33、翼の行く手


――縋り付いて何が悪い! 泣き叫んで何が悪い! 言えよ、恐いと! 助けてくれと!

 声が聞こえる。遠くから、近くからずっと呼んでいた声は闇の中に輪郭を浮び上がらせた。異口同音に戦えと叫んでいた声が一つに固まってその姿を、現す。

――生きたいと言えッ!!

 リューヒィは言った。
 ずっと独りきりだと思っていた。傷付けるばかりで大切なものも守れなかったのだと思っていた。ここに生きている事が間違いなのだと、皆が望まぬ存在なのだと思っていた。
 強くなければならないと言う強迫観念は常にあった。だから、何度も漏れそうになる弱音や嗚咽を噛み殺して来た。弱いままではいたくなかったけども、だからと言って強くない事も知っていた。生まれた矛盾は刃物のように身を刻み続ける。それでも、他の生き方は許されなかった。
 だから、ずっと意味が欲しかった。生きてもいいんだと、ここにいてもいいんだと言う許可が欲しかった。

 本当は――……。



 ソラは、ゆっくりと瞼を押し上げた。途端に映り込んだ無数の顔に息を呑む。並んだ顔はソラが目を覚ました事を知ると揃って笑顔を浮かべた。

「おい、起きたぞ」
「大丈夫か?」
「イオさん呼んで来いよ」

 どれもこれも見覚えのある革命軍のメンバーだった。ソラは数回瞬きを繰り返し、自分のいる状況を必死に理解しようとする。最後に見たものが夢ではなかったのだと、分かった。
 守りたかったものは、失われずにここにあるのだと。守れたのだと、ここにいてもいいんだと――。
 ソラの目から、涙が一つ落ちた。寝転んでいたので雫は横に流れて行く。動揺する面々から隠すように包帯の巻かれた腕で目を覆い、唇を噛み締めた。殺し切れなかった嗚咽が漏れている。

「ソラ」

 サヤがソラの腕に触れる。目を当てられないような酷い状態で、指は数本折られて剣を握る事も出来ない。それでも、サヤは柔らかく触れた。微かに震えているのは、泣いているからだろう。

「大丈夫か?」

 目を覚ました事を伝えられたリーフがソラの傍に立ち、ゆっくりと腕を外す。

「酷い目に遭ったみたいだな。苦しくて、辛かったな」

 リーフも、ソラが今までどんな場所に閉じ込められて何をされたのか知っている。普通の人間なら、あのまま狂気の中に落ちてしまった方がずっと楽だった筈だ。それなのに、ソラはこうして帰って来た。
 たった一つの為に全てを犠牲にして、何度も地獄に落ちては帰って来る。そうして精神は持つ訳は無いし、犠牲にしたものは決して安くもなければ軽くもない。だから、ソラはもう理解しなければならないのだ。
 腕を外したソラの目は泣いたせいか、寝不足か疲れかは分からないが腫れている。リーフはそれを真っ直ぐに見つめた。蒼い瞳には涙が溜まっていた形跡はあるのに、存在しない。こうして隠す事ばかりが上手くなってどうするんだ。

「だから、守れたんだよ」

 サヤが、歪んだソラの手を掴む。包帯で固く巻かれた掌はきっと、前と同じ姿には戻れないだろう。でも、その包帯越しにサヤの温もりは伝わる。リーフは微笑んだ。

「お前のその手が守ったんだよ。ここにあるものは、お前が守ったものだよ」

 ソラは、起き上がれないままで周囲を見回した。革命軍の面々が、笑顔でソラを見ている。
 ずっと、睨まれているんだと思っていた。邪魔者だと蔑まれて来た筈なのに、こうして微笑んでいる。ソラはゆっくりと瞼を下ろした。涙が、溢れている。



 テントの外からその様子を見たイオは笑みを浮かべつつ、踵を返す。本当は中に入りたかったし、他の皆と同じように涙を流して喜び合いたかったがソラは好まないだろうと判断した為止めた。そして、テントから少し離れた場所から漏れ出す殺気を感じ取って歩み寄る。
 テントの角でアルスが殺気を漂わせながらナイフを構えていた。

「ソラを殺したいか?」

 気配も無くイオはアルスの背後に立ち、訊いた。アルスは咄嗟に声を発する事も出来ず振り返り、イオは更に続ける。

「殺したいだろう」

 殆ど断言するような口調でイオは言った。
 アルスの中にある憎悪の矛先がソラである事は既に分かっている。イオはそれに関しては下手に踏み込んではいけないと思っていたし、アルスはソラが村を滅ぼした真実を知っても尚殺したい程憎み、仲間の仇を討ちたいと願っている事も見越して言っている。

「でも、殺させねェよ」

 紅い瞳がギラリと輝いた。燃え盛る火炎のようで、血のような命の色でもある。
 あの雪原に散った色はもっと黒くくすんでいたけれど――。

「あいつは絶対に殺させない。俺はこれからお前が何度あいつを襲っても退ける。だから、もう、憎むなよ」

 イオの脳裏には、数時間前に一度意識を取り戻した時のソラが思い出されている。
 そして、イオは笑った。何処かさっぱりしたような表情は、それまでの戦乱では見られなかったものだ。

「憎しみは永く続かない。それに、憎しみじゃ世界は変えられないんだよ」

 その言葉がアルスに届いたのかイオは知らない。



 翌日、革命軍は会議を開いた。
 王は腹心の部下と共に北の地に逃れ、狂信的に帝国を慕う小国に向かったと言う。其処でもまた、人民を盾に自らを守ろうとする遣り方に腹が立つ。そして、同時に呆れ諦めた。
 革命軍は早急に動き出してその地を包囲している。その小国は断崖絶壁の谷の奥にある防衛に長けた土地だ。包囲はしても攻め込むのは明らかに不利であり、数に物を言わせようとも相手は死を覚悟した帝国騎士の軍団。被害の数は計り知れない。
 帝国への降伏勧告も考え、その意見を持ち上げたが――。

「無駄さ」

 会議を行っているテントの入口には、サヤに支えられながら立つソラの姿があった。この僅か数日で立ち歩けるような怪我では無かった筈だと、誰もが思ったが現にソラはここにいる。
 ソラは傍に積まれた木箱に座った。

「あの王が降伏なんかする筈無い。一人でも革命軍を道連れにして行くつもりさ。……それに、」

 言葉を続けたが、その先まで言う事はしなかった。
 ソラは意味深な笑みを浮かべ、また、テントを出て行った。

 結局、革命軍は包囲を続けイオ達本陣は最後の戦いに向けて北の地へと移動する事になった。移動や怪我人の手当てに忙しく皆が走り回る中、イオはびっこ引いて歩くソラの後姿を見つけて走る。ソラは数メートル手前にイオが近付くと気配を察してゆっくりと振り返った。

「何か用?」

 蒼い双眸がイオを見た。人々を魅了する宝石のように澄んだ色ではなく、くすんだ青空の色だ。それなのに、その輝きは宝石以上に人を惹き付ける。今までは見せなかった光にイオは暫し言葉を失ったが、小さく堰込んだ。

「お前、さっき何かを言い掛けただろ」
「――ああ」

 ソラは思い出したように笑う。

「大した事じゃない。ただ、降伏なんてさせるのは馬鹿らしいと思っただけ」

 ソラにとってあの王はこの世で最も憎い男だ。全ての原因は其処にあり、絶対に許すつもりもない。だけど、ソラがその降伏勧告を否定したのは憎悪によるものだけじゃない。ソラもまた、イオと同じように自分の役割を理解している。
 帝国に降伏などさせてはいけない。潔かったなんて良い印象を残してはいけないのだ。帝国は人々に恨まれ憎まれ滅ばなければ、新しく作られる世界に小さな綻びが出来た時に人々はあっという間に離れてしまう。
 ソラは指が折れて歪んだ利き手を見つめた。

「……お前はどうする?」

 イオが独り言のように訊くと、ソラは笑った。

「行くよ」
「その手で剣が握れるのか?」
「前に言っただろ。剣を握らなきゃ戦えないようなヤツが最強って呼ばれる訳無いって」
「でも」

 イオは、ソラの包帯に包まれた足を見た。折れているのだ、今歩いている方が不思議な状態だ。
 それだけじゃない。服で隠れているところも、ソラは全てにおいて重傷の怪我を負っている。幾らソラが一騎当千の力を持っていたとしても、この状態で戦えとは言えない。
 ソラは困ったように眉を下げた。

「最後の我侭だから、連れて行ってくれよ。ここまで戦って来たってのに最後の戦いに参加出来ない方が酷だぜ」

 それ以上、イオは何も言えなかった。ソラは既に歩き始めている。その時は、ソラが何処まで考えているのかイオは分かっていなかった。



 ソラは暫く人込みの中を無言で歩き、本部から外れた人気の無い岩場まで歩くとポケットの中にそっと手を入れた。中からはあの白い小鳥が顔を出し、ソラの掌に安心した様子で座っている。怪我はもう癒えて何時でも飛び立てる筈なのに、すっかり懐いてソラから離れようとしない。
 見上げた空は蒼く澄んで何処までも広がっている。ぽつりぽつりと浮ぶ白い綿雲、太陽は真上に上がり地上を照らしていた。

「そろそろだな」

 ソラは小鳥を見て微笑む。ちぃちぃ、と微かな鳴声は青空に向かっている。
 太陽に綿雲が掛かるその瞬間。青空を点のような白い群れが横切った。掌の中の小鳥は一声高く鳴き、大きく羽ばたいた。
 空中に飛び出した小鳥は何度も羽ばたき、少しずつ高度を上げ進む。それに気付いた群れは速度を緩めて追い付くのを待ち、最後尾に加わったのを確認して更に高度を上げた。
 群れが小さくなる。あの小鳥は何処に行ったのかもう肉眼では追えない。だけど、最後に。

 ちぃ ちぃ

 その鳴声は、ソラの元まで届いた。人に翼は無いから、ソラはこうして地面に足を着けてボロボロの体を引き摺って行かなければならない。こうして、また惨めに生きるのだ。
 でも、それでいい。

 ソラは鳥の群れが完全に視界から消えると、顔を伏せて小さく溜息を吐いた。

「何時まで、そうしているんだよ」

 姿も見えない者に向けてソラは言った。後を追って来る気配はずっと感じていたし、人込みに紛れて来るかと思っていたがその様子も無い。岩陰から姿を現したアルスは鋭い視線を投げるが、ソラは苦笑した。
 アルスの手にはナイフが握られているのに、丸腰のソラは苦笑とは言え笑ったのだ。

「俺を殺しに来たのか?」

 アルスは答えない。

「俺が憎いだろ、殺したいだろう。でも、俺の命は安くないぜ?」
「お前は、悪魔だ」
「好きなように言ってくれて構わない。お前の評価なんて興味無いから」

 アルスはナイフを構えるが、ソラは平然と佇んでいる。そうして、アルスがナイフを向けて斬り付けて来ても簡単に往なした。何度斬り付けてもソラは柳に風のように受け流してしまう。
 立ち向かう事も無く、相手にしない。アルスはソラに向かって突き進み、それが避けられた拍子に地面に転んだ。その姿をソラは離れた場所からポケットに手を突っ込んで見下ろしている。

「……気が済んだか?」

 質問に答えないアルスの目には怒りの炎が灯っていた。ソラは、真っ直ぐ見つめている。

「お前がそうやって何度殺そうとしても、俺はまだ遣る事があるから殺される訳にはいかない。お前が背負って来た憎悪や憤怒や悲愴の感情は俺が引き受けるから、仇だけはもう少し待ってくれ」

 それでも、アルスは睨み付けるのでソラは小さく溜息を吐いた。

「……お前が命懸けでやってもな、俺は死なない。はっきり言ってやるけどな、俺とお前の命の重さは同じじゃないんだよ」

 ソラは冷たく言い放して、背中を向けて歩いて行く。アルスはその背中を追う事は出来なかった。



 そのまま歩いてテントの立ち並ぶ本陣へ戻ると、最後の決戦を前にした戦士達からはピリピリと肌を刺すような緊張感を感じた。ソラは萎えたように肩を落とし、ゆっくりと足を引き摺りながら自分へ宛がわれたテントに向かう。擦れ違う人々は緊張と焦燥の中で笑顔を浮べ、度々ソラに声を掛けていた。
 テントの中に入ろうとして扉代わりの布を捲り上げると同時に肩を掴まれた。完治している筈もない傷はその小さな感触も激痛に変え、ソラは表情を歪める。そして、振り返ると慌てて手を離したイオが立っていた。

「何か用か?」
「あ、ああ。怪我の具合はどうかと思って」
「どうかも何もねェよ」

 ソラは苦笑してテントに入り、イオもそれに続いた。
 帝国から救出されたのはまだ数日前の事で、こうして歩いているのは普通では考えられない事だ。ソラは欠伸を噛み殺しながらベッドに座った。
 イオは黙って黒刀を腰から引き抜いて手渡す。受け取ったソラはそれを大切そうに撫でた。

「預かっていてくれて、ありがとう」
「もう離すなよ。大切なものなんだろ?」
「ああ。……レナードさんの、遺品だ」

 ソラはサイドテーブルに目を移す。小さな蝋燭の元に、白い布に包まれたリューヒィの遺品である眼鏡が依然と同じように置いてあった。
 あの闇の中で現れた彼等が一体何だったのか、ソラは分からない。都合の良い夢や幻の類かも知れないし、彼等が本当にソラの為に魂となって来てくれたのかも知れない。だが、それを確かめる術は無い。だから、ソラは彼等が助けに来てくれたのだと胸の中だけで感謝している。
 言葉を見つけられないイオは目を伏せ、ソラは逆に顔を上げてその浮かない表情を見た。

「……西の事か?」

 ソラは鼻で笑う。
 西の事を耳にしたのは、数時間前の事。革命軍の戦士が今のイオと同じように浮かない表情で話していたのを聞いただけだが、大まかな内容は把握している。
 西にある帝国軍の砦に残党が残り、今も篭城を続けていると言う。降伏勧告も拒否し、僅かな食料に堪えながら帝国への忠誠を貫こうとしているのだ。通常ならこのまま消耗戦に持ち込ませるが、帝国の王の逃げた地を抑える前には落としてしまいたいし、その遣り方は後世に禍根を残し兼ねない。
 頭の痛い問題だ。イオは思考を読まれた事に対して苦笑して、傍に積まれた木箱に座った。

「西の砦には帝国の騎士団が立て篭もっている。それを率いているのはメロウ=ワーカーと言う騎士なんだが……」
「覚えのある名前だな」

 ソラは首を傾げ、記憶の引出しを片っ端から引っ繰り返す。そして手繰り寄せた『メロウ=ワーカー』の情報は、自分が帝国にいた頃のものだった。

「何度か一緒に仕事をした事がある。生きていたのか……。確か、黄色の目をした狐だよ」
「狐?」
「腹黒い策士だった」

 ソラは小さく溜息を吐いた。
 メロウは戦場では巧みな戦術で何度も不利な状況を切り抜けて来た。傍で見て来たソラだからこそ、それが敵に回って来る恐ろしさも理解している。

「無理に攻め込めば禍根を残すし、時間に余裕も無いって訳か」
「そうだ」

 ソラは剣をベッドの上に置き、包帯で固く包まれた右手を見つめた。爪は一枚も残っていないし、指は全て折られている。剣を握れる筈も無い。だが、左の手はどうだろうか。ソラは左を見て、小さく笑った。
 爪は無いが、指は薬指以外四本も残っている。剣を握れない訳では無い。

「俺が何とかしてやるよ」
「――はっ?」

 イオは耳を疑った。

「馬鹿な事言ってんなよ。そんなつもりで言ってんじゃないし、大体お前は――」
「剣なら握れる」

 ソラは不敵に笑って左手で剣を持ち上げて見せた。安定していない握りで以前のように戦えるとは思えないし、足は今も引き摺って歩いている。イオは呆れたように額を押えた。

「お前の足も指も折れている。体力も回復していない。使えるのは頭くらいなんだから、作戦に協力しろよ」
「先に手が出る性質だ。俺が単身で乗り込んでぶっ潰した方が早くて楽だろ?」
「――お前が以前の状態なら、もしかしたら、任せちまってたかもな」

 イオは笑う。

「俺達はもう、お前だけをそんな目に遭わせたりしねェ」
「自分で望んだ事だ」

 ソラは不満げに眉を寄せるが、左手は既に疲れて剣を離してしまっている。イオはもう一度溜息を吐いて立ち上がった。

「お前は喧嘩ッ早過ぎる。動かすなら脳にしてくれよ」
「余計なお世話だ。お前に言われたくない」
「とにかく!」

 イオは口を尖らせ、ソラを半ば睨むように見た。

「勝手な事したら許さねェからな! 怪我人の仕事は療養だ!」

 そのままテントを出て行ったイオの顔には苛立ちが浮んでいるように見えたが、もしかしたら焦りかも知れない。ソラは独りテントの中で依然までの習慣だった剣の手入れを始めていた。
 そして、日が沈み物寂しい風が吹き始めた頃。ソラは片足を引き摺りながら革命軍の本陣を馬に乗って出て行った。