に跨った時、密偵の一人から王が腹心の部下数名を連れて逃走したと連絡が入った。既にそれを予想していたイオは麻布のマントを翻し馬の横腹を蹴ろうとして、静止した。目の前にサヤが、立っている。
「イオ」
サヤは酷く穏やかな笑顔で、真っ直ぐ真剣な瞳を向けている。凛と澄んだ空気に包まれたサヤは、それまで見て来たあの少女とは思えなかった。
仕草一つ一つが洗練され、優雅に思える。その静かな足取りでイオの元に歩み寄り、馬の横首を撫でた。
「私は私に出来る事をするわ。だから、イオはイオに出来る事をして欲しいの」
サヤの手元にはあの小鳥がいる。閉ざされたままだった嘴は何か言いたげに開閉を繰り返していた。
「ソラをお願い。それから、生きて帰って来て」
イオは笑みを浮かべ、目の前にいる帝国の王女に向けて深く頭を下げた。
「Yes,ma'am.」
サヤは、笑った。
イオも、自分の役目がここで終わりだとは思っていない。まだ死ぬ訳にはいかない。やるなら最後までやらなければ。
イオは馬を蹴った。すると、馬は高く鳴き、前進の筋肉を躍動させて走り出す。蹄の乾いた足音は遠く木霊し、凄まじい速度で後ろへ飛んで行く景色からは仲間の声援が聞こえた。
革命軍の本陣を抜け、草生す原っぱを駆ける。火の放たれた帝国の空は早朝だと言うのに夕焼けのように紅く、血の色をしていた。其処までの距離は相当あるが、日が沈むまでには到着出来るだろう。イオは唇を噛み締め、身を低く固めた。
周りから響く仲間の猛る声、後を追う大量の蹄の音。
イオは遠い空を見つめている。
昇った朝陽が天頂に到着し、やがて西の空に落ちて行く。群青を帯びた空の一部、帝国の上だけが紅い。イオ達革命軍の先遣隊が帝国の城下町に到着したのはその頃だった。
話に聞く通りの混乱。その中をイオは馬で駆ける。頬を凪ぐ風は生暖かく、砂漠のように乾いてもいなければ北のように冷えてもいない。まず、不快感を感じた。
少し離れた先の王宮には火の手が上がり、その熱気がイオを焦らせる。その炎がソラを襲わないとは限らないのだ。だから、イオは必死に走った。
ソラは、暗い塔の中に閉じ込められている。多くの感覚が麻痺し、何度も揺り動かされる体に痛みはあっても心が付いて行かない。置いて行かれた心は転がり落ちて、何処か光も当たらない闇の中に嵌ってしまっている。
修羅と呼ばれる狂気そのものだけが、ソラを哀しそうな目で見ていた。下卑た笑いが木霊する内部は、ソラにとっては地獄でしかない。過去の精神的外傷を抉り取る行為は数人で繰り返され、ソラを玩具のように扱い正気を失わせた。
心だけが、闇の中に落ちて行く。
ソラはまた、あの闇の中にいる。
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