32、誰が為に


 火が放たれた王宮は逃げ惑う人々と押し寄せる革命軍と迎え撃つ護衛の兵達でごった返していた。夜の筈の空は焼けるような橙に染まり、其処等中から悲鳴や血の臭いが溢れている。イオはその中をまるで泳ぐかのように進み、ある一点を目指した。
 城門を潜り抜け、廊下を疾走し階段を駆け登り、中庭に飛び出す。外では砂漠化が進み、人々は貧困に喘いでいると言うのに、この小さな中庭には緑が溢れている。その美しい景色の中に、場違いのように何処か禍禍しい石造りの建物があった。
 イオはその生え揃った芝生を踏み付けて奥に見える質素な塔に向かう。入口の扉は木製だったので、思いきり蹴り飛ばすと簡単に吹っ飛んでしまう。
 嫌な予感と言うものはずっと有った。それは時に背中を焼くような焦りとなり、或いは呼吸を止める寒気となって現れる。イオは、その塔に飛び込んだ時に呆然とした。紅い炎に照らされた塔は窓一つ無い闇の中、目を凝らしても何も見えず、ただ無数の気配がその中で蠢いている。
 酷い血の臭いだった。だんだん目が慣れて来て、其処にあるものが何なのか分かった。そして、それと同時に吐き気を催す眩暈を覚える。

「ソラ――……」

 服を着ていない体は血塗れで、蒼白い肌には無数の痣や裂傷や火傷が見られる。背中は皮膚を剥がされて色の違う赤い筋が晒され、銀色の髪も赤に染まり、顔は見えない。
 周りにいた男達が、拷問以上の何をしたのかは見て取れた。それぞれ武器を構える姿にイオは既に剣を抜いている。髪が逆立つような怒りが沸沸と湧き上がって来た。
 最初に飛び掛って来た大男の胴を払い、次に来た二人の剣を屈んで避け、体を起こすと同時に斬り上げる。流れるように次々と殺し、最後に残った小男の首に剣を突き付けた。辺りは血の海で、切り落とした腕がすぐ傍にある。目の前の小男は見っとも無く震え、元々の歪んだ顔を恐怖に引き攣らせている。

「た、助けてくれ」
「どうして、助けてもらえると思うんだ」

 イオは真っ直ぐ見下ろしている。
 背中を向けている扉から誰かが入って来る気配があったが、イオは振り返らない。リーフは塔の中の有様に一瞬体を強張らせ、すぐにソラの傍に駆け寄って行った。

「お前は、助けてと言った者をどうした? 助けた事なんか、無かっただろう」

 それだけ言って、イオはその首を飛ばした。血の吹き出る首、体を蹴って転がす。飛んで行った首はまだ恐怖に引き攣っていた。
 イオはすぐにソラのところへ駆け寄った。リーフの着ていた上着で包まれた体が酷く細い。薄く開かれた目、本当に生きているのか怪しいもので、リーフが生きていると言って漸く息が吐けた。
 薄く開かれている目から、微かに蒼い瞳が見える。異変を感じ取ったのか偶然か、瞼が少しだけ上げられた。
 その蒼い双眸に、一瞬通り過ぎた感情にイオは声を出すことが出来なかった。この少年は、目の前にいる自分に対して、恐怖したのだ。目から流れる涙が血に染まった頬を伝う。

「いや、だ」
「ソラ?」

 痙攣のように震えるソラの手を掴もうとして、イオの手は伸ばす事が出来ずに空を掴む。いつも剣を握って、大切なものを守ろうとして来た掌。酷く小さい。だけど、それ以上に掌には裂傷があり、爪が一枚も無い指先は奇妙な形に歪んでいる。一本残らず折られているのだ。
 剣は握れないだろう。守る為だけに生きて来たのに、その為に剣を握る手を失ってしまうのか。

「ソラ! 俺だ!」
「だ……れ……」

 大きな声に怯え、見えている筈のイオに恐怖して問い掛ける。それ以上の言葉を、イオは繋ぐ事が出来なかった。
 リーフがその体を抱き上げて脱出しようとしたところで、扉の方を振り返って静止した。橙の光を浴びた影が一つ、扉に寄り掛かりながらこちらを見ている。

「何をしてやがる」

 見覚えがあると、イオは思った。いや、無い筈が無い。あの時ソラを連れて行った騎士だった。

「……リーフ」

 イオは剣の切っ先をカルファーに向けた。リーフは頷き、ソラを抱えて立ち上がる。イオがカルファーに斬り掛かったと同時にリーフは塔の外に出た。
 カルファーの剣と交差する剣はギリギリと不協和音を奏でる。リーフが脱出したのを見て、イオは剣を弾いて距離を取った。

「勝手な真似をしてもらっちゃ困るな。連れ戻すのが面倒だ」
「連れ戻させやしない。お前はここで死ぬんだから」

 切っ先がカルファーを睨みつけるように持ち上げられた。イオの炎のように紅い双眸を見て、カルファーは舌打ちする。ソラの鬼火とは違う種類ではあるが、其処には何か人とは異なる光があるのだ。
 その紅い瞳はレナードに似ていると思った。レナードとカルファーは同い年で、同期でもある。彼は自分と同じようにしていても全てが違う、天才という種類の人間だった。常に劣等感を感じさせたそのレナードがカルファーは大嫌いだった。だから、それがソラと言う少年に殺されたと聞いて嬉しかったのだ。仮にも、仲間なのに。
 本当は、レナードを殺したかった。でも、その実力が無く、結局その役目は奪われてしまった。だったら、その人物を殺すしかないだろう。レナードに出来なかったように、地獄の底まで落として――。

 一瞬、紅い光が闇の中に消えた。次の瞬間には構えた剣が鋭い音を立ててイオの剣を受け止める。

「帝国と共に死ね。お前は未来、存在しちゃいけない」
「帝国は終わらない。これからもずっとな」

 終わる訳が無いと信じ切った目がイオを睨む。憎悪に塗れ歪んだ眼球だった。

「終わらないものなんか何も無い。形有るものは全て滅びる。……見ろよ」

 剣を交している間に、イオは出口を背中に向けていた。その背後に燃え盛る王宮がある。王はとっくの昔に脱出してしまっているけども。

「この国は終わる」
「貴様ァ……」
「分からないのか? この国を滅ぼしたのは俺じゃなく、人々の強い意志なんだよ」

 交差していた剣が弾かれ、嵐のようにカルファーの剣が振り払われた。だが、読んでいたイオはそれを屈んで軽く避け、頭上の風を切る音を微かに聞いた。

「帝国は恨まれ続けた。憎まれ、それを滅ぼし、禍根を残した。分からないのかよ!」

 イオの剣が、カルファーの右腕を切り落とした。腕を失った剣が音を立てて落下し、硬質な音を闇の広がる塔の中に反響させる。カルファーの呻き声が微かに漏れる。

「痛いだろ? 皆、痛いんだよ」

 勝負は決しているが、カルファーは落とした剣を利き腕ではない左に持つ。それでイオに勝てる筈無いとは分かっているのだ。
 イオはそんなカルファーを睨み付けている。元々、許す気も助ける気も無い。

「人の痛みも分からないくせに、剣を握るんじゃねぇ!」

 くわん、と塔の中に反響する声。カルファーは笑った。

「それをお前が言えるのか? 忘れるな、お前はこの戦争を起こした人間なんだ。俺と同じ穴の狢なんだよ」
「俺は違う」
「違わないさ。その血塗れの手で人々を率いる事が出来るとでも思っているのか?」
「……平和な世界を導くのは、俺の仕事じゃない」

 今度はイオが笑った。酷く穏やかな笑顔にカルファーは言葉を返す事が出来ない。

「俺の仕事は、平和な世界の為の礎を造る事だ。例え俺がその世界にいられなくても、未来に光が残るように全ての憎しみを背負って消える事が俺の役目なんだよ」
「それで――、いいのか?」
「そう思える世界を、きっと創ってくれる」

 イオの脳裏に、革命軍の面々が浮んだ。彼等の為なら命は惜しくない。その世界の為ならこの命も懸けられるのだ。
 生きると言うのは賭けだ。リスクは常に背負わなければならない。
 今なら、ソラがどうして戦っていたのか分かる。どうして必死にサヤを守ったのか。それは絶対に自分の意味を求めて責任を押し付けていた訳じゃない。サヤの進む先に希望を見たんだ。彼女が進まなければならないだろう道を照らす為に戦って来たんだ。

 ソラは優し過ぎた。
 どんな未来にも自分は存在しないだろう事を知っていて、それでも必死に戦っていたのだ。

「この国は、命を懸けたいと思えるような国じゃない。そんな世界でどうして生きられると言うんだ」

 ふらりとイオの剣が持ち上げられた。目の前で隻腕になった男は出血多量で間も無く死ぬだろう。止めを刺す必要は無いと分かっているが、責任を負う義務がある。
 だが、カルファーは剣を持ったまま座り込んだ。

「……行けよ」

 ポツリと、言葉を落とした。

「自分の責任くらいは、自分で取ってやる」

 自分の方に剣の切っ先を向け、カルファーは言った。イオにも彼が何をしようとしているのか分かったが、まさか止めるつもりは無い。
 イオはカルファーの方に一瞥して、すぐに背中を向けた。カルファーはその背中に、いつかのレナードを見た気がした。戦場で走り回っている背中をいつも見て来た。最強の名を背負っているからこそ、前線で。
 レナードが守りたかったのは、きっと帝国じゃない。その上で生きている人々だ。

――お疲れ

 イオが去った後の場所に、レナードが立っていた。昔のままの笑顔を向けている。

「――ああ」

 掠れるような返事をして、カルファーは剣を突刺した。



 塔を出たイオはリーフの後を追う。その途中で二頭の馬を見つけ、その内の黒毛の馬に跨ってもう一頭の茶毛の馬は引き連れた。乾いた蹄の音を響かせながら走ると、城を出たところにリーフがソラを抱えて走っている姿がある。傍に駆け寄って声を掛けるとリーフは振り向き、腕の中で死んだように眠るソラの傷だらけの顔が見えた。
 ソラは依然として眠っている。微かな呼吸はあるが、酷く冷たい体は病的に白く細い。リーフに代わって抱え上げた時の軽さに泣きたくなった。

 あの時見せた恐怖は、何だったのだ。
 助けたいと思っていたのに、間に合わなかったとでも言うのか。

 自分の無力さを嘆きながら馬の横腹を蹴る。馬は高く鳴いて地面を大きく蹴った。

 最も近い革命軍の駐屯地に転がるように駆け込む。驚いた面々は集まって来たが、イオはそれを無言で押し退けて救護テントに向かった。イオの抱えるソラを見る顔がどれもこれも引き攣り、恐怖している。
 どうして、恐怖するのだ。彼はずっと俺達を守ってくれたのに、どうして。

 行き場の無い怒りはループして吐き出す事が出来ない。
 駆け込んだテントには偶然だが、エルスがいた。エルスはソラの有様を見て絵に描いたような驚愕を顔に浮べたが、すぐに手当てを始める。
 何処から手を付ければいいのか分からないような体だったが、エルスは手際良く手当てを進めて行く。彼女はこうして何人の仲間を救い、また、救えなかったのだろうか。
 通常ならもう、楽にしてやった方がいいような傷ばかりだった。拷問で受けた傷がそういうものであるくらいはイオにも分かる。ソラは生死の境をさ迷い、今も微かな呼吸を繰り返している。
 ソラを救い出した事はサヤにも伝えられたが、テントの中には入れなかった。見せられるような状態ではなかったし、何よりソラが嫌がるだろう。
 テントの前に人だかりが出来ている事などイオ達は知らない。ただ、目の前で今にも死にそうになっている仲間を見守るだけで精一杯だった。

「エルス、ソラは……」

 堪え切れずに訊くと、エルスは手を止めずに口を結んだ。だが。

「医者が諦めたら、患者は死ぬしかないでしょ? 必ず助けてみせるから」

 そう言って、エルスは血に塗れた指先を消毒する。やはり、細い指の骨は折られていた。その先端の爪は一枚も無い。こんな状態になっても、ソラは守りたかったのだろう。
 サヤを守る為だけに全てを捨ててここにいる。だけど、その捨ててしまったものは決して安くもなければ軽くもない大切なものなのだ。そうして犠牲にした自分自身を守りたいと思っている人間も一人や二人じゃないのに。

「ソラ!」

 死を目の前にしているソラに向かってイオは叫んだ。返事は返って来ないし、何の反応も見せない。それでも、何度もその名を呼んだ。

「ソラ! 目を開けろ!」

 声が届かない。叫ぶ程に喉は嗄れ、掠れた音が吐き出される。それでも。

「死ぬなよ! 勝手に死ぬなんて許さねェからな!」

 例え剣が握れなくなっても、戦えなくなってしまっても構わない。今までのどんな暴言も許すから、死ぬ事だけは許さない。

「ソラーッ!」



 ソラは、闇の中にいた。
 酷い雨が降っているのに傘も雨宿りの屋根も無く、座り込んで雨に打たれている。足首まで溜まった水は氷のように冷たく、着実に体温を奪って行く。その中で寒さに震えながら膝を抱えて、顔を埋めていた。
 雨音以外に音は無い。ただ、闇の向こうに亡者の生白い手が大量に誘うように揺れている。その向こうにセルドやリューヒィやレナード、セレスは堕ちて行った。サヤやイオ、リーフ達も其処に消えて行った。
 誰もいない。

 生きる事は認められず、死ぬ事は許されず、生まれた事を後悔しながらここにいる。一体何の為に生まれたのだ。ずっと、死にたかった。こんな事になるなら生まれなければよかった。
 本当はただ、守りたかっただけなのに。

 ぱしゃん。

 目の前で水の跳ねる音がしたが、ソラは顔を上げない。

「何してやがる」

 知っている声なのに、顔を上げる事が出来なかった。声を聞いた瞬間、体が強張った。

「いつまでそうしてんだ」

 セルドは、ソラの前に立って見下ろしている。顔を上げずに膝を抱えて、何かに怯えるように自らを抱き締めているその体は傷だらけで目を当てる事も出来ない。

「顔を上げろ」

 その簡単な動作さえ忘れてしまったかのように、ソラは蹲っている。
 酷く小さい体に思えた。酷く細い体だった。戦場で栄養不足の体の成長が遅れているのは珍しい事では無い。北国で生まれただろう白い肌が蒼白いのも仕方が無い。だけども。

 セルドはしゃがみ込んで、ソラの両肩を掴んだ。薄い皮膚に守られた細い肩もやはり、傷だらけだ。傷の無い部位など無いのかも知れない。

「死にたいか?」
「しにたい……」

 漸く、ソラは反応を見せた。くぐもった声は泣いているようだった。それなのに、泣顔も泣声も見せ無いようにしているのは強がっているのか、それとも、世界への諦めか。

「もう、限界か?」
「……また、まもれなかった」

 震える声。泣いているのはそれだけで分かるのに、見せない。

「おれなんか、そんざいしちゃいけないんだ」
「誰がそんな事言ったんだよ」
「わかる」

 顔を埋めた先も闇だろう。一体何を見て、聞いて来た。

「おれ、もう、いきていたくない」

 死にたいと願った事は何度もある。だけど、その度に背中に『責任』や『義務』が圧し掛かって来るからここまで生きた。でも、その中でまた大切なものは失わなければならない。
 ソラが生きている事で死んだ人は確かに多い。でも、ソラが死んだ事でその人達は救われるのかと言えばそうではない。死者が死者である事で、誰かは必ず救われている。ソラはそれが分からないし、それは後付けの理由として認める事は出来ないのだ。

「せるども、ころした」
「覚えが無いな。俺は盗賊に殺されたんだぜ?」
「おれがいなかったら、いきてた」
「知らねェ」

 セルドは笑う。
 蹲った闇の中で、もう一つ水が跳ねる音がした。それはすぐ隣りに座り込み、頭をくしゃりと撫でる。その反対側でも水が動いているのが分かった。

「よく、ここまで来た」
「お疲れ様」

 レナードとセレスの声がした。酷く優しい声で、幼い子供を相手にするように言う。ソラは顔を上げられない。

「どうして、そんなこといってくれる。……おれが、ころした。にくんでるでしょ」

 二人が、同じように笑った。

「憎む理由が無いよ。お前が俺を憎む理由ならあっても、な」
「ソラ、私、本当は全部知ってたの。レナードの死の真相も全部。……それが分かっていたのに、貴方を憎む事でしか自分を保っていられなかった」
「謝らなきゃならないのは、俺達の方なんだよ」

 ソラの出会って来た大人達が、困ったように笑う。それでも、顔は上げられない。そうしているとまた、背後から気配を感じた。

「ソラ」

 とうとう、ソラは顔を上げた。
 眼鏡を掛けた同世代の少年が、こちらを真っ直ぐ見つめている。レンズの奥で緑色の瞳が見ている。リューヒィは少し怒っているようだった。

「いつまで、そうしてる気だ?」
「りゅーひぃ」
「そんな事している暇があるなら立って歩けよ。こんなとこにいちゃいけない」
「でも、どこにもいけない……」

 居場所が無い。誰もいない。どんなに叫んでも、いつだって誰も助けてなんかくれなかった。いつも独りきりだった。でも、守られたかった訳じゃない。守りたかったのに、失ってしまう。
 何処にも行けない。

「居場所が無いなんて、笑わせるぜ」

 リューヒィが水音を響かせながら、波紋を作りながら近付いて来る。

「ずっと、呼んでるぜ」

 リューヒィが遠くを指差す。亡者の手の揺れ動く闇の一部が、ぽっかりと黒い穴のようになっていた。その中に一人、誰か立っている。
 夜の色をした髪を揺らして、紅い瞳でこっちをずっと見てる。
 死んだと言われた、守れなかったのだと聞かされた、恨んでいるのだと思っていた。なのに。

「ソラ」

 呼んでる。
 リューヒィが肩を叩いた。

「立てよ」

 ソラはゆっくりと頷いて、立った。でも、足が動かせない。
 誰も分からない。居場所がない。恐い。でも、誰も助けてくれない。独りっきりで、どうすればいいのか分からない。

「恐いなら、言えばいいだろ」
「でも、だれもいない」
「いるよ」
「だれも、たすけてくれない」
「あの頃とはもう、違うんだよ」
「……いやがる。おれがいると、めいわくになる」
「そんな事、誰も思わない」
「おれは、つよくないと、いみない」
「……いい加減にしろ! 誰も強くなれなんて言ってないんだよ!」

 リューヒィは叫んでいた。それでも、ソラの震えている足はまた地面に逆戻りさせようとしている。リューヒィはソラに自分の方を向かせ、大きく息を吸い込んだ。

「縋り付いて何が悪い! 泣き叫んで何が悪い! 言えよ、恐いと! 助けてくれと!」

 暗闇が、揺れている。何かチラチラと輝く光がある。足元から水が引いて行く。
 遠くからずっと、待ってる。


「生きたいと言えッ!!」


 本当に、死にたかった? 本当はどうだった?
 守られたかった訳じゃなくて、守りたかった。だけど、本当は、ほんの少しでもいいから、こっちを見て欲しかった。助けて欲しかった。通り過ぎないで、置いて行かないで欲しかった。
 独りが恐かった。生きてもいいんだと、言って欲しかった。

 一ミリでもいいから、愛して欲しかったよ……。

 リューヒィの声が響いて闇が揺れる。亡者の手が遠ざかって、ぽっかりと開いた穴の向こうに微かな光が見えた。手前で待っている人がずっとこっちを見て、笑った。

「帰って来いよ、ソラ」

 背中を押され、ふらりと一歩踏み出す。降り返ると、数秒前まで自分がいた場所に誰かがいる。隻眼の自分、修羅がリューヒィ達に囲まれて立っている。
 恐かったのは、一緒なんだ。修羅も同じ自分で、ずっと恐かったんだ。

「俺とお前は同じだ。別の人格じゃなくて、同じ人格の裏と表なんだよ。お前が独りじゃないなら、俺も独りじゃない」

 修羅はこちらを見て微かに、笑った。ずっと、表情を作れないのだと思っていたのに。

「行けよ」

 ソラは背中を向け、歩き出した。
 正面で待つイオの背中に光があり、その中から沢山の人が歩いて来る。リーフやエルス、そして――サヤが。
 導かれるように傍に行くと、イオは笑って手を差し伸べた。

「お帰り」

 光が、広がる。
 亡者の手が闇の中に沈み、床を満たしていた液体が乾いて行く。耳の中で響き続けた声は止み、睨んでいた筈の死者達がこちらを見て微笑んだ。
 独りじゃ、ない。

 ソラは、目の前に差し出された手を取った。



 ふっ、とソラの包帯に包まれている腕が持ち上がった。突然の動きに手当てをしていたエルスは動きを止め、リーフは目を丸くする。閉ざされていた瞼がゆっくりと持ち上がり、睫毛が微かに震えていた。
 持ち上げられた腕は緩やかな動きで、傍にあったイオの手を掴んだ。薄く開かれた瞼の中に、蒼い瞳が見える。

「イ……オ?」

 掠れた声で呼び、疲れ果てた顔でイオの方を見る。そして、蒼い目を瞬かせて確かに、微笑んだ。
 それまで、ソラが何を聞かされていて、何を信じてしまっていたのかをイオは知らない。
 ソラは目の前にいるのが生者か死者かも分からないけども、自分はまた、ここに帰って来られたのだと言う事だけを漠然と理解していた。だから、ソラはイオを見て無意識に笑みを浮かべて言葉を落とす。

「……ただいま……」

 ポタリ、とイオの目から涙が零れ落ちた。雫はソラの手を包む包帯の腕に落ち、小さな染みを作る。イオは自分の手を掴む包帯に包まれた手を握った。
 掴まれた確かな感触、脈打つ腕。死んでなんかいない。生きている。その手も重傷ではあったが、ソラは微笑んだ。

「何、泣いてやがる……」
「馬鹿、野郎……」

 突っ伏して泣き出したイオの頭を「しょうがねェな」と言って撫でる傍らで、リーフやエルスも涙を零している。そのテントにサヤが駆け込んで来た。

「ソラッ!」

 蒼い眼にサヤが映った瞬間、ソラは起き上がろうとした。だが、少し浮いた体はすぐに固いベッドに逆戻りする。其処にサヤは駆け寄った。
 そのままイオの隣りで泣き出すサヤの頭を、包帯に覆われた手で撫でた。

「もう、何処にも行かないでよ……」
「……待っていてくれて、ありがとう。もう、何処にも行かねェよ」

 守れなかったのだと、ずっと思っていた。傷付けてばかりで、生まれた事を、生きていた事をずっと後悔していた。でも、ここにこうして二人は生きているじゃないか――。
 まだ、失ってなどいない。泣き止まない二人を眺め、ソラは笑った。

「サヤの傍に、いるから」

 サヤは、顔を上げた。今確かに『サヤ』とソラは呼んだ。
 ソラはそのまま、ゆっくりと瞼を落として眠りに落ちて行った。