34、Believe the world.
西は豊かな土壌と清らかな水、そして暖かな気候に恵まれた美しい土地だと言う。
北の痩せた土地で生まれたソラは始めて見る緑の海が風に凪ぐ様を見て息を呑んだ。帝国から馬を飛ばしておよそ一日、帝国最後の砦に到着した。
メロウ=ワーカーの率いる騎士団が立て篭もって数日、食料も残りは少ない。降伏勧告を断ったところから見て帝国への忠誠は相当なものだろう。このままならば兵糧攻めにするのが、強行突破よりも被害が少なく済む賢い遣り方だろう。でも、それは後世に禍根を残す。
ソラは腰に差した剣の柄に触れる。利き手は潰れていて使えず、動き回れる足も無い。満身創痍で通常なら歩いているだけでも異常な怪我だが、ソラはこの状態のままたった独りで西の砦を落とそうとしているのだから気は既に狂っているのかも知れない。ただ、自分の役目を理解している。
乾いた風に髪を舞わせながら、ソラは真っ直ぐ西の重々しい空気を漂わせる砦へ向かった。
その頃、革命軍本陣ではソラがいなくなった事で騒ぎになっていた。発見したサヤは珍しく苛立ったようすでソラのテントの中に立ち、イオは呆れて額を押える。
「何処に行きやがった……」
イオは何か手掛かりが無いかとテントの中で目を移す。サヤはサイドテーブルに置かれたリューヒィの遺品を手に取った。
「西よ」
「西……って、あの砦か?」
信じられないと言うようにイオは溜息を吐く。
「面倒な事してくれるぜ」
革命軍は今、数としても余裕は無い。最後の決戦を前にして準備は勿論、各地の帝国軍の残党狩り等。戦争における被害の措置等もあり無駄に動ける程の余力は無いのだ。今回のソラの勝手にしたって助けに行く余裕は在る訳も無く――。
そして、イオは眉を寄せた。一つの疑問が脳を過る。
もしかすると、ソラはそれを知って全てを自分独りでまた背負い込もうとしているんじゃないのか?
その疑問が恐らく正解である事を悟り、また、溜息を吐く。これはもう自暴自棄だとか、他者中心主義だとかそういう問題じゃない。ただの身勝手、我侭だ。例え放って置いてソラが死んだとしてもイオ達には何の責任も無い当然の行為だろう。なのに。
「本当、面倒なヤツだ」
イオは苦笑して腰に剣を差した。
「行くの?」
テントを出ようとするイオの背中に向かってサヤは問う。イオは振り返り、笑った。
「借りは返さなきゃな。サヤ、あいつを連れて帰って来たら思いっきり叩いてやれ」
「勿論」
「嘘吐きだからな。ルール違反だ」
イオは苦笑して、テントを出て行った。
西の砦は革命軍によって、蟻一匹抜けられないように包囲されている。ソラはその革命軍の中を馬に乗ったまま進み、正面門の前に立った。その瞬間、双方からざわりと揺れるような動揺の空気が漂う。声帯も回復していないので大声を出すのは厳しかったが、丁度、砦の上から目的の人物が顔を出した。
「……ソラ!?」
メロウはソラの姿を見て目を丸くした。彼が帝国を裏切って革命軍に身を投じ、再び帝国に囚われたと言う記憶が凄まじい勢いで脳裏を駆け巡る。多くの凄惨な出来事を越えて来た嘗ての仲間の顔は、昔に比べて何処か儚く、そして、引き締まって見えた。
「久しぶりじゃねぇか」
ソラは距離があるにも関わらず通常通りの声量で言う。聞き取り難かったが、昔のまま変わらない様子のソラに思わず頬が綻んだ。だが、何故ここに彼がいるのか分かっている。
「引導を渡しに来た」
はっきりと、ソラは言った。
「こんなかったるい事はもう止そう。王は民も部下も皆捨てて逃げちまったぜ。お前等がこうして踏ん張ってても……」
「うるせーよ、裏切り者!」
頭上から降り注ぐ怒声にソラは目を閉じた。
「お前みてーな尻軽に、俺達帝国騎士団の誇りや信念の固さが分かって堪るか!」
メロウの脳裏には嘗てソラと駆け巡った戦いの情景が幾つも巡る。考え得る作戦には不可欠な強さを持ち、常に背中を預けて来た。其処には他の誰にも無い信頼があった。そして、――裏切った。
ソラは、レナードとリューヒィを殺してサヤを連れ去った。それを鵜呑みにしたメロウが、どうしてソラを憎まなかったと言えるのか。
メロウがソラに向けて弓を引く。
「死ね!」
放たれた矢が真っ直ぐに、重力の助けを借りながらソラに向かって空気を裂いて行く。だが、ソラは微動だにしなかった。矢はソラの首の皮を僅かに掠って地面に突き刺さる。首には薄く糸のような赤い傷が作られた。
メロウは怒りに顔を紅潮させ、肩で息をしている。
「……来いよ、ソラ。俺が引導を渡してやる」
その時、正面門が薄く口を開いた。ソラは周りを取り囲む革命軍に牽制の視線を投げつつ歩き出し、その中に吸い込まれるように消えて行った。
冷たい空気の漂う薄暗い石畳を抜けると、すぐに開けた土の地面が現れる。太陽が照らす光景を眩しそうにソラは見つめた。
「狐め」
眼前に所狭しと並んだ兵士達を見て、ソラは笑った。
「嘗ての策士も大した事ァねェなァ! 人海戦術で俺に引導渡そうなんざ反吐が出るぜ!」
ソラは腰に差した剣を抜き放つ。鞘走りの音は周囲の空気を裂いて響き、離れた場所で見下ろすメロウにも届いた。
「今のお前はその程度だって事だよ」
「……言ってくれるじゃねェか。その言葉忘れるなよ」
馬から下り、ソラはゆっくりと構える。比較的無事な左手に剣はあるが、その腕も包帯に巻かれて普通なら満身創痍の怪我だ。それでも、ソラの目には並ぶ兵士達を後退さりさせる程の鬼気迫るものがあった。
銀色の閃光がメロウの目に映った。それは一瞬にして最前面にいた兵士を切り倒し、自分の元へ突き進んで来る。鬼だと恐れられた世界最強の力を目の当たりにした兵士達は目を疑った。人間に可能な運動を軽く凌駕する力。
この怪我でどうして動けるのか。包帯に覆われた細い腕からは想像も出来ない程に鋭い一撃を受けた兵士の顔には驚愕が映り、そのまま倒れ込んだ。
ソラは尚も進み続ける。どれだけ人と掛け離れた技を持っていたとしても所詮は人間、その枠からは出られない。満身創痍の体には着実に疲れが溜まり、骨は軋み動きを鈍くする。その中でメロウは弓を引いた。
放たれた矢は細い音を奏でながら太陽に熱された温かい空気の上を滑り、ソラの右腕に突き刺さった。呻き声を漏らしながら体勢を崩したソラの上に剣が振り下ろされ、それを転がるように避けるが休む間が無い。同じく右腕に熱さのような痛みを感じて跳ねるように起き上がった拍子に目の前の男を二人切り倒した。
切りが無い埋め尽くす人の海。ソラは舌打ちしながら袈裟懸けに剣を振り下ろした。その時だ。
カラン。
軽い音がして、持っていた剣は敵の鎧を切り裂けずに手の中から転がり落ちた。それを好機と周りの兵士達の目が光る――が、ソラはそれらを裏切るように空手の筈の左手で退けた。
左手には小さな、それでいて鋭い銀のナイフが握られている。ソラは自分がこの黒刀を扱い切れないであろう事を予測し、今の自分に見合ったナイフを持っていた。
敵がたじろぐ隙に足元の剣を拾い上げる。
「やるじゃないか」
メロウは酷い怪我でも人海戦術に屈しないソラの戦い様を見て口角を吊り上げた。
ソラの目は敵の頭であるメロウを追っている。メロウが動き出し、砦の建物の中へ消えようとしている事に気付いて回復していない声帯で叫んだ。
「逃げるのか!」
声帯に裂けるような痛みを感じ、剣を構えながら矢の刺さった右手で喉を摩る。メロウは消える寸前に振り返った。
「冗談。逃げたいのはお前だろ」
メロウの乾いた笑いが響き、その姿は建物に消えた。残されたソラは敵の真っ只中で汗に塗れながら剣を振るっている。
ソラの頭の中では、嘗て戦場で戦った友の姿が思い出されている。窮地を何度と無く救った作戦、中に危険は付物で、それでもメロウ自身が率先して危険の中に飛び込んで行くからこそソラも彼を信頼していた。
それが、何だこの様は。
育ての親も師匠も親友も守れずこの上友を救う事も出来ないのか。
ソラは奥歯を噛み締め、どうにもならないこの状況を打開するような一撃を放った。周囲を取り囲んでいた兵士が一掃されたその隙にソラは地面を蹴る。その度に衝撃は全身を駆け巡ったが、ソラは足を止めなかった。
木造の扉を破る勢いで転がり込む。追って来る兵士達から逃れる為に急いで扉を閉じて鍵を落とした。そして、一寸先も見えない程の闇の中で一人息を吐く。すっかり息切れしている自分に対して自嘲気味に笑った。
さて、と顔を上げたところで少し離れた先に橙の光が見える。炎だ。激しい明暗の変化について行けず、目を細めて其処にあるものを見ようと目を凝らす。闇の中にある眩しさはそれ以外の全てをぼやかして見せた。
「メロウ……」
ソラは目を丸くした。松明を持ってこちらを見つめているのは、あのメロウ=ワーカーだ。ソラは剣を強く握り締める。
メロウも同じく剣を抜き放った。
「来いよ、ソラ。帝国が仕留められなかった裏切り者の首、俺が取ってやる」
「抜かせ」
ソラは床を蹴った。硬質な音が響き、メロウに向かって行く。そして、剣を振り上げた瞬間。ソラは異常に気付いた。着地する筈の地面が、存在しない。
「――――ッ!」
メロウとの間にぽっかりと開いた闇、ソラは声にならない声を上げてその中に真っ逆さまに落下した。最下部に着くまでに時間差があり、その間にメロウは既に背中を向けて歩き出している。
「メロウ!」
ソラの掠れた声が閉ざされた空間に響いた。メロウは振り返ったが、其処に当然ソラの姿は無い。その代わりに、ソラが斬り掛かって来た瞬間の表情が頭を過っていた。
ソラが落ちた先は何も見えない闇の世界だった。一寸の光さえ存在しない暗闇にトラウマが脳裏を掠め、無意識に両腕を抱く。思い出すには早過ぎる地獄。眩暈を感じて体勢を崩し、冷たい石の床に膝を着いた。
全身を襲う寒気。蘇って来る男達の声に吐き気を催し口を手で覆う。その手もまた、それらの記憶を蘇らせるように深い傷跡が残っていた。
口を覆って吐き気を遣り過ごしても、同じ分だけの頭痛が襲って来る。眩暈は激しくなり、全身の痙攣から立つ事が出来ない。その中で、ソラは無数の気配を感じた。
「とことん腐りやがったか、メロウ……!」
闇の中に蠢く無数の気配からは殺気が流れ出し、皆一様に武器を持っていた。ソラの頬を嫌な汗が伝う。目では捉えられない敵が動くのを肌でだけ感じ、剣を握り締めた。
初動を読んで一撃を受け止めるが、その重さに後ろに転げた。続け様に来る攻撃を転がって避けようとするが、右腕に刺さりっぱなしだった矢の為にその行動は遮られる。その瞬間、闇に鋭い風切り音が聞こえた。
「クソッ!」
剣を持ち上げ受け止めようとも左手は疲弊し言う事を聞かない。ソラは舌打ちし、矢の刺さっている右腕を盾代わりに持ち上げた。その時、ヒュゥと風を切る音がもう一つ、目の前で振り下ろされた剣とは違う場所から聞こえた。
落下する覚えのある気配にソラは目を丸くした。
「イオ?」
イオは落下すると同時に、ソラに向かって振り下ろされた剣を弾いた。動揺から生まれる隙を逃さないイオの剣が閃光のように闇を裂く。が、ソラはその剣の腹を蹴って切っ先の方向を僅かに変えた。
「ソラ?!」
ソラは素早く立ち上がり、イオに仕留め損なわせた男を強く蹴り飛ばす。その衝撃は足から全身に駆け巡るが、壁に衝突した男は動かなくなった。
正気を取り戻したソラは周りに牽制の視線を投げつつ体制を立て直す。敵の数が思いの他多く、素早くイオと背中合わせに剣を構えた。
「……何で来やがった」
ポツリと掠れた声が問う。イオは敵の多さに冷や汗を拭った。
「お前、サヤの傍にいるって言っただろうが」
「……分かってるよ。でも、」
ソラは目を伏せる。脳裏に過るメロウの顔が忘れられない。
「これは俺の問題だ。迷惑は掛けられねェ」
「その怪我でよく言うぜ。大体、『俺の問題』って……」
溜息を吐こうとして、イオは動きを止める。
「嘗ての仲間か……」
ソラは力無く笑った。
これまで、ソラは帝国にいた頃の事を話そうとしなかった。其処で何を見て聞いて来たのか、何があったのか。サヤを始めとする皆は何も知らない。
「これは俺が引き起こした問題だ。贖罪なんて言葉を使うには余りにも汚れ過ぎてるし、忘れるには重過ぎる。ならせめて、背負えるものは全部背負わなきゃならねェだろ。それが俺のケジメだ」
ソラはずらりと並ぶ闇の中の敵を見渡す。そして、背中合わせのイオに一つ告げた。その言葉に振り返ったイオの表情には驚愕が浮んでいるが、ソラの胸中を悟って口を結ぶ。
二人は地面を踏み締めた。
メロウは砦の最上部にいた。乾いた風に金髪を舞わせ、密色の瞳は自分達を取り囲む革命軍を見下ろしている。四面楚歌の危機に陥りながらも未来の無い篭城を続け、単身乗り込んで来た昔の仲間と剣を交える事も無く突き落とした。
その一連の行為の根底には帝国への忠誠があるのだとメロウは、自分に言い聞かせている。そうでなければ、自分を保っていられない。
脳裏に過るのは、嘗ては戦場で共に駆け回ったソラの姿だ。危険な作戦を立ててもソラは笑顔さえ浮かべてそれを引き受けて身を投じ、時には背中を預けて劣勢の中で戦った。
(裏切られたのは、俺じゃねぇか)
それなのに、ソラは斬り掛かって来ようと言う瞬間に妙な顔をした。
表情には、引き裂くような悲痛が――。
その時だった。背にした扉が勢い良く開き、二人分の姿をメロウの眼前に映し出す。
「よう、よく来たな」
メロウは壁に凭れ掛かったまま片手を上げて笑った。
ソラとイオが、傷だらけの姿で肩で息をしながら立っている。イオの肩を借りているソラは真っ直ぐにメロウを見つめていた。
「裏切り者」
メロウは小馬鹿にするような笑いをして、ソラを見た。顔以外の殆ど全ての部位が包帯で厚く覆われているのに、立っている事さえ辛い筈なのに蒼い瞳は揺ぎ無く見据えていた。
決して、宝石のような透き通る美しさではない。冴えない色は、まるで、青空のようだった。この青空の目を持つ少年に、今まで何度助けられて来たのだろうか。
揺ぎ無い意志の宿る瞳が、嘗て戦場で見た姿に重なる。デジャヴだ。満身創痍の姿で何度も戦況を覆し、単身で助けに乗り込んで来た――。
「何で、裏切りやがった……!」
メロウが目を伏せる。閉ざした瞼の下からは涙が溢れていた。
その様子を見ているイオは隣りのソラに目を向ける。ここに来てから一度として弁解しなかったのか、と眉を寄せていた。
「裏切ったのは事実だ。言い訳なんか出来ないし、したくもねェ」
綺麗事で覆い隠すには余りにも汚れ過ぎているし、向き合うにはまだ時間が余りにも足りな過ぎる。かと言って見っとも無い言い訳で自分の過去を誤魔化したくはない。
ソラは唇を噛み締め、剣を足元に落とした。
「俺を殺したいだろ?」
隣りでイオが怪訝そうな顔で見るが、ソラは無視して正面のメロウを見た。
「やりたきゃやれよ。お前にはその権利がある」
「おい!」
イオがソラの方に向き直る。支えを失ったソラは体勢を崩したが、倒れずにメロウを真っ直ぐ見つめた。
メロウは剣を握り締め、ソラに一歩進み寄る。イオは二人の間に立って構え、メロウを睨んだ。
「それ以上近付くな」
「イオ、いいから」
ソラがイオの服を後ろから引いた。「でも」と反論するイオに「いいから」と言って前に進み出たソラにメロウは腫れぼったい目を向ける。
「どういう心境の変化だ?」
「ちょっと疲れちまっただけだ。背筋伸ばして生きるのも、逃げ回っているのもな。そろそろ向き合いたくなった」
其処に恐怖が無いとはとても言えないのだけど。
ソラは目を閉じた。蘇って来るのは、黒い瞳に憎悪や憤怒や悲愴の念を映したアルスの姿だ。あの歪んだ瞳を作り出したのは紛れもない自分。
「奪ってばっかりの汚れた俺だからこそ、もう繰り返したくないと思っただけだ」
ゆっくりと開かれた瞼の下から、蒼い瞳が煌煌と輝いた。イオは今にも斬り掛かろうとしている。メロウは口角を吊り上げ、剣の切っ先を向けた。
「もう繰り返したくない? それこそ綺麗事じゃねぇか。ここまで辿り着くのに何人殺した? 皆、嘗てはお前の仲間だったヤツだろうが!」
その叫びにも似た言葉を聞き、ソラとイオは笑った。その瞬間、一陣の風が砦の中を吹き抜け彼方此方から血の臭いを運ぶ。二人の背後にある扉がゆっくりと開いた。
建物の内部に差し込んだ光は、その様子を露にした。地に伏す帝国兵士達、風に乗って運ばれる呻き声。誰一人、死んではいない――。
「俺はもう、何も奪ったりしない」
ソラは右腕に刺さった矢に手を掛けた。唇を結んで一気に引き抜こうとしたところでイオによって遮られる。代わりにイオがナイフを取り出し、目で合図を送った後で傷口を僅かに広げて矢を引き抜いた。
ソラは細い呼吸を繰り返し、戦意を喪失したメロウの前で剣を拾い上げた。黒い刀身を持つ剣はレナードの遺品だ。
「何で、その剣を持ってる」
「覚えてない。でも、手放せないものではあるな」
苦笑するソラの手の中にある黒い剣。メロウの伏した目からは涙が零れ落ちていた。
「……俺が帝国を出た後、お前は腐った。ろくな噂は聞かなかったぜ。卑劣で危険な作戦を立てて自分は高みの見物……。そんなヤツじゃなかった筈だ。お前は――」
ソラは思わず口を覆った。自分の中に帝国での記憶が思った以上に色濃く残っていた事に対する驚愕だったが、隣りに立っているイオは苦笑を浮かべた。
ずっと、ソラは帝国における全てを恨んでいるのだと思っていた。其処にいた頃の記憶全てが汚点だと言うように振り返る事も出来ないのだと、思っていた。それが、どうやら違ったらしい。
最悪の形で締め括られたから振り返れないだけで、それらの出来事さえなければ笑いながら思い返せるものばかりだったのだ。全てとは、言えないけれど。
ソラはイオと同じく苦笑を浮かべた。
「……お前は、俺の友達だった筈だ……」
戻って来ないものはある。それに大して後悔しないなんて事は出来ないし、そうしようとしないのは愚かで人間の領域から出る事になる。だけど、どうしてまだ失われていないものまで失わなければならないと言うのだ。守れるものなら、それがどんなに遠くても守りたい。そう願うのは愚かだろうか。
ソラは分からないが、イオが何故メロウがそうなってしまったのか分かる。彼にとってソラは掛け替えの無い只独りの友人だったのだ。その友人に裏切られ残されたメロウが何を考えたのかは想像に難くない。
だからこそ、イオは口を開く。
「何で、信じてやれなかったんだよ……」
それが一度は信じ切れなかったイオに言える言葉じゃない事は分かっているけれど。
一人でも多く信じてやれたなら、この世界はまた違う道を歩けただろうか。例えば、レナードがあの夜にソラを信じて王を説得、或いは討つ事が出来たならこんな戦乱の時代は訪れなかった。例えば、メロウが裏切ったなんて話に惑わされずにソラを信じ続けていられたのならもっと多くの命が救えた。
例えば。
イオはソラを見る。怪我だらけの細い体が、酷く痛々しい。
例えば、イオがずっとソラを信じていられたのならこんな怪我を負う事は無かった。ここまで辛い思いはしなくても済んだ。
嘗てソラが言った、『戦争では誰もが被害者であり加害者』であると言う言葉の意味をひしひしと感じる。
「俺はそれ相応の事をして来た。信じてくれるなんて甘い考えは端から持ってなかったんだから、お互い様だよな」
ソラもまた、メロウが自分を信じてくれるなんて考えてはいなかった。でも。
「もう一度だけ、俺を信じてくれないかな」
困ったような、今にも泣き出しそうな顔でソラは言った。メロウは怪訝そうに眉を寄せる。
「お前の力を貸して欲しいんだ。頼む……」
ソラは目を固く閉じて口を結ぶ。このまま斬られてもいい覚悟だったが、何時まで経ってもその気配が全く無いので恐る恐る目を開いた。映ったのは、微笑む嘗ての友の姿だった。
「俺を信じてくれるのか?」
メロウが訊くと、ソラは苦笑した。
「お前が信じてくれるならな」
メロウは進み出て、拳を向ける。ソラは同じく拳を前に出してぶつけた。
この無血開城が後に大きな影響を齎す事になるなど、この時のソラは知らなかった。
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